IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

ロボットの人間化、人間のロボット化(人間の本質とは何か)

□機関構造に従うとロボット化する

今起きていることは、ロボットの人間化(AI)と人間のロボット化である。

前者には気づいても、後者にちゃんと気づけている人は少ないのではないか。

 

人間のロボット化、それは、人がそれぞれの立場で責務を果たして行動すればするほど、仕組みの中で間がロボットのように振る舞う、という状態である。

 

例えば、SNSではマスコミ批判、政治家批判、場合によってはコロナの件に絡んで製薬会社批判なども見受けられる。

 

批判する理由としては、要約すると、「国民にとって不利益がある」、といった内容になるが、実際問題としてその批判には的外れなところがある。

 

□企業の機関構造を理解する

まずマスコミの主な収益源は広告である。そして広告収入はどこからもたされるかといえば、企業スポンサーからである。

 

自分がマスコミのトップだったと思って想像して欲しい。

 

大手スポンサーから多額な収入が入ってくるのを、市民のためにならないから、と言って断ったとすると、会社にとって大幅な減益となる。

それは株式会社においては、株主に対して背任行為とも言える行為となる。

 

つまり、企業のトップとして(あるいは中にいても)責任を果たすことは、その大企業が国民の利益を損ねていようが、全力で広告を垂れ流すことにある。

 

製薬会社にしても同様だ。全く効かない薬を売るのは流石に無理があるが、ある程度の見込み、現状より良くなる可能性が少しでもあれば、売ろうとするのが普通である。

 

□政治の機関構造を理解する

最後に政治家だが、残念ながら政治家は現状全てが国民に仕えているわけではない。

政治家とは、特定の利益団体の代弁者なので、その利益団体が国民ではない場合は、国民を弁護することはない。

 

何故ならば、政治家になるには、資金と票が必要である。

その両方を提供する相手がその政治家にとって仕える相手となる。

SNSなどで過激に企業のトップや政治家を批判する人々は、さぞ彼らは邪悪な人間だろうと、思っているかもしれないが、実際は批判している人間と大差ない、普通の人間であることが多い。

 

□個人ではなく機関構造に問題がある

ただ、個人がそれぞれの職務において、必要なことをしているに過ぎないのが実際は現実に近い。

 

従って、その一見すると邪悪な人間を追い出して、新しい人間をそこに差し替えたとしても、繰り返し全く同じ状態が作られていくのではまず間違いないだろう。

 

そしてそれは、おそらく現状批判している側が、そのポストに収まっても同じ行動を取るくらいに仕組み化されている。

 

では、その普通の人間がそれぞれの職務を全うすることで、何故人々が批判したくなるよう事態が生じているのであろうか。

 

それについては、「個人が不利益をもたらしている」、という発想自体に問題がある。(もちろん純粋に個人が悪い場合も存在するが)

 

それは多くの場合、個人のせいではなく、むしろ人が制度の奴隷、企業の奴隷、機関の奴隷のような構造となっていることから生じる、と認識しなければならない。

 

そしてこの人が「制度や機関の奴隷と化している」のが、「人間のロボット化現象」である。

 

まずこの状態を認識することが物事のスタートとなる。

 

□機関構造を議論する必要がある。

従って、国民に不利益が生じているとしたら、個人を批判・攻撃するよりも、機関構造そのものを議論していく必要がある。

 

例えば、マスコミが国民にとって不利益な報道をするのは、スポンサーが大企業であることに起因する。つまり、国民が資金を集め、新しいメディアを作れば、国民目線のメディアを作ることは可能である、ということである。

 

ここでマスコミという組織とそこに所属する個人を批判するよりも、よほど具体的な提案ができたと思われる。

 

仮にマスコミ批判を続けていても、株式会社という形態を取り、広告収入というビジネスモデルを取る限り、誰が社長になっても同じことを繰り返すだろう。

 

これは他の企業形態や政治家にも同じことが言える。

 

そして人間のロボット化は、このまま進むとどんどん加速していくことになる。

 

PHRと利便性の奴隷

その中心となるのが、PHR(パーソナル・ヘルスケア・レコード)を中心とした人間のデータ化である。

 

PHRの幅は広い。現在Apple watchなどで計測されている心拍数のような健康に関わる基本的な生体データから、遺伝子検査まで、人間に関するデータを蓄積し、それを活用して行こう、という領域である。

 

確かに非常に利便性があるが、個人のデータ、生体データを企業や国家が管理する、という状態はかなりのリスクを伴う。(中国の信用スコアなども一つのそうした管理社会的な副産物と言える)

 

しかし、そもそものPHRの発想というのは、文字通りヘルスケアの分野から生まれたものだ。

その人のパーソナルデータにあった処方をすれば、より製薬的にも予防的にもより建設的な提案ができる、その利便性から生まれたものであると言える。

 

その上では如何にリスクが伴っても、この流れ自体が変わることはないだろう。

 

だが、利便性を追求することに関してはトラップが潜んでいることに目を向けるべきだろう。

 

一つは、例えば、利便性だけを追求するのであれば、例えば選挙であれば全て電子投票にすれば良い、という発想が生まれる。

しかし、電子投票にすると今度は改ざんの恐れが生まれる(今もそれは0ではないが)だから、電子投票にするには慎重な議論をしよう、ということになる。

 

これと同じことが、本来はあらゆるビジネスにおいて考慮される必要がある。

しかしビジネスの実際はそんなことを一々考えていたら進まない、ということでそうした規制を嫌う傾向がある。

 

□人は目的や思想でもロボット化する

そのような思考を持つ代表格が、ホリエモンだろう。

彼の行動は、利便性や合理性に特化しているように見える。

利便性や合理性というところだけを追求すると、彼の行動は企業人としては正しいが、社会全体として、あるいは利便性以外の視点を考えていない、というところが危険視されたのが国策捜査による逮捕だと思われる。

(本人はロケットでまた同じことをやろうとしているので、まだその点は無自覚であるように見えるが)

 

ホリエモンは利便性あるいは合理性の奴隷のようである。

しかし、利便性に仕えて、他を無視したほうが、企業人としては成功し、その成功が雇用やイノベーションを産む可能性があることを考慮すると、それ自体を批判することが必ずしも正しいとは限らない。

 

人間は機関のみならず、ある種の思想や目的に対して忠実になればなるほど、その目的に対しては誠実な結果が出せるが、その他の命題に関してはそれを損なうことがある。

 

個人や企業が、利便性だけを追求すると、結果的に人々の不利益になることがある、という構造は先ほどマスコミの例で述べたのと同じである。

 

□行き過ぎた企業の利益追求をどうバランスを取るのか

企業人としての個人は、利便性を追求することで、才能が果たされる以上、ある程度企業人には自由に動いてもらいつつ、法や秩序はそれをどう制限するか、という議論をするのが本来適切な議論ではないだろうか。

 

だが、現状はそうした企業人の自由さで生まれた利益を、既得権を守るために国家が潰しにかかり、ホリエモン国策捜査のように、才能そのものを塞ぐような権力の行使をしているような状態ではないだろうか。

 

そのアンバランスさを議論するためにも、そもそもまずは構造上の問題を人々が正しく理解する必要がある。

 

□放っておくと人間はロボット化される構造

これまでの例を見ると、人間はある条件下においては既にプログラミングされたコンピューターと似たような動きをするイメージがわかるのはないだろうか。

 

「株式会社の社長」という立場に押し込めば、誰でも同じような行動を取らせることができる、というのは人間の脳にはそもそも非常にロボット的なところがあるからであろう。

 

洗脳、あるいはマインドコントロールなどといったものが蔓延るのも、同じ仕組みである。

 

あらゆる面で、人間は自分達が思っている以上にロボット的なところがあることを理解する必要がある。(これは人間がロボットだと言っている訳ではなく、そのような性質があることを理解することで、より人間らしさとは何か、という議論もより建設的になる)

 

そうしないと、企業あるいは政府の都合を追求すれば、あるいは国民が利便性を追求すればするほど、ますます人間は文字通りマトリックスのような電池パーツ化されていくだろう。

 

何故ならば、データの話でいえば、企業の立場に立てば個人のデータがあれば商売をしやすい。国家の立場に立てば、個人のデータがあれば、税金を取りっぱぐれがない。

 

そしてどちらも、最終的には個人はパーツ化してくれた方が合理的で利便性がある。

少なくとも国家や企業にとっては。

 

そうなると、ますます個人の人権や情緒的な都合など、脇に追いやられていくだろう。

そしてそれはもちろん、PHR、データという概念に留まらず全ての分野で生じている問題でもある。

 

□人間の本質とは何か

また、AIもディープラーニングによって、だんだん人間に近づいてきている。

AI研究というのは、実際は「人間とは何か」ということを深く知ることができる分野といえよう。

 

既に認知領域においては、哲学的なテーマが研究の下地となってきており、またむしろ生物学的な領域からAIに切り込むアプローチも存在するが、そうすると最早ホムンクルスの領域である。

 

AIを研究することが人間研究のようなものにもなっている。

そしてAI研究の副産物として、人間とはどういうものか、人間のどこまでがプログラミング的な思考をするのか、という点は今起きている人間のロボット化、構造の奴隷化を理解する役には立つだろうか。

 

いずれにせよ、今そして、これから目を向けなければならないのは、人間の本質についてである。

 

人間が利便性を追求すると、あるいは社会で責務を全うすると、それが人間に機関構造的に不利益になる。あるいはそのような状況になると、人間はロボット化する。

このような基本認識ですら、社会においてはコンセンサスが得られないのが現状ではないだろうか。

 

人間は宇宙ロケットを開発し、スマホのような超小型コンピューターも作り上げ、テクノロジー的な分野に関しては、非常に進歩したと言えるが、人間の内面世界においては、それに見合った進歩が見られているようには見受けられない。

 

教育の現場ではいじめが繰り返されるがなくならず、先進国では自殺が後を絶たず、お金はあっても誰もがストレスや悩みを抱えて生きている。

 

テクノロジーの進歩に対して、これらの問題が未解決なことはこうして並べて見るとそのギャップに驚かざるを得ない。

 

スマホは作れて、世界の裏側とは会話ができても、身近な人間との会話のストレスからは解放されていない。

 

そしてそれらの原因が人間の本質にあることに気がついてはいるものの、事態が前に進まないのは、基本中の基本のような前提、起きている現象というものを、実際は多くの人々は捉えられていないことにあるのではないだろうか。

 

従ってまずは人間が構図の奴隷になっていることを気づき、そこからようやく利便性や合理性との対話が始まるのではないだろうか。