IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

薬屋のひとりごと 今日本人が気づくべきこと

本作品のあらすじは、人攫いに遭って宮廷に売り飛ばされた薬屋の少女が、宮廷内で毒見役として徐々に頭角を現していくストーリーになっている。

 

設定だけを聞くと、相当重いように聞こえるが、実際観てみるとラブコメの要素ありの全体的に明るく描かれている作品である。

 

このアニメには実は日本人が気づくべき本質が詰まっているが、言われてみないと気が付かないと思ったので、解説を試みる。

 

主人公の猫猫(これでマオマオと読む)は薬屋であり、設定で強化されているが、毒が大好きなのである。

 

通常、毒味と言えば、いつ主君の代わりに命を落としてもおかしくない、現代では認められない、誰もが就きたくない仕事のはずである。

 

そのような仕事だが、薬屋であり、毒が大好きっ子の猫猫は喜んで毒を飲みに行く。

 

猫猫は全体的に明るい。

だが、宮廷に売り飛ばされる前も、足の不自由な父親と貧しい暮らしで、娼館の世話になり、わざと化粧で顔を醜女にしないと売り飛ばされるような治安の街に住んでいる。

 

これも設定だけ聞くとだいぶ陰鬱だが、当の猫猫は宮廷も自分の育った荒れた環境もたいして変わらない、と言って宮廷から出られるようになった後も、割と自由に行き来をする。

 

おそらく多くの日本人が最初に思うのは、猫猫可愛そうで、その後すぐに、その気持ちが薄れていく、それが本作の視聴者の心境の流れではないかと思う。

 

ここに重要な示唆が含まれていると思う。

 

まず、毒味役という危険かつ誰もがやりたくない仕事も、それが天職であるような人間にとっては、そうではない、ということである。

 

作中、猫猫は何度も毒をすするが、プロなので、どれくらい飲んだら大丈夫かを見極めて毒を味わう(さらに言えば毒の耐性があり、あまり効かない)

従って、リスクもあまりない。

 

これは別の職業で言えば、心底戦闘が好きな軍人にとって、戦闘や戦争が苦にならないのと同じである。

 

ただし、それらは一般の人、あるいは適性のない仕事を強制的にさせられている人からすれば、苦痛以外の何者でもないわけである。

 

戦争が嫌いな平和的な人を無理やり徴兵して、戦場に送り込むのは、どう考えても人道に反している。

 

つまり、多くの日本人が最初猫猫に同情してしまうのは、猫猫が毒見役が天職であることを知らないからで、それに気づくと、なんだと思うわけである。

 

だがここに、多くの日本人の現実も詰まっているように思う。

まず、多くの日本人がいま、仕事を天職でしてはいないではないかということである。

 

猫猫に最初同情するのは、自分たちと同じように奴隷のようにやりたくない仕事をさせられているから、だから共感をする。

そして実際は違うから、なんだとなる。

 

日本人は共感や同情が強い文化を持っている。欧米人や他のアジア人に比べても、かなり情緒的な民族であるように見える。

 

だが、共感の前提が常に自分目線になっていることに問題がある。

 

例えば、もし猫猫が現実にいたら、多くの人々が嘆願書のようなものを出し、可哀想だ、と言い、おそらく寄付も募り彼女に毒を飲ませないようにしよう、などというキャンペーンがなされることだろう。

 

だが当の猫猫は、毒見役は天職であり、むしろそんなことをしたら傍迷惑に違いない。

 

つまり、本人は天職、好きでやっているという意思確認もせず、自分の目線だけで勝手に可哀想と思い込み、善意の押し付けをする。

 

例えば、ウクライナ千羽鶴を送るような行為も、日本人のこうした情緒的で、中途半端な共感から出ているように思う。

 

相手の立場に立って共感はできるが、いつも自分目線で共感が中途半端なのだ。

自己満足的なボランティア、相手が本当に必要なのか喜んでくれているか、ではなく、なんとなく自分が良いことをした、という気分になるだけのものが生まれるのもこのためだろう。

 

そしてこの同情の根底の問題は、まず多くの人が天職、自分の好きな仕事、やりたい仕事に就いていないということが本質的な根幹にあるのではないだろうか。

 

また同時に、日本、あるいは世界全体の問題として多くの人が天職ではない仕事に無理やり、主に経済上の理由から就かされていて、かつ天職に就かせるという概念が社会から欠如してしまっていることにあるのではないか。

 

毒見役でも軍人であろうと、天職であれば楽しんでやれる。

作中では娼館の娼婦たちも比較的明るく描かれている。

 

だが、無理やり、強制的にそれらの仕事をさせられている人にとっては地獄である。

 

天職か否かが、その人の人生を天国にも地獄にも変えうる。

 

あるいは猫猫の明るさは気の持ちよう、マインドセットによることかもしれない。

 

しかしそれは、天職であるから他の人からすれば過酷な環境も楽しく過ごせるだけで、例えば猫猫に武官をやらせようとしたら、おそらく気が滅入るに違いない。

 

なんでも気の持ちようというのはやや暴論であり、やはり天職であるか否か、それが天国と地獄を分ける境目なのではないだろうか。

 

天職とはなかなか面白いもので、全く人によって価値観が異なるのである。

例えば、誰もが羨むプリンセスとして生まれても飛び出す人もいれば、ドロドロした王族皇族に進んで入りたがる一般女性もいる。

 

売り飛ばされた毒見役とは逆で、温室で生まれたプリンセスでさえ、天職でなければそれは苦痛になりうるということである。

 

日本人が共感をする上で、いま一歩なのが、こうした相手にとって、人によって心情が異なる、という個別性にまで想像が届かないまま、自分目線の同情でやったつもりになっているのが勿体無いということ

 

そして、天職という概念があれば、実は世界観が逆転しうること

 

これらのことは今の日本人が気づくべきことで、実は鮮烈なメッセージを有している作品ではないだろうか。