IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

なぜ電車の中で電話をしてはいけないのか

意外とあまり言語化されてなかったのであげてみた。

 

それは「キキタクナイ話」を無理やり聞かされるのが、「イヤ」だからである。

 

この「キキタクナイ話」というのがポイントで例えば電車の中で

安室奈美恵が急に歌い出した

向井理田中圭がイケメンなトークをしている

安倍総理が大事な話を麻生太郎としている

ホリエモンが他では聞けない話をしている

 

つまり

×声が大きいのが嫌

×人の会話が聞こえるのが嫌

 

というわけではなく

安室ちゃんであれば、声が大きいどころか、歌でも踊りでもオッケーなのである。また、自分が好きな人、ファンの話や、他で聞けない面白い話は聞けるなら、むしろ聞き耳を立てるはずだ。

 

電車の中で「電話」が「ダメ」で「会話」がオッケーなのはなんでなの?

という問いに関しても、厳密にいえば、電話だからダメで、会話だからオッケーなわけでも本当はない。

 

ただ、一般的に電話の特徴として

・電車の中はノイズが多いから、会話の時より声が大きくなりがちで周りからうるさく聞こえる

・相手が誰となんの会話をしているかよくわからないから、聞いていても何も面白くない(面白くない話を無理やり聞かされている苦痛)

 

なので、仮に電話でも

木村拓哉がスーパーイケメンボイスでkokiと電話で話している

釘宮理恵がモノマネしながら電話で話している

石原さとみが彼氏らしき人と電話で話している

ダウンタウン松本人志が一人でコントを始めた

 

は多分オッケーになる。(一部ファン限定かもしれないが)

 

ダメなのは

×自分の会社の仕事の話を他の社員とする(乗客には関係ない)

×妻と電話で夫婦喧嘩(他所の家庭の喧嘩など聞きたくない)

×友達に電話で悪口、自慢話し(人の悪口、自慢話など誰も聞きたくない)

×下手くそな歌を歌う(下手な歌はなるべく聞きたくない)

 

キーワードになるのは

「キキタクナイ話」

「不快な話」

 

なので実は「キキタイ話」は電話でも会話でもオッケーなのである。

 

基本は、人に迷惑のかからないことが大事で、迷惑に感じるか感じないかが、人それぞれなので、一律にとりあえず電話は駄目になったのだろう。

(鉄道会社の合理化的なトラブル対策)

また、電車の中で瞑想をしたい安室ちゃん嫌いな人からしたら、安室生ライブですら苦痛になるだろう。

だが、瞑想をしたい人もいれば、騒ぎたい人もいるので、とりあえず一律に処するしかない。

 

もう一つ違う角度から話をすると、同じ話を家の中でしたらオッケーで、外でするとなぜダメなのだろうか。

 

本質的なポイントとして「時」と「場所」を間違えることが、悪になる、という基礎概念が重要である。

アムラーにとって生ライブは阿鼻叫喚

×アンチ安室にとって生ライブは騒音

 

○家で一人で愚痴っても、悪い感情は自分が食らうだけ

×外で悪い感情を吐き出すと、周りに被害が及ぶ

 

そして、電車の中でなくても、レストランでもカフェでも、本来は不快な話はみんな嫌だが、電車の中のようなペースメーカーとか他の理由もないから放置されているに過ぎない。

 

そして、この不快感をより深掘りすると、「感情」がとても大事なポイントになる。

例えば、どんな赤の他人だろうが、電車の中でプロポーズして、盛り上がってるカップルを祝福しないわけがないだろう。

「幸福のお裾分け」はオッケーだが

「不幸の押し付け」は結構コケコッコーなのだ

 

人の悪口や叱責など、不快な感情、言葉や音は電話でも会話でも共有してくれるな、なのだが、ルールで「感情的に不快なことは電車の中ではやめてください」という条例は21世紀の日本ではまだ早すぎるから、やむなく「電車の中では電話はだめよ」に妥協しているに過ぎないのである。

 

余談だが、この「キキタクナイ」の権利は自分はもっと大事にされるべきだと思っている(このブログも、赤坂を歩いているときに、聞きたくもない話をスピーカーで流す車に遭遇した時の不快感から生まれている)

 

路上カーは選挙も含めて、真面目に「聞かない権利」について議論されるべきだ。そして22世紀までには認められていて欲しい。

 

さて、たまに上記のルール、快不快に当てはまることなく、とにかく電車で電話をしていると注意してくる人がいるだろう。

 

それらの人は「電話を電車で話してはいけない教」の信者である。「宗教的」になってしまっている状態である。

 

基本的にルールやマナーに関しては、作るたびに宗教的になってしまう人が一定数存在する。

 

つまり、こういうロジックでこれがダメとか、こういう場合が例外になるとか考えないで、とにかくダメだと律法的に人に怒りをぶつけてくるタイプである。

 

これは、「電話を電車で話してはいけない教」以外にもたくさん存在する。

「授業中スマホは電源切らないといけない教」→マナーモードでも可

「最初はビールで乾杯しないといけない教」→パワハラ

「とにかくペットボトルを使ってはいけない教」→他とのバランス

エスカレーターは右側が歩く教」→関西は逆

 

基本的に例外やロジックを考えることなく、なんでも、とにかくダメで「思考停止」状態に陥っているのが、「宗教的」な人の特徴である。

 

つまり、「電車の中で電話をするのはダメ」だと誰がいつ、なんで決めたかはどうでも良く、ただダメだから、相手を裁きたい、攻撃したいから注意してくる、というそもそもの「動機」が異なる人がいる。(正義感とか、自分が思い込むケースもある)

 

こういうタイプの人は、多分「怒りメーター」が限界に達していることが多い。

グラフィカルに言うと、コップに既に水がいっぱいになっていて、少しでも足したら溢れ出すイメージだ。

 

この状態になると、ルールがどうとかは実はどうでも良く「攻撃スイッチ」となるものが目の前に現れると、ゲンスルーのボマーな念能力のごとく発動するのだ。

 

「宗教的」かつ「攻撃的」な状態になると、歩く時限爆弾みたいになるので、その人の目の前でその人がルールだと宗教的に思い込んでいることをやらかすと「攻撃スイッチ」がオンになり、(攻撃=注意)してくることになる。

(いわゆるイライラしている人が八つ当たりをしたいだけ、というイメージでも良いが)

 

この手のタイプは、実はよくよく冷静になってみると、

「なぜ自分が怒っていたかわからない。」

「確かに言われていれば自分が誤解をしていた、理解が浅かった」

など気づくケースも多い。

ただ厄介なのは、一番危険な状態になると、そのまま犯罪や刑事事件に繋がってしまう。

 

例)

歩きスマホを若者に注意→無視されて激怒して電車のホームに突き落とす。

(元々歩きスマホは若者がホームに落ちないよう、注意したのだが、自分が突き落とすという矛盾に。また、歩きスマホで死ぬのはそもそもその人自身のせいで、誰かに迷惑をかけているわけでない、というケースを想定)

 

これはもちろん電車の中でのケース以外にも、様々なケースが存在するが、話が深く長くなりすぎるのでここまで。

 

<まとめ>

・電車の中で電話がいけないのは「キキタクナイ話」「不快」だから

・快不快は個人差があるが面倒だから一律NG

・不快の基準値は個人の好み

・不快だからと注意してくる人の中には、そもそもダメなものはダメだと理由がない怒りの人パターンが存在する

 

※ちなみに電車の中で電話をするのを推奨しているわけではない。

ただ、電車の中で自分の隣で安室奈美恵が歌って踊っても、間違えなく自分は注意しないだろう。

giver’s community を超えるもの

まずはtaker。つまり、クレクレであり、自分は何も与えないけど、自分は欲しいというタイプ。子供のうちは許されても、社会に出ると一番嫌われるタイプである

 

次はgive&taker。これはこっちもgiveするからどこかでお前もgiveしろというある意味恫喝に近い考えなのだが、肌感では個人事業主を中心に、日本のビジネスパーソンはここが一番多い気がする。

しかもいつもの考察と同じように、大半の日本人はそれに無自覚なことが多い。例えば、1giveして10takeしようとしているのに気がつかない人、giveする代わりに必ずリターンを求める人、も大体は無自覚だと思っている。

諺で言えば「持ちつ持たれつ」になるのだろうか。日本のビジネス習慣はこれがスタンダードになってしまったのは、多分これが正しいと教えるところがあって、その人たちがそこそこ経済的に成功しているからだろう。

 

この上に行くと、ほとんど有言実行できてないのがjust giveの人たちだ。giver‘s communityと言ってるところは数あれど、これが徹底してできてる人、組織はほとんど見かけない。やっぱりこんなに与えてるのにって気持ちに人はなってしまいますよね。

だからこそ、できている人はそれなりの人物のことが多い気がします。

 

と基本的にはtaker→give&taker→giverの順で上位種になって行くと思っているのだが、最近giverという言葉にも概念にも違和感を覚え、改めてその上があることを発見した。

 

それはlove and mission(日本語で言えば愛と使命)ますます特撮ヒーローものに出て来そうなネーミングになって来たな。

 

lovers and 使命。。(注;loversは英語で恋人たち)

 

言葉の部分はさておき、概念としては、まずgiveの前にloveがあることだ。基本的に愛があるから与えるのであって、ただ与えるだけだときっと疲れてしまうだろう。また、誰にも彼にも与えることが良いとも限らない。例えば大量殺人犯にピストルをgiveしちゃダメだろう。

 

また、より具体的に考えると、いつ、誰に、どのような文脈で何を与える、というところに行き着くことになる。それに道筋を与えるのが「使命」の概念である。

 

使命とは「一人一人に与えられたその人にしかできない、かつ世の中を永続的かつ本質的に良い方向にすることに取り組むこと」と大雑把に考えている。

 

そうすると例えば手元に500万円浮いたお金があって、どこか良いベンチャーに投資したいなとなったとしよう。その時に、まず、世の中を良い方向にしようとしないビジネスには投資しない(giveしない)というフィルタリングが生まれる。

 

そして、更にいつ、誰にとなってくると大体もう投資先は決まっているだろう。例えば、自分の全く知らない人よりは信頼できる人物、自分が知らないジャンルよりは、自分が意識があるジャンルとなるだろう。

 

基本的にこれからは「使命」が最先端になるわけだから、自分としてはこのlove and mission communityも最先端だと推奨したい(名前は要検討)

 

少し話はそれるが、私の中では最近本当に「愛」と「使命」の概念は奥深く、この二つが理解できたら、大体のことはわかるしできると思っている。

特に日本人はシャイなので「愛」を言葉には出しづらいけれど、心の中で慎ましく思っている人は多いと思っている。

前回の続きで言えば、だからこそ「愛」がテーマの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」が日本でもヒットしたのは可能性を感じたし、そういうコンテンツの力でどちらの概念も拡げていけたらと思います。

 

アニメ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の物語を詩に表現してみる

毎エピソードが詩になるアニメ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のエピソードのいくつかを詩にしてみました。改めて、1エピソード1エピソードが詩になるアニメて凄いなと。

 

「初恋のままで」

あなたは嘘だと思うでしょう

ただ一目あなたに会っただけで

私はあなたに夢中だったと言ったら

 

あなたはきっと信じてくれないでしょう

他の男を知らない小娘の戯言だろうと

でも私はあなたを既に愛してしまっているのです

 

少女にとって恋は一瞬

そしてそれが愛になるのも

 

愛しています あなたのことを

初恋のままずっと

あなたはそんな私をおかしく思うでしょうか?

でもそれでいいのです

例えあなたに笑われたとしても

あなたに思われない自分よりは

 

あなたの言葉は 愛そのもの

あなたの振る舞いは あなたそのもの

 

だから私はあなたを知っています

出会いは例え一瞬でも

遥か遠い昔であったとしても

 

私の心は変わらないまま

初恋のままずっと

(エピソード5。王女→王子への想い)

 

「愛を世界に」

私はあなたの呼ぶ声が好き

あなたの瞳を見ているだけで

その優しさを感じることができる

 

あなたが私に見せてくれたこの世界を通して

私はあなたを感じ 見つめている

 

あなたは私にとって

愛そのもの 世界そのもの

 

私にとってあなたの求めに応じる以上に

幸せなことがあるのでしょうか

あなたを感じること以上に

 

あなたは空 あなたは願い

光でもあり 愛でもある

 

あなたを通して世界を見つめていたい

あなたと一緒に世界を見渡したい

 

あなたは私にとって

輝ける翼 生命そのもの

(エピソード6。ヴァイオレットの「あの人は世界そのもの」より、その後のヴァイオレットの心情の変化も含め)

 

 

「愛は見えないけれど」

 

あなたの愛は見えないけれど いつも私を掴んでいるの
私が求める時に あなたは側に来てくれる
私が欲しい言葉も 私がして欲しいこともあなたは全部知っている
私はあなたに愛されている
あなたは私に愛されている
例えそれが 今はどんなに離れていても
変わらないと確信することができる
だからあなた もう待たなくていいの
いつでも側に あなたが望む時に
あなたの愛は私の元に届いているの
ありがとう 私も愛をあなたの所へ
あなたを光で包みたい
あなたに平穏を あなたに幸福を あなたを安らかに
愛の中でまた繋がる 永遠に
(エキストラエピソードより。戦場に行ってしまった彼⇄待っている彼女の双方向の気持ち)

映画『THRIVE』と陰謀論。日本人が陥りがちな過ちについて

 https://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI

 

これが陰謀論という議論があります。

 

そもそもにおいて、「連邦準備銀行」が無くなれば、「ロスチャイルド」、あるいは「ロックフェラー」が、という固有名詞でこれこれが支配者で打ち倒せばオールオッケー的な概念は的外れです。

 

例えば歴史において、20世紀初頭にロシア革命ロマノフ王朝が終わり、期待されて社会主義がスタートしました。しかし、それが結局はスターリンの大虐殺に繋がっていきます。これは歴史上、繰り返しのパターンとして存在します。

 

つまり、「連邦準備銀行」が潰れても、「第二連邦準備銀行」が生まれるだけです。(ここまで安易なネーミングには流石にならないでしょうが。)

 

同じようにロックフェラー家とロスチャイルド家が仮に世界を支配しているとしても、打ち倒しても違う家が出て来てまた同じことをするでしょう。

 

これは企業でも同じことが言えます。つまり、「モンサント」や「エクソン」という固有名詞や、そこにいる役員や会社員を議論することはほとんど意味のないことです。

 

彼らを破滅に追い込んだところで、違う時代あるいは国で、違う企業があるいは組織が全く同じことをするでしょう。

 

次にフリーエネルギーの話です。これは実現するかしないかはさておき、実現したとして人類は果たして本当に幸福と呼べるのでしょうか。

 

全く道徳心のない人間が無限のエネルギーを手に入れてしまう危険性を考えれば、どのような使い方をするでしょうか。あるいはそれによって、人類に怠慢と堕落をもたらすことの可能性は考慮しなくて良いのでしょうか。

 

もし、これで人々が堕落するなら、一部の良識のあるエリートが世界を支配する、という概念の方がむしろ正当化されてしまいます。良識のない人間に武器を渡し、知恵のない人間に社会を統治させ、道徳心の無い人間に秩序を与えないことの危険性を許すのであれば

 

人々がもっと道徳的かつ良識的になるにはどうすべきか、という点を同時に真剣に検討する必要があると思います。

 

確かに、目先の多くの人々をフリーエネルギーで救えるのではないか、という話はあります。しかし、それは物事の一面でしかありません。

 

フリーエネルギーが本当に利用できるのであれば、それを押さえつけている勢力さえ排除したら人々が救われる、という単純化された議論に問題があるのです。

 

また、世界を支配する構造についてですが、あまりに馬鹿馬鹿しい話です。

 

例えば、自身が企業にいたとして、あるいはプロスポーツ選手であったとして、必ず戦略というものを構築します。企業にあっては戦略を立てずに何かをすることは、株主に対する背任行為とすら言えます。

 

政治家も同じです。全くの無策でなんの戦略も無い政治家ばかりに国は、すぐに滅びるでしょう。

 

それは恋愛やゲーム、スポーツのような日常でも同じでしょう。

 

このようにより低いレイヤーにおいても、戦略は存在します。そのような中にあって、世界の権力の中枢を巡る場所でそのようなものがない、と考えること自体が馬鹿げています。

 

もっと単刀直入に言えば、人間社会、世界が特定の層によって統治されていない、と考えることの方が、無理があるのです。

 

つまり、「陰謀論」という議論自体がそもそもナンセンスなのです。

 

またそうした課題解決のために、大手銀行からみんなで地方銀行にお金を預けましょう、というような発想もややチープなものです。

 

作品中には正しいことや、もの凄い記述もありますが、全体のテイストがバラバラなので、結局疑わしいものにも見られるからさして驚異は感じない、という位置付けなのでしょう。(むしろそれを狙って出してたとしたらメッセージを読み取る側の力量が試される作品です)

 

その一方で作り手の愛や正義感、使命感のようなものも感じます。

 

このようなコメントを出すと、結局批判なのか肯定するのか、お前の立場はどっちなんだ、とか。ここはいいけどここはダメとか言われると混乱する、とかいった声が聞こえてきそうですが、なぜ、一つの作品の部分を肯定し、部分を否定してはいけないのでしょう。なぜ私の見解を統一する義務が読者に対してあるのでしょうか。

 

ここでこうした作品や陰謀論に対して、また現代の日本人の多くの物事に共通するスタンスこそ、一番問うべきテーマだと感じます。

 

それは「お前が正しいことを言え」というスタンスです。

 

どういうことかと言えば、例えばテレビで専門家が間違ったことを言う、あるいは、本で、テレビで、あるいは誰かが何かを言ったとして、間違ったことを言う人間の責任をひたすら責め、追求する姿勢です。

 

もちろん、専門家やマスメディアにはある種の権威があります。本来は正しいことを伝えるべきです。しかし、彼らも人間であり、ミスもします。また同様に利害関係から真実を述べないこともあります。

 

今回はマスコミや専門家の在り方までは論じませんが

 

「権威がある者は正しいことを言う。だから私は考えなくていい」

 

他人に正しいことを言うように求める人間は、暗にこのように言っていることと同じです。つまり言葉を変えれば「私は思考停止である」という自白です。

 

正しいことを言うべき人間が言ってくれないから、裏切られたと感じて憤慨して、責める。

 

これは特に今の日本の社会において非常に多く見られる現象です。家庭、職場でも本当によく見られる現象だと思います。

 

そして他人には正しいことを言うことを強要し、自らはそれをしない。そのような社会人が非常に多い気がします。

 

『THRIVE』を巡る議論も正に同じです。この映画が正しいことを言っているか否かを論じ、正しければ崇拝し、間違っていれば責める。どちらも的外れです。

 

そうではなく、「自らが正しいかを判断する目を養う」という姿勢が非常に重要です。

 

先に触れたように、権威や権力というものは、常に正しいことを、あるいはその人のためになることを言うわけでもするわけでもありません。それこそが普通です。

 

ですから、どのような権威や権力が付きまとっていても、その人の言っていることが正しいか、それを判断するのは自分だ、と思うことが最も肝心です。

 

そのような姿勢になることで多くのことが変わります。

 

まず、どのような肩書きの人間が出てきてもそれによって騙されることが少なくなります。そして、自らの判断力にこそ責を負うことになるので、人を責め、攻撃することは減ります。更にそれによって思考し、判断力が磨かれてきます。

 

このブログには何の権威も権力もありませんが、ここで述べていることが間違っている可能性も大いにあるわけです。(ロシア革命の年号をうっかりミスで間違える可能性だってあり得ます)

 

これは書き手や話し手に、いい加減な情報を発信しても良い、と推奨するものではありません。ですが、どのような権威のある文献であっても、膨大な分量にミスが一つもない、ということは難しいですし、そもそも元のデータや一次情報を誤ったものを教えられてしまうこともあります。そして、一時期正しかったとされた事実が、やがて過ちに変わることもあります。(一例として正に劇中のイラク戦争の事例がわかりやすいと思います)

 

それが世の中の現実だと思います。そのような中で、よく間違い探しをして攻撃をする人たちがいますが、全くのナンセンスと言えます。なぜならほとんどの人間は、同じことを自分がされたら、それに耐えうることができないからです。

 

マスメディアが真実を述べないことに怒りを覚える人々がいます。ですが、構造から考えて彼らがそうするのは当たり前で、怒るところではありません。この構造の話はノーム・チョムスキーの著作を読むとよくわかります。

 

アメリカには「もしマジソン・スクエアガーデンをイエス・キリストが歩いていたとしても、誰も気がつかないだろう」というジョークがあります。

 

このジョークの作り主は、おそらく人々の信仰の低下を暗に皮肉ったのだと思いますが、これは同時に人々の認識力の低下を揶揄しているものだとも取れます。

 

つまり、現代人にとって、目の前の人間がどれほど素晴らしいか、あるいは偉大な人物か、というのを自分では判断できない、ということです。

 

ハリウッドでセレブと言われ、フォーブスで長者番付に乗り、学者としてノーベル賞を取って初めて、人々はその人が非凡だと認めます。

 

つまり、その人が非凡か、頭が良いかを自分では判断せず、誰かに委ねるということをしてしまっているのです。そうではなく、今目の前にいる人物がどのような人物か、どのような計り知れない可能性を秘めているか、そのような目で人は人を見なくなってしまっているのです。

 

そうではなく、我々自身で「見出す」あるいは「見極める」ことをする必要があります。

 

このようにトレーニングを積めば、この映画のどこからどこまでが正しく、どこからどこまでが的外れなのかは、自然にわかります。

 

またそもそも、この映画が「正しいか否か」、という視点では観なくなります。必要なのは、この作品の中に自身に取って「得るものを見出す」ことができれば良いのです。

 

これは日常で、例えば、誰の言うことが正しいか、どの会社の商品を買うか、などを判断する上でも同じことが言えます。

 

間違ったものを掴んだ時に、それを相手のせいにすることは容易いです。

(実際相手が本当に詐欺師の場合もあるのでしょうが)

 

騙されたほうが悪いと乱暴なことを言うものではありませんが、我々の持つ姿勢というものは、「自らが正しい判断をするように務める」ということが非常に健全であり、強力なものであるということ

 

そして、それがまたこの映画で問いかけられている問題に対する自分なりの最大の答えでもあります。もしこのような世界が真実だとして、それを変えうるとしたら、どのようなことを我々はまず実際にすべきなのか。

 

我々は大袈裟な行動によってしか世界が変わらないと思い込みがちだが、実際はそうではない。たった一つの考え姿勢が変わることによって、少なくとも「私」が今見ているこの世界は変わるのだということを。

経営の視点から読み解く銀河英雄伝説・アルスラーン戦記解説。経営学のナンバー2論

田中芳樹作品は基本的にナンバー2論である。

 

英伝ではラインハルトに対するキルヒアイス

アルスラーンではアルスラーンに対するダリューンである。

 

両者とも極めて主君に忠節で有能であり、ラインハルトが覇道を、アルスラーンが王道を為したのは、彼らナンバー2の存在あってのことである。

 

ここでラインハルトが覇道に進み、途中でナンバー2がいなくなったことと、アルスラーンが王道を歩み、最後までダリューンが共にいたのは偶然ではない。

 

覇道には絶対的な覇者がいればよく、ナンバー2は不要である。そしてラインハルトは自身が有能過ぎるために、ナンバー2がいなくても良い人材であった、という点も見過ごせない。

 

これは企業で言えばワンマン社長に当たる。優秀であるがゆえに、なんでも自分でできてしまうため、必要なのは、自身の命令を忠実に実行できる部下だけである。

 

この点、途中からミッターマイヤーは名実ともにナンバー2にならず、ラインハルトの最も忠実かつ優秀な部下であったのも頷ける。

 

また、ラインハルトがこれまで王道を歩んでいたのに、オーベルシュタインが授けた非道な策を受け入れ、覇道に舵を切ったという点も注目すべき点である。

ラインハルトが覇道に舵を切った時点で、覇道を為すための汚れ役としてのオーベルシュタインは必要になったが、王道を守るナンバー2のキルヒアイスは不要になったのだ。

 

これに比べて、アルスラーンはある種の凡庸さから覇道を歩もうとしてもできなかったことは、王道を守る要因にもなった。

 

自身が脆弱であることを認め、ある意味ダリューン無しでは、生きてこれなかった状況、また権力を握った後でも自身の弱さを認め、他者を必要としたことがアルスラーンが最後まで王道を貫けた一因だろう。

 

会社組織も大きくなると如何に社長が優秀であっても、限界がある。アルスラーンダリューンというナンバー2を信じ、また同様に家臣たちをうまく使うことで、王国を納めていくことになる。

 

これに対して、覇道を走るラインハルトは、結局最後まで敵を求め続け、最終的には腹心中の腹心のロイエンタールの反乱、という事態を迎える。

 

これは最も強い者が王にあれば良い、というラインハルトの概念にロイエンタールが部下として忠実に応えたものではあったとも言えるが、それは君主の論理であって民の論理ではない。(社長の都合であって、従業員や関わる企業に必ずしも益のあるものではない)

 

これは経営に置き換えるのなら、必ずしも極めて優秀な人間が組織のトップに立つことが、その組織にとって最高益でないことを暗示している。

 

同時に、王道を歩む者にとって、ある種のナンバー2という者が必ず存在することも示唆している。

 

話をラインハルトが王道から覇道に至った地点に戻ろう。ラインハルトはオーベルシュタインの戦争が長引けばその百倍以上の犠牲が出るため、少ない犠牲で戦争を終わらせるために、必要な犠牲だとして民を見殺しにする策を提案する。

 

これはFate-zeroで衛宮切継が聖杯から問いかけられた話と同じである。すなわち、100人乗った船と200人乗った船のどちらかしか助けられないとしたら、どちらを助けるのか、と。

 

これは最小の犠牲で最大の効力を産むことを考えるマキャベリズムの基本だが、その考え方そのものに、覇道が根底にある。

 

王道を行くアルスラーンであれば、ベスターラントは容認しなかったであろう。そして、甘いと罵られたであろう。

 

では王道であれば100と200どちらを救うのか?という問いにどう答えるのだろうか。その答えは、そもそも数の比較で考えない、ということである。

 

Fate-zeroに再び言及すれば、衛宮は自分の師のナターシャを撃ち落とす、という選択肢をする時に、王道か覇道かを選ばせる試練に逢っている。

 

自分にとって大事な人であるのだから、数の計算ではなく救う、という選択肢をしたときに、そのあとにそれでも他の人も救える可能性も導き出せた可能性もある。

 

その意味において、覇道は二元論的である。未来を所与のものとし、選択肢が二つしか存在しないかのように思わせる。

 

逆に王道は愛があり、可能性がある。

 

だが、もしベスターラントでオーベルシュタインの言うようになっていたら、ラインハルトは後悔したかもしれないし、彼が玉座につくのは遅れたかもしれない。

 

だが、少なくともラインハルトはキルヒアイスの提案を聞くべきであっただろう。またもっと言えばベスターラントの前、民の犠牲を強いる策を採用したアムリッツァ戦から、ラインハルトは覇道に歩み出してしまっていた。

 

また数の上でも、彼が覇道を歩んだために戦死した数も相当数いることを考慮すると、果たしてオーベルシュタインの策が長い目で見たときに、本当に犠牲者が少なくなるものだったかも疑問がある。

 

覇道の恐ろしいところは、一見すると「1万人の犠牲者と100万人の犠牲者どちらをとりますか?」という問題にすり替えて見せるところである。

 

現実には、このような選択肢は同時に二択で与えられる得ることはなく、見積もりや幾つかのファクターの中から、有力説として時間経過後に生じることが多い。

 

そして、あの時「1万人か100万人か提示したはずですよ」と万が一事が起きたら正論で非難をすることにある。

 

劇中で多くの将校がオーベルシュタインを嫌うのは、こういうところに彼らが気づいているからだろう。

 

そして、最終的にベスターラントで犠牲者を減らしたつもりになっても、結果的にラインハルトが覇道を選んだことにより死んだ将兵の数は多いのではないだろうか。その意味では「1万か100万か二択」というのは極めて稚拙な問いかけと言えよう。

 

オーベルシュタインもオーベルシュタインで、彼自身が覇道に導いたにもかかわらず、結果的にラインハルトを止める者(ナンバー2)がいなくなってその後のヤンとの無為な戦争を結局止めらなかった、というのはやや稚拙であったように見える。

 

ちなみに、もう一つの田中芳樹の有名作タイタニアは、後継者争い、経営で言うところの事業承継論である。

 

日常会話、ビジネス、ネイティブという3段階ではない本当の英語力

日本では英語のレベルを概ね、日常会話、ビジネス、ネイティブという3段階に分ける。

 

だが、実際は非常に曖昧で、ビジネスレベル、ネイティブレベルの中にもかなりの英語力の差がある。外資にいても話せないとか、TOEIC何点でも話せないとか(TOEICは試験自体が最近まで、会話試験がないから当たり前だが)よく聞く話である。

 

もっと言えば、実はネイティブレベルは第二言語を英語にしている人にはほとんど不可能である。言い換えると、ネイティブレベルの日本人などほとんど日本に存在しない。

 

また、よく「Times」や「Economist」が読める、という日本人がいるが、これも実際はちゃんと読めるレベルの人は少ない。もちろん、大体何を言っているかわかるレベルにはいくのは難関大学生レベルの英語力で足りるが、ちゃんと理解しようと思うと、圧倒的に語彙が違う。

 

英語はイギリスから発祥している言語なだけあって、実はすごく階級がハッキリする言語である。日本人が「話せる」と思い込んでいる英語はあくまで、国際的に標準化された「中産階級の英語」であって、「上流」と「下流」の英語はほとんどわかっていないのが実態である。

 

そして、「Times」や「Economist」は実はその「上流」の英語で書かれている。だから、例えばこの記事が不景気について話してる記事だな、というくらいの理解はできても、この表現は慣用句でどこから引用されてて、どういうニュアンスか、といったところまで理解しようとすると、一気にレベルが上がる。

 

TOEICが満点近くあっても、辞書が必ず必要になるくらい、1p辺りの語彙数がそもそも、中産階級の英語と違う。

 

英語の特徴は階級が上がれば上がるほど、語彙数が上がる。

ちなみに、下に行けばいくほど、語彙数は減るが、今度は日本人はスラングが慣れないのと、概念が違うため会話が難しくなる。

 

繰り返すが、基本的に日本人が習っている、あるいはこれが「英語」だと思い込んでいるのは、「中産階級の英語」である。TOEICなどのスコア基準もそれに合わせて作られている。

 

そういった事情からも、本当の意味で日本人が欧米のエリートコミュニティに入り込んでいけないのである。

 

例えば上流階級の英語は引用で日本でも有名なところでいえば、聖書とシェイクスピアである。だが実際には、それら以外にも、アメリカであれば、エマーソン、デューイ、ディケンズなど日本人が誰もが知ってるわけでもない、著名な人物の教養もある。語彙を含めた教養は、英語が話せるとか、海外経験があるからとかでは補えないところにある。文化や歴史的背景が必要になる。

 

また、翻訳や通訳にも実際は著しく幅がある。同時通訳レベルと観光ガイドの通訳はもちろんレベルが違う。

 

そして、重要なのは、英語は確かに世界語だが、「ネイティブ」と「ノンネイティブ」の差は遥かに大きい、というところである。それはどの言語にも言えるが、英語が世界語なため、肌感でそれがわかりづらい。

 

どういうことかと言えば、第二言語を英語としている人、例えば中国やインド人が話す英語は、アクセントを除けば、遥かにアメリカ人やイギリス人の英語よりもわかりやすい。それはヨーロッパで第一言語が英語でない、ドイツやフランスなども同じである。

 

なぜなら、彼らも同じように「中産階級の英語」を習っているから、語彙がほぼ同じなのである。またスピードもそれほど早くない。

 

だから、ヨーロッパ人や東南アジアの人々と英語で話をすると、自分もつい英語が喋れる気になるのだが、第二言語で英語の人とコミュニケーションが取れるのと、第一言語が英語の人々と遠慮なしに喋るのではわけが違う。

 

日本のTOEIC試験は満点を取っても全く「ネイティブレベル」に達しない。TOEFLでも然りである。

 

そうした諸々も含めた10段階評価を試しに作ってみた。

 

レベル1(挨拶レベル)

Hi, Nice too me to youが言えるレベル。1人では海外に出れない。

 

レベル2(旅行、買い物レベル)

ハワイなど海外に行って、ホテルやレストランで最低限のコミュニケーションができる。

 

レベル3(日常会話、旅行トラブル対応レベル)

外人と一緒にご飯、飲み会に行ける。ご近所付き合いできる。このレベルから相手が優しいとギリギリ友達もできる。日本で言われる三段階の日常英会話レベル。旅行でトラブルが起きてもある程度までは対応できる。日本人の大半がこのレベルに所属している。

 

レベル4(ビジネス会話、プレゼンレベル)

ビジネスの話が英語で多少はできる。電話、プレゼンなどテンプレートのあるものは対応できる。TOEICだと650点くらい。日本で言われる三段階のビジネス英語レベル。日系企業で海外に行く人の足切りレベル。

 

レベル5(専門、ノンネイティブ、即応会話レベル)

自身の専門領域の英語なら会話ができる。ビジネスプレゼンで質問された時など、咄嗟の対応ができる。また、ノンネイティブ、英語が第二言語の人々と同じレベルでそれ程苦なく話せる。TOEICだと800点以上。いわゆる帰国子女でもブランクがあると、大体このくらいのレベルが多い。

 

レベル6(簡単通訳、国際結婚、ディスカッションレベル)

簡単な通訳と、英語で議論ができる。アメリカの大学院などに留学するには、最低このレベル。TOEICだと900点以上。一般的な帰国子女、外資に英語力で採用されるレベルもこの辺りからである。国際結婚して身につく英語力の最低ライン。ヨーロッパなど、日本以外の第二言語が英語の国の平均的な英語力も大体この辺り。

第二言語で現地採用も含めると、ネイティブレベルの英語力は必要ない。外資系企業の役員レベルもこのレベルで充分なれるため、ビジネスパーソンとしての英語力はこのレベルで充分。

 

レベル7(翻訳通訳、ビジネスパートナーレベル)

大体の翻訳通訳はできる。また、語学力の信頼も含めビジネスパートナーになれる。

日本人で自信を持って英語が話せる、というのは大体この辺のレベルまでである。ちなみに、ここからTOEICでは計測不能。日常的に英語を使う仕事にないと、このレベルの英語力の維持はなかなか難しい。

 

レベル8(ネイティブレベル)

第一言語が英語の人たち。つまり、英米人と同じレベルで会話、アクセントが取れる人たち。帰国子女でも少ない。ここまで来ると、企業ならむしろアメリカ人として採用される、というレベル。日本人でも海外で生まれ育って日本語が第二言語の人がこのカテゴリーになるが、そもそも日本人カウントする方がおかしい。

 

レベル9(英米外務省同時通訳レベル)

英語ネイティブレベル+教養+日本語力。

英語力単体なら、ネイティブレベルで対応可能だが、二つの言語をハイレベルな領域にまで仕上げないといけないため、ネイティブの中でも更にごく一部の上の人々、というカテゴリーになる。とは言え、各国首脳が外交の席で話す内容は限られてもいるし、非ネイティブと話すため最高レベルではない。

 

レベル10(上流階級英語レベル)

英語ネイティブレベル+教養+語彙力。

「Times」や「Economist」を辞書を全く使うことなく読みこなし、英語でユーモアが言え、英米人のエリートコミュニティに肌の色以外では完全に認められる教養があるレベル。エリアで言えば、ニューヨーク、ワシントンDCなどアメリカ東海岸か、イギリスでもロンドンに限定される。ちなみに、アクセントが少しダメでも、教養と人徳でコミュニティに食い込める場合もある。

アメリカ人でもハーバードロースクールを出て、トップファームに入るレベル。いわゆる、エリート層にあたるため、そもそも英米人でもこの層は少ない。

コンピューターと人間の洋服の選び方の違い

もしAIに今日着て行く洋服を、リコメンドしてもらうとこのようになるだろう。

 

やり方①

まず無限に存在する洋服の中から、サイズ、性別を選択する。次に気温や用途、値段を選択する。

 

こうして、分布の中から対象となるプロットエリアから絞り込んでいくことになる。

 

性別、サイズ、気温、用途、値段。これらだけでもかなり絞りこめただろう。

 

やり方②

自分で自分が好きな服をひたすらAIに教え込んでいく

 

例えばモード系の服を毎日着てAIにそれを教えると、モード系のブランドで似たような服をレコメンドしてくれる。

 

ちなみにやり方①を教師あり学習、やり方②を教師なし学習という。

 

しかし、どちらのやり方も「私」がAIに情報を与えている。

 

なので、その洋服が似合うかどうかまではわからない。

 

というよりAIがこれが似合いますよ、と提案してもそれを気にいるか、AIを信じるかはそれぞれのユーザーに委ねられる。

 

例えば流行りの服や、異性ウケのいい服をレコメンドの絞りこみに加えることもできる。だが、それもやはり本人が気にいるかどうかはわからない。

 

この最後の執行、意思決定にまでAIが関与できないのが、保険商品などがなかなかオンラインだけでは売れない理由の一つであろう。

 

AIは「レコメンド」の装置であって「ソリューション」の装置ではないのである。

 

また、AIで最適化とよく言われてはいるが、最適な解を見つけ、意思決定するというのは実は難しい。

 

最適化とは、洋服選びで言えば「その時点にもっとも相応しい洋服を選ぶこと」だが、その「時点」は目まぐるしく変化する。(もっと言えば本人がどこを最適化と思うかでも変わる)

 

例えばパーティーにドレスを着て行くとしよう。この時に、最適化をするためには、自分の感情や場の人間の数や質、更にそれらの人の気持ちにも左右される。(これらのパラメーターは人によっては意識すらしない)

 

もっと言えば恋愛は更に難しい。今の自分の気分と相手とデートしてからの気分がどう変わるかは、デートして見ないとわからないことが多いからだ。それを事前にAIに計算させることはできない。

 

つまりは最適な点とは常に変化する生き物のようなもので、誰もが大体の絞りこみをしてある範囲の中で決めているに過ぎない。

 

洋服で言えば、値段、見た目、用途といった、重要なファクターで絞り込んでいるだけで、最適化をしてることはほぼない。恋愛でも、見た目、年齢、趣味など、特定のフィルタリングをして、「足切り」をする役割をしているに過ぎない。

 

それはグルメや、他のショッピングなどあらゆるレコメンドにも共通する。

 

基本的に意思決定はレコメンドの範囲の中で行う。このレコメンドはAIもできるというだけなのだ。

 

ほとんどの人間の意思決定も最適化ではない。ある特定の範囲の中でベターベースをチョイスにしてることが多い。この意味では確かにAIは人間の意思決定に取って代わることができる。

 

だが人の直感にはそれを上回る事態が時に産まれる。

 

例えば今日は訳もわからず牛丼を食べに行きたいとしよう。そしてそこで隣の席に座った相手と運命的な恋に落ちて結婚する。

 

このようなドラマやストーリーはいささか大げさかもしれないが、AIは牛丼屋の営業時間とオススメはレコメンドしても、それが出会いに発展することは指し示さない。

仮に今日牛丼屋に自分の好みの女性が来ることを、AIがレコメンドできたとしてもその時、そのタイミングに行けるだろうか。

AIにリコメンドされたドレスを着てパーティーに行ったら、自分の嫌いな女性が同じドレスを着て不愉快になるかもしれない可能性まで、果たしてデータ入力できるだろうか。

 

直感と経験

 

人間は驚くべき意思決定をする。しかも極めて早く。

 

この意思決定は実は点に近い。AIにはそれができない。

 

なぜなら、点の意思決定には動的な要素が実は矛盾するようだが、含まれているからだ。

 

これは天気予報をコンピューターが正解には予測できないことと同じ原理である。

 

目まぐるしく変化する場や状況を、人間はどういうわけか、直感やインスピレーションで捉えることができる。

 

我々は今AIという言葉に踊らされているが、実は以下のようなことをやっているのである。

 

今朝来て行く服を選ぶ。悩むことがあるにせよ、これとこれとこれ、直ぐ決まる。

 

だが、これをAIにさせようとすると、目的を入力し、天候を入力し、気分を入力し、、

我々は脳の中で意思決定を下す時に、目的はこれ、天気はこれ、と一つ一つ自問自答して絞り込んだりはしない。

 

洋服を眺めて、うーん、これだ、という意思決定をすることが多いはずだ。

 

つまり、人間の意思決定はそのようなプロセスを無意識で行っている、あるいはそれを越えて点の意思決定をしている。

 

人間が一瞬で意思決定できる問題をあれこれAIに悩ませる。

 

我々がAIに取り組む時はこのようなことに注意する必要がある。