IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

成田悠輔が最強の理由

成田悠輔が最強なのは、アンチの沸きづらさにある。

それは他のタレント、YouTuberと比較するとよくわかる。

例えば
○メンタリストDAIGO
→そもそもメンタリストてなに

ホリエモン
→どうせ金儲け、悪い奴

○ヒカル
→なんの仕事してるかわからない、胡散臭い

ひろゆき
→専門家でないし、2ちゃんねるとか悪い

といった具合に、なにかを発見してもいくらでも揚げ足も取れれば、イチャモンもつけることができてしまう。

これに対して成田悠輔の肩書き、および経歴は
東大首席、イェール大学の助教授である。

×仕事批判
×学歴批判
×胡散臭い批判
×専門家批判
×成功してない批判(お金がない批判)
×社会的な地位批判

プラス、日本人はアメリカが上という洗脳を施されてるので、アメリカボーナスもついてくる。

日本人はイェール大学、ハーバード大学。あるいはシリコンバレー、ニューヨーク、ペンタゴンマッキンゼー、イーロンマスク、とかに非常に弱い。

 

また、学歴などを盾に中身のないことを言いつつ、他の人がまともなことを言うと潰しにかかる以下のような層も、成田悠輔に関してはイチャモンをつけることが難しい。

○東大生など知的エリート

→学歴は俺らより下、とヒカルとかなら見下せる

but

→成田悠輔の方が大体学歴が上

 

○御用学者

→所詮素人と、ひろゆきとかなら見下せる

but

→成田悠輔の方が大体経歴が上

 

したがって他の人が正しいことを言っても、大体いちゃもんつけられて潰されてしまうが、成田悠輔に関しては日本人が1番イチャモンをつけられないゾーンにいる。

これは、成田悠輔は間違ったことを言わない限り、ほぼ彼の言う通りに物事が進む、ということも意味する。

彼が致命的な失言をしない限り、暫くは彼を中心に日本が動きそうである。

 

日本に世界の文化的中心都市を

□世界の中心都市は西へ移動する

まずこの話は中東から始まり、世界の中心都市が徐々に西へ西へ、と移動しているというフランスを代表する知識人、ジャック・アタリの説をベースにしている。事実、シュメルから始まり、世界の中心は西に移動し続けている。

 

アタリによれば、いまの世界の中心都市はサンフランシスコだが、既にサンフランシスコはITバブルにより地価が高騰し、中心としては既に崩壊の兆しがあると言っても良いだろう。

 

そしてそこより西になるとハワイはないとして、香港、上海、そして東京辺りがとりあえずの候補となる。

 

□東京は既に世界都市

ここでもう少し、日本に世界都市ができる可能性がある根拠をもう少し述べておく。

 

まずシンプルに都市圏の広さである。東京都単体では1000万人でも、周辺の県を合わせると東京都市圏は3000万人規模と言われる。これだけの規模の都市圏は世界でもほぼ類を見ないサイズである。経済の規模的にも世界最大級の都市圏と言える。

 

次にそれだけのサイズにも関わらず、行き届いたインフラに治安の良さと、都市としてそれなりに高水準に機能していることである。

 

大阪も(あるいは日本のどこか他のところになるかもしれないが)京都という街全体が世界遺産のようなものを含んだ関西圏、という意味では東京とは違う角度の魅力を持っているといえよう。

 

つまり、既にポテンシャルとして世界都市であるのは間違いがなく、世界の「中心」都市となるためには、何が足りていないか、という状態ではあるのだ。

 

なので、何が東京あるいは大阪に不足しているか、という視点で考えて行く。

その前に、まずはここでは中心とは何か、という点についてまとめておく。

 

□世界の「中心」都市とは何か

 

まずここで世界の中心都市としている意味は、「文化」に関するものである。

 

例えば、世界の政治の中心はワシントンD.C、北京、あるいはブリュッセルかもしれないが、世界を動かすインパクトのある文化を生み出しているのは、シリコンバレーとその近くにハリウッドを備えたサンフランシスコである。

 

文化の中心とは、もっといえば、時代の最先端をいくような新しいものを排出することである。イノベーションとクリエーションが最も起こる都市、と言っても過言ではない。

 

現在日本、特に東京や大阪はその真逆に位置しているが、ポテンシャルがあるにもかかわらず、その様なのは、その認識が不足し、世界中心都市として足りないものが当然あるからである。

 

□東京や大阪、あるいは日本に足りないもの

それはこれまでのジャック・アタリが話している世界中心都市を考えれば、容易にイメージが湧く。それは、ベニス→アムステルダム→ロンドン→ニューヨーク→サンフランシスコである。

 

まず容易にイメージがつくのが、誰もが憧れるようなチャンスと刺激に満ちた都市であることには間違いないだろう。

 

世界中から夢を見た人を惹きつけるあるいは、多くのクリエイターやアーティストが憧れるような都市である。

 

この点まず、日本は東京も大阪も含めて、排他的だ。

ようやく国としてインバウンドとか言い始めたが、元が鎖国体質なので、開国したつもりでも全く世界の水準に到達していない。

 

仮に将来は伸びるかもしれないクリエイターがお金もなく日本に来ても、入国できない、仕事もない、そんな状態になりかねない。少なくとも外国人の受け入れに関して積極的とはいえない。

 

つまり、文化および法制度的に外国人、特にクリエイターや起業家が集まりやすいようにする必要性は大いにある。

 

むしろ実は世界中心都市の条件は、ほぼその一択に尽きると言っても過言ではない。

なぜなら優秀なイノベイターやクリエイターが日本にいれば、当然お金も集まる。

日本をシリコンバレーの二の舞にするのは馬鹿げているが、お金は人が集まれば自然についてくるので、お金を集めることは世界都市の条件にはならない。

 

□最高のクリエイター、イノベーターが一人いれば良い

イノベイターやクリエイターと言っても、実は最初は一人いれば良い。

 

シリコンバレーでも、最初はイーロン・マスクがいて、そこに集まってペイパルマフィアが生まれたように、イノベーターやクリエイターが同じイノベータたちを惹きつけるからだ。

 

その意味では、世界都市にするための具体的なアクションとしては、一人のスーパーイノベーター、あるいはクリエイターを日本で生み出すか、世界から招聘することにある。

 

もっと言えば、イーロン・マスクが望む条件を全て飲んで、日本でビジネスをしてもらえないかお願いすることも良いと思われる。

 

□なぜ中国ではないのか

もう一つ日本に有利なのは、上海や香港あるいは深センもポテンシャルはあるが、まだ中国という国は閉じられていることに問題がある。

 

流石にいつ、何の理由もなく逮捕されるかわからないような国には、まともな人は寄り付かない。治安以前に、人権を守ることが実は結構重要なのだ。

 

その点、カルロス・ゴーン事件などを見ていると、日本の人権侵害も酷いものだが、全世界で人権侵害が起きている中で、比較的にマシとは言えるだろう。

 

コロナにおける騒動も、他のどの国よりも実は民主主義が機能しているのではないかと思うわれる節さえある。

 

□あくまで欧米人や中国人から見た文化の異質さが重要

また現在のアメリカのサンフランシスコ、あるいはニューヨークは既に流行を過ぎている、というのも理由に挙げられる。

 

どのような都市であっても、人間は飽きてしまう。

クリエイターやアーティストと呼ばれる人種は特にそうだろう。彼らは常に新しい刺激、コンテンツを求める。

 

そして欧米人のクリエイターやアーティスト、あるいはイノベーターにとって、既にヨーロッパもアメリカも使い古されたコンテンツに過ぎない。あるいは、何の目新しさも感じない。

 

それに比べて、言語も違えば宗教観も含めて意味不明な日本に来たほうが、よほど刺激的である。

 

将来的には上海や香港になるかもしれないが、総合的に見て安全でよくわからないものがたくさんある日本て面白そうだよね、というのが世界から見た日本で、実はそれに気づいてないのは日本人だけなのではないかと思うときがある。

 

こういう話をすると、日本はガラパゴスで成長性もないし、 DXもサービス業も何もかも時代遅れじゃないかと思われるかもしれない。

 

ハッキリ言ってそんなものをイノベーターたちは求めていない。

 

例えが悪いかもしれないが、日本人がアフリカに観光に行くときに、お洒落なレストランやウォシュレットがあることを期待して行くのか、という話である。

もちろん、高級ホテルにはどちらも備わっているだろうが、だいたいの人がアフリカに行く目的は、日本にはない広大な大自然などの方ではないだろうか。

 

それと同じことがいまの欧米人にも言える。既にサンフランシスコやニューヨークにあるものを求めてなど、彼らはいない。

 

またここで重要なのは、世界の中心が未だアングロ・サクソンであり、あるいは最もお金を持っているのは欧米人か中国人だとすると、彼らから見たときの異質性こそが最も重要なのである。

 

そう考えると、彼らから見て最も異質なのが日本という国ではないだろうか。

言語も違う、思想もよくわからず、どこにもない食べ物や建物がある、刺激を求める人々にこんなに魅力的な場所はない。

 

そして日本人だけがわかっていないかもしれないが、日本という国は明確にアングロ・サクソン文化圏にいまは属している。

 

考えて見て欲しい。流石に異文化と言っても敵対している文化圏には流石にクリエイターは集まれない。異質と言っても全く言語が通じない、商取引の慣行が違う、などはやはり難しい。

 

先ほどのジャック・アタリのフローでもわかるように、ある程度の文化的な親和性は必要なのである。

 

繰り返しになるがその点で中国はない(台湾もいまは立場的に難しいだろう)インドも商慣習という点では異質で、タイのバンコクはまだ世界都市と言っても、それは観光都市の域を出ない。

 

欧米人から見て日本人は異質だが、同じアングロ・サクソン文化圏の中に存在する異質さだから良いのである。

 

□もう一つの世界中心都市の要素

世界の中心都市としての特徴の一つは「文化」の中心であること、そしてもう一つはこれまでの流れから見ていただければお分かりのように、「商業」の中心でもあることだ。

 

先ほども説明したようにクリエイター、イノベーターが集まればお金は集まるだろう。あとはそれに付随して現れるビジネスパーソンが如何にビジネスをしやすい環境であるか、というのが重要である。

 

その点、今の日本、東京は独自ルールや規制が多すぎる。

都市以外の規制は産業保護などの観点も考慮するとして、都市に関しては国際水準に合わせていく必要がある。

 

それも、どちらかといえば、中国ではなく、はっきりと欧米のスタンダードに寄せていく必要があるといえる。

 

ただし、その中でも日本の独自性をいくつかの点で打ち出す必要はある。

例えば本当に日本にイノベーターやクリエイター、そして資金が集まれば、シリコンバレーのようになるであろう。

 

ここでシリコンバレーの二の舞を繰り返してはならない。

それは地価が上がりすぎて、元々住んでいた人が住めなくなって出ていった、とう現象である。

この現象の再発は二重の意味で良くない。

一つは、サステイナブルの時代の世界最先端都市が、率先してサステイナブルでないことは、全く持って「イケてない」からだ。イケてない街に最先端の人は寄り付かない。

 

同じ理由で、一度失敗している例があるのに、また同じパターンをするのもイケてない。

ある意味、格好いい街づくり、世界の中での都市作りのセンスが求められることになる。

 

□日本人は欧米人から見たらピカチュウみたいなもの

とはいえ、こんなにシンプルにちょっと開国すれば世界中から人が集まる魅力を持っているにもかかわらず、それに気がつかずに永遠と自虐ネタを繰り返す日本はコントと言ってもいいだろう。

 

そして欧米人はよくわからない日本として、ますます面白がっているように感じる。

 

オリンピック世界の水準からはるかに遠い開会式も、きっと東洋の神秘として思っていてくれていることだろう。実際は単なる既得権益の作り出した時代遅れのアウトプットだとしても、全然違う文化のことはなぜか肯定的に見えるときは見えるものだ。

 

日本人は簡単にものすごくよくなれるのに、日本人だけが謎にそれが無理だと思い込んで、籠の中でグルグルと回り続けるハムスターのような愛されキャラとして、欧米人に見られている気もする。要するに日本人は、欧米人にとってはもはやピカチュウそのものなのである。

 

一方で、特にアメリカ、カナダ、オーストラリアみたいな国はもはや民主主義と資本主義の末期のような状態で、トランプのような強力な破壊者が現れない限り、変わることができない状態である。

 

それに比べて日本は、ちょっと国民と政治家の意識が変われば、良いだけである。つまりある意味、日本人が良くなるのに、大きな変革を必要としない。

 

そしてそのもはや末期となった欧米の都市、そしてまだ世界都市にはなれない中国の都市、その間を埋めるのは日本しか存在し得ないと思うのは私だけであろうか。

地方から世界で戦えるベンチャー企業を

□地方発のベンチャー企業

おそらく、今後、日本のイノベーションは地方から産まれるであろうと予想している。

そして地方で生まれたユニコーン的な企業はそのまま地方を中心にプチコングロマリット化して行くだろうと考えられる。

 

これは今の日本のスタートアップの原理原則からすると、相反していると思われる。

東京、大阪以外では人もいない、資金もない、営業先の企業もないからである。

 

にもかかわらず、地方の方が、可能性があり得ると思うのは、いくつか根拠がある。

だがまずは、実際の具体的な成功例から説明した方がわかりやすいと思われる。

 

既に地方発のコングロマリット化しつつあるのは、山形鶴岡市にある「スパイバー」だ。

NASAでも実現できなかった人工蜘蛛の糸の製造・量産化に成功し、既に数百億の資金を集め、製品をパリコレに出典し、その社員の数割は世界中から集まっていると言う、知る人ぞ知るバイオベンチャー企業である。

 

そしてスパイバーからスピンアウトした会社が街づくりをやっており、ブリツカー賞受賞の建築家坂茂とタイアップしてホテルを作ったり、農業学校を作ったりと、まさにコングロマリット張りの多角化した事業を行なっている。

 

□なぜ地方からベンチャーが生まれるのか

さて、なぜスパイバーがここまで成長できたか、ということを取り上げるとそれだけで一冊の本が書けそうだが、地方だからそれができた、ところだけを今回は取り上げる。

 

日本の地方といえば、閉塞的で非協力的で新しいものはとりあえず却下されるイメージだろうが、鶴岡市は慶応の研究所を支援する、という決断をくだした。これがまず重要であったと思われる。

 

確かに東京や大阪の方が人口は多いが、何か新しいことをやるには実は街が大きすぎるという問題もある。

 

都市というものは、ニューヨークのようにクリエイターやアーティストが一箇所に集まって、新しい作品を生み出す、といったコンテンツ的なイノベーションには向いている(あるいはITビジネスも)が、まず大規模な施設や法の規制の変更が必要なビジネスのイノベーションにはまるで向いていない。

 

その点、地方はビジョナリーな市長とビジョナリーな起業家だけがいれば、とりあえずやれることの幅が広がる、というのは大きな利点である。

 

日本の場合は、一般に考えられている以上に地方の裁量が大きいため、挑戦的な市長や議会、住人がいれば大きく街は変わる(やや違う例だが鯖江市などもそうであろう)

 

もちろん、そこから地元住民への溶け込みなどはスパイバーも相当苦労はしていると思われるが、まず、この地方の少数プレイヤーでスピード感のある実験ができるのが大きなポイントだと思われる。

 

次に生活コストである。アメリカのシリコンバレーからのテキサスではないが、ベンチャーといえばやはり資金に乏しいので、生活コストが安いことは重要である。

その点、鶴岡市は、暖房費はともかく、家賃や食費などの生活費は東京の2分の1、あるいは3分の1以下だろう。日本の地方は鶴岡に限らず、生活費が安いことがベンチャー向きと言える。

 

□真のベンチャーとはdisruptを生み出すもの

しかし、最も本質的な理由は文化的な要素が大きいのではないかと思われる。

東京や大阪は良くも悪くも、雑音が多く、文化的にどうしても影響を受ける環境にある。

 

例えば東京でベンチャーといえばITで、なんとなく20代30代で億を稼いで六本木ヒルズに住んで西麻布で遊んでいるという、もはや一つのテンプレートが存在している。

 

そして実際のところ、これは単なるお金儲けのサクセスストーリーであって、シリコンバレー的な本場のベンチャーとはまるで違うと言わざるを得ない。

 

真のベンチャー、スタートアップの定義とはなんらかの「disrupt」を伴うサービスを産み出すことである。disrupt、つまり陳腐化とは具体的にいえば、AppleiPhoneは固定電話を陳腐化させた。Netflixであれば既存の映画やメディアの陳腐化であり、Amazonであれば小売物流といった世界である。

 

GAFAとそれに並ぶようなベンチャーは常に何らかの既存の技術や製品を陳腐化させている。

イーロン・マスクはペイパルでは金融システムを、テスラでは電気と自動車をdisruptさせにかかっている。

 

その点、ソフトバンク楽天GMOサイバーエージェントライブドアといった一世を風靡したITベンチャー世代も、実は本質的にはdisruptは起こしていない。

 

アメリカで成功したものを日本に持っているか、真似て成功しているか、既存のものをグロースハックするレベルにすぎない。

 

ましてや最近のスタートアップと呼ばれるようなベンチャーはほとんどがニッチか、日本語という言語の壁で守られているだけのガラパゴスサービスであるのがほとんどである。

 

むしろ、ソニーウォークマンや、ホンダのスーパーカブといった時代の方が、日本でも真のdisrupt型のベンチャーが生まれていたといえる。

 

そして、スパイバーが日本の中で唯一のベンチャーらしいベンチャーだと思われるのも、スパイバーがdisruptを起こす可能性があるからだ。

 

□disruptの本質はカウンター・カルチャーにある

そして、disruptがなぜ起きるかといえば、その本質がカウンター・カルチャーの文化にあるからだと考えている。

 

アメリカでもニューヨークからはベンチャーらしいベンチャーが生まれないのも、そのためである。

 

つまり、ちょっと起業してお金儲けして遊ぶ、という発想自体、東京というカルチャーの中に隷属して、その中でのポジション取りに過ぎない。

 

そんなことのために昼も夜も仕事ができるような連中は、東京というカルチャーの中でのポジション上げはできても、全く違う文化を生み出すことはできないだろう。

そもそもの出発点も目的も、何もかもが違うからだ。

 

単なる起業というものを一括りに見るとわからなくなるが、同じベンチャーでもカウンター・カルチャー的なものか、既存の中でもポジション上げかは大きな違いがある。

 

日本で東京のITベンチャー人と話していても、大手町や丸の内で働いている大企業の賃金労働者と、お金の追求というカルチャーが共通根底にあるためか、ジーンズを履いただけで大して中身は変わらない印象を受ける。

 

本当のベンチャー人らしいベンチャー人は、完全に東京のカルチャーに我慢がならないと思われる。そしてそのようなカウンター・カルチャーを持つような人間からでないとdisruptは生まれない。

 

それこそスティーブ・ジョブズのガレージではないが、雑音のない山に引き籠もって、黙々と誰もが理解できないようなものを作り上げるような、そういう世界観である。

 

なので、地方だからベンチャーが生まれるとは限らないのもそのためで、地方には地方のカルチャーもあり、そこに染まっていればそれはdisruptを産まない。

 

disruptを起こせる起業家が、自由に活動できる場所こそが真のベンチャーを産むのである。

 

最後に、地方からコングロマリットが生まれる理由だが、地方が貧しくなるにつれ、その地方の特性を活かして収益化する、ということがそもそも急務になるためだが、そもそも日本の場合は地銀も含めて地方であらゆることを賄えるサービスが揃っている、というのもある。

 

これがアメリカとかになると、巨大資本に潰される問題や、まともに仕事をやれる人がいない問題など色々あるが、日本の場合はある程度均一な労働力があるのも不幸中の幸いである。

 

また、ガラパゴスなことも不幸中の幸いで、東南アジアですらデジタル化したのに、中途半端なアナログのままであるせいか、実際はハードもソフトも、システムの更新に一仕事必要なこともそのままビジネスチャンスとなる。またまだその資金もかろうじてある。

 

それは東南アジアがパソコンを飛び越してスマホに行ったようなもので、日本の地方も遅れすぎているがゆえに、FAXからいきなり劇的な進化を遂げ、気がついたら世界最先端の未来都市を作ってしまうこともあるかもしれない。

 

とはいえ、一番はやはりカウンター・カルチャーの創世だろう。

ジョブズAppleイーロン・マスクのペイパルがシリコンバレーというニューヨークに対するカウンター・カルチャーをある種生み出したように、一人、一つの企業体からでた文化が新しい文化圏を作り上げる、それが地方から起こる予感がするのである。

ジャイアニズムの次に来るもの

日本人が苦手な議論の一つに「悪とは何か」というテーマがあると思う。

 

ここでは善悪を上から目線で論じる代わりに、アニメや映画で「悪」として描かれる存在がどのように変遷していったかを紹介していこう。

 

まずは90年代までを見てみよう。タイトルとそれぞれの代表的な悪役はどんな連中か並べてみる。

 

次にここ最近、2000年代ものを挙げてみる

  • X-MEN →マグニート(能力者のために戦う)
  • アベンジャーズ→サノス(宇宙の平和のために宇宙の人口の半分を消す)
  • Naruto →マダラ(世界の平和のために全員幻術にかける)
  • 鬼滅の刃   →無惨(人間を食べないと生きていけない)
  • コードギアス →(主人公がテロリスト)
  • ワンピース  →(主人公が海賊)

 

単純に比較してみると、従来の悪役のキーワードは「暴力」と「支配」というもので、一番わかりやすいのがドラえもんジャイアンで、悪役は言うなれば「ジャイアニズム」が主流であった。

 

これに対して、昨今のアニメや映画の敵役は複雑化している。

悪役にも事情があったり、世界のために人を殺したり、作品によっては主人公の方が悪役のような物語もある。

要約すると「悪人にも都合がある」「本人は善意のつもりだがはた迷惑」「そもそも種族が違う」

みたいなものがキーワードと言えよう。まず言えるのは、「悪」が複雑化しており、昔のように悪といえばジャイアニズムだけ、ということではない、ということだ。

 

※もちろんこの区切りは全部ではない、90年代でもマトリックス逆襲のシャアといった複雑な敵キャラも出てくるし、最近でも例えばロードオブザリングのサウランのように、クラシックにジャイアニズム全開の敵役も存在する。あくまで全体の傾向だと思って欲しい。

 

また、一つの作品の中からわかりやすく悪の変遷がわかる作品がある。

それは「007」である。

 

欧米のプロパガンダを込めた作品でもあるので、冷戦時代はわかりやすいくらいに世界支配をしたい共産やナチズム、あるいはマフィアのような犯罪組織がジャイアニズム的な敵役として描かれていく。

 

しかし、冷戦の終結後はテロリストが悪役となるが、このテロリストたちがまた複雑である。

元々はスパイであったり、企業を通して裏から国家を支配したりと、どんどん知能犯罪者になっている。

 

またある面、日本人の中では、悪に対する思考マヒのような現象が起きてもいる。

悪の方が格好いい、あるいは世の中には善も悪も存在しない、といった風潮である。

 

それは一重に、安全な日本の中では、悪とはアニメや映画の世界で自分とは無関係なことが多いからではないだろうか。

 

だが、21世紀を代弁する悪役は、おそらくアベンジャーズのサノス的なものであると予想される。そしてそれは、日本人にも降り掛かってくる問題である。

 

サノス的な悪の特徴は以下のようなものである

「言っていることが論理破綻を起こしている」

「一見すると善のような主張をするが、やっていることは悪」

「本人だけが善だと思い込んでいるがどう見ても悪」

「よくわからない信念で人の命を奪う」

「正義の名の下に人に危害を加える」

 

かつて、世界大戦において、人類はわかりやすいジャイアニズム的な悪を経験した(おそらく人類史においてこれが最後であろうと願う)

 

むしろ、世界大戦が起きるまでは、ジャイアニズム的なものは、アメリカの西部開拓よろしく、普通に行われていたとも言える。

 

世界大戦という大災害を得て、ようやく人類はジャイアニズムを悪と見なしたのである。

 

つまり、人類規模的な悪の被害が顕在化しない限り、人類規模で新しい悪を認めることがなかなか難しい。

 

そしていまの、日本、世界を見渡せば、サノス的な事象がいくつか発生していることも、具体例をあげなくても、勘の良い人ならすぐに気が付くと思う。

 

いまの時代というのは、ジャイアニズムとは異なる悪が顕在化し、人類がそれを悪と認識しない限り、どこまでも肥大化していく、そのようなことを試されているフェイズだと言える。

ベーシックインカムに関する要旨と論点を整理する

 

ベーシックインカム

■前書き

ベーシックインカムは選挙の際などに話題になりますが、混乱の多い分野だといえます。

 

なぜなら、人によって微妙に思い描くイメージが異なるからです。

 

またベーシックインカムという政策、制度が本当に言われるような良いものなのでしょうか。

ここでは

ベーシックインカムには、実は複数の種類があること

ベーシックインカムの問題点

以上を整理していきます。

 

ベーシックインカムの種類

まずベーシックインカムの種類について整理していきます。

ベーシックインカムには大きく3つあります。

①現金給付型

②高負担高福祉型

③所得補償型

 

①現金給付型

これは既に自民党で何回か実施されています。

国民に数万円あるいは条件をつけて数十万円支給をするやり方です。

 

つまり、このやり方でのベーシックインカムは既にある程度実施されていて、金額をもっと増やすか否かというところが、論点となります。

 

多くの人がベーシックインカム、という話しをする時は、働かなくてもいいくらまで、現金をもっと増やすイメージだと思います。

 

②高負担高福祉型

これは主に北欧諸国で実施されている制度です。政府が学校や医療といった、生活に必要なサービスのほとんどを無料で提供する代わりに、税金負担が大きくなります。

 

③所得補償型

こちらは最低賃金、最低所得を政府が補償、補填する制度です。

 

生活保護最低賃金などがこれにあたります。

 

つまり、こちらもある程度、既に実施されている制度です。

 

あとは生活保護のような制度の金額を上げるか、あるいは最低賃金を引き上げるかの話しになります。

 

ベーシックインカムに関する10個のポイント

①基本的には国が実施するもの

国が行う政策、というのが当たり前ですが、重要なポイントです。

 

そうするとつまり、どのような形で分配するにしろ、国にお金がないとできない、つまり、お金にしろサービスにしろ、クーポンにしろ、配るのには財源が必要です。

 

②どのような財源になるのか

 

国の財源は基本的に「税金」か「国債」になります。

 

ですから、北欧諸国のように多く税金を負担するか、将来の借金とするかしかないわけです。

 

つまり、無限にお金が湧いてくるわけではありません。

 

③インフレを考慮する必要性

無尽蔵にお金を刷って財源にすれば良い、という発想もあります

 

しかし、お金をすれば、物価の上昇、インフレになるので、お金をすれば良いとは限りません。

 

例えば100万円支給されても、バスに乗る運賃が100万円であれば、それだけでは生活できないでしょう。

 

ある程度お金をすることで景気対策にはなるかもしれませんが、

例えば、いまの物価で例えば1人400万円お金を配る場合、物価の方がどうなるか予想がつかないところがあります。

 

④誰が負担するのか

税金や国債ベーシックインカムをやるとすると、結局誰かが負担していることになります。

 

結局、そうするとお金を稼ぐ人、あるいはからほとんど税金を取り立てるか、借金をして未来の誰かに負担させることになります。

 

お金を稼ぐ人から取るシステムだと、そういう人はいくら仕事をしても、意味がなくなるので、海外に出て行くか、あるいは仕事をしなくなります。そうすると制度が破綻することになります。

 

⑤既にある程度実施されている

ベーシックインカム」と言葉が新しいので誤解を招きますが、現金給付、社会福祉生活保護など、実際は既にある程度ベーシックインカムのような政策は実施されています。

 

⑥ではなにができていないか?

つまり、ベーシックインカムと新たに言う場合は、給付の金額と内容を増やすことです。

 

また、現金ではなく、例えば無償化やクーポンのような型など方法は現金以外もあり得ます。

 

⑦働かなくてもいいのか?

多くの方がベーシックインカムに抱くイメージの一つに、働かなくも生活が補償される、というものがあるのではないでしょうか。

 

しかし、実際は例えば全ての仕事をAIにできない限り、誰かが負担することになります。

 

また、仕事を外国人や移民を奴隷化して労働させて、実現していた時期も人類史の中であります。

 

結局誰かが働かないといけない、という状態で一部の人が働かなくもいいような社会は、昔の奴隷制度に近くなるイメージを持つ必要はあるでしょう。

 

⑧高負担高福祉は管理社会的な側面

北欧諸国のような高負担高福祉の場合、前提として、確実に税金を取る必要性があります。

 

そのためには、国民の所得はもちろん、細かいステータスを一元で管理する必要性があります。

 

日本でもベーシックインカムマイナンバーが一緒に議論されるのはそのためです。

 

したがってベーシックインカムにする場合、ある程度の管理社会になる前提は受け入れないといけないことも、併せて考える必要性があります。

 

⑨どのような税金にするのか

税負担は前提ですが、どのような税金にするかは多少選択肢があります。

 

例えば消費税をとてつもなく高くするのか、北欧諸国のように所得税を上げるかです。

 

法人税を上げる場合は、法人が海外に逃げる可能性も考慮する必要があります。

 

個人も優秀な人材が高い税金で海外に逃げ出す可能性はもちろん考慮が必要です。

 

⑩大きい政府か小さい政府か

税金を取り分配するものが必要なので、当然政府が存在し、かつ大きな政府が前提になります。

 

小さな政府、自由主義、資本主義というより、

大きな政府社会主義共産主義ものが

ベーシックインカムを実施する社会システムには合っている、ということも併せて知っておく必要があります。

 

結論として、ベーシックインカムを実施する場合、いくつか併せて考える必要があるポイントが複数あることに気がつくと思います。

 

なんとなく、フワッと働かなくてお金もらって生きられる、メリットしかない制度のように考えることは問題があると言えます。

 

ベーシックインカム」というものの中にも複数の方法があり、それぞれのやり方次第で、税金や社会保障など複数に関連してきます。

 

関連する項目を合わせて吟味する必要があります。

 

決してバラ色の制度ではありません。

善悪と人間の能力

どのような政策が良いか、それを考え、判断する以前に、どのように判断するのか、その前提を考える必要があります。

 

そうした前提となる考え、前提論、本質に近いことを考えることが重要です。

そうした前提、より本質的なところを曖昧にして、表象的なところだけを議論してもあまり意味がないと言えます。

 

ある哲学者が面白いことを言っていました。

「最高の調律師が調律したピアノを、最高のピアニストが弾けば、最高の演奏になる。
しかし、最高のピアニストが調律して、最高の調律師がピアノを弾いたらそれは聴いていられないだろう」

これを善悪の例えで話していました。


つまり、物事の良いか悪いかを決めるには、適切な時間や場所の概念が必要である、ということです。

他にも物事には、適切な場所、タイミングというものがあるいくつかの例を挙げます。

例えば、砂漠で喉が渇いている人に水をあげたら、命が助かります。
反対に、溺れかかっている人に水を飲ませたら、命にかかわります。

水そのものが悪いのではなく、その扱い方や相手で、全く文脈が違ってきます。
これは食べ物や薬などでも同じことが言えると思います。

善悪などない、ということではなく、このように物事の収まりが良いところ、物事には適切な場があることをまず理解することが大切です。

人の能力、仕事に対しても収まりという点では似ている部分があります。

例えば優れたコンピューターエンジニアは、デジタル化された社会においては重宝され、お金をもらえるかもしれません。


ですが、獲物を弓矢で捕まえて生活するような原始的な社会では、全く評価されないでしょう。

ある場では重宝され、ある場では評価されない、というのは物事の適切な場があることとよく似ています。

つまり、人間は能力を発揮し、それで賃金を得るためには、能力を評価できる人、あるいは場が必要になるということです。

ポストモダンの次に来るもの、分類の時代

ポストモダンの終焉

ポストモダンとは「個人主義により統一的な思想がなくなっていく現象」であり、平たく言えば、一人一人が自分の好みを追求して結局バラバラに分断されていくことでもある。

 

しかし、個人主義が一巡した21世紀に入り、ポストモダンは終焉を迎えつつある。

それはインターネットのもたらした力である。

 

ポストモダンを論じていた時代はインターネットを想定いていないにも関わらず、ウィトゲンシュタインばりの議論も終わらせ方をしたのはまずかった。

 

どのような現象が起きたかと言えば、インターネットを通じて、「思想的に近い個人」がどんどん繋がり出したのである。

 

これは例えば、日本のyoutube業界をみるとわかりやすいだろう。

どのようなyoutuberであっても「再生数」という知名度だけで繋がれ、どんどんコラボレーションをし、あたかもユーチューブエリートのような世界観を作り上げてしまっている。

 

さらにより一般的にわかりやすいのは、人々がSNSなどを通じて、気軽に趣味嗜好の合う人とどんどん繋がれる環境ができたことにある。

 

これは裏を返せば、人は自分の好きな人とだけ、話が会う人とだけ、自分と同じクラスの人とだけ付き合うようになり、それがコミュニティ化しつつある、ということである。

 

□イシューベースの政治団体の誕生

これはどのような現象になっていくかと言えば、将来的には例えば自転車好きな人が道路の真ん中で自転車を作る法案を通すために、全日本の自転車ファン数十万人を募って、政治家を動かす、みたいなことが起こりえる。

 

これまでは政治といえば、労働組合や宗教団体だけがおおよその団体票であったが、イシューごとに政治家を動かせるようなレベルの数が集められるようになる、ということである。

 

□いま現実に起きていること

これは国家というコミュニティの弱体化現象と見ることもできる。

 

そしてより深刻な問題としては、ユーチューバーたちをみるとわかるように、成功者や金持ちは同じ成功者や金持ちとだけつるむようになる。

 

そういたエリートコミュニティが自分たちの利己的な目的のために、その他から搾取するようなシステムを構築したらどうだろうか。

 

世界で起きている貧富の差、とは既にこれが表面化している現象である。

 

□分類の時代とは何か

個人主義は結局、「同根のコミュニティ」を誕生させたに過ぎない。

そしてそれは言い換えれば、「分類」を発生させたということである。

 

分類とは何か、わかりやすいものは例えば「金持ち」か「貧乏人か」である。

そして、それが資本のようなわかりやすい形では誰もが気づいているが、それ以外でも分類化が進んでいることにまだ人々は気が付いていない。

 

それがかなり表面化してきたのが今回のコロナ騒動でもある。

コロナに対するリスクの認識と対応は、それぞれが違う者同士、相慣れないレベルの分断を生み出している。

 

そしてコロナに対する認識と対応の違いはより本質的には「情弱か否か」「認識力があるか否か」というレベルに存在する。

 

そして、認識力が高い人は、認識力の低い人とは、話したくないし行動も違うし、おそらく見ているメディアなども違っているはずである。

 

表面的な違いは例えば薬を飲むか飲まないかくらいのはずが、実はもっと深いところで、差が生じている。それは、認識レベルの分断である。

 

これは実は金持ちか貧乏人か論にも当てはまる。例え金持ちでも、認識力が低いと詐欺にあったり、お金の使い方を誤り、一瞬で財を失ったりする。

 

つまり、いま生じているのは、単なる「金持ち」か「貧乏人」かというマルクスから続いているような階級闘争の議論ではない。

 

認識力があるか否かといった、本質的な人間の分断が起きている世界なのである。

 

最初に表面化してくるのは、単なる趣味人の集まるコミュニティに過ぎないだろう。

ラソンサークルが増えてきた、美食クラブが増えてきた、程度のものだろう。

 

しかし、だんだん、見えてくる世界観というのは、例えば味のわかる人しか入れないレストランであったり、お洒落な人しか買えない洋服店だったりする(それらは今も実際には存在するだろうが、それがより表面化してくる)

 

そして次に、先ほど述べたようにその集団が、次第に政治的な発言を行うようになるだろう。

 

コミュティ形成に関しては、ある面において、学歴でも年収でもないところで、コミュニティが形成されることは悪いことではないが、言い換えればそれは誤魔化しようのない世界、自分というものに全てが帰結する世界ともいえる。

 

ちゃんと誠実に、社会のことも考えて仕事をするような人が評価される、という意味では至極真っ当な世界でもある。

 

しかし、誠実な人間がますます誠実な人間と付き合うように、不誠実な人間はますます不誠実な人間と付き合い、やがてそれが肥大化し、社会全体、地球全体が対処を迫られるようになるだろう。

 

つまり、例えるなら、最初はユートピアのような犯罪者がいない平和な世界が実現するが、いずれ、誠実な国(コミュニティ)と不誠実な国とに分断され、その対処に迫られるような現象が起こりかねない、ということだ。

 

そしてその時に、人間の本質とは何か、その存在の理解が一般の大衆レベルにおいても変化が訪れないと、大きな悲劇が起きるであろうことは想像に難くない。

 

□分類の時代のビジネスとその課題

 

分類の時代、自分が好きな人とだけ繋がっていくコミュニティは、ビジネスにおいても変化をもたらす。

 

まず、わかりやすいところでは飲食店が客を選ぶ時代になる。

既にこれは起きている現象だが、それがもっと表面化するだろう。

 

飲食店はいくらでもあるが、人気店は全く客に困っていない。

簡単に店側からの逆選択が生じる。

 

ファッションでそれが起きるのは、ある意味ユニクロのようなファストファッションの登場やモノ余り、人々のリテラシーの向上、そしてSDGsなど様々な遠因がある。

 

ものの値段と質がわかると、後は自分の好みやデザインなどで買うようになる。

作る側も、決められた客に対して受注生産したほうが、遥かに効率が良い。

そして、飲食店と同じように、充分な客がいれば今度は質の高い客を選ぶのは至極当然であり、これは他の分野でもそうなって行くだろう。

 

中国の「信用スコア」というのは、ある意味これが最も歪んだ形で表面化したものと言えるだろう。

 

スコアが高いものと低いものでは、アクセスできるものも、手に入るものも違ってくる、という世界観である。

 

もう少し違う角度から見ると、オンラインサロンはこの現象の先走りとも言える。

 

既にサロンメンバーでないと得られない情報やサービスが存在するだろうが、サロン内であらゆるサービスが手に入るとなり、さらに貨幣のようなものを持つと、それはある意味国のような存在となる。

 

この現象がより進むと、例えばマスコミの報道を見ていても、マスコミというものを見ているコミュニティの中での現象しかわからなくなってくる。

 

つまり、自分が所属しているコミュニティによって、見ている世界が変わり、気がついたら世界の変化に取り残されていくようなことも発生するだろう。

 

会員化、コミュニティ化されることはある意味、資源の最適な分配、という側面もある。

なぜなら物の価値がわかる人のところに物が集まりやすくもなるからだ。

 

また人は好きな人同士集まる、それは認識領域の同質性から生じている話をしたが、実際こうした現象はおそらく、人類が始まって以降普遍的に変わっていないだろう。

ただし、それが多くの人にとってそのような認識がなかっただけだが、ますます社会が分断され、アクセスできないサービスが増えることにより、それらが顕在化されていくことになるだろう。

 

この先、コミュニティサービスや会員制ビジネスというのは大いに流行るだろう。

しかし、その先にまず課題が二つ見える。

 

一つは例えばある非常に腕の良いテーラーがいたとして、その人をコミュニティ内で奪い合うような現象である。今でいえば企業が優秀な人材を取り合うようなものだ。

それがあらゆるサービスで発生する。

 

そのような状態になった時に、仲裁する存在が今のところ存在しない、ということだ。

企業であれば契約書を書き、違反したら国家が法律を執行するような問題だが、腕の良い板前がどこのオンラインサロンに所属するかなど、まだ法律が全く追いついてこないだろう。

 

更に言えば、そこまでコミュニティが乱立するような時代というのは、必然的に国家コミュニティの力が大幅に衰えているため、果たして仲裁するような存在がいるのか、ということである。

 

もう一つは、コミュニティ化という名の圧倒的な差別が発生した場合、所属しているコミュニティによっては例えば、まともな食べ物さえ手に入らないような状況が発生する可能性もある。

 

優れたコミュニティは優れた人を集め続け、ますます繁栄する一方で、そうではないコミュニティ、あるいはコミュニティに入れない、はぐれ者の受ける便益は、国家の弱体化と相まって、ますます衰えていくだろう。