IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

ストーリーシンキングに物申す

個人的に今年で流行りが終わるなと思っていることが二つある。

①スタートアップ

②ストーリーシンキング

 

この二つは去年までのトレンドでもあり、ある意味一体不可分なものだ。

 

スタートアップというまだ売上が立っていないような企業に投資家が投資する

その最大のポイントが「ストーリー」がしっかりしていることだ。

 

このトレンド二つが古いという根拠をそれぞれあげる。

 

まず、スタートアップというのは「起業家」と「投資家」だけが儲かるシステムであって、顧客やステークホルダーや社員は考慮されない。

 

Jカーブ、急成長が良い、というのは、投資家と起業家の理屈であって

早すぎる成長に組織は通常追いつけない。

 

例外としてスタートアップに向いているサービスもあり、それは今流行りのclubhouse のように、急激に流行り出て顧客のニーズがあるから、会社の規模やサーバーを増やす必要があり、資金調達が急務な会社である。

 

つまり、スタートアップというのは、起業やファイナンスの一形態であり、それにマッチしたビジネスモデルであれば合っている。だからスタートアップとITが密接に関わっているのである。

 

しかし、そのスタートアップモデルにあってない会社も投資家の金余りによって、スタートアップしてしまっているのが、流行りであり、それが廃れるのが今年と見ている。(スタートアップ自体がなくなる訳ではない)

さて物申したいストーリーシンキングの方だが、結局いまのスタートアップ界隈で重視しているのは「能力」「原体験」の二つである。

 

つまり

「エンジニアいますか?もの作れますか?」

「なぜそれをあなたがやるんですか?」

この二つの質問に答えられればオッケーですということになっている。

 

だがしかし、よくよく考えてみればテスラモーターにも、日本のトヨタにもストーリーなどない。重要なのはマーケットのニーズと大きなビジョンである。

 

いまの投資家のストーリーシンキングで行くと、スティーブ・ジョブズは前職で電話の営業をしてなければいけないことになる。それが必要だろうか。

 

つまり、ストーリーシンキングというのは一見すると、筋が通って綺麗に見えるが、実際のビジネスにおいてはそんな綺麗なストーリーばかりの会社ではない。

 

これも、スタートアップもどきが流行るから、ストーリーシンキングもどきになっているようなものである。

 

ストーリーは重要だが、ある意味それはストーリーが支離滅裂な会社よりも比較的マシだろう、という足切りなのと、本当に優れたビジネスはストーリーからではわからない、ということでもある。

 

もっと違う例を挙げれば、例えば楽天三木谷社長ももともと興銀出身である。いまのスタートアップで銀行マンがオンラインモール作ると言ったら誰も投資しないだろう。しかし、結果的にもし楽天の創業株を持っていたらどうなっているかは明らかである。

 

ここがストーリーシンキングの限界であり、終着駅だと思っている。

そしてそれに人々が気付き出すのが、今年ではないだろうか。

 

結局のところ、今のストーリーシンキングなるものは

「親が政治家だから、政治家になります」

と言っていることが美しい、と言っているようなものである。

 

セオリーはそうだが、当然政治家の家に生まれても、ほかの才能がある人もいる。竹下総理に孫のDAIGOとかもそうであろう(この先政治家になるかはわからないが)

 

重要なのは、親が政治家だから政治家を目指すと言っている人と

本当に志がある人間とを見極めることである。

 

ストーリーシンキングではそれが見えない。

「政治家の家庭の方が政治家に向いている」

と言ってしまっているようなものである。

 

エンジニアでモノが作れても、良いサービスが作れるかは別の話である。

 

そして原体験なんて必ずしも正しいとは限らない。

イーロンマスクは車のスペシャリストなんかではない。

ビル・ゲイツはエンジニアかもしれないが、今のマイクロソフトにしたのは、ゲイツがエンジニアだからではない。

もし原体験が正しいなら、エンジニアは全員ビル・ゲイツになれるはずだ。

 

投資家、投資が見るべきはもっと大きなマーケットの流れの理解であり、起業家の原体験も含めた理念であり、ビジネスの才能や認識力の方である。

 

それは起業家のストーリーばかりいても仕方がない。投資家のリテラシーの問題だからだ。

 

それをどのように理解認識、言語化してくるかがポイントで、つまりレベルが低いと言われる日本の投資家が次のステージに上がれるかが、今年がターニングポイントなのではないだろうか。

 

批評家のように、起業家のストーリーがどうとか、マーケットがニッチだとかスケールしないとか、そのような視点でものを話す投資家は基本的に廃れていくようにしなければ、つまり本当に質の良い投資家が生まれなければ、ますます欧米中国と日本のスタートアップ、ベンチャー、起業は遅れをとるだろう。

この時代における世界を支配することとは

世界を支配、征服すると一言で言っても、時代によってそのあり方は変わっていく。

 

ローマの時代までは蛮族を征服し、奴隷化することが崇高な目的だと考えられてた。(アメリカが中東で戦争を起こすのはいまだにアメリカがローマ帝国の幻影を引き継いでいるとも言える)

 

かつては領土と人が支配を意味していた。

 

一方で、現代の支配とは主に「財産」を意味するようになってきている。

富があれば土地も人も軍隊も買えるからである。

 

しかし、広大な財や土地を一人で所有し、それが使用人と金庫に眠っている状態というのは、単なる趣味の領域にすぎない。

 

財や富を所有することが支配の本質ではない。

財や富を膨大に所有するということは、基本的にそれを管理し、適切に使用する人間がいないため、一時的に預かるのが本来の支配者の役割である。

 

つまり、支配者のすべきことは、財や富を適切に扱える人がいればその者に与えることである。

 

そして、適切に富や財を支配することができる人間が少ないのであれば、それを増やすことが支配者、エリートの義務である。

 

広大な土地を管理するのは大変である。また、それを一人の保管、鑑賞用にするのは勿体無い。その土地があれば、何人の人を住まわせ、どれだけの作物が作れるのであろうか。

 

適切に管理できる人を育て、その者達と財を相互融通することが一つのゴールとなる。

 

その点、いまの世界の支配者、ロックフェラーなりロスチャイルド、ディープステートという存在は、そうした現代における支配者は義務を果たしているとは言い難い。

 

むしろ、人々から富を守り、独占する方向に動いていると言える。

数の意味では圧倒的大多数は、支配者ではなく被支配者であり、支配者の優位など数の上では圧倒的に不利なのだからそれも当然といえよう。

 

※ここでロックフェラー、ロスチャイルドという言葉、あるいは陰謀論などを連想する人は、自分自身が例えば1京円程度の資産を受け継いだと思ってシミュレーションをすると良いだろう。あるいは自分が総理、大統領、世界を支配していると仮定して、どのような思考、行動をするか想像することが大切である。そして総理、あるいは支配者を批判する大多数が、実際は自分自身がより無知で、それ以下のことしかできないことも気がつくだろう。

そして支配者のモラルの低下、卑劣さも、同じ立場であったら大多数は自分もしていることに気がつくであろう(これはエリート、支配者の卑劣さを擁護する意味ではなく、つまり大多数の人間は外から見ているから、判断を誤るということを指摘する意図である)

 

そして、支配者層というのは常にその座を狙う者達によって危機的な状態に晒されることになる。

 

覇権国家であるアメリカが中国にその座を狙われるように、下からより邪悪で、より富の管理ができない連中が支配者になろうとしている場合

 

自分たちが支配者として未熟であっても、その連中に渡すよりはマシと考えることも共感できる点である。

 

しかしそれも、一人一人の認識力が高めれば、自然とより良いものが為政者、支配者となっていく。

 

基本的に大衆が愚かな方が支配しやすい、というのは支配者が支配者の器でないのに、支配者になった場合に、誤魔化しやすいからである。

 

従って、下からの突き上げをくっていることと、自分たちが人々の認識を促さないこととは論理的に破綻している。

 

人間一人一人の覚醒を促すことは、正しい支配者、エリートにとってその地位を保証するものである。そして、それは「支配」というよりも、「王の責務」という王道に関わる方が本来の呼び名であろう。

 

支配、エリートとは、人類の大多数が未熟である時に、一時的に世界の管理を預かることが本分であり、それは一人一人の自立や覚醒を促すこととセットでなければならない。

 

現代に目を向けてみると、少しずつ認識力が高い人間は増えてはきているが、まだ全ての人がそこに到達できるには、それなりに時間がかかるような時代と言える。

 

そこで今度は王の義務として、世界を分けることになるだろう。

つまり、認識力が高い人間と低い人間を隔てることになる。

 

これには、低い人間には自立できるように促すことと、高い人間を低くしないことが必要になる。

 

世界の二極化、というのも本質的には「認識力の二極化」と言える。

自分で考え、物事を解決できる人間と、奴隷のように思考停止になっている人間とで、富も暮らしも全く違ったものになってくるのである。

 

所得の二極化は認識力の二極化でもある。

そしてエリートの中には、認識力だけの利己的な人間がいるため、単なる二極化になってしまっているのが現状で、本来は、全体の認識を上げることをすべきである。

 

もう少し厳密に言えば、認識の上げ方が、良い王と悪い王では違うのである。

完全に富が二極化し、大多数が貧しい暮らしを送るような世界になれば

さすがに大衆も怠惰に耽るより危機感を持って考え始めるだろう

 

どちらかと言えば、今の世界はそのような方向に進んでいる。

そしてそれが巧妙に。

 

露骨に人々を貧しくするのではなく、生かさず殺さず、時に人類愛や環境問題、世界平和、といった言葉を用いつつ、表向きは非常に理想主義的な形で話をまとめつつ、支配者層は被支配者層を認識力を弱めてマインドコントロールして、支配する体制を築くのである。

 

だがこれも言い換えれば、巧妙な仕掛けは人々の認識力を高める方向にも作用する。ここも現代が二極化する所以である。わかる人にはその仕組みが見えてしまうのである。

 

巧妙にすればするほど、一部の人々の認識を刺激する。

その意味では、今の支配者は一部の人の認識を高めるために、巧妙な詐欺的な搾取システムを構築しようとしているのであれば、アニメのごときストーリーである。

 

つまり、王を認識を高める機関である、と位置付けた場合、良い王と悪い王の違いは、大衆にとってより快適で文化的な気づきを与える者か、不快で腹ただしいものから気づきを与えるか、その違いである。

 

そしてどちらを選ぶかは個人個人の認識力の問題である。

 

あるいは、良い王とは、認識をより文化的な形で拡げるものであり

悪い王とは認識が高い者だけで集まり、他を切り捨て、見下し、奴隷化するものである。

 

今日における世界の支配者は財を管理する方法を間違え、人々に不快な形で認識をもたらそうとしている。

 

しかし、快適なものよりも苦しく、痛みを伴う方が、鈍感な人々にとっては認識を得やすい。つまり、民主主義であろうとなかろうと、その時代の支配者はその時代の人々の状態を反映するものであり、一人一人が独立するものとなった時、世界にはこれまでのような形で認識をもたらす役割は必要としなくなるのだろう。

コロナに関する陰謀論について

コロナに関する陰謀論については、結論から始めると懐疑的である。

 

○製薬利権による陰謀論

製薬が世界市場全体を占める割合と、コロナで不利益を被るその他の産業の割合を鑑みると、どう考えても「コロナで不利益を被る産業」の方が多い。

そのような中、製薬の利権(というかほぼワクチンだけ)数兆円程度でいまの状況を演出、コントロールすることは不可能に近い

 

○中国による陰謀論

そもそも中国政府自体が事態をコントロールできていない。

中国経済に与える打撃も深刻で、経済の失速が政権の失脚に繋がる現中国の体制下において、わざわざ経済を失速させる利点がない。(中国内の反体制派も同じで、これはちなみにアメリカも含めた他の国の政府も当てはまる。)

現在の中国の過激な軍事行動は、経済の失速を国民に対して誤魔化すためのパフォーマンスの側面が強く、アメリカ当局などはそれも把握している可能性が高い。

 

○金融・投資家による陰謀論

確かに富裕層の資産はコロナでも増えている。ただしこれは、富裕層が、景気が後退したときのポジションも持っているからにすぎない。

コロナで打撃を受けている、アパレル、ホテル、エアライン産業などの株は機関投資家を始め、投資家や富裕層も所有している銘柄あり、それは軒並み下落し、打撃を受けている。

従って、金融投資セクター(いつも何かあると疑われるが)は今回に関しては事態に翻弄されている側だと考えた方が、筋が通る。

 

○マスコミによる陰謀論

マスコミが煽る場合はスポンサーの意向を組んでの場合がある。

この場合スポンサーとは民間企業と政府の両方が考えられるが、まず民間企業はありえない。政府の場合、日本のような政治体制でない場合は考えられるが(後述)日本の場合も中国と同じく、経済を失速させる意味がまるでないため、マスコミを使って煽る理由がない

 

現状分析および結論その①

ではなぜ、現状のマスコミはコロナを「煽っている」ように見えるのか

これはスポンサーの問題ではなく、マスコミのシステムそのものによる事象だと思われる。

まず、マスコミにとって重要なのは「視聴率」である。それは記者であれば「記事が読まれること」に他ならない。

従って、読者が「コロナの記事」「特に怖い記事」を読む傾向があれば、そうした内容を多めに書くことになる。

そして確かに、国民はコロナの症状が如何に軽いかのニュースよりも、如何に怖いかのニュースを読みたがる(ホラー映画を観る感覚だったり、危機管理の観点から)

更に、普通の書き方をしても読まれないため、人の目を引く表現を使う。

「インフルエンザと変わらないかもしれないウイルス」よりも「恐ろしいかもしれない新型ウイルス」の方が人の目を引く

 

「大丈夫だよという人」よりも「これは危ないという人」の方がインタビュー記事としても読まれやすい。

(つまりマスコミのシステムそのものが、恐怖と不安を煽るようになっている)

そして、SNSではそうしたニュースを「善意ある有志」が結果として不安を広げているだけなことに気がつかない人々が、そうした記事を広げているのが、いま起きている現象ではないだろうか。

(なので、不安に陥りやすい人は、本当はマスコミのニュースの大半は不安を煽る内容になってしまうので、なるべくニュースを見ないで、正しい情報蒐集に努めた方が良い)

 

つまり、不安と恐怖を無意識も含めて求める読者がいて、マスコミはシステムとして不安を煽る記事を書き、そこでグルグルとループして不安の渦を形成し、その渦が「煽っているように見える」のではないだろうか。

 

現状分析および結論その②

中国や各産業の利権に関しての行動は、「コロナを人為的に仕掛けた」ではなく

「コロナという事象をどう利用するか」という方向で向いていると考えた方が良い。

今回のウイルスは富裕層も含めて無差別なものであり、世間で陰謀論を企むと思われがちな人々は、そもそも人里離れ事態の動静を見守っている状態であろう。(高齢者も多いので)

おそらく中国においては既にインフルエンザのような扱いになりつつあると思われる(致死率、ワクチンや抗体も完全には効かず、逆に全く感染しない人もいるなど)

一方で、独裁国家のような場合は、コロナを煽ることに一定のメリットはある。

政情を安定させるために、脅威を煽ってそれを鎮圧したことによる政権の功績アピール(ベトナムやタイ、北朝鮮のようなケース)をしたい場合。

もう一つは、国が全体管理主義を推し進めたい場合である。

この先、中国がそちらの方向性に大きく舵を切らないとも限らない。コロナを口実に、あらゆる国民の行動や病状を把握し、管理する、という方向性である。

今回、封じ込めに成功していると言われる、台湾はITを駆使し方向性としてはそれに近いことをしており、手放しでは賞賛できない側面がある。

この先日本が注意が必要なのは、この全体管理システムの利権と政府が推し進め、それをコロナという恐怖に煽られ、一部の人が的外れな善意でそれを無自覚に後押ししてしまう、ということである。

 

つまり、全体の結論としは、コロナを陰謀論として捉えるのではなく、煽られた不安の中で、コロナを都合の良い方向に利用する勢力に対して、冷静なリテラシーを持って臨む必要があるということである。

 

 

MMT(modern monetary theory;現代貨幣理論)を吟味する

○はじめにMMTの特徴的な考え方(意訳・抜粋)

・円やドルのような強力な通貨を持つ政府は、借金してもデフォルトしない

・従って財政赤字を気にせず、プライマリーバランスを均衡させる必要もない

・従ってどんどんお金を刷って景気をよくすれば良い

 

MMTが懸念されているポイント

・通貨を大量に刷ることによるインフレおよびハイパーインフレの危険性

 

MMTが日本で注目されるポイント

・日本の経済政策はプライマリーバランス重視派で、それが論拠で消費増税をしているが、それは間違いではないか

・借金を気にせず、もっとお金を刷れば、デフレ脱却し景気が回復するのではないか

 

○気になるポイント

・お金を大量に刷ることは為替レートに影響を与えることは考慮されていない

→為替レートに影響が出ないあるいは、国際政治を無視すれば、極論を言えばお金を刷りまくって、他国の土地を幾らでも買うようなことができてしまう。

実際、ある一国がそのようなことをすれば、為替ダンピングだと非難されるのではないか。

 

・そもそも論としてお金を刷って財政支出をしても支出先がない

ケインズが、財政支出が雇用を生み出すと言っていた時代は、高速道路がないような時代。いまの時代に政府が財政支出をしても、例えば日本の場合、リニア線路をあと数本敷いて誰も使わない、一時的な景気効果しか望めないのでは。つまり、財政支出そのものを議論しても意味がなく、どう支出するかが重要なのではないか。

 

大きな政府とバラ撒きを前提

→基本的にMMTは金融政策と財政政策を両方完全にコントロールして、実施することを前提としている。

また、基本的にMMTの考え方自体が、国(大きな政府)が政策により経済をよくし、雇用を改善するという立場に立っているが、その結果が日本の場合、大量の無駄な公共事業やバブルだった歴史を忘れていないか。

雇用も経済も需要があるからまわるのであって、お金をバラ撒けば全て解決する(供給すれば良い)、というわけではないのでは。

 

・安直なバラ撒き論

→必要なのは

「働きたい人が、働けるインフラを整えること」

「働けない人、働かない人のコストを社会がどのような理由で負担するのか」

「どのような論拠でベーシックインカムのようなシステムを機能させるのか」

「需要が弱まっている中、どのようなシステムで経済をまわすのか」

「どのように社会保障費、支出を減らすのか」

 

議論するポイントはこの辺の方が適当で

 

「バラまいて景気をよくしよう」

「社会的弱者には政府がバラ撒こう」

 

という安直かつ、国民に耳障りが良いようなことを言っている様にも見えるし、その様な安直な主張をする政治家の根拠に使われている感がある。

 

・直感的な違和感、コントロール可能という幻想

→企業と政府のバランスシートは確かに違うが

だから企業と違って「借金しても大丈夫」というところには違和感がある。

基本的に無限にお金を刷るわけではないということを前提にしているが、では一体どの程度なら「大丈夫」であり、どうすればインフレも含めてコントロール可能なのかが不明瞭。

基本的にインフレ・ターゲット論自体、ずっと日銀が言っているが、全く達成もコントロールも現状としてできていないため、インフレ率を維持できる、というところに論拠が見えない。

 

MMTが正しく見えてしまう理由

・確かに日本やアメリカのような国は、借金をしてもデフォルトはしないこと

・政府会計と企業会計は違うという主張

・現代貨幣の本質は金兌換ではもはやない、という貨幣感

・デフレよりは緩やかなインフレの方が経済には良いのではという視点

・現状の消費増税の意味が不明瞭(プライマリーバランス均衡や、将来の世代への負担減を理由としているが、そもそも税収減の可能性もある)

・既存の経済政策の不明瞭さに対する不安に対するアンチテーゼに見える

 

つまり、MMTの根幹である「いくら借金をしても大丈夫」というところは不透明だが、その前提となる新しい貨幣感は従来の貨幣感よりも説得力があり、かつ、既存の日本の財務省の消費増税方針などに、あまり明確な論拠が感じられないため、いまの日本の閉塞感と合間って、相対的に良さげに見えるのではないか。

 

また、デフレになっているのも、経済システムが大量生産・大量消費の時代で、無駄なモノを作って経済をまわしていたが

既に先進国では、購買したいものを消費者がある程度買ってしまっており、消費のニーズがない。消費自体が縮小しているのがデフレの本質であり、金融政策・財政政策でなんとかしよう、と言う概念自体(消費牽引経済への復帰)は的外れに見える。

 

○感想・結論

MMTの論拠には正しいものもあるが、全体的に怪しいところがあり玉石混合。

とは言え、経済学は反対派も同じように玉石混合なので、どちらも説得力に乏しい。

そのため、素人からすると、どっちが正しいかわからない(正直どっちも怪しく見える)ため、自分の立場や都合によって、MMTという理論が政治家などにうまく利用されていないか。(基本的に経済リテラシーが低い国民にとっては、都合の良い理論のように見えるのもあり)

 

また、政府がコントロールして、経済をよくしていくなどのそもそもの前提が古い、間違っている感があるため、そもそも論がおかしい中で、議論しても何も正解が出てこないような印象。(MMTの正否を論じること自体が的外れ)

例えば、そもそも論として国の借金が膨らんでいるのは、日本の場合は膨大な社会保障費であり、予防医療の普及や歳出の削減に努めることがまず必要で「借金しても大丈夫だから」というのはそもそも論として違うのではないか。

 

(参考文献)

MMT現代貨幣理論入門 | L・ランダル・レイ, 中野 剛志, 松尾 匡, 島倉 原, 鈴木 正徳, 島倉 原 |本 | 通販 | Amazon

そもそもマニフェストではない(東京都知事選マニフェスト評価)

東京都知事選挙が始まり、賑わいを見せている中、恒例の全政党マニフェストレビューを実施してみました。

 

結論としては、どの政党、候補者にも言えることは

「これはそもそもマニフェストではない」ということです。

 

まずそもそも論としてマニフェストとは「公約」です。

当選したらこれを実現します、という宣言であり、基本的には「実現実行可能性があるもの」である必要性があります。

 

言い換えると、ある程度この政策はこういう財源で、誰がやって、というところまで、仕込みを終えてから、「これはやれる、実現できる」ということでマニフェストに入れるのですが

 

都知事選に限らず、日本の選挙では2009年の民主党埋蔵金なかった問題も含め、見切り発車、公約達成しなくても大丈夫文化になってしまっており

 

「公約」というより「なんとなく耳触りが良いことをいう」がマニフェストになっている感が否めません。

 

壮大なビジョンを掲げ、「やってみないとわからない、でいいじゃないか」という理屈もあるでしょうが、有権者側は個人責任として、政治家側のモラルとしては果たしてどうでしょうか。

 

実現実行可能性がないマニフェストは、気持ちの弁論大会に感じるというか、「私は悲しい」「私はやりたい」「私はみんなを助ける」とか、ポエムというか、個人的にはセンチメンタル過ぎて選挙感を感じないです。

 

もう一つ気になったのは、多くの公約において、民間と行政の垣根が曖昧であることです。

 

例えば、会社の残業を減らすような公約は、民間企業がどのような経営判断をするかにかかってきますから、行政として要請はできても、強制は現行の日本の法制度ではできません。

 

こういうものも、確かに「残業を0にする」といえば聞こえが良いですから、書いてしまうのかもしれませんが、「公約」に掲げるようなものではありません。

 

これは、有権者側も、どこまでが民間企業マターであり、どこまでも行政マターなのか、特に国政よりも地方政治の方がよくわからないこと、また官僚機構や法の仕組みがどのようになっているかのリテラシーの不足にも起因すると思われます。

 

もう一つ、これも国政も同じトリックがあるのですが、前の知事が計画したことを、たまたま次の時に終わった、あるいは引き継いで進んでいるようなものがあります。

 

こういうものは、マニフェストといいますか、そもそも論として、前任者や官僚機構や行政職員が努力していた結果であり、新しい知事の功績ではないことに注意が必要です。

 

ですから、選挙以前に達成できるかわからない公約を掲げること

ある意味、「嘘」をベースに選挙が行われているので、個人的には選挙全体に謎に漂うコント臭しか感じない次第です。(候補者のイロモノ度合いも含め)

そもそも達成できるかわからない公約をベースに、候補者を選ぶということ自体が、前提が破綻しているので。

 

総理大臣が「アベノマスク」なので、その下のレイヤーの政治家はこんなものかなといえばそうですし、日本の有権者で冷めている層は

この「なんともいえない茶番感」が理由であり、今ひとつ日本の政治が盛り上がらないことの本質ではないでしょうか。

 

突き詰めると、ある程度、政治が茶番をやっても、自然が豊かで国民が勤勉なので、ある程度国が回ってしまう、というのが日本の現状なのかなという気もします。

ただ、それは言い換えると、ちゃんとやれば日本のポテンシャルはこんなものではない、ともいえますから、もったいないことには違いないことでしょう。

 

国も一個人と同様、「恵まれている」という状況を管理できる器になっていなければ、宝のもちぐされなのだと感じます。

超高齢化時代の相続税と贈与税のあり方

超高齢化時代において、果たして今まで通りの相続税贈与税のままで良いのだろうか。

 

100歳まで生きて親が亡くなり、子が相続しても子供も既に70代80代となっていれば、そもそも子供の方が先に亡くなっているかもしれない。

 

また、70代80代で相続できたとしても問題は山積みだ。

・そのような資産管理や税金対策をすることがそもそも大変

・もらっても身体が悪いと医療以外に使い道がない可能性もある

 

そしてこれは国民、納税者側だけの問題ではなく、国に取っても良いとは言えない。なぜなら、例えば預金で相続が発生すると、相続税のみが税収となるからだ。

 

一度市中にお金が出回れば、消費税や固定資産税など他にも税収となりうるし、そもそも経済学的な乗数効果が全く異なる。

 

余談だが、そもそも日本の場合は消費税が高いことが問題なのではなく、トータルの税金が富裕層と健康的な人間に不利なようにできていることである。

 

例えばサラリーマン世帯、給与所得で年収が1000万であった場合、

所得税がまず33%に社会保障費が単身で100万円程度、税額控除があっても住民税が乗っかってくるので、手元に残るのは600万円〜700万円台くらいだろう。

およそ3、4割を税金で持っていかれることになる。

このうち、年金は積み立てで良いとしても、他の社会保障がどのように支払った税金のうち自身に返ってきているかの因果関係は不透明である。

医療費を支払う人は、元が取れるかもしれないが、健康的で病院にいかない人間にとって、社会保障費は殆ど税金と変わらない。

年金も、年収が2000万円台、あるいは企業の厚生年金や退職金が充実しているような場合は、あえて積み立てる必要もなく、国民年金が破綻でもしたら完全に税金と同じである。

つまり、お金を稼ぎ、健康であるほど、お金は取られるが、受けられるサービスの便益はない、ということが生じている。相互扶助といえば聞こえが良いが、少なくとも、税金の使い道は再考の余地があるだろう。

 

話を戻すが、高齢者が孫の学費を負担することは、税法上贈与にはならない

それに加えて、親族に限定して贈与税の上限を現行の120万円から例えば300万円にしたらどうか。

 

基本的にはお金を一番使うのは20代から50代までである。

 

これまでは、相続も70代、80 代で亡くなり、子供が40代、50代、もしくは60代であったからそこから色々な使い道があったが、その構図が変わりつつある。

 

基本的に年を取れば取るほど、お金を使うところが無くなり、自然、預貯金にまわる割合も増える。

 

それに対して20代から50代は、お金は使おうと思えばいくらでも使える年代である。

旅行、飲食、交際、大学、学習、結婚、家、子供の教育、趣味、娯楽

 

教育に限定せず、またアルバイトに学生生活の多くを費やすことなく、それこそ旅行でもなんでも使えるところを増やしたほうが、経済も回る。

 

それに対して、企業の賃金は変化しつつあるとはいえ、いまだに年功序列賃金であるため、若者はお金が必要な時にお金がない、というパラドックスはずっと生じている。

 

大学生も、アルバイトは良いが、本来の大学の目的は勉強することであって、アルバイトして、大学を卒業すれば良いというものでもない。

それが奨学金を返すために、アルバイトで大学生活を終えるのは矛盾している。

(ここも未だ学歴主義の企業の新卒採用が原因の一端にある)

 

高齢者や親が、子供の学費を払える家庭と払えない家庭があるのは、それこそ税金を投じることも一考の余地があるのではないか。

 

富裕層の中には、途上国の子供を個人的に支援するような人もいる。

それが、日本人の若者を支援することに置き換わるだけだ。

年収2000万で税金を半分持っていかれて、よくわからないマスクの製造費にされたりするくらいなら、前途有望な日本の若者一人を大学に行かせる、という使い道の方が、よほど払う側の納得感もないだろうか。

 

加えて、現状の住宅購入における非課税の対象も、親から祖父母まで拡大するのはどうだろうか。

 

三世代で考えたときに祖父母が90代、親世代が60代70代であるとすると、子供は30代40代である。ちょうど子供世代では家の購入の時期である。

 

対象的に、60代70代になって、新たに家を建てるということはないわけでもないだろうが、世の中的なニーズで比べた場合は、30代40代の方が子育てで、広い空間を必要になるため、ニーズが高いだろう。

 

国としては、贈与、相続で税収を賄うのではなく、消費税になるべく一本化して、トータルの税収で考える必要があるが、もし財務省内で各部署の税金担当がそれぞれの税収が落ちた落ちないで、勢力争いは出世が絡むと実現は難しいだろう。

 

基本的に相続税贈与税の見直しも含め、お金を使う目的がない人、使い方を間違えるところから、使い道がある人、正しく使うところに移動させる仕組みが必要である。

 

<まとめ税制に関する提案>

贈与税の上限を親族を限定に300万に引き上げ

・住宅購入に関する支援の非課税対象を親世代から祖父母世代まで引き上げ

・若者がアルバイトしなくても大学にいける仕組みを作る

・そもそも払った税金に対する便益をできるだけ明確にする

ものの値段の本質

人間は高いもの程価値がある、と勘違いしがちです。

 

ですが、よく考えてみると人にとって本質的に価値があるもの程高く、実態のないものが高かったりします。

 

まず生きていくのに絶対的に必要なものを上げます。
空気 無料
水 日本ではほぼ無料
食べ物 安い

 

次に必要と思われるもの
衣服 ブランドものでなければ安い

住居 都市は高いが地方ではそうでもない

冷暖房費 寒いエリアは暖房費はややかさむ

 

今度は逆に値段の高いものからあげていきます
会社 数百億、数千億で株が取引される
土地 買おうと思えば数百億単位でも(ただし土地の権利)
高級マンション 5000万円〜
スポーツカー 2000万円〜

(以前お金があったら何が買えるかまとめたもののも参照)

http://itseiji.hatenablog.com/entry/2015/02/11/231423

 

会社は土地はビジネスやライフスタイルで取得する用はあるかもしれませんが、生きていくのに必要なライフラインではないです。

高級マンションやスポーツカーにも同じことが言えます。

 

これは言い換えると

本質的に人にとって必要なものはお金では買えない
生きることに絶対に必要でないほど高い
ともいえます。

 

もっとわかりやすく言えば命そのものはお金で買えません。

 

あるいは友情や愛情もお金で買えるという人もいるでしょうが、それはお金で買える愛情と友情と、お金では買えない愛情と友情があるに過ぎません。

 

他にも例えば医療も人の命に関わることですから、日本の場合は国民皆保険制度まあり、低く抑えられるような仕組みになっています。


電気やガス、鉄道などの交通インフラも誰もが使えるように安くなっています。

 

反対に、ブランド品やデザインのあるものは高値が付きます。

これは言い換えると、サービスや信用、感情、美しいものといったものには、人は絶対的に必要でなくても、それ以上にお金を払うということです。

 

どう考えても必要性の高い水や空気よりも、iPhoneの方は圧倒的に値段が高いですが、あまりそこは人は気にしない、ということです。

 

そしてサービスに対する付加価値は主観で決まっています。

http://itseiji.hatenablog.com/entry/2015/05/12/182322

 

主観ということは言い換えると、例えば高級ホテルや高級レストランが、普通の何倍の値段だったとして、そのホテルの部屋が比例して何倍も広いわけでも、味も何倍も美味しいというわけでなくても構わない、ということです。

 

フェラーリが普通の車の値段の倍しても、スピードやサイズが倍になるわけではないのと同じです。買い手が納得してればなんでもいいのです。

 

まとめると人間の性質で見ると、モノの値段、プライシングには以下の性質があります。

・本質的に人に重要なものほど安い

・最も高いものほど実態がない(権利が取引されるだけ)

・お金に余裕がある時は、感情的に快適なものにお金を払う

 

言い方を変えると

・いくらお金持ちになっても買えるのは、実態のないものだけ

・感情に快と感じるものにお金を払うのであれば、それより不快な思いをしてお金を稼いで、サービスにお金を払う場合は、完全に自己矛盾している。

・本当に大切なものはお金では買えない