個人的な見立てでは、産業革命以来続いていた、奴隷および搾取のモデルが崩壊に近づいていて、これから起きる金融危機の本質の一端も実はそこにあるのではないかと考えている。
まず、これまでの奴隷および搾取モデルは、基本的に先進国と途上国との賃金格差を利用したものである。
しかし、途上国が経済的に成長し、日本のように先進国が停滞していると、その賃金格差というのはどんどん埋まってくることになる。
そうすると、強制的に賃金が安い階級を作るインセンティブが働き、古代ローマなどでは史略で他の民族を奴隷化したりしていたが、近代国家ではそのようなことはできないため、目下のところはAIやロボットにやってもらおうというわけであろう。
また一方で、テクノロジーの発達により、これまで奴隷にさせていた仕事が不要になっている。例えば、受付や事務手続きは電子化され、警備員は監視カメラに置き換わり、物流にロボットが加わるようになっている。
残すところは建設などの肉体労働や、手工業といったものだが、そもそもこれらを奴隷にやらせる世界観自体に疑問がある。
例えば、日本のホワイトカラーはせっせとジムに通うが、同じようなエネルギーを建設現場で活かせば極めて生産的になる。
実際、それができないのは、マッチングの問題で、都合の良い時間に労働をして運動しつつお金をもらう、という世界観はそう遠くないうちに実現するように思う。
奴隷および搾取モデルというのは、多くの角度から陳腐化を見ることができるのだが、日本の教育は奴隷教育のままなのが国としては大きな課題だが、行政担当者が全くこの問題に理解がないように見える。
そして奴隷および搾取モデルに代わるモデルというのは、付加価値モデルに他ならないし、その源泉は個人の才能や才媛によるものだろう。
つまり、あらゆる仕事に個性や能力が必要となり、各自が非凡な仕事をすることで付加価値を産み、経済を回す世界観である。世界はその方向にシフトしつつあるように思う。
しかし、多くの日本の企業が、奴隷教育を修正できない行政担当者同様、この問題に気づいていないように見える。
そして話の核心として、そもそも奴隷および搾取モデルと、個性および付加価値モデルで、どちらの方が経済的に合理的なのかというものがある。
奴隷および搾取モデルは前提として、強制や非自発性を伴う。
これに対して、個性および付加価値モデルでは自発性が優先される。
ここに大きなモチベーションの差が生まれる。
おそらくモチベーションの差が、生産性の差を産むことを証明するような論文はいくらでも出てくるだろう。
いまの日本の現状は奴隷を、会社員や公務員といったネーミングで誤魔化して旧来システムを維持しているが、実態は奴隷なので甚だ限界が見えている。
日本の生産性が一向に向上しないのも、結局モチベーションのない奴隷しかいないからだと考えることもできる。