IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

解説と考察 実は難しくない「君たちはどう生きるか」を整理する

※以下本作品および他のジブリ作品の重大なネタバレを含みます※

 

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■前提を間違えている

わからない・難しい/わかる・深い

 

意見が二つに分かれて様々な考察が飛び交っている本作品ですが、

実は難しくもないし深くもない、ということが正直なところではないかと思いました。

 

まず、難しい、わからないと感じる方が多いのは

前提としておそらく、

「宮崎監督だから余程深いことを言いたいに違いない」

あるいは、

「宮崎監督はすごい人だから、わからないのは自分の理解が浅いからだ」

そのように思い込んでいるのではないでしょうか

 

つまり

「宮崎監督がすごいことを言っているはずだ」

という前提に立つから

「わからない」

という人が増え

「宮崎監督がそんな難しいことを言っていない」

という前提に立つ方が、わかりやすくなると思います。

 

 

■宮崎監督が言いたいこと

まず宮崎作品全体に流れるのは、彼の師匠でもある手塚治虫にも通じる

「生きる」いうテーマだと思います。

 

ナウシカラピュタもののけ姫、トトロ、ハウル千と千尋の神隠し紅の豚など

 

舞台は違っても「生きる」ということが全体の一つのベースのテーマになっています。

 

その上で、本作で宮崎監督が伝えたいことは、大きく二つかなと思います。

 

一つはタイトルにある「君たちはどう生きるか」これを考えてほしい。

これについては後ほどもう少し詳しく説明したいと思います。

 

もう一つは、ナウシカの時代から変わらない彼の人間の本質観みたいなものです。

 

それは

罪を犯す不完全な人間が懸命に生きる世界と

罪を全く犯さない人間が清く生きる世界と

どちらが人間としてが正しいか、というテーマです。

 

作品の最後のシーンで、主人公の真人が問われるシーンですね。

まさに真人はこのシーンで前者を選びます。

自分は嘘をついた、そういう清い世界の人間ではない、というわけですね。

 

これは漫画版ナウシカで、最後にナウシカが墓守達の前で選ぶ選択肢と全く同じです。

 

つまり、宮崎監督のセントラルモチーフはナウシカの頃から何も変わっていない、ということになります。

 

■なぜ宮崎作品は難しいと言われるのか

これは宮崎作品に限った話ではないと思いますが、映画やアニメで多くの人が難しい、と感じるのは本当に難しい作品は除くと、他に少なくとも三つの理由があると思います。

 

一つは、クリエイターは無意識なインスピレーションに身を委ねている場合があるということです。

つまり、なぜこれが良いのか、なぜこれを伝えたいのか、そういう理由は言語化できないが、どうしようもない衝動でそれを作る時です。

本人が無自覚なので、うまく言語化がないので、文脈や説明が本人もできないパターンです。

 

次に、クリエイターの意図として、明確にメッセージを打ちすぎることをあまり是としていないケースです。

例えば、本作も本当に君たちはどう生きるのか、という話を明確にすると単なる説教のようなものになってしまう可能性が高いです。

 

宮崎監督は

メッセージを全く打たないタイプなのか

メッセージをたまに入れるタイプなのか

メッセージを入れるけど、わざとわかりにくくするタイプなのか

いずれなのかというと、最後のメッセージを入れるけど、明確にしないタイプではないかと思われます。

 

以上二つは言い換えると、明確に伝えたいことを言語化していない、ということになるので、難しいと感じやすいわけです。

 

最後に本作は演出のディテールが細かいことが挙げられます。

例えば、なぜ真人を導くのはなぜアオサギで、なぜ母親が若い姿で現れるのか

こうした演出様々に細かな意図の一個一個の意味を追うと視聴者は大変難しく感じられると思います。

 

この辺は宮崎監督の主メッセージとは関係ない、と切り離して考えると理解がしやすくなると思います。

 

つまり、難しい、という理由を分解すると

①宮崎監督は深いことを言うという前提に立ちすぎている

②宮崎監督自身は伝えたいことはあるが、結構無自覚が多い

③あまり明確にメッセージを打たないようにしている

④演出ディテールの巧みさ、細かさ

 

この四つが合わさって難しいと感じる作品になっていると分析します。

 

旧約聖書の創世記の世界観

宮崎監督の、罪のない人間よりも罪のある人間、というモチーフの原型はおそらく旧約聖書の創世記だと思われます。

 

創世記で人間は元々罪がなかったのに、リンゴを食べて罪を負い、天国から追い出されるわけです。

 

ここで宮崎監督がナウシカ時代から度々コントラストしているのが、

もしリンゴを食べなければ、つまり人間が罪を犯さなければ、天国に入れたのに、と言う説に対して、明確にノーと言っているわけですね。

 

おそらく、宮崎監督の中では、罪を犯さないでずっと天国にいる人間よりも

一度罪を犯して天国を追い出された人間が、懸命に生きてより元の天国よりももっと良い世界を作ることができるんじゃないか

あるいは、「与えられた天国」と「勝ち取った天国」とどちらが良いと思う?

と言う問いかけにも見えます。

 

この辺は宮崎監督の無自覚領域で言語化不足のように感じました。

なぜ、後者の方が尊いのか、という説明が一切ないからです。

 

またこのモチーフ自体が深いか、と言われると、個人的には少し時代に合っていないような印象もあり、そうは感じなかったです。

 

■プロットを整理する

本作のプロットを整理することで、更にわかりやすくなります。

複数のプロットが交錯していることで、作品は深みが出ますが、整理しないと混乱します。

 

本作のメインプロットは以下になります

①子供と義母の和解

②真人のトラウマの克服

③宮崎監督の伝えたいこと

 

これらはそれぞれ関係しつつ違うものだと思った方が良いです。

③の宮崎監督の言いたいことは既に説明しましたが、真人の成長というテーマはその伝えたいテーマに関係はしても、彼の成長そのものは基本的にはありふれたものなので、特に目新しいものはないです。

 

まず、全体を流れる一つのメインプロットは、突然の母の死と母によく似た新しい義母と出会う少年の心理、というものです。

 

これは子供の立場に立ってみると衝撃的な話です。

しかも新しい母親が悪い人、あるいは父親も問題のあるような人間なら憎みようがあるけれど、父も新しい母もとても良い人たちなわけです。

 

真人自身も、そう言う両親の元に育っているので、とても礼儀正しく誠実な少年として描かれています。

 

誰も悪くない、でもいきなり母によく似た新しい人を母と呼ぶことはできない、その葛藤、それが素直な真人の心情で、それが最後はお母さん、と呼べるようになる、という話です。

 

なぜ和解できたのか、というところに本当の母が若い姿で現れたり、義母が行方不明になったりと、ディテールは複雑ですが、ストーリーの流れ自体は言ってしまえば親子の和解なので何も難しいものはないです。

 

次に真人のトラウマ、つまり母親を亡くしたことを如何に彼が乗り越えるかです。

 

彼がトラウマを持っていることは、冒頭で母親の火事の夢を見て泣いているシーンなどで表現されています。

 

少年の心の中には、色々と整理されない思いがあり、そのファンタジーなとこを膨らませると、ああいう世界観になるのもあると思います。

あの塔の中は真人の心情風景の可能性があります。

 

死とは何か、自分は母を助けられたのではないか、もしかしたら母は生きているのではないか、大人には考えられないことを子供はたくさん考えるわけです。

 

ですが、これもディテールの話であり、母の死を乗り越える、という点に関してはよくある物語といえます。

 

■ディテールを無視する

繰り返しになりますが、宮崎監督の主として言いたいことと、細かな演出、違う言い方をするとサブメッセージを切り分けて考えると一気に理解が進みます。

 

宮崎監督が一番言いたいことは、どう考えてもクライマックスの真人が選択するシーンです。

 

そのシーンとアオサギ、母、ペリカン、インコなどを色々関連づけようとすると、カオスになります。

 

そうではなく、主たるメッセージと演出、ディテール、サブメッセージとをわけ、それぞれが独立したものが織り込まれていると考えると良いです。

 

例えるなら、主たるメッセージは太い赤い糸で、他のディテールは細いそれぞれ色の違う糸、それらが織り込まれて一枚の織物が織られている、というイメージです。それぞれの糸があることで一つの作品ができていますが、解きほぐしていくとそれぞれの糸は別の糸なわけです。

 

 

■宮崎作品の面白さ

宮崎作品に関して、あまり言われていない宮崎作品の面白さ、特に今回は展開が読めない、直線的ではない構成が際立っていたように思います。

 

いきなり謎のインコ軍団が出てきたり、アオサギの中からおじさんが出てきて、しかも素性がよくわからないなど、全く謎でした。

 

この読ませない展開の繰り返しも、視聴者に難しいと感じさせた一種の要素のように思います。

 

しかしこれはメッセージ性というよりは、演出の問題で、常に予想外の展開、線形でない展開を描こう、としている作者の意図を感じつつも、作品自体の面白さを彩るもので、宮崎監督の言いたいことと直接関係がある要素ではないと思います。

 

一つ一つのディテールの中にメッセージがあるのでは?と思い込む可能性があるのも、この演出の巧みさによるのかもですが、ここにはそこまでのメッセージ性はない、と考えた方がスッキリすると思います。

 

ディテールにメッセージがある、つまり宮崎監督が何かものすごいメッセージを作品で伝えようとしている、という前提に立ってしまうと、このディテールの巧みさが余計に難しく感じさせるものになってしまうわけです。

 

ディテールの巧みさが、メッセージを理解するノイズになってしまっているとも言えます。

 

また宮崎監督は、明確なメッセージを送ることを是としないタイプのクリエイターなので、なぜアオサギなのか、なぜペリカンなのかなども、実はそこまでは深い意味をあえて持たせていないのではないか、という風に捉えた方が、納得感があります。

(ここは天気の子などの新海作品との違いとも言えます。)

 

そしてそういう演出の巧みさ、読ませない展開の面白さ、これは千と千尋の神隠しや、ハウルには見られる一方で、ラピュタもののけ姫は、それなりにストーリーが順を追っていけるので、元々作品の片鱗にはあったが、後期の作品でより宮崎監督は非線形の展開をより用いるようになったように感じました。

 

この心境の変化のようなものは、やはりクリエイターとしての表現の仕方が円熟してきたからであり、あそこまで展開を読ませない作り込みにこそ、宮崎監督の凄さがあるのではないかと思いました。

 

君たちはどう生きるか

 

これに関しては、多くの人が言うように、一人一人が考えて欲しい、ということではないかと思います。

 

あえて補足を加えるなら、宮崎監督としては、人間は与えられた幸福よりも、勝ち取った幸福を選ぶべきだ、ここまでは示したから、そこから先はわからなかったから、若い人に託す、というニュアンスも少し感じました。

 

ちょうど、真人のストーリーもそこで作中は終わります。

大叔父から後継者になることを断り、人間として荒波を生きていくことを選ぶわけですね。

 

また作品の中で君たちはどう生きるのか、ということを示すのではなく

作品全体を通して、見終わった後、あるいはその前に問題を投げかけることで、作品全体でその問いを視聴者に問いかけているのではないか

 

ここもタイトルと作品の中のディテールに、君たちはどう生きるか、という関連づけを探そうとすると沼にハマるところはないかと思います。

 

そうではなく、作品全体が前段であり、後のことは考えてね、よろしく、と受け取った方が、宮崎監督の後期の作品という位置付けから考えると納得感があるように思います。

 

これが、初期、前期の作品であれば、もっと隠れたメッセージとかの追求をしてもよかったのかもしれないので、どの時期の作品なのか、という点も考察する上では重要な要素のように思いました。

 

最後に、米津玄師のテーマソングですが、曲そのものは良いのかもしれませんが、割と露骨に感情に訴えるタイプの曲だったので、宮崎監督がメッセージを強く打ち出していない世界観とはマッチしない世界観の曲だと思いました。

 

この最後のコントラストが意図したものなのか、それともここだけは宮崎監督ではないクリエイターやプロデューサーの意向なのか、そこだけ確認をしてみたいところではあります。