IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画ネタなども。5分で読める1,000文字、10分2,000字を目標。

資本論の交換に関する考察①

マルクスの著書『資本論』の本質的な議論の一つに「交換」の定義がある。

 

論中、交換価値とは極めて主観的なものであり、資本と労働という関係性において、特に労働者は「搾取」されている、というのが内容の一つである。

 

今回はこの交換価値が主観的なものである、という点にフォーカスして論じてみたい。

 

まず、交換価値が主観的である、というのはそもそも通貨、貨幣がヴァーチャルなものから始まり、交換に関する絶対的な原則がない事から始まる。

 

1万札は実際は1万円の価値があるわけではない。製造原価は微々たるものであり、言ってしまえば人間が紙切れに価値があると思い込むことにより発生している事象に過ぎない。これが貨幣のヴァーチャル性である。

 

ヴァーチャルなものによって値付けされるモノたちも、必然的にヴァーチャル性を伴うものになる。

 

ここで古典派の経済学者たちは、市場の需要と供給によってモノの「価格」が決定される、と言う。これは裏を返せば、価格とは「希少性」に起因する、ということになる。つまり、需要が高いが供給が少ないモノが、価格が高くなり、供給が多いが需要が少ないモノは価格が安く、なるということだ。

 

これをとりあえず価格決定のメカニズムを「希少性価値基準」と呼ぶことにする。

 

しかし、現実は古典派の理論通りではなく、企業が資源を独占し、価格をコントロールしたり(例えばデビアス社のダイアモンドに対する)政府が市場に介入して、価格を引き揚げたり下げたりする。(例えば日本の減反政策)

 

従って、原則交換価値というものは、市場における希少性価値基準で決定されるはずが、様々な外部効果、情報の非対称性によって、歪みが発生し、よりヴァージョン性を増していくというわけだ。

 

(ここでいう情報の非対称性とは、例えば労働市場における労働者の賃金決定のメカニズムがそうだ。雇用者は労働者の完全情報を入手することが不可能なため、相対的な比較や慣習によって、賃金が決まり、それはしばしば実際の労働付加価値とは乖離する)

 

もう一つ、交換価値がヴァーチャル性を帯びるのが、人々の付加価値に対する需要そのものも主観的だからである。

 

例えば、ホテルの宿泊で考えてみるが、四つ星のフォーシーズンズホテルは平均的なシティホテルの数倍の値段がするが、「宿泊」というホテルの本質的な機能が数倍に変化する、例えば数泊余分に泊まれるようになるわけではない。

 

人々がフォーシーズンズを支持するのは、そこにある「体験」例えばそれがアメニティーであったり、ベッドのリネンの質であったり、ホスピタリティーであったりなんでも良いが、「体験価値」がシティホテルの数倍の価値がある、とユーザーが思い込む事によって成立している。

 

実際はベッドのリネンはシティホテルの1.5倍程度の値段のもので、アメニティーも2倍位、トータルの原価はシティホテルの2倍位かもしれないが、フォーシーズンズというブランド価値をユーザーに認識させることによって、4.5倍の価格の値付けをすることができる。

 

つまり、この場合も価格は極めて主観的なものによって決まっていると言える。従って、フォーシーズンズがシティホテルの数倍の価値はない、と思うユーザーは違うホテルを選択する、という行動に出るだろう。

 

この場合の価格決定理論は、希少性価値基準とは異なり、ユーザーの考える付加価値の相場、すなわち「付加価値判断基準」というもので決定されると名付けることにしよう。

 

ここで交換価値について、いったん話しをまとめると、市場の交換取引には2つの交換基準が存在する。一つは「希少性価値基準」であり、これは政府や企業といったプレイヤーにより、価格が歪められ、よりヴァーチャル性が増して行く。もう一つは、「付加価値判断基準」であり、基本的にデマンドサイドの主観によって価格が形成されるヴァーチャルなものである。

 

つまり、要するに資本主義においては、貨幣がヴァーチャルである。貨幣によって交換されるモノの価格もヴァーチャルである。そして時に、交換されるモノそのものも価値もヴァーチャルである、ということになる。

 

ここで一つ、全く違う角度からモノの交換価値基準を作ってみたい。それは「生存価値優先基準」である。

 

この交換価値基準とは、すなわち、人間が生存に関して優先度が高いモノから高価格の値付けになる、というものだ。当然最高値は空気、水、そして食糧、エネルギーだろう。

 

現在、現実では空気はフリー、そして水も日本ではただで手に入る地域もある。食糧、エネルギーは国家が市場に介入することによって安く抑えられている。

 

なぜ、ここで「生存価値優先基準」の話しをしたかと言うと、まず人間は生存に関して優先度が高いものに、現在は必ずしも高い価格の支払いをしているわけでないない、ということを言いたかったからだ。

 

もう一つは、マルクスの指摘する交換価値の主観性、それ自体が搾取を産み、市場を歪めていると仮定して、では交換価値の適切性を政府ではなく、一定の価値基準を市場がもって決定した場合、どうなるか、ということを議論したかったからである。

 

実際、「主観的な価値」に依らず、価格が決定されるのなら、希少性で価格は決まるし、かつ人々の生存に優先度が高いモノから価格が高騰するだろう。

 

しかし、現実にそうした「より客観的な価値基準」で価格が決まった場合どうなるだろうか。空気は現実的に今直ぐの議論には成り難いが、既に水や食糧、エネルギーといった分野では、アクセスのできない人々が増えている。

 

それらの資源を国が介入することなく、客観的な価値で値付けをした場合、多くの人々が生存資源にアクセスできなくなる。実際、まだこれらの資源が人口に対してまだ豊富にあるから、安く入手できるわけであって、供給が減少した場合、どうなるかは全くわからない。

 

実はこれが示すのは非常に皮肉なことだ、というのが本稿で言いたい結論である。

 

すなわち、貨幣や価格、需要といったものが主観的であり、政府や企業のような価格を歪めるプレイヤーがいるからこそ、ヴァーチャルであればあるからこそ、我々の生活は維持され、生存に適うのだ。そしてそれはヴァーチャルであればある程、労働者は収奪される。つまり、交換価値が主観的であるからこそ、我々の生活が守られるが、主観的であればあるほど、労働者は搾取されるという皮肉な運命が導かれる。

 

(実際は本稿は価格に関する議論だけで終始しており、それと労働者の収奪との関係性は改めて検証する必要性はあるのだが)

 

それはヴァーチャルであればある程、人類が夢想的で生存に必要のない消費をすればするほど、資本主義社会は維持され、人々は豊かになっていくが、資源は尽きていくという、現代社会の現象の本質を貫いている。

 

裏を返せば、人々がモノの価値において極めて客観的になり、地球資源を保存し、交換のリアリティーが高まれば高まるほど、今の社会は失われ、そしておそらく人々は今のような豊かさを享受できなくなる、というわけだ。

 

これはすなわち、資本主義の打倒を夢見る、プロレタリアートを代弁する左翼主義者たちにとっては絶望的な真実であり、同様に環境保護論者、社会を良くしようと考える理想主義者たちにとっても、最初に訪れる壁であろう。

 

労働者の解放も、地球の保護も、全ての人に高い教養を与えることも、持続可能な社会というものも、全て同様に今のモノが豊富な豊かな社会とは逆行するのだ。

 

それも当事者たちが思っている以上にそれは、深刻な現象を引き起こすであろう。

 

私は左翼ではないし、資本主義論者ではない。持続可能な社会を目指し、全ての人々に高い教養ある社会を目指すが、そこに帰結した場合に関する社会というものの予測を怠ってはいけない。可能な限り想定し、デザインすることが、大きな社会システムの構築に関わる人間、すなわち知識人や政治家、官僚の義務ではないかと思う。