東京都知事選挙が始まり、賑わいを見せている中、恒例の全政党マニフェストレビューを実施してみました。
結論としては、どの政党、候補者にも言えることは
「これはそもそもマニフェストではない」ということです。
まずそもそも論としてマニフェストとは「公約」です。
当選したらこれを実現します、という宣言であり、基本的には「実現実行可能性があるもの」である必要性があります。
言い換えると、ある程度この政策はこういう財源で、誰がやって、というところまで、仕込みを終えてから、「これはやれる、実現できる」ということでマニフェストに入れるのですが
都知事選に限らず、日本の選挙では2009年の民主党の埋蔵金なかった問題も含め、見切り発車、公約達成しなくても大丈夫文化になってしまっており
「公約」というより「なんとなく耳触りが良いことをいう」がマニフェストになっている感が否めません。
壮大なビジョンを掲げ、「やってみないとわからない、でいいじゃないか」という理屈もあるでしょうが、有権者側は個人責任として、政治家側のモラルとしては果たしてどうでしょうか。
実現実行可能性がないマニフェストは、気持ちの弁論大会に感じるというか、「私は悲しい」「私はやりたい」「私はみんなを助ける」とか、ポエムというか、個人的にはセンチメンタル過ぎて選挙感を感じないです。
もう一つ気になったのは、多くの公約において、民間と行政の垣根が曖昧であることです。
例えば、会社の残業を減らすような公約は、民間企業がどのような経営判断をするかにかかってきますから、行政として要請はできても、強制は現行の日本の法制度ではできません。
こういうものも、確かに「残業を0にする」といえば聞こえが良いですから、書いてしまうのかもしれませんが、「公約」に掲げるようなものではありません。
これは、有権者側も、どこまでが民間企業マターであり、どこまでも行政マターなのか、特に国政よりも地方政治の方がよくわからないこと、また官僚機構や法の仕組みがどのようになっているかのリテラシーの不足にも起因すると思われます。
もう一つ、これも国政も同じトリックがあるのですが、前の知事が計画したことを、たまたま次の時に終わった、あるいは引き継いで進んでいるようなものがあります。
こういうものは、マニフェストといいますか、そもそも論として、前任者や官僚機構や行政職員が努力していた結果であり、新しい知事の功績ではないことに注意が必要です。
ですから、選挙以前に達成できるかわからない公約を掲げること
ある意味、「嘘」をベースに選挙が行われているので、個人的には選挙全体に謎に漂うコント臭しか感じない次第です。(候補者のイロモノ度合いも含め)
そもそも達成できるかわからない公約をベースに、候補者を選ぶということ自体が、前提が破綻しているので。
総理大臣が「アベノマスク」なので、その下のレイヤーの政治家はこんなものかなといえばそうですし、日本の有権者で冷めている層は
この「なんともいえない茶番感」が理由であり、今ひとつ日本の政治が盛り上がらないことの本質ではないでしょうか。
突き詰めると、ある程度、政治が茶番をやっても、自然が豊かで国民が勤勉なので、ある程度国が回ってしまう、というのが日本の現状なのかなという気もします。
ただ、それは言い換えると、ちゃんとやれば日本のポテンシャルはこんなものではない、ともいえますから、もったいないことには違いないことでしょう。
国も一個人と同様、「恵まれている」という状況を管理できる器になっていなければ、宝のもちぐされなのだと感じます。