IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

大衆とエスタブリッシュメントを再考する

いまの日本で最も話題性のあるような人物、例えばホリエモンやメンタリストDAIGOといった人間は、日本のエスタブリッシュメントからしてみたら、興味のない人々である。

 

しかし、100年経ったのちに、20世紀、21世紀にカルチャーを形成した人物として後世の人にもそう思われるのか、と思った時にふと浮かんだのが

 

19世紀20世紀のヨーロッパの音楽と芸術との関連である。

 

例えば、今の日本のエスタブリッシュ層でも、絵画であれば印象派、音楽であればモーツァルトくらいは知っているだろう。

 

しかし、当時、印象派といえば絵画で主流ではなくアメリカのMOMAが購入して値が上がったものであり、モーツァルトも自身は大衆向けに音楽を書いていたものが多い。

 

何が言いたいかというと、つまり、現在のエスタブリッシュメントは過去の大衆文化をあたかも、ハイソなもののように勘違いしていたら面白いと思った次第である。

 

つまり、100年後の日本のエスタブリッシュメントがいまの若者の間ではやっているようなポップカルチャーを貴族の嗜みのように耽っていて、そしていまのエスタブリッシュは100年前のポップカルチャーを賛美していたら、なかなかの喜劇であるということだ。

 

100年前の真にエスタブリッシュメントの間で流行ったことが、どれだけ現代に引き継がれているか、それを吟味する必要がある。

 

おそらく、それはほとんど表に出ていない、と考えるほうが真実に近いのではないだろうか。

 

もしくは、絵画やクラシック音楽の中でも、これはわかる人にはわかる、といった分類や、あるいはこの画家、この音楽家は大衆にも人気があったが、エスタブリッシュメントに好かれた、というものもあっただろう。

 

ほとんど表に出てこないもの、あるいはクラシック音楽の中で、モーツァルトの中で、どれがなぜ良いのか、それは自身にそれを見極める力が備わってないとわからない。

 

つきつめると、大衆とエスタブリッシュメントの差は、ショパン好きか嫌いかではない、なぜショパンが好きか嫌いか説明できることに尽きる。

 

例えば、大衆はカバンを買う時に、「ブランド」で買う。「ルイ・ビトン」という名前があるから買うのである。

これに対して、エスタブリッシュメントは同じビトンを買うにしても、そこにストーリーがある。そしてそこに買う理由(日持ちが良い、革の質が良い、作りが良い、アフターケアが良いなど)が備わってなければ、そのブランドのものは買わない。ブランド自体をそもそも大衆と違う視点でみている。

 

これは成金=大衆と置き換えても同じである。

成金がよく真の富裕層に揶揄されるのは、表面的でモノの価値を知らないにもかかわらず、お金にモノを言わせてなんでも手に入れるからである。

 

この分類は今まで、あまり言語化されていなかったものである。

つまり、大衆とエスタブリッシュメントを分ける本質的な境界線は

家柄でも学歴でも、お金でもなく、ストーリーである。

 

ストーリー、つまり、なぜそれをするのか、が説明できること

これはセンスや思考力、自己認識といったもののほうが比重がおかれる。

 

つまり、大衆がエスタブリッシュメントになりたいと思うなら(エスタブリッシュメントになりたい、という動機自体が大衆的だが)必要なのは、お金でもタイトルでもなく、センスや思考力を身につけるべき、ということだ。

 

実際、驚くほど、富裕層は一つ一つ細かいことにまで造詣が深いことが多い。

生まれ持ってそういう環境で育っている人もあるだろうが、センスや思考力があるから、後天的にエスタブリッシュメントになっている人も少なからずいるのはそのためだろう。

 

芸術について考えてみる

職業アーティストではない自分がアート、芸術について考えてみた。

 

芸術を語る時にしばしば、「斬新さ」が問われるような気がした。

 

人が思いつかないもの、新しいもの、驚きや意外性を持ってアートとは評価をされるもののような気がした。

 

人と同じものを作っても模倣であり、ありきたりなものを作ってもそれはなんらかのアウトプットであってもアートとは呼ばれない。

 

一つ料理の世界で考えてみる。

 

料理において、肉をどんなに美味しく焼いても、それを芸術と呼んで名をつけることは難しい。

 

その器に関してもそうである。

 

肉というものを、テーブルにサーブする時に、「肉」という固体の「色」や「形」そしてテーブルという「機能」の範囲の中で、自然に器は決まってくる。

 

機能が、そのモノの在り方を制約する。

 

例えば、肉が液体であったら、コップに入れてサーブをすることもできるし、肉がお菓子のように鮮やかな色合いを持っている食べ物であれば、その鮮やかさに負けない器の色も使うことができる。

 

芸術、アートとは、このモノが持つ機能との対話のようなものである、と感じた。

 

美味しい肉、というものを最も良い状態で、見栄えが良くサーブすることを考えた時に、その選択肢は自然と決まり、デザインに導かれていく。

 

これを芸術的にしようとするのであれば、その機能そのものに挑戦することになる。

 

単なる、意外性を持ちうるには、その肉の持っている本質の一つ、

つまり、「美味しい肉をサーブする」というものを破壊してみせることで表現できる。

 

例えば、肉を液体化してジュースのようにしてしまうことや、跡形もなく分解して、着色し、全く違うキャンディのような食べ物に変えてしまうこともできる。

 

器という機能も同じだ。肉のサイズ、テーブルのサイズを無視し、テーブルよりも大きな皿で、肉とは不釣り合いな煌びやかな色の器でサーブをされた絵を写真に撮って、「これはアートだ」と言われれば、確かにそれっぽくは見える。

 

そして、肉を食べ物、人間の栄養、という機能だけを本質とするなら、器も肉を置くだけのもの、とするならば、その機能はなんら失われていない。

 

一方で失われるものがある。それは、肉を焼いたときの香ばしさ、色、歯ごたえ、食感、それによってもたらされる幸福感といったものだ。

 

肉にまつわる、「侘び寂び」のような風情、文化的なものは原型を破壊することで、味わえなくなる。

 

これは住宅や衣服でも同じことが言える。

 

住宅を単なるシェルターだと言えば、どのような狭く殺風景な家でも、家と呼ぶことができ、衣服も身を覆い寒さを凌げれば衣服と呼べるなら、衣服と呼ぶ。

 

衣食住、それぞれが持っている本質的な機能というものは、ある意味、誰もがわかっている。その本質がもたらす、モノ自体が持っているものに導かれた結論というものを、芸術家、アーティストというものは破壊しにかかる。

 

ある意味、予定調和と思われるような、機能の制約によって決まってしまうデザインを、神の作り出した制約のように彼らは感じるのだろう。

 

しかし、その破壊した本質は「形」であれ「色」であれ、その破壊の仕方にもパターンがあることに気づき、それであれば、とモノの持つ本質的な機能を破壊し尽くし、それを「アート」と呼び、そうしたことに疎い人間に売ることも発明された。

 

普通のキャンディの何十倍の値段をするキャンディのようになった肉を見て、アートと呼ぶか、普通のキャンディを食べたほうが良いと思うかが、個人の感性に委ねられてしまう。

 

「斬新さ」と言えば、聞こえは良いが、斬新さが宗教となってしまうと、門外漢の人間には最早理解のできない世界観になって行く。

 

肉、というものの本質を崩さずに、サーブすることがなぜアートでない、となるのか?

 

例えば、これを肉とワインのマリアージュ、出されたときの部屋の温度、サーブした人間の持つ空気感など、最高の肉を出すために努力する箇所は無数にある。

 

器についても、その肉の色や香りを引き立て、あるいは食べやすくするための余白が存在するのは確かである。

 

レストラン、ミシュランを取るような店というのは、そのような「肉の本質」を損ねないまま、最高のものを提供する努力をする。

 

それは家であれば居心地の良さ、衣服であれば着心地の良さでも言える。

そういったモノが、言うほど現代に溢れているだろうか?

 

本当に居心地の良い家、住む人のことを考え、設計された家が今の日本にどれだけあるのだろうか?

 

芸術家、アーティストたちが「退屈」で「斬新さがない」と切り捨ててしまった領域にどれくらいの余地と可能性があるのだろうか。

 

ある意味において、アーティストは生活のために、門外漢でも、「斬新」とわかるようなものを作らざるを得なかったかもしれない。

 

例えば、質の良い肉はただ焼いて塩をかけるだけでも美味しい。

その部屋の温度や、器にいくら時間とお金をかけても、そのアーティストにしかわからない差を、門外漢は、普通は理解することはできないからだ。

 

その意味で、アーティストを「斬新さ」に走らせたのは、多くの門外漢であり、素人たちなのかもしれない。

 

アーティストが大衆に合わせた時、文化は失われる。

それは「斬新さ」という宗教を追い求めることによって。

 

一方でスティーブ・ジョブズのように、自身の持つ斬新さとモノの本質、そして大衆のニーズを一致させられるアーティストも中には存在する。

 

iPhoneは電話という機能を引くのではなく、機能を「足す」ことによって

電話でありながら、電話の常識を変えてしまった。

 

ジョブズの行った革新に、一切の電話としての機能の損失はない。

 

電話という機能を破壊して、「これは新しい電話だ、これがアートだ」、と主張するような者たちには、iPhoneは単なるビジネスであり、アートとしては認められないだろう。

 

そもそも門外漢には、アーティストの言うことの違いなどわからない。

アーティストだと名乗り、売れていてメディアに露出していれば、立派なアーティストが誕生する。

 

本質を損ねず、表現したアーティストと、斬新さを追い求め、破壊し尽くしたアーティストとを、異なるアーティストとして見做さない。

 

それは両者を区別する単語が存在しないことからもうかがえる。

アーティスト、芸術という大きな単語で括られてしまって、もはやそこにある種の実態が存在しない。

 

これはあらゆる芸術に当てはまる。

 

大衆は芸術を区別し、芸術家は本質の中に大きな余白があることを再認識するタイミングが来ているのではないだろうか。

 

そして、芸術はアーティスト、専門家のものではなく、誰もが所有するものであり、それは文化であり、最も人間らしいものの一つではないか、そのように感じる。

○○を作ってみてわかった、なぜ日本はご飯が美味しいか

日本はよく「ご飯が美味しい」と言われるが、その理由はなぜかは不明であった。

 

「海に囲まれ山があるから」

「食文化があるから」

「日本人がグルメだから」

 

この辺の理由が上がるが、イタリアもフランスもそうだし、

日本だけの理由としてはイマイチ弱い。

 

そんな中、なぜ日本のご飯が美味しいか、

それがある料理を作ることで明らかになった。

 

その料理とは「ハンバーガー」である。

 

順を追って説明したいと思う。

 

まず、アメリカに住んでいた自分からすると、

日本のハンバーガーはまずい。いわゆる人気店とか行ったところで、

「食べられなくはない」くらいのレベルである。

 

だがしかし、初めてハンバーガーを自作してみてわかった。

日本で美味しいハンバーガーを食べようと思ったら、アメリカのレシピで自作したほうが、圧倒的に美味しいことに。

 

そしてこの事件がそのまま「なぜ日本のご飯が美味しいか」という謎を解き明かす鍵となった

 

同じようにアメリカでは美味しいのに、日本だとまずくて食べられないのが

「ピザ」と「ホットドッグ」だ。

基本的にアメリカはほとんどのもので日本よりも食は劣るのだが、ステーキ、ピザ、ホットドッグ、ハンバーガーだけは日本よりも遥かに美味しい。

 

チーズや牛肉が違うのもあるが、結局ポイントは

「家でその料理を作るか作らないか」にあることに気づいた。

 

基本的にアメリカ人は家では料理を作らない。

専業主婦のような文化がないため、大抵は冷凍食品で済ますことが多い。

たまに家で作るのがハンバーガーやホットドッグなのである。

 

つまり、家で美味しいハンバーガーが食べられるということは

外食してお金を出してまでハンバーガーを食べるときというのは、

・より美味しい

・より安い

・それ以外の何か特徴がある

大きくはこの3パターンに分かれる。

マクドナルドは2、3番目のパターンに当てはまる。

 

つまり、家で料理を作ると、それ以下のものは、外で食べるようなものでない、となるのだ。

 

これが日本の食が美味しい理由に繋がってくる。

もちろん、日本は美味しい食材が手に入る環境にも恵まれているが、

「家庭における料理のレベルが高い」ということが本質的な理由ではないだろうか。

 

日本の家庭では和洋中イタリアンといったバリエーションに富んだものが、家で食べることができる。

 

料理を作れる人はいなくても、コンビニや惣菜でも和洋中のバリエーションがごく当たり前のようにある。

 

アメリカ人は家では和食は作らない。当然和食の味がわからないから、アメリカで食べる和食は美味しくない。

 

同じように日本人は家ではハンバーガーを作らない。

だから、日本で食べるハンバーガーは美味しくない。

 

これはイタリアで食べるパスタが美味しいこと、中国で食べる点心が美味しいことにも繋がってくる。

 

家庭で料理を作り、その料理の水準が高ければ高いほど、外食のレベルが上がるのだ。

 

また、日本の寿司のように、回転寿司という安いラインと板前という高いラインが両方あることも、そのジャンルの料理のレベルを引き上げる。

 

なぜなら同じ寿司が食べられるなら、より美味しいものでないと、あるいは特別な付加価値がないと、高い方の店には行かないからである。

 

回転寿司レベルの寿司を出すが値段は倍する寿司屋には誰も行かないだろう。

 

なので、その国の料理のレベルを上げたいときは、その上げたいジャンルの料理を家で美味しいものを作れるようになってくると、レベルアップしていくことになる。

 

日本でもアメリカ人やオーストラリア人が納得するピザやハンバーガーを食べられるようにするには、ピザやハンバーガーを作る家庭を増やすことなのだ。

Netflixドラマ「ビリオンズ」に見る新しい経営のカタチ

Netflixのドラマ「ビリオンズ」はヘッジファンドと連邦検事との戦いの実話を元にしているドラマだ。

https://www.netflix.com/title/80067290

 

そしてモデルとなった投資家スティーブ・コーエンは未だに現役というのも興味深い。

(普通こういうドラマは、引退した後とかで作られるものなのに)

 

ビリオンズのドラマの内容自体の面白さは、ここでは割愛するとして

興味深いと思ったのが、ボビー・アクセルロッド(アックス)率いるAXEキャピタルの経営システムが、これまでの経営システムと大きく異なる点だ。

 

AXEキャピタルは

アックス(CEO)

ワグズ(COO)

ウェンディ(人材コーチ)

 

という役員構図なのだ。

 

例えば普通の企業、大企業であれば

CEO、CFO、COO、CTO

代表取締役、取締役、執行役

などといった肩書きが並ぶ

 

あるいはベンチャーで3人役員であれば

CEO、CTO、COOのパターンが多い。

 

AXEキャピタルはIT企業ではなく、ヘッジファンドなので、CTOは要らないかもしれないが、それにしても今までにない構図である。

 

CEOであるアックスとCOOのワグズの業務は従来のものとさほど変わらない。

アックスはリーダーであり、最高意思決定責任者であり、彼がヘッジファンド一の稼ぎ頭で、彼に並ぶものはいない。

 

COOのワグズはそんなアックスの無茶ぶりを淡々とこなす。なんでもやるところが実にCOOっぽい。

 

そして優秀だがムラのあるトレーダーたちをコントロールするのが、ウェンディの役割である。パフォーマンスが落ちたトレーダーを回復させ、やる気のない人間に火をつけ、組織の中のいざこざをコーチングで導き、巧みに取り除いて行く。アックスやワグズでさえ、彼女の意見を仰ぐ。ある意味、陰のCEOであり、経営者でもある。しかし、ウェンディの経営スタイルは、従来型の経営者ではない。

 

従来型の経営者のやることはCOOのワグズに近い。プロジェクトマネージメントであり、CEOと社員との間に立つような位置付けである。

 

それに対して、ウェンディはどこまでもHR領域で、人間のインサイトによって、人間のパフォーマンスを高めることに特化している。

しかし、本来であれば経営は人を扱うことであり、ウェンディを経営のプロというのは、本来の意味に近いようにも見える。

 

これは起業、経営の黄金比率ともいうべき

イノベーター(アックス)

パートナー(ワグズ)

メンター(ウェンディ)

 

という構図も持っている。

しかし、これまではメンターというものは概して、社外に存在するものだ。

例えば、社長のメンターが社内にいる企業。あるいは、人材コーチが社内にいる企業を見たことあるだろうか?

 

従来型の企業はこれらの機能は、社外とされてきた。

この点においても、全然違うのだ。

 

もちろん、ヘッジファンドという一人一人が独立性を持ち、彼らのパフォーマンスをあげることが重要である業態であるから、この形態が成り立つ可能性もある。

 

しかし、一人一人の性格や才能を的確に捉え、組織を一つの目標に向かって整えるのは、本来は必要な機能ではないだろうか。

 

これまでの経営組織は言ってしまえば、プロジェクトに重きが置かれすぎていて、人間の才能やポテンシャル、組織の摩擦を取り除くことには鈍感になり過ぎてはいないだろうか?

 

人間の能力を最大限に発揮して、経営目標を達成するような組織であれば

むしろウェンディのようなHRのプロフェッショナルが経営陣に必要なのではないだろうか。

 

この点、日本におけるHRといえば人事採用、それも履歴書と職務経歴書のレビューとインタビュー機能に過ぎない。心理学のPhDやコーチングの能力を問われることはない。

 

つまり、人事の経験があることがいまの日本における、プロフェッショナルの意味であり、それは「人間のプロフェッショナル」ではない。

 

心理学やコーチングの知識がどこまで有用か、というところには議論の余地があるが、少なくともアメリカはその分野で進んでいるのはドラマの中からでも垣間見える。

 

整理するとAXEキャピタルは以下が全く新しい

 

・人間のプロフェッショナルをHRのトップに置く

・メンターやコーチといった機能を社外ではなく社内に置く

 

これは経営システムのイノベーションではないだろうか。

遊びの本質(後編)

さて、メンズは美女がどのような生活をしているのか、よく知っておくべきだ。

あなたが全力でアレンジした一回の高級ディナーは、美女にとって一回の食事にしか過ぎないという事実を。

 

だが、受け身の遊びに飽きた美女は別だ。というより、遊びを極めてより深い遊び、すなわち遊びを創造するクリエイターになった美女はさらなる楽しみを欲する。

 

クリエイターは歩くエンターテイナーにもなれる。

いつでも、自分という資源さえあれば、目の前の女性を楽しませることができる。

 

いわゆる「面白い人」がモテるのはこの話。

だから、お金があろうとなかろうと、顔がそこまでイケメンでなくても

モテる男はモテる。

 

結局、会話という中でエンターテイメントを提供できる人間は強い。

どこにいても、ただその人がいるだけで面白い、楽しい、というのは最強に近い。

 

もう一つ、遊びの面白さを仕事に見出す人もいる。

違う案件、違う分野、異なる文化、国の人と新しい仕事をする

それが何よりの刺激だと気づいてしまった人は、仕事と趣味が一体化し、生涯を通し、仕事がエンターテイメントとなる。

 

お金儲けも同じだ、使う楽しみよりも、稼ぐ面白さに気づいてしまうと、稼ぐことそのものがやめられなくなってくる。使い道がすでにないほどお金を持っていたとしても。

 

クリエイターでお金を稼ぎ、仕事を楽しみ、創造力を持って、お金を使える人こそ、遊びの達人と言えよう。

 

その人をむしろ不幸に、退屈にすることが難しいだろう。

何もなくても、その創造力を持って、多くの人以上の楽しみを実現してしまうだろう。

 

そして、感謝、生きることの価値や喜びを知っている人はそれ以上に幸福であり、更なる遊び、いや幸福の達人といえよう。

 

もはやその人には、お金も、楽しい会話ですら必要ない。生きているだけで、他人が汗をかき、考え、行動している以上の幸福をどこにいても、何をしても手にしているのだから。

 

そう、最大の幸福とは、実際は生きていることの素晴らしさを実感できることにあるのではないだろうか。

 

人は遊びの階段を駆け上がっていく

①生まれた時→生きることの喜び

②子供時代 →クリエイターの遊び

③大人   →お金を使った遊び、お金を稼ぐ遊び、仕事や社会貢献の楽しみ

 

そう、生まれた時に一番の遊びを、次に子供時代にクリエイターとしての遊びを覚える。そして大人になって、新しい遊びを覚え、今までの遊びを忘れてしまう。

 

大人になって、子供の時の遊びを、赤ん坊の生まれた時の喜びを、思い出せた人は幸いだ。人間の中でトップクリエイター、エンターテイメントの王様と呼ぶに相応しい。

 

そして、大人になって、遊ぶことを極めようとすると、子供に戻っていくのもまた面白い。

 

赤ん坊の時は、さすがに仕事の面白さなど通常知りっこない。

赤ん坊の時の喜びを、子供の時の楽しさを、そして大人になってからの人生の面白さを味わえるのは、大人でしかない。

 

そう、大人とはつまり、本来はクリエイターであり、遊びの王様なのだ。

大人にしか、全部は味わえっこない。

 

大人として人生を味わおう

子供の時のクリエイティブな精神を思い出そう

生まれた時に誰もが持っていた、生きているだけの喜びを感じよう

 

子供よりも人生を楽しめて、一人前の大人であると言えるように

クリエイターとして遊ぶ(中編)

クリエイターとは?

 

クリエイターは遊びに際限がない。

これまではコンサートホールに行き、一流のアーティストの演奏を聴くことが最高の楽しみ方であったはずが、自分が一流のアーティストとして、演奏をする楽しみがある。

「聴く楽しみ」に「演奏する楽しみ」「聴かせる楽しみ」がさらに追加される。

 

また、クリエイターはクリエイター同士で「コラボする楽しみ」もある。

自身が最高のバイオリンの奏者であったら、最高の指揮者やピアニストと協奏することができる。

 

このまま音楽での例えを続けよう。

ただ演奏の楽しみが増えるだけではない。

素人よりも遥かに楽曲の理解が深く、楽しく、味わうことができる。

このフレーズの意味は、歴史的背景は、どんな演奏ができるのか。

 

全てにおいて一流であることはきっと不可能なことだろう。

しかし、クリエイターはその調子で、どんどん「遊べるネタ」を増やしていける。

 

「スポーツ」観るだけでなく、プレイする楽しみを得る

「料理」食べるだけでなく、作って食べてもらう喜び。新しいレシピを考える面白さ

「アート」自身の内面と向き合い表現する

 

クリエイターにまわった瞬間に、遊びは更に無限に広がって行く。

それは遊びの選択肢の変化でも一目瞭然である。

 

「美女」だけで味わえる、贅沢な遊びはまとめてしまうとこんなところだ

これは言い換えると「受け身」で楽しめる遊びになる。

・美味しいご飯やお酒を味わえる

・一流のエンタメを鑑賞できる

・贅沢な空間に行ける

・綺麗な服を着られる

・有名人と会って、面白い話が聞ける

 

もちろん美味しいご飯やお酒の中で、選択肢はあるが

「食べる」「飲む」というアクション自体に変化はない。

 

これが、クリエイターに回るとアクションが格段に増える。つまり、「遊び」の幅、人生の楽しみがグッと拡がる。

演奏する、踊る、歌う、服を作る、建物をデザインする、詩を書く、異業種とコラボをする、小説を書く、体を動かす、田畑を耕す、研究をする

など

 

また、お金、人脈、時間があれば、例えば「急にスポーツカーを買って温泉に行く」とかもできる。確かに一見ロマンチックで刺激的かもしれないが、実はそれもアクションパターンが限られている。

 

「お金」、「人脈」、「時間」は確かに、「遊び」の幅を格段に広げてくれる。

それが、メンズが美女をもてなす基本でもある。

しかし、それだけではパターンはこんな感じである。

・「急に」どこかに行ける、サプライズパターン(今から飛行機でハワイなど)

・お金がないといけない場所にける(自家用ヘリで夜景など)

・いきなり贅沢な買い物(マンションやレストランをその場で買うなど)

 

結局のところ、「買い物をすること」や「旅行に行くこと」自体に変化はない。

サプライズも、良いサプライズはメンズの演出力の方が大きいだろう。

 

これらのパターンは、最初は刺激的だが、何回もやると飽きてしまう代物だ。

例えば、いきなりマンションを買いだすのは面白いが、何回もそれを見せられると、それは当たり前になって飽きてしまう。

 

結局、「旅行に行っているだけ」「買い物をしているだけ」に気づいてしまうからだ。

 

毎年の恋人からのサプライズが飽きないのは、好きな人から、それも工夫を凝らしてやられるから飽きないのではないだろうか(もちろんそこに財力が加われば最強のサプライズにはなる)

 

その演習力もクリエイターの才能だ。サプライズをどう毎回変化させるか、それはお金よりもセンスが大事になってくる。

 

そして、知的な好奇心、何にでも、あるいは誰にでも関心を持つと、遊びは無限に広がって行く。

恋愛も、恋愛ではなく、人に関心を持ち出す人は永遠にやめられないようだ。

 

クリエイターになれば、お金で味わえる以上の楽しみを味わえるかもしれない

遊びを創造する側になろう

世界を遊び場にしよう

美女は一体どこまで遊べるのか(前編)

若く、美人でスタイルもいい。そんな20代前半女性が東京という街で果たしてどこまで遊べるのか、楽しめるのか。

 

・毎日飲み会は当たり前

誘いは毎日。気が合う友達と、知らない有名人やタレントと。ワインも年代物からシャンパンタワー、クラブや高級マンションで朝まで騒げる

 

・仕事はなんでもいい

仕事はなんでもいい。大学生でも、無職でもいい。ただし、モデルやネイリストなど、何かしら肩書き、仕事がある方が好まれる。

ただし、美人なだけでは好かれない。そして性格の良さや、社会的にちゃんとしている方が、質の高い飲み会に誘われやすい。

 

・高級レストランは一通り

都内の寿司、焼肉、有名店、予約の取れない店、ミシュラン店は一通り体験済み。新しい噂のお店ができたら、誰かが誘ってくれる。

 

・洋服は自腹

ブランド品はプレゼントされることもあるが、基本は自腹。似合う服は自分で選ぶ。ただし、知り合いから特別に安くしてもらって購入は可能。

 

・自分でも稼げる

東京で女性が羨むような生活を送っていると、SNSのフォロワー数は伸びていく。元々美人でフォロワーも多い。いつしか、それだけで収入が入るようになる。

 

(東京で20代前半の美女が体験できる遊びまとめ)

・クラブのVIPで朝まで飲み会

・セレブ、有名人、野球選手などと毎日、日替わり飲み会、パーティー

・高級ホテル宿泊、旅行

・有名店、ミシュラン三つ星レストランなど総なめ

・高級マンション飲み会巡り

・普通取れないスポーツやコンサートへの招待

 

一通り、遊び終わったら、結婚するか、このままの生活を続けるか、それとも更に上を目指すか。そう、上には上がいる、世界のセレブはこれ以上の遊びがある。

 

20代前半の海外のセレブ美女はどこまで遊べるのか?

 

・プライベートジェット、ヨット

東京にはないもの。地中海やカリブ海ではダイビングや、贅沢なプライベート空間を味わえる。

 

・超豪華ゲスト

友人が世界的に有名なスーパースターの場合、パーティーに呼ぶのは難しいことではない。

 

・自分でも更に稼げる

世界的に有名な美女になれば、フォロワー数は一桁も二桁も違う。それに伴い、仕事や収入は更に上がる。

 

・英語は必須

いくら美女でもこればかりは仕方ない

 

(世界のセレブ美女が体験できる遊びまとめ)

・プライベートジェット、ヨットで旅行

・普通の人は入れない場所へのエスコート

・世界のセレブリティたちとパーティー

 

東京の美女から、世界のセレブ美女になると、一体どんな得があるのだろうか?

・他の日本美女には味わえないような、グローバルな人脈と体験(優越感)

・結婚相手、パートナー選びが国籍を超えて拡大

・自分の収入、影響力がアップ

 

ただし、エンタメの選択肢はそこまで増えることはない。

なぜなら、東京がすでに世界屈指のエンタメ都市だから。

東京のクラブでシャンパンを飲むことと、ニューヨークのクラブでシャンパンを飲むことにそこまで差はない。

少なくとも田舎のバーで地元の人とビールを飲むのと、六本木のクラブでセレブに囲まれてシャンパンを飲むほどの差はないだろう。

 

更なる上を目指す?次のステップ、そこは人生の分かれ道でもある。

 

・退廃的になる

これ以上の快楽を目指すには、薬物など、常識やモラルなどの枠を超えていくしかない。犯罪を犯す。その結果はもちろんお察しの通り。

 

・与える側にまわる

自分で稼ぎ、人脈や影響力を活かして社会貢献活動などをする。海外のセレブリティはこのパターンが増えている

 

・落ち着く

人生の快楽を味わい尽くし、最後は家庭や平和といったところに本当の幸せを見出して行く。快楽のプロセスが必要だったのか、それは一つのテーマである。

 

・クリエイターになる

これまでの遊びは、与えられた遊びにすぎない。

遊びを創造する側にまわるのだ。

 

中編に続く