IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

日本と世界の問題の核心について(後編②)

●日本の問題の核心は世界の問題の核心

日本の問題解決方法は、民主主義国家であれば、他の国でも似たようなアプローチをとることが可能です。

(中国のような民主主義国家でない国の政治と経済の癒着はより根が深く、まずは民主主義国家にしていくか、別のアプローチが必要になるでしょう)

 

民主主義の制度上では、実際は最も数も多く、強いのは市民です。

機能すれば、構造的に政府、企業という構造体の癒着を解く役割を担うことができます。

(反対に民主主義を失うことが最も大きなリスクであることもわかると思います)

 

まず日本が変わり、日本がなぜ変わったのか、うまくいっているのか、世界が学ぶようになれば、日本から世界が変わっていくことになります。

 

日本の地方から、国を変え、それが世界を本質的に変える可能性があるのです。

 

●日本の文化

この構造的な解決先に関して、実は日本は文化的にその土壌、土台が他の国に比べて相性が良いです。

 

それは、皇統、つまり天皇陛下がいることで、権威と権力が分離している土壌があるからです。そしてその歴史が他のどの民主主義国家よりも長いです。

 

権威とは文化的な要素があります。

そして政治活動、経済活動とは異なる要素もまた文化です。

市民の視点とは、文化の視点というもう一つの側面も兼ね備えています。

 

なぜ日本は権威と権力が分かれているのでしょうか。

もちろん、為政者の都合など時代によってあったかもしれません。

ですが、直感的にそれを分けることが、社会にとって良いことに気づいていた人もいたように思います。

 

権威と権力が分かれているため、そもそも日本は他よりも三つの視点を切り分けることに馴染みやすい、という意味です。

 

●いま、すべきことは何か?

構造を理解し、世界を三つの視点に分けることで、世界の問題の本質の多くを理解することができます。同時に、何をすれば良いかの指針も容易に得ることができます。

 

例えばマスメディアが、市民のためのメディアでない理由も明確になります。

逆に言えば、市民目線のメディアを作れば良いわけです。

 

より具体的には例えば、非公開企業で、月々1000円くらいのサブスクモデルでメディアを作れば、市民寄りのメディアになります。

(あとは起業家が過剰な利益を望まないことも重要ですが)

それをグローバルな規模でやっているのがイーロンマスクのX(旧Twitter)とも言えます。

 

マスメディアを市民寄りにするのではなく、そもそもメディアが企業寄り、政府寄り、市民寄りの三種類が存在し、市民寄りのメディアが存在しないことが、問題の本質であるということです。

 

ですから、企業、政治、市民の三つに分けて考える。

この着想がほぼ全てであり、このシンプルな発想こそが、世界が探していた答えであると言っても過言ではないのです。

 

例えば、これは多くの分野の企業のサービスにも当てはめることができます。

例えば、金融の世界も証券会社や保険会社は商品を買わせたいので、常にポジショントークになり、顧客目線の営業は構造的に難しいです。

 

これもメディア同様、資本構造と収益構造を変える、つまり構造的な問題を理解し、対処することで、問題を解決することが可能です。

 

構造の問題の理解、三つの視点の着想があれば、世界を良くするために何をするのが良いか、自ずとどの分野でも明らかになってきます。

 

政府が悪い、企業が悪い、とただ言うのは、構造的な問題に情緒的な感想を述べているだけなので、無為と言えます。

 

また、企業に営利を追うなと言うのも、政治家に政治をやるなと言うのと同じで、それも無意味なことです。

 

必要なのは構造の理解と、それを元にした具体的な行動です。

 

問題の本質と構造が見えてくれば、解決策は自ずと見えてきます。

あとは、個人の才覚と役割分担の問題です。

 

●一人一人は何をすれば良いのか

最大のポイントは「日本と世界はいま構造の問題の中にいる」という前提を認識することです。

次に行動に関しては、基本は地方政治に参加していくことだと思います。

票を投じる、議員に要望を伝える、あるいは自身で立候補することなどです。

 

次に、構造の問題が分かれば、自身の興味のある分野、得意な分野で行動を起こしていくことがありえます。

 

例えば、先ほど挙げたマスコミや金融業界の分野に、キャリアと問題意識があるのであれば、その分野の構造を変える起業をすることもできると思います。

農業や医療、健康に関心があるならそうした分野になります。

 

大事なことは、自分の才知や問題意識が一致する分野で行動を起こすことだと思います。

 

●政治家になることだけが答えではない

よく芸能人が政治家に転じることがありますが、長年政治家をやっていた人が突然芸能人になることはまずないです。

 

芸歴を積むのには時間が必要であり、おそらく長年違う仕事をやってきた人が、突然芸人になりたいと言ったら、大ひんしゅくだと思われます。

ですが、長年芸能人をやってきて、突然政治家になりたいと言い出す人が後を立ちません。

 

政治家も、政治家のキャリアとしてのスタートは遅くても良いですが、社会的な責任が大きい分、より蓄積が必要な分野です。

政治家になる前にどのような問題意識を持って生きていたのかは、重要だと思います。

 

おそらく、急に政治家になるような人は、政治家にならないと問題を変えられないのでは、思うような人が多いのではないでしょうか。

そうではなく、いまいる業界の中で何ができるのか、芸能人という立場だからできることはないか、今いる業界を構造改革できないか、を考える方が先ではないでしょうか。

 

また、政治家は仮に当選したとしても、一回生では日本のこともよくわかっていない、企業で言えば新卒社員のようなものなので、大きなことをすることは難しいです。

 

政治家にならないと問題が解決できない、あるいは優れたリーダーが出ないと日本は変わらない、というよくある思い込みも、日本の問題の多くが構造の問題である、ということを認識できていないことに由来すると思われます。

 

意気込んで理想を掲げ、政治家に仮になれたとしても、構造の問題を理解していないと、結局批判していたはずの政府と同じこと、あるいはそれ以下のことをやることになります。それを証明したのが民主党政権といえます。

 

企業で例えるとわかりやすいですが、新卒社員とベテラン社員でどちらが仕事ができるのか、という話になり、新卒はベテランに比べて、経験不足で仕事ができない、ということが起きたのです。

 

民主党政権時代、国民の期待ほどの改革ができなかったのは、要するに日本の問題の本質は構造の問題である、ということの証拠のようなものです。

アメリカであれば共和党でも民主党でも大差ないとう話にも繋がります)

 

総理が変われば、政治家が変われば、政党が変われば、という問題ではないことにそろそろ気が付く時ではないでしょうか。

 

●結びとして

一人一人がやること、それはまずは構造の問題を理解すること、そして自分の才能や役割を理解し、その中でできることをやることです。

 

そして、政治家に期待するのであれば、構造に対して、具体的な対策を提案する政治家を選ぶこと、支援することだと思います。

構造改革という言葉は飛び交いますが、何の構造をどう変えるのか、そしてそれが実行可能かを見る必要があります。

 

「一人一人が目覚める、覚醒する」そのような言葉も飛び交ってはいますが、もっとシンプルで構造を理解するということなのです。

 

世界が探し求めている問題の本質、そしてその答えも実にシンプルなものであり、我々が意識を向けるべきは「次の民主主義」を難しく考えることではなく、「民主主義の見直し」を少しずつ始めていくことではないでしょうか。

 

そして世界を良くするには、一人一人のリテラシーマインドセットがほぼ全てです。一人一人が利己的であり、その意見が民主主義に反映されたら、大変酷い社会になるでしょう。

 

いま多くの出来事で、一人一人が考えること、そして利己的だけではなく、正しいマインドセットが求められる時代となってきました。

 

一人一人が変われば、この世界は本当に美しいものにすることができる、それを一つの願いと信念として、結びといたしたいと思います。

日本と世界の問題の核心について(後編①)

今回は世界の問題の核心に迫っていきます。

 

グローバル化した国際社会においては、世界、特に覇権国であるアメリカ、大国である中国の影響を強く受けることになります。

 

つまり、国同士が相互に影響を持つので、日本のことだけを考えて日本を良くすることがそもそも難しく、世界の問題と日本の問題を結びつけて考える必要があります。

 

そして世界のあらゆる問題の本質は、構造の問題だと気づくことです。

 

早速、世界の問題の核心と、その解決策をセットでお話ししようと思います。

まず、世界の問題の核心は「企業と政治の癒着」であり

その世界の問題の解決策は「その癒着を解くこと」であります。

 

いきなり構造の問題、企業と政治の癒着と言われても、なかなかピンとこないと思われるので、ケースで追っていきます。

 

●企業と政治の癒着

企業と政治の癒着が起きると、どのようなことが起きるでしょうか。

 

一つは軍事行動と企業の営利行為が結びついてしまうことです。

これが様々な災厄を引き起こします。

 

例えば、エネルギー資源が欲しい企業が、政府に働きかけて、他国に軍隊を送って侵略する、そのようなことが可能です。

政府、政治家の見返りはそこで得た利益を献金などで得ることです。

 

あるいは他の国を占領した時に、その国の産業を自国の企業に優位な仕組みにすることも可能です。

 

もっと極端なケースは、武器を売る企業が強くなり、政府に働きかけ、武器を売るために戦争を起こすことも可能です。

また、金融系企業は事前にその動きを知っていれば、相場の変化で利益を上げることも可能になります。

(企業と政治の癒着は、金融資本と政府の癒着という言い方ももちろんできます)

 

他にも、企業がやりたいことを政府にやらせることができると、色々なことができます。

例えば、必要のない薬を税収で買い上げ国民に配ることや、国民のデータを使って事業をすることもできます。

 

基本的に20世紀あるいは現代社会で起きていることの問題の大半は、この「企業と政治の癒着」という視点だけでほとんど説明できます。

 

ここで敢えて具体的な例を挙げるのは避けていますが、その理由の一つは構造的な問題であるからです。

 

構造の問題なので、国が変わっても、企業が変わっても、あるいは人が変わっても、同じことが生じます。

ですから、固有名詞を挙げ、そこを攻撃することに意味はありません。

真に必要なことは構造の方に目を向けることです。

 

●なぜ企業と政治は癒着するのか

ここで重要なのは企業と政治の癒着が、偶然でも個人の気分的なものでもなく、構造的な必然であることに気が付くことです。

 

政治、選挙にはお金が必要です。

企業は、政治家に便益を図ってもらうことに魅力を感じます。

 

組織同士が相互に結びつくことに強いインセンティブがあります。

 

なぜ、総理を変え、大統領が変わり、官僚のトップが変わっても国民が臨むような変化が日本でもアメリカでも起きないのか、という話もこれで説明がつきます。

 

企業と政治が癒着しているので、政治は企業にとって都合の良いことをするので、国民と企業で利害が対立するところは企業が優先になります。

 

そのような構造になっているので、性格的に「いい人」がトップに立てば変わるものではないのです。

 

また、岸田総理が、バイデン大統領が、財務省が、あるいはロスチャイルド家が、ディープステートが、どこどこのフィクサーがという個人名詞にあまり意味がないということです。それらはほとんど全て置き換え可能だからです。

 

重要なのは、世界の問題の本質はそうした個人の性格の問題というよりも、構造的な問題であり、構造的な問題には構造の理解と構造の変革でしか対処できないことに気が付くことです。

 

同じように、マスメディアがなぜ偏るのか、という問題も構造を理解すると簡単です。

 

●なぜマスメディアは偏るのか

マスメディアが偏るのは、まずマスメディアのビジネスモデルがスポンサー広告だからです。

まずスポンサーの意向が働きます。つまり、必ずスポンサーに忖度する構造になっています。

 

マスメディアは国民のためのメディアではない、有用な情報を流さない、と思う方もいるかもしれませんが、それはマスメディアの構造を考えたら当たり前の話だということです。

構造が分かれば、マスメディアが、国民のために報道をしてくれる、と考えること自体が、前提を間違えている過度な期待とも言えるでしょう。

 

偏っている、というより本来の仕事をしているに過ぎない、ということです。

企業の「収益構造」と「資本構造」が分かれば自明です。

 

これは先ほど例にあげた、エネルギー企業や軍需産業、製薬会社なども全て同じ理屈です。

 

企業のトップの仕事は、株主のために企業の利益を最大化させることです。

彼らはただ職務を全うしているのです。中には利己的な意図や勘違いが混じることもあるでしょうが、基本的には、ただ与えられた仕組みの中での役割を果たしているに過ぎません。

 

従って、政治家や官僚機構のトップ同様、企業のトップが変わることにそれほど大きな変化は期待できないということです。

 

そして上場企業の株は誰でも手に入るわけですから、そのオーナーシップを一般市民も持っていることもあります。

 

マスメディアの株を持って、株価は上がって欲しいし、自分たちのために報道もちゃんとしてほしい、となるとなかなか複雑な状態になっているわけです。

 

官僚機構についても同じことが言えます。

 

●官僚機構

財務省が大きな力を持っているのは、大蔵省の頃から変わりません。

アメリカではCIAなどの諜報機関も大きな影響力を持っています。

 

どちらも大きな力がありすぎて、それを監督する機関を機能不全にできることが問題です。

 

従って、財務省にしてもCIAにしてもトップが変わっても、組織の体質はなかなか変化しないということが、構造的に発生します。

 

企業、政府、官僚機構それぞれの構造の特徴を理解することが、世界の問題の核心の理解をするための第一歩になります。

 

官僚や政治家も中には、無知や思い込みで実際に国民に害すことがありますが、基本的には、企業同様、それぞれが役割を全うしているに過ぎないのです。

 

つまり、それぞれが職務や役割を全うしていたら、結果的に多くの人が傷つき、疲弊し、問題となっている。それが実際起きていることの真実です。

 

仮に誰も悪意がなくても、構造がそうなっているため、変わらず問題が起きることになります。

 

●どのように構造の問題を解決するのか

国も企業もトップが変わってもダメなら、どうすれば良いのでしょうか?

 

実際、国も企業もトップが構造の問題を理解し、対処できるなら一時的な変化を起こすことは可能です。

良い悪いはここでは議論しませんが、事例を挙げるなら、アメリカであればトランプ大統領、日本であればカルロス・ゴーンが日産の代表になった時に、確かに構造の変化は起きたと思います。

 

しかし、元々が構造の問題なので、そうした個人の才覚や歴史の気まぐれに委ねるのではなく、本来は構造的なやり方、新しい仕組みを作ることで恒久的な対処ができるはずです。

 

また、トップが変わればうまくいく、という発想自体が構造の問題を個人の問題に置き換えていて、的外れといえます。多くの人が強いリーダーシップに期待しすぎています。

 

そしてその構造的な問題の解決策こそ、前回説明した市民と政府の視点の切り分けにつながってきます。

 

●企業、政治、市民という三つの視点

企業、政治、市民という三つの視点を持つこと、構造を変えるにはまずこの切り分けが最も重要です。

 

この着想は、ドイツの哲学者ルドルフ・シュタイナーから得ていますが、歴史的には他にもこの着想に気がついた人はいると思われます。

 

まず直感的に企業と政治が結びついて暴走しているのが、世界の問題の本質になるのであれば、誰がこの暴走を食い止めるのか、という着想が最初に必要です。

その答えがまさに市民ということになります。

よく言われる、国民一人一人、という意味です。

 

例えば、政治家が戦争をしたいと言っても、民主主義であれば、国民全員がノーと言えば、いかに政治と企業が癒着していてもできないわけです。

ベトナム戦争アメリカが撤退したのは、まさにこの片鱗ではないかと思います。そもそも兵士も人間ですから。

 

しかし、一方で国民一人一人が望んでもいないことが、次々に起きてしまうのはなぜでしょうか。

 

それがまさに前回の話につながってくる論点です。

https://itseiji.hatenablog.com/entry/2023/11/23/103512

国民一人一人がどう思っていても、それが集団の票にならないと機能しないということです。

 

従って、企業と政治の癒着という世界の問題の本質にどう挑むのか?

その回答が、市民によるガバナンスであり、そのために日本の場合は地方自治体を通して票を収束していくこと、になります。

 

企業と政治の癒着という構造の問題に対して、市民という新たな軸を構造的に加えて(あるいは機能させることで)、問題を解消させるのです。

 

●なぜ市民は機能不全になるのか

現代の問題を少しバーチャル的にイメージしてみましょう。

三国志のように、政治、企業、市民という三つの勢力が存在し、政府と企業という二大勢力が一体となって市民勢力を攻撃し、市民が弱体化している様子をイメージしてみてください。

更に言えば、政治と企業は一体となっているのに対して、市民は一人一人バラバラで、お互いを攻撃し合い、統率も取れていないので、勝負になっていません。

 

それにより世界のバランスが崩れている状態です。従って、市民が本来の勢力を取り戻すとバランスがもどります。

 

政治と企業は市民を弱体化させた方が良いので、当然、政府やマスコミからこのようにしたら世の中うまくいきますよ、という話は出ないです。

 

曹操劉備が組んで、孫権を攻撃しているのに、孫権曹操に「曹操さん、どうしたら曹操に勝てるでしょうか?」と質問しているようなものです。

 

市民の中から答えを見つけないといけないのです。

 

「政府が」「有名人が」「専門家が」「マスコミが言っているから」というそのような基準で判断をくだしているうちは、永遠に正解に辿り着けないでしょう。

 

本稿が匿名であるのも、権威ではなく、内容で理解をして欲しいからです。

日本と世界の問題の核心について(前編)

岸田内閣の支持率が、20%台前半と歴代最低域に達しています。

 

多くの人が政治に不満を抱きつつも、総理を幾ら変えても良くならない日本の現状に、多くの人が何かしらの違和感を持っていると思います。

何が問題であり、どうすれば解決できるのだろう、と多くの国民が思っているはずです。

その問題の核心と解決策をこれからお伝えしようと思います。

答えから先にお話します。

 

まず、問題の核心は「個人の票を集団票に置き換える組織の器がないこと」

そしてその解決先は「地方議会や地方自治体をその組織の器とすること」

になります。

 

●なぜ国民の意識と政府の意識はズレるのか?

順に説明していきます。

まず、多くの国民が感じているのは、総理や政権与党との意識のズレだと思います。

いまの岸田内閣はこの点に関して、事例として特に説明がしやすいです。

例えば、一般の人々は世界的なインフレに生活の負担が重くなっている一方で、岸田政権は増税し、海外にお金をばら撒き、自身の給料は上げる、ということをするわけです。

 

これに対して、国民は、岸田総理は全く国民の方を向いていない、と思うわけです。

 

そして、経団連の会長が奇しくもコメントしたように

「防衛もやりデフレ脱却もしているのに、なぜこれで支持率が上がらないかわからない」と。

これは岸田総理も同じような面持ちではないかと思います。

 

しかしこれではコミュニケーションが国民との間に成り立っているようには見えません。

ではなぜ、こうした総理、経団連会長と国民の間でこれほど意識の差が生まれるのでしょうか。岸田総理に庶民感覚がない、それもあるかもしれません。

 

●政治の仕組みを知る

しかし、真に核心となる理解を得るには、政治の基本的な仕組みを知る必要があります。

 

まず、なぜ政治において宗教団体や労働組合が強い影響力を持つのでしょうか?それは、彼らが集団として、組織として票を持っているからです。

 

政治を語る上では、政治は多くの人の日常生活や、経済活動と違う力学を持っているシステムであること、まずこの理解、前提がないと政治のことが全く理解できなくなります。

 

例えば、ビジネスの現場においては、ビジネスパーソンは「対価と提供する役務」を具体的に話し合うことをします。

それが、商取引という世界のシステムだとすると、政治とは「政策と票」を具体的に政治家と話し合うシステムなのです。

同じ交換取引であっても、供物が違うのです。

 

つまり、全く違う力学、あるいはプロトコールが存在するシステムなのです。

多くの人がこのプロトコールを知らずに例えば

 

「私は総理と友達で、政策を口添えできる」

あるいは

「私は大臣と親しいから、意見を言ってきた」

 

このような会話がよく永田町界隈では発生します。

 

しかし、これらの会話は、政治の場においては決して効果的なものではないのです。

なぜなら、票の話がセットになっていないからです。

(違法ですが、政治家にお金を渡すことで政策を実現させることもできるかもしれませんが、今回の主たるテーマはそちらではないので割愛します。以後も似たような話は割愛しますが、詳細は巻末に説明を付記します)

 

政治家はその政策、発言の背後にどれだけの票がセットになっているのか、それで意思決定するシステムにあるのです。

(また反対に票の話がなく、一個人の意見だけで政治が動いてしまう場合も問題があります。)

 

宗教団体や労働組合が力を持つのは、政策の要求と一体でこの票の話ができるからです。だから、政治家が動くのです。

 

そして、これこそが、国民の意見が全く政治家に届かなくなっている現象を説明するロジックです。

 

つまり、個人が幾ら投票しようとも、どのような政治思想を持っていても、集団として票にならなければ、政治家を動かすことはできない、ということです。

 

●国民の声をどうやって政治家に届けるのか

宗教団体や労働組合というのは、特定の信条や利権を政策に反映させたい、という点で一致団結しますが、多くの国民、例えばインフレで生活が苦しい、それが国民の大多数であっても、その票を束ねる器がなくては、政治家を動かすことができないのです。

 

従って、国民の声を届ける、特に生活に関することで政治家を動かすための組織とその器が必要になるのです。

 

ではその多くの国民の声を代弁する組織として、何が相応しいでしょうか?

宗教団体や労働組合、あるいは企業体というのは、理念からしてその考えとは異なるものです。

 

最も国民の生活に近いその意図を反映させやすい、理念が近い組織はなんでしょうか?それが地方議会、地方自治体です。

 

地方議員や知事は、選挙によって選ばれます。そこで票の収束がされるのです。

つまり、地方議員や知事、地方議会というのは、宗教団体や労働組合同様、個人の票を束ねる器にもなることができるのです。

 

そして、最も国民の生活、意識のところに近い組織の器となり得ることが最大のポイントです。

 

●地方政治と国政政治の違い

これも多くの方が誤解しているかもしれませんが、国政政治と地方政治は同じ政治という言葉がついていても、本来は全く役割が別物である、と考えた方が良いと思われます。

 

まず、国政政治は国という極めて大きな組織を運営する役割になります。

マクロ経済や外交、防衛といった多くの国民に関係はあっても、身近な政策を扱う場ではないです。さらにいえば、特定の国民、個人個人の困りごとを聞く役割は持っていない機関です。

 

これに対して、地方自治体というのは県そして市区町村、細かくなればなるほど、例えば地域の道路を直して欲しい、市民が集う公園を整備して欲しい、など国民の生活の要望を叶える機能であり、政府よりもずっと国民に近いところにいます。

 

つまり、地方議会、地方自治体は国民の生活目線、生活のことを考える機関であるといえます。

 

これは言い換えれば、国民が政府に持っている不満の多くは、政府ではなく、地方政治に参加し、地方議会に訴えるべき可能性もある、とも言えます。

 

しかし一方で、国政に関することで、人々の生活に影響を与えるようなものもあるわけです。

その代表的なものが税制で、例えば税金を減らして欲しい、と国民が地方議会に訴えてもそれは国の専決事項であるから無理で、やはり国会議員を動かす必要があるわけです。

 

減税だけをテーマにするなら、例えば「全国減税の会」という組織が全国にあり、100万、200万という票が実際に動かせるなら、ある程度成功するかもしれません。

 

しかし、実際には税金以外にも多くのテーマがあり、個々にその団体を立ち上げてやり取りをするのは、極めて煩雑で現実的ではないです。

(もしかしたら、オンラインでそのような細かくテーマ設定した政治団体を都度運用することもあるいはできるかもしれませんが)

 

そこで地方議会、地方自治体が国民の意見を国政に反映する変換装置となりうる所以が出てくるのです。

 

●地方政治の限りないポテンシャル

地方議会、地方自治体が、市民目線、国民目線で市民のために存在し、市民を代表する議員、議会、長であれば、それを通じて国民は国と対話ができるのです。

 

具体的には、国の方針に自治体長がノーと言うことができます。

例として適切ではないかもですが、静岡県のリニアの話などがそれに当たります。

 

また、国政選挙の際にはより大きな影響を持つことができます。

実際、維新の会が大きな力を持つ大阪府では、与党自民党でさえ、野党に甘んじている、あるいは大阪で何かをするには維新の協力が必要になります。

 

地方議会が無所属、あるいは地域政党で国政政党の地方支部が野党、少数派となるだけで、だいぶ世界観が変わるということです。

 

この話は日本人の場合、江戸時代に徳川幕府が何かをやろうとしても、前田家加賀100万石がノーといったら、無視できない影響がある、というイメージの方がわかりやすいかもしれません。

 

従って、いまの日本の国民と政府とのズレ、自分たちの意見が反映されない、という問題の解消には、地方議会に市民目線、国民目線の人を選ぶことで解消されます。

 

その点を考えますと、いま最も日本を変えるために核心に迫った活動をされているのは、今の段階では元明石市長の泉房穂さんだと思います。

 

明石市を市民目線の街とし、子育て、子供教育など強化し、人口増を成し遂げ、地方政治のポテンシャル、そしてその可能性を日本全国に知らしめました。

 

そして、その勢いを持って、日本全国で同じような市民目線の議員や長を応援する活動をされています。

 

全国に市民目線の議員、議会、長を輩出することが最もいまの日本の問題の核心に迫っています。また、そのような人々も増えています。

おそらく、本能や直感で何が問題でどうしたら良いか気づいたのだと思います。

 

そして、この流れを整えるためには、少しだけ理論建てた説明があった方が良いだろうとも判断しました。

 

●地方政治と国政の役割分担が大事

 

また、対照的に、維新の会やれいわ、参政党といった面々は、やや所在違いの印象を受けます。彼らは皆、本来の主戦場は地方議会だと思います。

 

まず維新の会は、大阪府大阪市のねじれを解消するために生まれた地域政党であり、それを実現させたことは大きな意義があると思います。

 

しかし、その後、国政で自民党民主党が弱体化して議席を取ってしまったが故に、自民党とくっつき権力の一端となることを目指してしまったことが残念です。本来は、大阪を中心とした近畿全体を良い方向にする地方政党を目指すべきだったと思います。

 

れいわや参政党はその政策や、目指すべきところが完全に国民目線、国民寄りの政党です。

 

政府が国民の生活を考えることが役割にないように、国民目線が強い政党が政権与党を担うこともまた問題があります。

 

例えば、極端な話、完全に国民目線で考えた場合、税金は低く、お金はばら撒いてしまった方が良いという結論になります。(実際、れいわの政策はそのような内容です)

 

しかし、国という単位になると、諸外国との関係、あるいは国全体のことを考えてどこにどうお金を使うかなど、国民一人一人が持っているリテラシーをはるかに超える専門的かつ複雑な知識や、高度な判断が要求されるわけです。

 

国民一人一人の目線と言うのは、言い換えると一国民の都合でしかないわけで、それがマクロ的な政策にまで反映されると、それもまた問題があるわけです。

 

素人が外交をし、防衛政策を考え、マクロ経済の意思決定をするということになりますから。

 

さらに言えば、中央集権か地方分権かという二元論ではなく、両方のバランスを如何に取るかが重要です。

 

地方分権の話ではない

ここは大きく間違えやすいところかもしれないので、補足をします。

 

今回の話は地方分権、強い地方を作るというものとは似て非なるものです。

 

仮に強い地方を作り、国に影響力を強めれば、その地域だけに利権を起こし、その地域だけ豊になる、ということは可能です。

今回の大阪万博というのはそれに近い話です。

 

地域の力を強めるだけなら、手段は他にもあります。

有力な企業があり、地方議会にも影響を及ぼすことができます。

トヨタがある愛知県などもその事例になります。

そうではなく、今回の話は如何に市民、国民の意見を国政に反映させるか、という論点です。また、企業が強い地域は、その企業に取って都合の良い地域になり、市民目線の街作りがされない可能性もあります。

また、強い地域をただ作ることは、その地域の人の生活は部分的によくなるかもしれませんが、日本全体を良くすることにはつながらない場合もあります。

 

市民の意見が地方政治を通じて、国政に繋ぐ、ということが話の本筋になります。

 

明石市のように、市民目線の街づくりが、結果的に人を呼び込み豊になるということはありますが、その地域を良くする、強くするのはまた別の話になります。

 

●世界の問題の核心へ

そして一人一人の市民目線、あるいは国民目線と政府の視点が大きく異なる、という話は多くの人の想像よりも遥かに重要です。

 

実はこの話は世界の混乱、世界の問題の核心につながる話です。

 

世界政府、資本主義の次、監視社会など、多くのシステムが議論されていますが、ほとんどが前提を間違えた混乱の副産物だと思っています。

 

まず、民主主義をどのように機能させるか、これがいま本当に重要なテーマです。

民主主義に代わるシステム議論ではありません。

民主主義が機能していない、という前提を見直す議論が先です。

 

そしてそのためにわずかな、シンプルですが重要な本質的な着想が必要です。

 

次回は、今度は世界の問題の核心とその解決策について話せればと思います。

 

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(今回話しきれていないテーマに関して)

・日本の問題の本質にはマスコミや古い体質もあるのでは

・政治はお金や利権でも動かせるのでは

アメリカや、中国、資本家が日本に影響与えるのでは

自民党や官僚サイドに問題はないのか

イノベーションや研究開発は

など

 

おそらく日本の問題の核心、というテーマに関しては多くの方が以上のような議題にも問題がある、と考えると思われます。

 

結論から言えば、多くの点に問題があるのは確かです。

しかし、深い傷を負った体に薄いガーゼを当てて見た目を誤魔化しても、根本的な治癒にはならないように、根深い問題にはまずその核心から明らかにする必要があると考えています。

 

また、他のテーマに関して、問題点が指摘され、改善も提示されているようなところは、敢えて取り上げる必要性はないと判断し、他では誰も言っていない重要な核心を優先的に書いていきたいと考えています。

 

 

 

解説と考察 実は難しくない「君たちはどう生きるか」を整理する

※以下本作品および他のジブリ作品の重大なネタバレを含みます※

 

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■前提を間違えている

わからない・難しい/わかる・深い

 

意見が二つに分かれて様々な考察が飛び交っている本作品ですが、

実は難しくもないし深くもない、ということが正直なところではないかと思いました。

 

まず、難しい、わからないと感じる方が多いのは

前提としておそらく、

「宮崎監督だから余程深いことを言いたいに違いない」

あるいは、

「宮崎監督はすごい人だから、わからないのは自分の理解が浅いからだ」

そのように思い込んでいるのではないでしょうか

 

つまり

「宮崎監督がすごいことを言っているはずだ」

という前提に立つから

「わからない」

という人が増え

「宮崎監督がそんな難しいことを言っていない」

という前提に立つ方が、わかりやすくなると思います。

 

 

■宮崎監督が言いたいこと

まず宮崎作品全体に流れるのは、彼の師匠でもある手塚治虫にも通じる

「生きる」いうテーマだと思います。

 

ナウシカラピュタもののけ姫、トトロ、ハウル千と千尋の神隠し紅の豚など

 

舞台は違っても「生きる」ということが全体の一つのベースのテーマになっています。

 

その上で、本作で宮崎監督が伝えたいことは、大きく二つかなと思います。

 

一つはタイトルにある「君たちはどう生きるか」これを考えてほしい。

これについては後ほどもう少し詳しく説明したいと思います。

 

もう一つは、ナウシカの時代から変わらない彼の人間の本質観みたいなものです。

 

それは

罪を犯す不完全な人間が懸命に生きる世界と

罪を全く犯さない人間が清く生きる世界と

どちらが人間としてが正しいか、というテーマです。

 

作品の最後のシーンで、主人公の真人が問われるシーンですね。

まさに真人はこのシーンで前者を選びます。

自分は嘘をついた、そういう清い世界の人間ではない、というわけですね。

 

これは漫画版ナウシカで、最後にナウシカが墓守達の前で選ぶ選択肢と全く同じです。

 

つまり、宮崎監督のセントラルモチーフはナウシカの頃から何も変わっていない、ということになります。

 

■なぜ宮崎作品は難しいと言われるのか

これは宮崎作品に限った話ではないと思いますが、映画やアニメで多くの人が難しい、と感じるのは本当に難しい作品は除くと、他に少なくとも三つの理由があると思います。

 

一つは、クリエイターは無意識なインスピレーションに身を委ねている場合があるということです。

つまり、なぜこれが良いのか、なぜこれを伝えたいのか、そういう理由は言語化できないが、どうしようもない衝動でそれを作る時です。

本人が無自覚なので、うまく言語化がないので、文脈や説明が本人もできないパターンです。

 

次に、クリエイターの意図として、明確にメッセージを打ちすぎることをあまり是としていないケースです。

例えば、本作も本当に君たちはどう生きるのか、という話を明確にすると単なる説教のようなものになってしまう可能性が高いです。

 

宮崎監督は

メッセージを全く打たないタイプなのか

メッセージをたまに入れるタイプなのか

メッセージを入れるけど、わざとわかりにくくするタイプなのか

いずれなのかというと、最後のメッセージを入れるけど、明確にしないタイプではないかと思われます。

 

以上二つは言い換えると、明確に伝えたいことを言語化していない、ということになるので、難しいと感じやすいわけです。

 

最後に本作は演出のディテールが細かいことが挙げられます。

例えば、なぜ真人を導くのはなぜアオサギで、なぜ母親が若い姿で現れるのか

こうした演出様々に細かな意図の一個一個の意味を追うと視聴者は大変難しく感じられると思います。

 

この辺は宮崎監督の主メッセージとは関係ない、と切り離して考えると理解がしやすくなると思います。

 

つまり、難しい、という理由を分解すると

①宮崎監督は深いことを言うという前提に立ちすぎている

②宮崎監督自身は伝えたいことはあるが、結構無自覚が多い

③あまり明確にメッセージを打たないようにしている

④演出ディテールの巧みさ、細かさ

 

この四つが合わさって難しいと感じる作品になっていると分析します。

 

旧約聖書の創世記の世界観

宮崎監督の、罪のない人間よりも罪のある人間、というモチーフの原型はおそらく旧約聖書の創世記だと思われます。

 

創世記で人間は元々罪がなかったのに、リンゴを食べて罪を負い、天国から追い出されるわけです。

 

ここで宮崎監督がナウシカ時代から度々コントラストしているのが、

もしリンゴを食べなければ、つまり人間が罪を犯さなければ、天国に入れたのに、と言う説に対して、明確にノーと言っているわけですね。

 

おそらく、宮崎監督の中では、罪を犯さないでずっと天国にいる人間よりも

一度罪を犯して天国を追い出された人間が、懸命に生きてより元の天国よりももっと良い世界を作ることができるんじゃないか

あるいは、「与えられた天国」と「勝ち取った天国」とどちらが良いと思う?

と言う問いかけにも見えます。

 

この辺は宮崎監督の無自覚領域で言語化不足のように感じました。

なぜ、後者の方が尊いのか、という説明が一切ないからです。

 

またこのモチーフ自体が深いか、と言われると、個人的には少し時代に合っていないような印象もあり、そうは感じなかったです。

 

■プロットを整理する

本作のプロットを整理することで、更にわかりやすくなります。

複数のプロットが交錯していることで、作品は深みが出ますが、整理しないと混乱します。

 

本作のメインプロットは以下になります

①子供と義母の和解

②真人のトラウマの克服

③宮崎監督の伝えたいこと

 

これらはそれぞれ関係しつつ違うものだと思った方が良いです。

③の宮崎監督の言いたいことは既に説明しましたが、真人の成長というテーマはその伝えたいテーマに関係はしても、彼の成長そのものは基本的にはありふれたものなので、特に目新しいものはないです。

 

まず、全体を流れる一つのメインプロットは、突然の母の死と母によく似た新しい義母と出会う少年の心理、というものです。

 

これは子供の立場に立ってみると衝撃的な話です。

しかも新しい母親が悪い人、あるいは父親も問題のあるような人間なら憎みようがあるけれど、父も新しい母もとても良い人たちなわけです。

 

真人自身も、そう言う両親の元に育っているので、とても礼儀正しく誠実な少年として描かれています。

 

誰も悪くない、でもいきなり母によく似た新しい人を母と呼ぶことはできない、その葛藤、それが素直な真人の心情で、それが最後はお母さん、と呼べるようになる、という話です。

 

なぜ和解できたのか、というところに本当の母が若い姿で現れたり、義母が行方不明になったりと、ディテールは複雑ですが、ストーリーの流れ自体は言ってしまえば親子の和解なので何も難しいものはないです。

 

次に真人のトラウマ、つまり母親を亡くしたことを如何に彼が乗り越えるかです。

 

彼がトラウマを持っていることは、冒頭で母親の火事の夢を見て泣いているシーンなどで表現されています。

 

少年の心の中には、色々と整理されない思いがあり、そのファンタジーなとこを膨らませると、ああいう世界観になるのもあると思います。

あの塔の中は真人の心情風景の可能性があります。

 

死とは何か、自分は母を助けられたのではないか、もしかしたら母は生きているのではないか、大人には考えられないことを子供はたくさん考えるわけです。

 

ですが、これもディテールの話であり、母の死を乗り越える、という点に関してはよくある物語といえます。

 

■ディテールを無視する

繰り返しになりますが、宮崎監督の主として言いたいことと、細かな演出、違う言い方をするとサブメッセージを切り分けて考えると一気に理解が進みます。

 

宮崎監督が一番言いたいことは、どう考えてもクライマックスの真人が選択するシーンです。

 

そのシーンとアオサギ、母、ペリカン、インコなどを色々関連づけようとすると、カオスになります。

 

そうではなく、主たるメッセージと演出、ディテール、サブメッセージとをわけ、それぞれが独立したものが織り込まれていると考えると良いです。

 

例えるなら、主たるメッセージは太い赤い糸で、他のディテールは細いそれぞれ色の違う糸、それらが織り込まれて一枚の織物が織られている、というイメージです。それぞれの糸があることで一つの作品ができていますが、解きほぐしていくとそれぞれの糸は別の糸なわけです。

 

 

■宮崎作品の面白さ

宮崎作品に関して、あまり言われていない宮崎作品の面白さ、特に今回は展開が読めない、直線的ではない構成が際立っていたように思います。

 

いきなり謎のインコ軍団が出てきたり、アオサギの中からおじさんが出てきて、しかも素性がよくわからないなど、全く謎でした。

 

この読ませない展開の繰り返しも、視聴者に難しいと感じさせた一種の要素のように思います。

 

しかしこれはメッセージ性というよりは、演出の問題で、常に予想外の展開、線形でない展開を描こう、としている作者の意図を感じつつも、作品自体の面白さを彩るもので、宮崎監督の言いたいことと直接関係がある要素ではないと思います。

 

一つ一つのディテールの中にメッセージがあるのでは?と思い込む可能性があるのも、この演出の巧みさによるのかもですが、ここにはそこまでのメッセージ性はない、と考えた方がスッキリすると思います。

 

ディテールにメッセージがある、つまり宮崎監督が何かものすごいメッセージを作品で伝えようとしている、という前提に立ってしまうと、このディテールの巧みさが余計に難しく感じさせるものになってしまうわけです。

 

ディテールの巧みさが、メッセージを理解するノイズになってしまっているとも言えます。

 

また宮崎監督は、明確なメッセージを送ることを是としないタイプのクリエイターなので、なぜアオサギなのか、なぜペリカンなのかなども、実はそこまでは深い意味をあえて持たせていないのではないか、という風に捉えた方が、納得感があります。

(ここは天気の子などの新海作品との違いとも言えます。)

 

そしてそういう演出の巧みさ、読ませない展開の面白さ、これは千と千尋の神隠しや、ハウルには見られる一方で、ラピュタもののけ姫は、それなりにストーリーが順を追っていけるので、元々作品の片鱗にはあったが、後期の作品でより宮崎監督は非線形の展開をより用いるようになったように感じました。

 

この心境の変化のようなものは、やはりクリエイターとしての表現の仕方が円熟してきたからであり、あそこまで展開を読ませない作り込みにこそ、宮崎監督の凄さがあるのではないかと思いました。

 

君たちはどう生きるか

 

これに関しては、多くの人が言うように、一人一人が考えて欲しい、ということではないかと思います。

 

あえて補足を加えるなら、宮崎監督としては、人間は与えられた幸福よりも、勝ち取った幸福を選ぶべきだ、ここまでは示したから、そこから先はわからなかったから、若い人に託す、というニュアンスも少し感じました。

 

ちょうど、真人のストーリーもそこで作中は終わります。

大叔父から後継者になることを断り、人間として荒波を生きていくことを選ぶわけですね。

 

また作品の中で君たちはどう生きるのか、ということを示すのではなく

作品全体を通して、見終わった後、あるいはその前に問題を投げかけることで、作品全体でその問いを視聴者に問いかけているのではないか

 

ここもタイトルと作品の中のディテールに、君たちはどう生きるか、という関連づけを探そうとすると沼にハマるところはないかと思います。

 

そうではなく、作品全体が前段であり、後のことは考えてね、よろしく、と受け取った方が、宮崎監督の後期の作品という位置付けから考えると納得感があるように思います。

 

これが、初期、前期の作品であれば、もっと隠れたメッセージとかの追求をしてもよかったのかもしれないので、どの時期の作品なのか、という点も考察する上では重要な要素のように思いました。

 

最後に、米津玄師のテーマソングですが、曲そのものは良いのかもしれませんが、割と露骨に感情に訴えるタイプの曲だったので、宮崎監督がメッセージを強く打ち出していない世界観とはマッチしない世界観の曲だと思いました。

 

この最後のコントラストが意図したものなのか、それともここだけは宮崎監督ではないクリエイターやプロデューサーの意向なのか、そこだけ確認をしてみたいところではあります。

天才を分解する

天才という言葉は曖昧に過ぎる。

もう少し分解を試みたいと思う。

 

誰もが天才と言われ、思い浮かべる人物の1人にレオナルド・ダ・ヴィンチがいる。

彼がなぜ天才と呼ばれるのか?

 

それは「モナリザ」や「最後の晩餐」などに代表されるルネサンスを代表する絵画作品を残しただけでなく、多くの科学的、洞察に富んだスケッチを残し、一介の画家に収まらない幅広い才能を示していたからだろう。

 

しかし、ここで一つの疑問が浮かび上がる。

レオナルド・ダ・ヴィンチは画家なのか?と。

彼のことを画家だと認識している人間は当時も、今日もどれだけいるのだろうか。

 

そして、画家としては同じ時代のラファエロ、彫刻家としてはミケランジェロの方が思い浮かぶのではないか。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチは「天才」であっても、画家としてはラファエロに、彫刻の世界ではミケランジェロに及ばないのではないだろうか、と。

 

それは天才という言葉の曖昧さの問題でもあり、天才とは身体的な技術に由来するものと、そうでないもの、その二つに分解すると様々な天才を理解する助けになる。

 

まず、身体的、技術的なものに由来する天才とは実は一つの才しかありえないことに気づく。

 

例えば、モーツァルトは誰もが思いつく天才的なピアニストではあるが、そのモーツァルトが同じように、テニスやクリケット、はたまた料理で同じような才能を発揮した、という逸話はない。せいぜいが、作曲、音楽に関連するエピソードくらいである。

 

これはあらゆる身体的、技術的なものに由来する技能に集中と時間が必要なことに由来する。

例えば、一流のピアニストであっても、一日平均四時間ピアノの練習をしないと、腕が落ちるという話がある。それだけ毎日集中して、同じ時間を例えば他の楽器をやったとしても片手間になるか、腕が動かないのは想像するに難くない。

 

野球選手のイチローも、自身のスイングを維持するために、絶対に他のバットを持たないようにしていたという。一つの技術、一つの技能を選択し、極めるということはそれに他ならない。

 

ルネサンスの時代に話を戻すが、そうしたイチロー的な選択と集中ミケランジェロとラフェエロにはおそらくあったのだと思う。彼らは画家であり彫刻家であり、それ以上を求めなかった。ゆえにこの2人は身体的、技術的なもの、主に反復的な動作に由来する、天才ということになる。

 

それに対して、レオナルド・ダ・ヴィンチは画家でもあり彫刻家でもあったが、それ以上に科学者であり哲学者であり、知識人であった。ある程度の、人並み以上の技能は持ち合わせても、それだけにとどまることはなかった。

 

歴史上、似たようなタイプの天才としては例えば、ライプニッツゲーテ、シュタイナー、ノイマンなどが挙げられる。

 

彼らに共通するのは、天才と呼ばれていても、それは一つの身体的、技術的、反復的な動作に由来するタイプの天才ではない、ということである。

 

あらゆる学問や芸術の知識や洞察に優れていても、それは毎日の修練に依存するような天才性ではない天才たちである。

 

こちらのタイプの天才の特徴は、一つの技能を極めることをしない代わりに、多くの分野に優れた知見や洞察をもたらす、言い換えれば、頭脳的、クリエイティブな天才と呼ばれるもので、天才の性質が実は日々の生活からしても全く異なることが言える。

 

ちなみにアインシュタインは物理学、相対性理論に集中した頭脳型の天才と言えるか?それは頭脳型の天才と果たして呼んで良いかは、まだこれからの科学の発展にかかってきそうである。なぜなら、レオナルド・ダ・ヴィンチのような頭脳の幅の広さ、それがアインシュタインにはないからである。

 

アインシュタインはあくまで物理学の世界の人であって、それ以外の分野は手記など読んでも、政治的な意見など一般人のレベルと大差ない見解が多い。

 

それは多くの天才扱いされている人々に同じことが言える。

特に頭脳型の天才に多い。ある分野には詳しいが、他の分野にはさほど精通していない、というタイプである。フロイトケインズマルクスなどがおそらく該当する。

 

そして、技能型の天才にいま、真っ向から勝負を挑んでいるのが、他ならぬ大谷翔平である。

ピッチャーとバッターという異なる技能を同時に極めようとする彼は、その意味でも規格外である。

 

かつてマイケル・ジョーダンはバスケットと野球の両方に挑んだが、彼の身体能力を持ってしても、野球では大した成績は残せなかった。

 

楽家でもピアニストと指揮者を両方やる人物はダニエル・バレンボイムを始めとして珍しくはないが、やはりどちらかが技術がそこまで求められないものになるか、両方で天才性を発揮するのは難しい。

 

だが、バッターとピッチャーをやることで相互作用がポジティブに働く場合、それは成り立ちうるかもしれない。

 

ここに一つの次世代の技能型の天才の片鱗が見える。

それは、極めて相互作用的な異なる二つの技能的な分野であれば、それは成立しうるかもしれない、ということである。

例えば、料理人と美容師は異なる職業だが、その本質的な動作に共通するものがあれば、両方を極めることが可能かもしれない。

そうした本質的な動作や身体能力をベースに相関を測ることができれば、全く今までにはない天才を生み出すことも可能かもしれない。

 

まとめると天才というものに関していくつか、論点を提示させてもらった

●天才は技能型と頭脳型に分かれる

●頭脳型の天才は幅広さを求められるのではないか

●身体の本質がわかれば、新しい技能型の天才を生み出せる可能性

 

ところでよく少年少女などに出てくる万能の主人公キャラのような設定は、学園もので、周囲が素人だから成り立つ設定である。

 

スポーツもできて勉強もできて、というのは周りが全員素人の世界であれば、少し家庭環境が整っていたり、身体能力が生まれつき備わっていればできるだけの話で、それがプロフェッショナルの世界に入ると全く通用しない。

 

よく地方では神童扱いされても、東大に行ってみたら周りもみんな神童で埋もれてしまうというのはこういうことであり、10代で神童、30代でただの人というのはこういう理屈である。

 

第4の時代の始まり

最後の10台予測は2030-2050年に実現できるかわからない、未来の話をします。

 

少し精緻に欠くところもところどころあるかと思いますが、何らかのイメージを呼び起こすつもりで読んでいただけると幸いです。

 

未来には世界が一変すると予想します。

 

それを「第4の時代」と呼ぶことにします。

 

その前に、第1、第2、第3の時代とはどのようなものか簡単に説明していきます。

それぞれの時代に中心となる概念、ヒエラルキーが存在します。

 

□第1の時代「祭司、神官、王の時代」

 

第1の時代の特徴は、神概念が強く、祭司や神官、そして巫女といったシャーマンのような存在が中心となる時代です。

 

日本では巫女といえば「卑弥呼」や「壱与」のような人物を想像していただけるとわかりやすいと思います。

 

この時代の特徴は、スピリチュアル的な能力を持つ者を王、あるいは重要な人物として位置付けることです。

 

神を非常に重視するため、神と関わる祭司や神官が重んじられます。

 

特に重要なのは巫女の役割でしょう。

 

例えば、いつ米を巻けば豊作になるか、どのように戦争をすれば勝てるかなど、判断の材料を与えることです。

 

科学がない時代ですから、巫女が神託としてそれを告げ、その精度が、その部族の繁栄や生き死にを左右することになると考えられていたと思います。

 

従って、如何に優秀な巫女やシャーマンを持つか、ということが非常に重視される時代であったと思います。

 

日本では卑弥呼や壱与が代表的ですが、シャーマン的なエピソードは世界中の文献にあります。最も代表的なものが旧約聖書です。中では預言者という存在が非常に重要視されています。

 

他にもアステカやマヤなどのラテンアメリカギリシャローマ、中国、エジプトなど

全世界の古代文明には霊的な儀式や神話などとにかく、神にまつわること、神との関わりという内容が多くみられます。

 

文献を読むと、戦争そのものも生贄のためにとか、神に言われてとか、現代人では理解できないような理由が散見しています。

 

神や霊という概念が比較的日常で、近い世界観を持っている時代とも言えます。

 

従ってこの時代の王、一族をまとめる者の条件としても

ある程度そうしたスピリチュアル的な理解を求められていたと推察されます。

 

王という概念そのものに、神聖が付与されている感がエジプトのファラオなどもあります。

 

地域によって誤差はありますが

おおよそ紀元前数百年前くらいまでがこの第1の時代の世界観です。

 

□第2の時代「戦士の時代」

 

神代、シャーマンの時代が終わりを告げるのは、ギリシャ・ローマ時代に入ってからです。

 

この時代になると、神話は宗教に変わり、宗教はより世俗的になります。

 

預言者やシャーマンのような存在は、むしろ怪しい存在として魔女狩りなども始まります。

 

そして更に時代が進むと、モンゴル帝国に代表されるような騎馬民族、武力を持つ者が猛威を振るった時代です。

 

わかりやすく、強い者が勝つという時代で、全世界が戦争に荒れ狂った時代とも言えます。

 

もちろん第1の時代にも武勇に優れた王、戦士は数多く存在していましたし、戦争はありました。しかし、世界観が変わり、戦争はより世俗的になります。

 

昔ほどシャーマン的な要素が重視されなくなった結果

王としても武力や、荒くれ者たちをまとめられるカリスマ性などが求められるようになり

結果として、「祭祀としての王」よりも「戦士としての王」が重視されるようになります。

 

この時代の王と言えば、先に挙げたモンゴル帝国のハーンほか、フン族アッティラオスマン帝国のメフメド、十字軍のカール大帝など武勇に名高い王や侵略王が多く見られます。

 

日本でも戦国武将や源氏、平氏といった武家が力を持っていた時代に入ります。

 

一方で全てが急に切り替わるわけではありません。

 

例えば、ローマのコンスルカエサルは名門ユリウス氏族の出です。ユリウス氏族と言えば、ローマ建国のアエネアスの子孫とされますが、ユピテルの神官の一族でもあります。

つまり、名門=神官の家というものがこの頃のローマの文化にはあったわけです。

ですが、カエサルで有名なのは「来た、見た、勝った」などガリア戦記ゲルマン民族を制圧したことの方が有名だと思います。

 

神官の一族として生まれ、戦士として名を馳せたのがカエサルということです。

 

それは歴史が第2の時代に突入していたからでしょう。

 

カエサルはちょうど紀元前100年辺りの人物であり、ちょうど神官の時代から戦士の時代に移行する変わり目の代表人物と言えます。

 

そして戦士の時代はおよそ19世紀半ば頃まで続きます。

 

□第3の時代「資本家、商人の時代」

 

第2の時代の背景に騎兵、騎弓兵を支える鎧、鞍という技術があったように

第1の時代の背景にも、蒸気機関や航海技術といったテクノロジーにより時代が変わったという面は存在します。

 

この時代、テクノロジーの進化の結果、兵器はどんどん近代化し、銃は訓練を受けていないものでも扱えるようになりました。

相対的に個人の武力よりもむしろ、兵器を生産するための資金こそが生命線になっていきます。

 

それにより戦争の目的も極端に世俗化しています。

テクノロジーの後押しもあり

次に世界の中心となった人々は資本家であり、商人です。

 

特に決定的な契機となったのは、1815年、ナポレオンがワーテルローの戦いで敗れ

それに賭けて大儲けをしたロスチャイルド家の台頭です。

 

もちろん戦争の天才と呼ばれたナポレオンが敗れたことも、時代の変わり目と無関係ではないでしょう。

 

この時に大きく、戦士の時代から資本家の時代に大きく転換したと言えます。

 

歴史を振り返っても、現代ほどお金、資本家が重視されたことはありません。

 

日本でも江戸時代では「士農工商」などと呼ばれ、商人は一番下の階級とされていました。

それが今や、商人、資本家こそが頂点であり

金融が世界の中心となり、資本主義となり今日に至ります。

 

また、第3の時代で大きく変わったことは

血族というものの重要さが、資本主義だけではなく、民主主義の発展と共に失われたことです。

 

神官の時代にはそもそもシャーマンとしての才能が大きく血統に依存し、だからこそ血統が重視されていたと推察されます。

 

そして、戦士の時代には部族をまとめる権威とし、王や将軍の血族が重んじられていたと言えます。

 

しかし、資本家の時代に変わり、それが一変します。

 

それまでの血統はどうあれ、お金さえあれば社会の中心に立てるという世界観に変わりました。また、血統の王ではなく、統治者が選挙で選ばれるようになり、これまでのような血統重視、血統による支配、というのは、世界のスタンダードからは大きく外れることになりました。

 

第2の時代で神という概念が大きく後退したことが大きな時代の変化だとすると

第3の時代は血統という概念が大きく後退したことが大きな時代の変化になります。

 

そして第4の時代は、これまでの概念が根底から覆る変化が起きる時代です。

 

□それぞれの時代

 

第4の時代の話に入る前に、各時代にどれだけ世界観が異なるのかを見ていきましょう。

 

第1の時代は「神官」が重視されました

第2の時代は「戦士」が重視されました

第3の時代は「資本家」が重視されました。

 

つまり、第1の時代においてはシャーマン的な能力が評価され、第2の時代は強さが評価され、第3の時代は資金の量が重視されるわけです。

 

資本主義における現代人、特に日本人は、無意識にお金を持っている人を尊敬する人も多いかもしれませんが

第2の時代では、「お金は持っている人間から奪えばば良い」という世界観なので

現代のような拝金主義感は薄いと思われます。

 

第1の時代においては、そもそも神が重視され、聖書にあるようにお金の扱い自体がそもそも不浄とするような地域もありました。

 

いまの時代においては、「ウォール街に就職する」「金融マンになる」というのは

社会的な地位が高く、一部の人の憧れかもしれませんが

他の時代でそのようなことを言ったら、差別的な扱いを受ける可能性すらあるわけです。

 

他にも例えば、いまの時代において、神を見たとか、神託を受けたなどと言うと

少し世の中からズレた人のように思われるでしょうが

第1の時代の人の感覚からすると

おそらく、「神をわからない人間なんて存在するのか」といった具合ではないでしょうか

 

それほど、一つの時代が変わると、世界観が変化するのです。

 

かつては評価されなかった人々が、時代が変われば世の中の頂点に立ち

かつては権勢を振るっていた者たちが、時代が変わると困窮する

 

これは日本で言えば、明治維新で武士が困窮し、「士族の商法」などと言われたエピソードなどが分かりやすいのではないでしょうか

 

しかし、重視されること、評価の基準は異なれ

何らかの基準でヒエラルキーが決まっていたのがこれまでの時代でした。

 

それが一変するのが、第4の時代です。

 

□第4の時代

 

第4の時代が劇的に変わるのは、これまでのようなヒエラルキーが消失することです。

 

第4の時代とは、それぞれがそれぞれの領域で才能を発揮し、それを持って平等となり

これまでのようなヒエラルキーが消失する世界になります。

 

ある意味、中心が存在しない世界です。

 

すなわち

神官の能力が強い人はそれを発揮し

戦士の適性が強い人はそれを活かし

商売の才能がある人はそれを活用する

 

それぞれ社会に貢献し、それぞれに優劣をつけない世界観です。

 

それは例えば、タイガー・ウッズマイケル・ジョーダンのどちらが優れているのか?

ということを議論するのが如何にナンセンスなことか、という話に似ています

(お互いの総年収を比較してお金の尺度だけで優劣をつけることは可能かもしれませんが、極めてナンセンスでしょう)

 

なぜそのような時代になるのでしょうか?

 

一つはこれまでと同じ、テクノロジーの発展によるものです。

 

既にスポーツの世界では、生まれた瞬間にどの競技に適性があるのかわかるようになっています。それが遺伝子検査などにより、ビジネスや他の領域における適性がわかるような時代になるのもそう遠くはないと考えてもそれほど不思議ではないです。

 

AIによる圧力もあります。

人がAIに負けない仕事をするに際し、最低限自分の得意なことで仕事をせずに勝ち目があるのか、という視点です。

 

また、これまでのような仕事の大半をAIやロボットが担うことで、社会構造そのものに大きな変革が生じる可能性ももちろんあります。

 

あとは商人の時代に武力の価値が下がってきたように、お金の価値自体が下がってきているのもあります。

 

□貴族制度は時代の変わり目

 

なぜ貴族制度が時代の一つに入らないのでしょうか?

 

それは貴族制度とは、古い時代が新しい時代に切り替わる前に生じるほころびだからです。

それは言葉を変えると、既得権者たちのことを指します。

 

それらは時代の変わり目に、以前のシステムの中で富を蓄えている人々です。

 

自身は新しい時代に適応していないが、古いシステムの中で、先祖が適応していた人々です。

日本では、平安時代の貴族が武家社会に取って代わられたのが、イメージがつきやすいと思います。西洋では中世の封建社会に当たります。

 

つまり、貴族や既得権が生じていること自体が、そもそも時代の変わり目と言えるのです。

 

時代の求める才能を発揮することなしに、必要以上に利益を得ることは、当然他の人々からの反感を買いますし、そもそも弱い存在です(武力を求める時代にそれがないなど)

現代は、特に資本家と官僚機構が世界的に既得権となっていると言えます。

 

エリート、グローバルエリートというのは言葉を変えた貴族制度であり

それに盲従する人々は、言葉は付与されなくても、本質的に奴隷と変わらないでしょう。

 

またエリートとは本質的には官僚機構であり、それはAIによって最も地位が奪われそうな機能ですがいまだにその事実に直視できていないように思えます。

 

大きな時代のニーズに対応できない既得権の登場、という観点からも第3の時代の末期感を見出すこともできます。

 

□第4の時代を生きる

 

第4の時代を生き抜くには、一人一人の個性を最大化させることになると思います。

 

ポジティブな言い方をすれば

好きなものができない時代から

好きなものしか通用しない時代に

なるでしょう。

 

既に他には真似できないことでお金を稼いでいる人々は、時代に先行していると言えます。

例えば大谷翔平のような選手は、野球の世界でも唯一無二感があります。

 

第2の時代の終わりに多くの者が商人、資本家を必要としたように

既に資本家は多くの個性的な人々の才能を必要としています。

 

また、第4の時代はもっと人為的に起きる可能性もあります。

 

これまでの3つの時代は人間が選んでそうしてきたというよりは、流れのようなものに人が巻き込まれてきたと言えます。

 

しかし今回に関しては、どこかでこういうシステムにする、という意思決定が入るので、資本主義以上により人為的なシステムになる可能性があります。

 

ただし、人為的といえば人為的ですが、いま世界で構想されている、世界政府的な仕組みは全く第4の時代とは異なるものです。

 

いま構想されているものは、貴族奴隷制度の焼き増しです。

 

どちらかといえば、第3の時代が末期になり、既得権による貴族制度がより強くなろうとしている現象で、資本家が頂点にいるシステムという点でも、第3の時代のままのものです。

 

□むすびに

 

ただし、これまでの歴史を見ていると、一つの時代はおおよそ2000年程度の寿命を持っています。第1の時代は紀元前、第2の時代は1851年まで、とすると始まったばかりの第3の時代はもう1800年くらいは続きそうです。

 

ですが既に、資本主義は大きな問題を抱え、テクノロジーの進化は凄まじいものがあり

もしかしたらそう遠くない将来に、第4の時代に突入する可能性があります。

 

ナポレオンが劇的に敗れ一つの時代が終わったように、巨大な金融危機のようなものが起きて劇的に変わるかもしれません。

 

あるいは、第2の時代のはじまりにカエサルがいたように

時代とはある一点を持って急に変わるのではなく

少しずつ、片鱗を見せ、遷移していくものだと思います。

 

それが僅かな片鱗なのか、急速に時代が変わるのか2030年-2050年という時代の中で

どこまでそれが現れるのかは正直未知数なところではあります。

未来のイノベーション、これから訪れる3大テクノロジーとは

□3つのテクノロジーイノベーション

スターリンク、AI、量子コンピューター、核融合など世の中的に未来のテクノロジーで噂されているものではなく、今回はほとんど誰も言っていない、3つのテクノロジーについて紹介したいと思います。

 

それらはそれぞれ

エネルギーのイノベーション
②医療のイノベーション
③生命のイノベーション

に関わるものになります。

 

□シュタイナーの未来予想

具体的な中身に入る前に、これらのイノベーションの話は、19世紀末のドイツ・オーストリアの哲学者、ルドルフ・シュタイナーの話が元になります。

ですから、今回は彼の話の紹介になります。

 

ルドルフ・シュタイナー

シュタイナー教育

・シュタイナー建築(サグラダ・ファミリアの元ネタとして有名)

・バイオダイナミック農法(ヨーロッパではワインなど、ビオディナミが既に定着)

他にも医療、芸術、科学、哲学とあらゆる分野を網羅しており、中世ルネサンスレオナルド・ダ・ヴィンチのような多方面に才能を活用した人でもあります。

 

そのシュタイナーは生前、いくつかの未来に関する予想、予言を残しています。

例えば、共産主義が崩壊することを予言していました。

 

シュタイナーの話はまだ現代的には未解明のものが多いです。

実際はまだ現代人が彼の理論についていけてないだけではないか、と思わせる未来的なものがある可能性があります。

 

今回はそんなシュタイナーが、未来のテクノロジーに関して言及していたものを抜粋・編集して紹介しております。

 

□エネルギーのイノベーション

 

「未来では電気の力によらず、人が機械を直接動かせるようになる」

 

具体的には映画スター・ウォーズのような、ヨーダがフォースでモノを動かすイメージを勝手に想像しています。

 

そのこと指しを「振動学」あるいは「エーテル」という翻訳もありますが、人間の持つ解明されていない力を用いるという意味では、東洋では気功などの概念にも近いかもしれません。

 

そして実用化には至りませんでしたが、実際19世紀にアメリカのキーリーという科学者がその装置を発明したとされています(基本的には似非科学とされています)

https://en.wikipedia.org/wiki/John_Ernst_Worrell_Keely

 

シュタイナーによると、このテクノロジー英語圏の労働の10分の9、つまりほとんどの労働がこの新しい機械、エネルギーによって賄えることが書かれています。

 

そして、この機械は道徳心の高い人間しか使えないものになるそうです。

人の心に左右される装置というのも、人間の未知の部分の解明ありきの発明であることを想起させます。

 

なぜこのテクノロジー英語圏から広まるのか、というのもそうした資質はDNA、生まれ持ったものに左右されるようで、英語圏でそのような人物が次々に生まれてくるから、英語圏で広まる、ということだそうです。

 

いま、ドイツが深刻な電力不足なので、もしかしたら今回この話が持ち上がるのかもしれません。

 

□医療のイノベーション

まず、現在の西洋医学における投薬的な治療は必要なくなる可能性が示唆されています。

 

また、同時にシュタイナーは医療倫理の荒廃も予言しており、いまの時代を生きる人々にとっては、まさにその現場を今目撃していると言えるでしょう。

 

実際、人体、病理、食、栄養といった人間のミクロな領域は全く解明されていません。

(これらは科学者の間では当たり前の事実ですが、一般の人は「科学的な根拠」という言葉に、絶対的な信頼性を置きすぎています。)

今後、いよいよちゃんと人体のメカニズムに関して、解明されていくのかもしれません

 

そして、シュタイナーの示唆する未来の医療とは、より心理学的、精神的な治療になるようです。具体的な方法も多く提示されていますが、一つには音楽で治療する方法などもあります。

 

元々東洋医学の世界においては、病気は神経、脳からきていると考えられており、また「病は気から」という諺もあるくらいなので、日本人にとってはむしろ当たり前で、馴染みやすいものかもしれません。

 

3つのテクノロジーがどこから生まれるかも予言されています。

医療に関しては、中央、ユーラシア大陸の方で発達する模様です。

 

また、これら二つのテクノロジーに共通するのは、気に近い概念なので、個人的な仮説の一つとして、気の仕組みがある程度科学的に解明されるのではないかと考えています。

 

□生命のイノベーション

最後に紹介する生命に関するテクノロジーは、何らかのイノベーションにより、生命の誕生、受胎の時期などをコントロールできるようになるようです。

 

また、それがバイオテクノロジーでもたらされるというよりは、これも民族的な性質、生まれ持ったものからくるようで、しかも東洋から生まれるということが示唆されています。

 

最後のテクノロジーに関しては、更によくわからないところが多いので、簡単な紹介にとどめておきます。

 

三つの中で最も謎ですが、東洋で革新が生まれるのが確かなのであれば、今後日本においてより具体的なものが見えてくるのではないかと思います。

 

そして三つに共通するのは、いずれも「人間に関する新発見、革新がある」ということでしょう。それが物理からあるいはバイオから来るのかはわかりませんが、AIや量子コンピューターというものとは異なりそうです。

 

□予言とは何か

ここで、シュタイナーの言った未来予測、あるいは予言というものの性質について補足を加えたいと思います。

 

シュタイナーが言うには、予言とは、未来の事実が当てることの方に本質はないそうです。

ではどこに本質があるかといえば、予言が、「その人の意思を燃え上がらせる」ものを与えることにこそあるそうです。

 

ですから、今回の記事の予測、予言に関しても、このような話がある、ということで何らかのインスピレーションをもたらす可能性があるので、紹介しようと思った次第です。

 

□シュタイナーに関する補足

シュタイナーという人物の補足として、シュタイナーはアリストテレスデカルト、カント、ヘーゲル、といった西洋の哲学者をよく研究し、そして特にゲーテを研究していました。

 

シュタイナー全集やいくつかの著作を読めばわかるのですが、シュタイナーという人物は徹底した思考の人であるように思います。

よくシュタイナーといえばオカルトの方のイメージを持ってくる人もいますが、シュタイナーはオカルトの世界こそ数学的だとまで言っています。

 

ですからシュタイナーの言っていることを理解しようと思うときは、彼自身が思考に思考を重ねてその結論に辿り着いたはずだ、という仮説を持って臨むことが肝心であるように思います。

 

シュタイナーの言うことは、とても珍しく面白いものが多いです。

例えば、エーテルなど、日本では漫画アニメで聞くような話をします。

 

ですが、シュタイナーの思考の末に辿り着いた結論を、表象的な理解、すなわち、「シュタイナーが言っていたから」、という次元にとどめていては、その知識は生きたものにはなりません。自身で考え、理解した知識ではないからです。

 

むしろ、そうした理解のないまま、シュタイナーの言うことを右から左に流すことで、シュタイナー自身の捉え方に大きな誤解が生じている、と言っても過言ではありません。

 

これはシュタイナーに限った話ではなく、神秘、オカルト、あるいは科学や哲学といった領域において、人が言っていることをそのまま受け取るのではなく、思考の渦に晒してあげることが良いのだと思います。

 

今回の3大テクノロジーも一見すると訳のわからないものばかりだと思います。

ですが、なぜこのようなことが言えるのか?という疑問、思考から入ることで、真にシュタイナーの言うことを理解できる人も現れるかもしれません。

 

□テクノロジーの未来

シュタイナーはそう遠くない未来に、科学技術、テクノロジーが限界に達し、崩壊することも予言しています。

 

個人的にこの話は感覚的に納得できます。我々の日常をみるとそう思えます。

例えば、地球の反対側の人間と話し、パソコンで映画まで見られるような時代になっています。これはものすごいことだと思います。

 

しかし一方で、人の悩みやストレスは絶えません。

また日本ではそこまでテクノロジーが発達しても、いまだにデジタルにできることをアナログのままであったりします。

他にも、食糧危機を言いながら大量食料廃棄もあれば、金持ちの数が増えても貧困の問題は解決できていません。

 

ここに大きなテクノロジーと人間社会の実際との間にギャップが感じられます。

飛行機を飛ばせるのに、機嫌の悪い上司の問題はお手上げといった状況は、冷静に考えると、何かに途轍もないギャップがあるように思います。

 

これは

・人間がテクノロジーを使いこなせていない

・そもそもテクノロジーで解決できない問題が存在する

・何でもテクノロジーが良い、デジタル化すれば良いということではない

など複数の要因があると思います。

 

内面世界のイノベーションでも述べましたが、

https://itseiji.hatenablog.com/entry/2022/02/18/192520

 

これまでは、未来はテクノロジーの発展とともにありましたが、

これからは、未来はテクノロジーの発展とともにあるのではなく、

未来は人の成長と人間の理解と共に歩んでいくのではないでしょうか

 

テクノロジーをハードウェア、人をソフトウェアとすると、

例えるなら最新型のiPhoneにwindows94を搭載しているのが現代で、ここから少しずつOSが改善されていく、そのような時代になるのではないでしょうか。