日本でも一時期雑誌「レオン」を代表するように、「ちょい悪オヤジ」が流行った時期があった。
もちろん今でも一定数都会にはいるが、ことファッション業界という視点で見ると、日本のちょい悪オヤジのファッションはダサいという評価が下されている。
基本的にファッションはブランディングが重要で、「どのような服」よりも「誰が着ているか」が特に流行には影響を与える。
つまり、イケてる人が着ているファッションならみんなそれを真似して、特に若い子は買いたがるし、逆にダサい人が着ている服はそのために売れなくなってくる。(以下基本的に若者も男、ブランドもメンズブランドを想定しての話)
ちょい悪オヤジが着ている服の大半は、ほとんどがイタリアのブランド品である。その質は変わらず世界最高峰であり、服自体のクオリティはほとんど変わっていない。
また、同じ服を着ていても、イタリア人が着ていると格好いい。
一体この差はどこからくるのか、またなぜ日本ではちょい悪オヤジの着るイタリア服はダメになってしまったのか
まず、日本の若者がなぜちょい悪オヤジをダサいと思っているかといえば、結局、彼らはセンスでなく、金にものを言わせた生活をしているからである。
美女とブランド服とスポーツカーと高級マンションと海外旅行と別荘という、お金持ちのパッケージをセット買いすることに、品の無さを感じている。
また、本来はファションはより個性、オリジナリティを重んじるはずが。お金持ちパッケージを誰もが購入することにより、全くの個性が乏しくなり、それが「ダサく」見えるのだ。
その他にも、自分をブランディングするのではなく、ブランド品を身に付け、格を上げようとする、高いものを買えばお洒落だと思っている、などあらゆるところが今の若者にはダサく見える。
どちからと言えば、今のファッションに興味がある若者はライフワークバランスや、持続可能性といった言葉に感度が良く、また、機能性や実用性を重視するため、そもそもそこまでブランド品に関心がない。
また、一部お洒落で感度が高く、高級品を買える若者はちょい悪に毒されていない、アメリカ、イギリス、ヨーロッパでもアントワープ系のブランドをセレクトすることが多い。そして、更に一巡して、日本のブランドやスポーツブランドが再評価されている現状で、イタリアは蚊帳の外におかれてしまっている。
日本にあるメゾンのイタリアハイブランドは、結局主にバブル世代を中心とした、ちょい悪オヤジ層をターゲットにせざるをえなくなっている。
その一方で、イタリアブランドが実際は流行りに遅れているかと言えば、全くそんなことはない。それこそレオンスナップで見ても、日本では見たことがないようなお洒落なイタリア人はたくさんいて、彼らはイタリアの服を多かれ少なかれ着ているし、それが似合っている。
その違いは何か、それは服を選ぶ「動機」にあるのではないだろうか
そもそも、イタリア人は、美意識やデザイン、芸術に対して非常に感度に優れた土壌で育っている。生まれた時から美に囲まれて育ち、親どこらか祖父母の代、何世紀前の祖先からお洒落な環境で育つため、おそらく自分たちでもあまり言語化できないような、意識があるのだと思う。
そんなイタリア人の無自覚なお洒落の本質は「愛」と「ファションの本質」であるように思う。
まず、ファションの本質とは「TPO」である。
「どのような環境で」
「どのような目的で」
「誰と何をするのか」
本来、ファッションというものは、デザインと同じで、目的のための指向性を持つ、ある種の手段の一つである。
だから、アメリカのセレブリティは、LAでハンバーガーを食べる時と、アカデミー賞のレッドカーペットを歩く時のファッションは違うし、欧米人のファッションには常に「オン」と「オフ」が存在する。それはファッションとは本来「TPO」がベースという文化が染み付いているからである。そのため、彼らはどんなにお金を持っていても、オフで必要がない時まで、高級品を身につけていたりしない。
それが全身ブランド品で、どこで何をするのにも高級品を身につける、日本の一部の金持ちのお洒落との違いである。(いわゆる学生がルイビトンのカバンを持って旅行や、学校には行くのは彼らには奇妙に見える)
そして、どんなファッションも自己満足ではただの奇抜な人になってしまう。
イタリア人がお洒落に見えるのは、そもそも美しい地中海の青さと、自然、そして古都に溶け込んだ装いを、自分の体格、個性にあった服装を選び、それをTPOに合わせて着ているからではないだろうか。
そしてそのTPOには一緒にいる相手に対するマナー、つまり「愛」が動機にあるのではないだろうか。イタリア人が欧米人の中でも突出してお洒落に見えるのは、イタリア人に「アモーレ」すなわち愛の文化が根付いているからではないだろうか。
例えばパーティーに参加すること一つ取ってもパーティーの趣旨、参加する人、その中での自分のメッセージなどある種の緻密な計算、気遣いがそこにはあるのではないだろうか。デートでも、相手のために服を着るような感覚である。
同じお洒落であっても、イタリア人が日本の東京の原宿や代官山、青山といったエリアで見られるような、奇抜なハイブランドファッションで街を歩いていることはないだろう。
それは、彼らにとって装いの基本とは、個性にあるのではなく、愛やTPOにあるからである。
それに対して日本人のファッション観と言えば、まず、社会全体が「とりあえずスーツ」ではないだろうか。そして、貧富の差の是正という名の、没個性の制服の強制を小学校からされては、イタリアのようなお洒落な人材が育つはずもない。
そしてそれに対抗、反抗するかのように若者は「個性的」なファッションを「お洒落」と位置付け、奇抜なものに走ってないだろうか。イタリア人のような「愛」や「ファッションの本質」という概念が抜けたままなのが日本人のファッションではないだろうか。
そして、そのような両極端なファッションに疲れ、とりあえず本質に近いところの「リアルクローズ」を本能的に嗅ぎ取ったのが、今の若者の主流ではないだろうか。
日本の場合、冠婚葬祭もダークスーツ。パーティーもダークスーツ。(たまにタキシードか、モーニングがあるがどちらも系統は同じようなもので、それをそういうものだから、と着ているだけ)
つまり、社会全体のファッションが「とりあえずスーツ」お洒落や儀式的な場も「なんとなくスーツ」で、金持ちがとりあえず「ハイブランド」を買うが基本で、そこに存在する動機、行動原理は「思考停止」と「人と違いたくない恐怖心」と「無難に見せたい射倖心」または「見栄」である。本質がそれでは、どんなに見てくれをよくしても「格好良く」見えるわけがない。なぜなら、ガワは中身の表現でしかないからだ。若者は特に感性が良いため、言語化はできなくても、鋭くそれを捉えている。
またファッションの本質から考えると、日本人が全く同じようにイタリア人と同じ服を、例えば東京で着ていて似合うわけがない。
日本人が特にイタリア服と認識するような、イタリアらしい服装の一つに、明るい、ビビッドな色使いの服がある。それは、イタリアの特に南部の特徴で、地中海の夏の青さとマッチして映えるようなもので、東京の港区でフェラーリが窮屈そうにカーブを曲がるように、都心で映えるような装いではない。
少しテーマを逸れると、IT業界ではむしろスーツ出なくてジーンズが制服のようになっており、今度は「とりあえずジーンズ」が主流になりつつある。
もともと、エンジニアは座り仕事が多く、高級な生地のスーツでは磨り減ってしまうためジーンズが増えたのだろうが、「とりあえずスーツ」から「とりあえずジーンズ」に移行するのは、どこか思考停止、宗教的で残念でならない。
そうではなく、イタリア人のようにファッションの本質、愛から日本人のファッションも再構築できないだろうか。
基本的に、日本には四季があり、四季によって装いも変え、また世界の流行にも敏感で、実際は日本人は世界で一番お洒落である、という評価も世界からも受けているしまた、世界で評価されるデザイナーも何人も排出している。
その外からの評価と、ちょい悪オヤジ現象に代表される内側の残念感のギャップは、社会の中でまだファッションの中に本質と愛が抜けていることが原因である。
つまり、日本の場合はどこの業界も変わらず、世界から見ると高いポテンシャルはあると思われているが、愛と本質は抜け、自己評価が低いため残念になっている状態である。