□なぜ使命か?
これからの時代は一人一人の個性を活用する時代なのは間違いない。
言うまでもなくそれは、国際競争の激化や、AIやロボットにより誰でもできるような仕事はとって代わられるからである。
では何故人間の個性に留まらず、使命と呼ぶような領域まで話が及ぶのか、ということにはいくつか補足説明が必要だろう。
まず、一番大きなところは環境問題、SDGsといった論点である。
これまでは人間が思う存分、利己的に振舞おうとも、地球の方が、キャパシティがあったため問題にはならなかった。
しかし、結果として環境問題が深刻になり、それにある程度制限をかける必要性がある、状態まで閉まっている。
とりあえず売れるから木を伐採しまくれば良い、ではなく地球環境と人々の生活を両立させることが当たり前で求められる時代になった、ということだ。
そのような世界観になってくると、これまでのような合理性・利便性だけを追求するようなコーポレート・カルチャーというものは、単なる利己主義としか見なされなくなってきている。
いくら個人が個性や才能を発揮しても、それが、社会的にも利益がなければ評価されない、つまり社会そのものが個人や企業にミッション性、使命を求める時代になっているのである。
もう一つはそれに伴う人々の大きな意識の変化である。
日本ではバブル、海外ではmaterialなどと言われるように、拝金主義的な生き方に対して、そもそもいまの若い世代は冷めた目で見ている。
それは日本の若者がひと昔前よりも貧しくなったから、という側面もあるが、
インターネットによる情報収集力の飛躍的な革新の方が、影響が大きいだろう。
その気になればいくらでも情報を集められ、いま何が起きているか、自分は、本当は何が欲しいのか、などインターネット誕生前の時代に比べて、明らかに認識力が向上している。
情報がない時代は、そもそも一般人にとって、お金持ちがどんな生活をしていて、何ができて何ができないかも良くわかっていなかった。
それがお金持ちでも品がないとか、これくらいのキャリアでこれくらいの収入があれば自分の欲しいものは手に入るとか、より具体的に可視化された情報も手に入るようになった。
そしてSNSの普及により、自分が行きたい会社や、起業したい場合は起業家と繋がれる、あるいは話だけでも聞ける機会なども圧倒的に増えた。
結果として、情報過多の沼にハマって彷徨う若者も増えたが、自分のやりたいことや価値観がより俯瞰的に見えるようになってきている世の中といえよう。
それにより、結局仕事ができても拝金主義なだけでは、格好悪い、地球環境を汚染して自分だけが美味しいものを食べる世界観がみっともない、そういう風潮にまで及んでいる。
それが若い世代に起きている変化である。
□オリジナリティーとは何か
もう一つ、オリジナリティーという点について、何故使命や個性と分けて挙げたかといえば、突き詰めていくと、人間はオリジナリティーを持つのはなかなかハードルが高い、ということを感じたことだ。
つまり、個性を発揮し、自分の才能を有効に活用し、社会的な使命感はあったとしてもそれはオリジナリティーには到達したいのではないかと思ったのである。
そう思ったきっかけはイギリスのミュージシャンEd SheeranとLuwis Capardiを見ていたときだった。
Ed Sheeranはその人柄のよさも相まって、今世界で最も人気のあると言っても過言ではないミュージシャンである。
ギター一つ、ストリートで歌い上げるスタイルがベースにあるが、最近出てきたLuwis Capardiも同じスタイルで歌い上げる。
もちろん両者に音楽的な差異は大きくある。
ここではその話については触れないが、重要な気づきはEd Sheeranほどのミュージシャンであっても、オリジナリティーの危機感を感じるのだろうということだ。
そしてこれはおそらく聞き手よりもむしろ、当事者たちが一番理解していることだろう。
時折、才能あるミュージシャンやアーティストが理解不能は自殺をすることがあるのも、
おそらく彼らにしかわからない才能の限界のようなものを感じ取ってしまうからだろう。
似たようなミュージシャンが現れた時に、彼らは常にアイデンティティの危機に晒されている。
他にも例えば世界的なスーパースターJustin Biberなども、他のミュージシャンと何が違うのか?といえば、その理由は音楽性だけに留まらない。
歌唱力が抜群なのは当たり前、見た目や選曲、プロデューサーの腕、踊れるか否か、など含めると、ミュージシャンとして売れているのか、差別化できているのか、と言われれば、だんだん判断が難しくなってくる。
そもそも音楽の世界において楽曲は過去の楽曲からインスピレーションを受けているものだ、完全がオリジナルなんてものは存在しない。
そのような中で他との差別化、唯一性を担保するのが、果たして人柄や見た目だったとすると、ミュージシャンとしてはその結果に納得ができるのであろうか。
それは、ファンは当然気にしないだろうが、周りの人間や本人としてどうか、という世界である。
これは社会の他の仕事についても当てはまる。例えば、医者や会計士、弁護士、官僚、政治家、あるいはコンサルや外銀、商社と言った、学生にとっては憧れでエリートと呼ばれるような職業であっても同じである。
単なる医者であれば、いくらでも換えが効く。大手会社員であれば尚のことである(そもそも大手は誰が社員になってもある程度回る仕組みを作るので)
ミュージシャン、アーティストにですら当てはまるとすると、さらにこれは経営者、起業家にですら当てはまることがある。単にお金を稼ぐ、あるいはプログラミングができるレベルでは替えが効いてしまう。
もちろん、アーティストを目指す人間に比べて、医者や大手会社員を志す人間がそこまでオリジナリティーを追求するとは思えないが、資本と時代が人間にロボット以上の付加価値を求めている以上は、いずれそれと直面することになるだろう。(そうでなければロボットよりも効率が良い、という意味でマトリックスの電池パーツのような扱いになってしまうかもしれない)
複数の強みを持っておくことが、差別化という点は有効である。
例えば弁護士だが会計のこともわかる。医者だがITに詳しいなども、
弁護士同士、医者同士、という間においては、それなりに有効であることは間違いない。
しかし、単純な組み合わせ論で考えた差別化は誰もが思いつくので、唯一性というものを担保するには、より複雑か飛躍した組み合わせが必要になるだろう。
とはいえ、現状は自分の才能すら認識ままならず、企業のミッションもSGGsに合わせようと四苦八苦になっているようなレベルなので、オリジナリティーがアーティストの世界の外でも意識化されるのは、だいぶ先のことにはなるだろう。
一方で、つまり現状多くの人はいわゆるエリート的な職業に就いていても、大半は代替可能なパーツ的な仕事しかできていないのではないか、と考えてみることはこの先の時代を考えると有益な思考と言えるだろう。
そしてオリジナリティーとは、単なる才能や職業だけでなく、その人の経験や生まれ、価値観その全てが組み合わさって描かれるものである。
何故ならば、全く同じ人生を全く同じ肉体などの条件で送ることは、物理法則的にも人間は不可能なので、普通に生きていれば、一人一人は全くのオリジナルになるのが本来は当たり前である。
しかし、それが人生の多様さに留まっているが、仕事、あるいはクリエイティブな領域におけるアウトプットになり、それが人の役に立つような世界とは素晴らしいものだといえよう。
一人一人が代替可能なパーツではなく、ある意味全員がクリエイターでありアーティストでもあり、異なる付加価値を生み出し、その集合体としての社会が存在する。
そのような世界観は到底 AIには不可能であるし、仮に本当の意味でのAIが誕生しても、今度はそのAIが AIにしかできないオリジナリティーを発揮すれば、それは共存が可能な世界となり、シンギュラリティなどと呼ばれるものはある種の被害妄想の産物となるだろう。