いまニュースで話題のロシア、ウクライナ問題に関して、専門家と称する輩に甚だ疑問を感じる。
どちらの専門家も、歴史上の経緯を述べた上で、ロシアのプーチンが頭が狂った、あるいはゼレンスキーがコメディアンだ、といったレベルの話が平然とマスメディアでなされている。
マスコミを通して、専門家という肩書きで話せば
ネットで検索して学生でも言えるような感想を、言っているに過ぎないののに、
なぜ人々が傾聴してしまうのかが不思議である。
そもそも、「専門家」とは何なのか。
インターネットが当たり前のように使われるようになった現代では、
実は従来の専門家の意義は大きく変わっている。
昔はそもそも、今回のような国際関係の専門家と言えば、
その国の言語をマスターしていることが重要であった。
しかし、今はGoogle翻訳の発達により、現地の言語がわからなくても、現地のニュースが読めてしまう。
また昔は現地に言って、そこの人々に話を聞かなければ得られなかった情報が、
webやSNSで手に入るようになってしまった。
つまり、「言語が話せて」「現地の文化や歴史を知っている」という専門家は既にインターネットによって陳腐化していることになる。
そしてこれは、国際政治の専門家に限らない。多くの分野の専門家にも言えるが、
そのためにはまず、職業に関する知識分野を大きく二つに分けて考えたいと思う。
一つは「蓄積が必要な分野」
もう一つは「気がつけば誰でもできる分野」としよう。
蓄積が必要な分野は、例えば物理学のような学問の世界である。
例えばマクスウェル方程式を理解するためには、複素数、三角関数、微分などといった複数の数学的な知識や、古典的なニュートン力学の考え方などがわからないと、充分な理解ができない。
これは知識に限らず、アスリートや職人のような経験、蓄積が必要な分野全般に言えることで、やり方がわかっただけでは、直ぐにできるようにならない分野である。
こうした蓄積を持っている人間は「専門家」と呼んでも違和感はないだろう。
もう一つは、気がつけば誰でもできてしまう分野は、今回のウクライナ情勢のように、ネットで調べれれば、それなりのことが言えてしまうようなもの全般である。
こちらは誰でも同じようなことができるので、専門家としての価値はない。
ネット以前にはあったかもしれないが、もはやないと言える。
ここで価値があるとすれば、それは一次情報を入手できる人物である。
今回の話で言えば、ゼレンスキーあるいはプーチンと直接やりとりができるようなことは、
ほとんどの人ができないため、専門家としての価値があると言える。
一次情報を聞けば誰でも同じことができても、一次情報そのものを得ることが極めて難しいからである。
つまりインターネットの発達によって
①経験や蓄積がある
②一次情報が入手できる
という二つのことを除いては、ほとんど専門家というのは存在意義を失っているのだが、
社会が明確に「専門家とは何か」ということを認識できていないので、ゾンビのようにマスメディアで生きながらえてしまっていると言えよう。
つまり、このどちらかがない人間の発言は、自分で調べた結論と大差ないので、特に傾聴に値するようなものではないと思われる。
従って、その発言している人間が自称専門家だろうが、お金持ちのどこかの元IT社長であろうが、インフルエンサーだろうが、意味がないし、間違った情報が拡散するだけなので、静かにチャンネルを変えることが良いと思われる。
あるいは、物語を見ているような感覚で、一人の感想、情報、ストーリーとして、捉えるような感覚で見た方が良いだろう。
専門家という陳腐化してしまったものを、今一度ネット時代に合ったものにハックする必要があると感じた。