天才という言葉は曖昧に過ぎる。
もう少し分解を試みたいと思う。
誰もが天才と言われ、思い浮かべる人物の1人にレオナルド・ダ・ヴィンチがいる。
彼がなぜ天才と呼ばれるのか?
それは「モナリザ」や「最後の晩餐」などに代表されるルネサンスを代表する絵画作品を残しただけでなく、多くの科学的、洞察に富んだスケッチを残し、一介の画家に収まらない幅広い才能を示していたからだろう。
しかし、ここで一つの疑問が浮かび上がる。
レオナルド・ダ・ヴィンチは画家なのか?と。
彼のことを画家だと認識している人間は当時も、今日もどれだけいるのだろうか。
そして、画家としては同じ時代のラファエロ、彫刻家としてはミケランジェロの方が思い浮かぶのではないか。
レオナルド・ダ・ヴィンチは「天才」であっても、画家としてはラファエロに、彫刻の世界ではミケランジェロに及ばないのではないだろうか、と。
それは天才という言葉の曖昧さの問題でもあり、天才とは身体的な技術に由来するものと、そうでないもの、その二つに分解すると様々な天才を理解する助けになる。
まず、身体的、技術的なものに由来する天才とは実は一つの才しかありえないことに気づく。
例えば、モーツァルトは誰もが思いつく天才的なピアニストではあるが、そのモーツァルトが同じように、テニスやクリケット、はたまた料理で同じような才能を発揮した、という逸話はない。せいぜいが、作曲、音楽に関連するエピソードくらいである。
これはあらゆる身体的、技術的なものに由来する技能に集中と時間が必要なことに由来する。
例えば、一流のピアニストであっても、一日平均四時間ピアノの練習をしないと、腕が落ちるという話がある。それだけ毎日集中して、同じ時間を例えば他の楽器をやったとしても片手間になるか、腕が動かないのは想像するに難くない。
野球選手のイチローも、自身のスイングを維持するために、絶対に他のバットを持たないようにしていたという。一つの技術、一つの技能を選択し、極めるということはそれに他ならない。
ルネサンスの時代に話を戻すが、そうしたイチロー的な選択と集中がミケランジェロとラフェエロにはおそらくあったのだと思う。彼らは画家であり彫刻家であり、それ以上を求めなかった。ゆえにこの2人は身体的、技術的なもの、主に反復的な動作に由来する、天才ということになる。
それに対して、レオナルド・ダ・ヴィンチは画家でもあり彫刻家でもあったが、それ以上に科学者であり哲学者であり、知識人であった。ある程度の、人並み以上の技能は持ち合わせても、それだけにとどまることはなかった。
歴史上、似たようなタイプの天才としては例えば、ライプニッツ、ゲーテ、シュタイナー、ノイマンなどが挙げられる。
彼らに共通するのは、天才と呼ばれていても、それは一つの身体的、技術的、反復的な動作に由来するタイプの天才ではない、ということである。
あらゆる学問や芸術の知識や洞察に優れていても、それは毎日の修練に依存するような天才性ではない天才たちである。
こちらのタイプの天才の特徴は、一つの技能を極めることをしない代わりに、多くの分野に優れた知見や洞察をもたらす、言い換えれば、頭脳的、クリエイティブな天才と呼ばれるもので、天才の性質が実は日々の生活からしても全く異なることが言える。
ちなみにアインシュタインは物理学、相対性理論に集中した頭脳型の天才と言えるか?それは頭脳型の天才と果たして呼んで良いかは、まだこれからの科学の発展にかかってきそうである。なぜなら、レオナルド・ダ・ヴィンチのような頭脳の幅の広さ、それがアインシュタインにはないからである。
アインシュタインはあくまで物理学の世界の人であって、それ以外の分野は手記など読んでも、政治的な意見など一般人のレベルと大差ない見解が多い。
それは多くの天才扱いされている人々に同じことが言える。
特に頭脳型の天才に多い。ある分野には詳しいが、他の分野にはさほど精通していない、というタイプである。フロイト、ケインズ、マルクスなどがおそらく該当する。
そして、技能型の天才にいま、真っ向から勝負を挑んでいるのが、他ならぬ大谷翔平である。
ピッチャーとバッターという異なる技能を同時に極めようとする彼は、その意味でも規格外である。
かつてマイケル・ジョーダンはバスケットと野球の両方に挑んだが、彼の身体能力を持ってしても、野球では大した成績は残せなかった。
音楽家でもピアニストと指揮者を両方やる人物はダニエル・バレンボイムを始めとして珍しくはないが、やはりどちらかが技術がそこまで求められないものになるか、両方で天才性を発揮するのは難しい。
だが、バッターとピッチャーをやることで相互作用がポジティブに働く場合、それは成り立ちうるかもしれない。
ここに一つの次世代の技能型の天才の片鱗が見える。
それは、極めて相互作用的な異なる二つの技能的な分野であれば、それは成立しうるかもしれない、ということである。
例えば、料理人と美容師は異なる職業だが、その本質的な動作に共通するものがあれば、両方を極めることが可能かもしれない。
そうした本質的な動作や身体能力をベースに相関を測ることができれば、全く今までにはない天才を生み出すことも可能かもしれない。
まとめると天才というものに関していくつか、論点を提示させてもらった
●天才は技能型と頭脳型に分かれる
●頭脳型の天才は幅広さを求められるのではないか
●身体の本質がわかれば、新しい技能型の天才を生み出せる可能性
ところでよく少年少女などに出てくる万能の主人公キャラのような設定は、学園もので、周囲が素人だから成り立つ設定である。
スポーツもできて勉強もできて、というのは周りが全員素人の世界であれば、少し家庭環境が整っていたり、身体能力が生まれつき備わっていればできるだけの話で、それがプロフェッショナルの世界に入ると全く通用しない。
よく地方では神童扱いされても、東大に行ってみたら周りもみんな神童で埋もれてしまうというのはこういうことであり、10代で神童、30代でただの人というのはこういう理屈である。