IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

人工知能的サイコパス解説(シーズン2)

※以下サイコパスの重大なネタバレを含みます※

 

 

 

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シーズン2の解説

 

シーズン2の主題は「シビュラシステムの欠点は何か?」である。

 

シーズン1でシビュラシステムの仕組みが明らかになったことで、シーズン2はそのシステムの正当性を問うような犯罪者が登場する。

 

それが鹿矛囲桐斗である。彼は1人の人間ではなく、何10人という死体からつぎはぎされたゾンビのようなものであり、集団のサイコパス(犯罪係数)を測定する機能がないシビュラには認識できない(シーズン1の槙島とは異なる理由で)のである。

 

もう1つ、シビュラが抱える問題は自己を測定できるのか、ということである。つまり、他人が犯罪者かは測定できても、自分が犯罪者かはわからない。自分が犯罪者で、自身の目的のために他人を葬ることがあれば、それは私利私欲にまみれた人間の権力者と変わらない、それを鹿矛囲に問われる、それがシーズン2のテーマである。

 

結果的にシビュラシステムは集団を測定する能力と自己を測定する能力を獲得する。それは、人間個人としては善人であっても、集団としては例えばデモのような行為であれば悪とみなし、大量虐殺をしてしまう可能性を残しつつ、自浄作用(幾つかの脳を消す)によって、システムとしてはしぶとく生き残る選択を示した。だが、それによってよりシビュラは近代的なシステムにも関わらず、人間に近づいたものになる結果を得る。

 

そして、自己を認識するためには、鹿矛囲(あるいは主人公の常守)という他者を、システムはあるいは人は必要とする。そしてその観測者は自己よく知るがかけ離れたもの(あるいは敵と呼ばれる存在)である、ということを、物語を通じて示唆している。

 

個人と集団あるいは人工知能と人間の垣根、自己認識、ここまでが作者の明示したテーマであろうが、実は、作者は無意識の内に更に大きなテーマを投げかけているではないか思う。

 

すなわち、個人とはいったい何か?ということである。シビュラシステムは個人のサイコパスは測定できるが集団はできない、という設定になっているが、私は個人も既に集団の性質を持っていると知っている。

 

何故なら、我々のDNAには祖先の情報が刻み込まれている。100年間に3世代の先祖がいると仮定しても2000年でも現代人は260という膨大な数の祖先のDNAデータを個人は内包していることになる。(この話しを無視しているため、このテーマは作者には盛り込まれていないと判断している)

この時、実際はそのDNAがどのような動きをしているか、実のところはよくわかっていない。例えば父親がとても計算能力が高く、子供も生まれもって計算能力が高ければその子は遺伝子的に計算能力が得意なDNAを持っていると判定するのか、あるいは両親とは全く異なる才能が発芽した場合、その才能は何世代前の先祖の質が発現したのか、あるいは環境によることが原因なのかよくわかっていない。(要するに今の行為や言動が自身のものなのか、誰か祖先のものなのか)

 

つまり、我々が個人、自分だと思っているものには、何か?何の根拠もないのである。これはずっと人類が歴史的に哲学のテーマとして論じられていることで、個人とは、自我とは何か、デカルトの言うように「我思う、ゆえに我あり」でいいのか、ということである。

 

自我(意識)がどうやって生まれるのか、それが分からなければ、人工知能を作れたとしても、それは科学的にはよくわからないが、できてしまった、という極めて危ういものになるだろう。

 

1つの答えとして、「意識とは無限情報を統合できるシステム」、という結論を昨年出したイタリアの科学者がいる。彼の説は広く支持されているが、実はアニメ攻殻機動隊タチコマが情報を並列化した結果、自我を持つというエピソードがあり、日本のアニメの方が人工知能に関して早く同じ結論に辿り着いていたという点が興味深い。

 

だが、実際はどちらも統合をする「基準」は何かという点を見落としているため、人工知能という点に関しては不完全だと思われる。例えば、人間は食欲があるから、食事という点にフォーカスして情報を統合するが、その食欲は脳からだけはなく、胃腸からも発生する。そうすると、脳が単独で意識を持ち得るか、という仮定に反証可能性を存在させてしまう。従って、少なくともタチコマが自我を獲得した理由は並列化だけではない、ということになる。

 

この辺りもまた、真に人工知能を作ろうとするとホムンクルス的になってしまうことや、ジェフ・ホーキンスがneocortex(大脳新皮質)の機能再現だけで、人工知能は充分だ、と言う理由の1つであろう。それ位、科学的なアプローチ下では、タチコマのような人工知能を作ることは極めて困難である、ということである。逆に言えば、無限の情報を統合するだけでいいなら、既にGoogleのような企業は意識を持った人工知能を持っている、ということである。

人工知能的サイコパス解説(シーズン1)

※以下サイコパスの重大なネタバレを含みます※

 

 

 

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シーズン1の解説

 

シーズン1の主題は「シビュラシステムとは何か?」である。

 

シビュラシステムという絶対に間違わない人工知能潜在的な犯罪者を特定でき、万能である事をうたっているシステムが存在しているにも関わらず、そのシステムをくぐり抜けて殺人を繰り返す犯罪者が登場する。

 

システムで裁けない存在が登場するなら、そのシステムは一体なんなのだろうか?本当に100%の精度を誇るものなのか?ということが大きなテーマである。

 

結論から言うと、シビュラシステムの正体は機械の頭脳ではなく、人間の脳の集合体であった。つまり、人間を判定するのは、機械よりも人の方が優れている

(以前本ブログにも書いた、人工知能の究極の1つは人間の生成に一致するhttp://itseiji.hatenablog.com/entry/2015/09/12/175910)と同じ仮定を持った話しであった。人間の脳の集合体によって、運営されるディストピア人工知能社会の1つ、それがサイコパスで描かれた世界であった。

 

だが、これは実は新しい未来システムではなく、既存の社会システムと大差ない。現状の社会システムも、例えば日本なら、一部の権力者が、エリートとそうでない人間とを区別する仕組みを作成し(文科省を中心とした大学受験制度)一定の尺度を持って選別した優れた頭脳を持った人間たちの、合議制によって意思決定される(官僚制、普通選挙、資本主義制度)

 

システムに不備はない、と詠ってしまうことも既存の社会システムと大差はない。(専門家という間違ったことを言うはずがない、という思い込みを利用した社会システムの構築。専門家は正しい、素人は間違っているという固定観念のエンクリプション)

そして、それらシステムの維持の仕組みだけでなく、システムのアップデートの仕組みも基本的には何も変わらない。シビュラシステムは、槙島聖護という、社会のアノマリーを取り込んで、進化しようとする。

 

同じ様にこれまで人類社会は、常にその社会における最大のアノマリーを吸収することで発展してきた。

例えば、大学を中退し、既存の製品やサービスと対立や埋没をもたらす製品を開発したビル・ゲイツスティーブ・ジョブズは、権力や既存の社会構造からすれば、異端であり、反社会的であるとさえ言えた。だが、経済的に成功するや否や、それを排斥するのではなく、権力に取り込むことで、社会は新しいインフラを手に入れた。これはもっと古典的な技術である例えば紙や、鐙といったテクノロジーの導入だけでなく、あるいは、征服者が被征服民族の人材を登用するような社会制度の導入も全く同じ仕組みだと言える。(そして組み込んだはずの仕組みに逆に取り込まれてしまう。例えば、元は奴隷であったイエニチェリによって作られたオスマントルコのように)

 

更に、シビュラシステムの仕組みを秘匿(ペルソナ化)することによって、ある種の神話を産み出し、権威によって大衆を統治する仕組みは一神教や、日本で言えば皇統(天皇制度)と何ら変わることはない。

 

そして、シビュラシステムも既存の社会と同じように誤りをおかす。その意味で、サイコパスで描かれた社会は、既存の社会構造の劇的なパラダイム変更がある社会ではなく、既存の社会構造と大差ない社会の物語であり、人工知能が社会を支配しようが、今の人間社会と本質は大差ない。それが、作者が描こうとしたテーマの1つではなかっただろうか。

 

もう1つのシーズン1の大きなテーマはシビュラシステムに感知されない犯罪者、槙島聖護の物語である。彼は自らがシステムに犯罪者として感知されない理由を、自尊心が少ないからだ、と説明する。

 

これは、人間の核心の1つをついているように思える。私も特に人の知性や感情と呼ばれるものは、自尊心によって大いに妨げられると考えている。例えば、他人から間違いを指摘されると、自分がそれに自負があればある領域である程、人はそれを受け入れることを拒絶する。例えば、科学者が自分の領域で素人に誤りを指摘されても、ほとんど科学者は自分が正しいと思い込むだろう。だが、本当に過ちであれば、自己がアップデートする格好の機会であるはずだ。人はしばしば、自尊心のために自らの知性を高める道を自ら閉ざしてしまう。

(実はこの話しは無意識論と関連づけて、ディープラーニングの話しとも関係してくるのだが、それはまた別の機会にする。また、槙島的とは言わないまでも、自尊心が極めて薄い人間でなければ、ある一定の知性は獲得もできないし、すなわち人工知能のようなものを作れる知性を持ち得えない、という乱暴ながら知性に関しては、自尊心の定性評価により一定の線引きができないこともないように思える。)

 

シビュラシステムは自尊心と犯罪率を、定性評価やオントロジー統計学で結びつけて係数設定をしているが、これは科学的根拠のない作者によるフィクションであるが、統計学の嘘や欠点がストーリーでわかる好事例と言えよう。すなわち、統計はまず前提を誤っていた場合、データの全てが無意味である。(この場合、自尊心と犯罪率の相関が誤りであれば、それによって測られた犯罪係数は全て嘘であるということ。)もう1つは99.9%の観測よりも、0.01%の方が真実である可能性がある事である。(シビュラは人を殺したことのない、システムにさして害のない人間を犯罪者として認識し抹消するが、大量殺人者の槙島は認識できない。そしてその槙島は既存の社会を最も破壊できる力を持っている。)これは、現代の刑事捜査の状況証拠や自白問題、DNA鑑定の精度の問題でも全く同じテーマと言えよう。統計の嘘、欠点というのも本作の作者のテーマの1つであると思われる。(人間の自尊心、知性に関しては、作者の無意識レベルのテーマだと思われる。)

 

最近のテーマに関連づけて話せば、これが、ビッグ・データの実用化が難しい、と言われる理由の1つである。そもそも、何かを観測する目的で作られたわけでも、その情報の信憑性が担保されたわけでもないデータの集合体からデータを抽出しても意味がない、ということである。なので、幾つかの企業では、データそのものを再構築しようとしているが、その試みは正しいと思われる。(ちなみにGoogleは最初から人工知能を作るために、検索エンジンを作っている)

 

人工知能へのイーロン・マスクの本当の懸念は何か?

イーロン・マスクとスティーブ・ホーキング博士Googleが特に押し進めている人工知能の計画に関して、汽笛を鳴らしている。

 

その警告の意味は、映画『ターミネーター』のようないわゆる「スカイネット」的なものを、ラリー・ペイジセルゲイ・ブリンは作ってしまうのではないか、ということを懸念している、と報道を見る限りそう感じてしまうのだが、それは細部を大幅に省略している。

 

特にイーロン・マスクが警告している問題点は「認識」や「観測」に関する事柄ではないだろうか。

 

すなわち、機械に人間を認識させるべきではない、ということだ。

 

(これは裏を返せば、現時点での世界最先端の人工知能、機械はまだそれ単体だけでは、人間を認識することができないということを意味している。)

 

機械に人間とは何か、というものを人間がまだ教えなくてはならないのだが、そもそも人間というものを人間自身が認識できていない。

 

しかし、一度入力してしまったデータを元に人工知能が動きだし、誤ったデータを元に学習し、何らかの実行をしてしまえばそれは深刻な事態を巻き起こす恐れがある。

 

それは人間の可能性や、未来を摘み取る恐れがある。導かれる全ての結論は今の人間の人間に対する認識に基づいたものであるが、その情報は既に不十分であり、更に未来の人間についての情報がまるでない。

 

それこそが、彼らが懸念する問題の本質であり、おそらく現時点における人工知能が抱える最先端の問題であると私は推察する。

 

人間が人間をまず認識できないのは、確かデカルトであったか、自己は自己を観察できない、という原則がまずあるからだろう。

 

であれば、むしろ、本当に自立した機械が存在するのならば、人は機械に観測する手段だけを与え、機械が認識する人間を人間として受け入れた時に、自己

 

を認識できることになる。我々が妄想する人工知能など、使い勝手はむしろそんな程度であろう。

 

人々は時に未来を想像する。それは当たる時もあれば外れる時もある。SF『マトリックス』のような機械による人間の支配、ジョージ・オーウェルの『1984』のような管理されたディストピア、あるいは『ガンダム』のような宇宙で暮らす人間の世界。

 

それらは全て、人間が人間を認識、あるいは観察して導かれたフィクションに過ぎない。だが、現実の未来は、機械は人よりも賢いが故に、人を支配しないかもしれない、人はそこまで愚かでないため、管理が行き過ぎた社会は壊されるかもしれない、人は宇宙で生存できるだけのエネルギー資源を、確保できないかもしれない。

 

映画や小説の影響もあるが、人間は同じ性質持つが故に、全世界の人間が同じような未来社会を、これが人間の未来社会の一つだと、思い込んでしまう習性がある。

 

だが、そう人間が基本的に当然だと思っている前提が真実ではないとしたら、その全ては覆り、全く違った社会が我々の未来には待っているだろう。

 

そして、自己は自己を計測できないという事が本当に真であるならば、そもそも人間が人間で構成される人間社会の未来など、人間のしたその予測の全ては外れることになる。

 

つまり、逆説的に言うのであれば、人工知能を生成することの最大の意味は、人間を観測すること、つまり機械を作ることはより人間を知ることに他ならない。

 

これは以前述べたように、人間のような不確実な事柄を処理できるコンピューターを作ろうとしたら、バイオの領域、すなわち人間を複製するホムンクルスでしかあり得ないことにも繋がる。

 

 

もう一つ、人工知能が人の知性を凌駕し、人が発明をするのではなく、あらゆるものを機械が代わりに創造するという、映画『トランセンデス』にも描かれた「シンギュラリティ」に関しても思う所がある。

 

仮にシンギュラリティが起きた場合、機械が創造しうる最高の発明はおそらく「人間」になるだろう。つまり人間が人間以上の機械を発明したとして、その機械が人間を産み出すというパラレルに陥ることになる。

 

だが、この繰り返しは矛盾しない。有機的な生命である人間が無機的な存在である機械を創造することに躍起になり、自らを全知全能とでも思い込むかもしれないが、元々人間を創造したのは機械とは言わないまでも、無機的な存在、つまりは宇宙そのものである可能性があるからだ。

 

人がする最後の発明が人工知能になるかもしれない。その説は間違ってはいないかもしれないが、それは振り出しに戻るに過ぎないのだ。

 

問題点があるとしたら、それを機械に委ねることで、人が真理から孤立し隔離されてしまう可能性だろう。機械が全てを代行する社会、それでしばしば問題とされるのは、人の堕落、機械による支配、そうしたものにフォーカスがいきがちだが、それは枝葉に過ぎない。

 

本質的に恐れるべきは、人が人を創造しうることができない段階で機械が人の理解できないものを理解し、人を創造してしまい、その理由の考察を人が諦めた時であろう。

 

その瞬間に、ディストピアSF小説のような未来、つまり人間が人間を認識しないまま、描き出してしまった未来が本当に訪れてしまうだろう。

 

この問題、理論ではなく、直感で捉えるなら、こちらこそが本質的な問題、すなわち人工知能に関する最大の問題なのだが、それに気づいている人間は果たしているのだろうか。

「文化」に関する考察と研究

現代社会において「文化」は支配的な影響力を持っている。資本主義社会において、「貨幣」に「価値」を付加しているのは文化である。

 

個人間においても、「尊敬」「愛情」「信頼」といったものの由来は全て文化から由来する。

 

そう言えるのは、文明や文化圏が変われば、「評価」の基準が変わるからだ。アフリカのある部族では男性は如何に高く飛べるかで男として評価されるが、ニューヨークにおいては、ハンサムの金髪、金持ちで高学歴、頭も肉体もマッチョかつユーモアのある男が評価される。そして評価は脳内で愛情へと変換される。

 

貨幣も我々の文明がこれは貨幣だと認識するから価値があるものであって、宇宙人に100ドル札を渡しても何の取り決めのなくては、ただの紙以下の価値しかおそらくないだろう。

 

すなわち、ものの「価値」や「評価基準」というものは、時代や場所によって変化するものであり、それはそれを使用する文化によって決定される。

 

個人間における文化と説得というものも面白い。とある日本の若者グループでは、金髪でピアスをした派手な服装をしていなければ、仲間に入れず、あるグループでは運動神経が高くないと、あるいは美しくないと、そのグループには所属できず、信頼もされない。そのグループの中では、話される話題も重要とされる問題も全く異なっている。

 

あるグループでは、どこどこの誰が強い、あるグループでは新作の化粧品について、あるグループでは昨日のプロ野球の試合結果が話題になる。

 

あるグループにはとって、他のグループの話題など興味もない、たわいもないものに感じるが、当事者たちにとってこれほど重要な問題はないと思って話されることもある。

 

日本の社会においては、男性は黒髪短髪の方がまともにみられ、女性は化粧をしなければならないが、国際社会においては様々な髪の色の人間が存在しており、それは人類の普遍的なものではなく、日本の社会が持つ一つの文化に過ぎない。

 

愛情の話しになるが、美しい人間は美しさを評価基準とする人間に対し、文化的な影響力を。お金持ちの人間はお金を評価基準とする人間に対し、文化的な影響力を持つ。すなわち、より多くの条件を備えたものの方がより多くの人間に対して説得力を有することになる。

 

しかし、全ての条件を備えた人間は存在せず、また個人が条件をどれほど揃えても、それ自体が原因で、例えば嫉妬のような感情により、文化的な支配力・説得力が存在しない事もあり得る。

 

従って、社会統治という観点からすると、支配のために能力や容姿とは異なる基準が必要となり、権威が生まれ、血統主義という御輿が誕生することになる。

 

宗教間における対立、戦争、または民族間における対立、紛争もその根底には文化の違いがある。

 

さて、幾つかの例を挙げてきたが、如何に我々が「文化」という概念の内にあり、それにより社会が成り立ち、問題も生じているかがお分かり頂けたであろうか。

 

これ程重大な論点にも関わらず、「文化」というものが「意識的に」人々の間で議論される事は少ない。大抵の場合、無意識的なものに終わっている。

 

なぜ私は美容よりもスポーツの話題を好むのか?経済よりも法律を好むのか?テニスよりもゴルフを優先するのか?AさんではなくBさんを愛するのか

 

同様に、何故嫌いなものが存在し、自分にとって嫌いなものもある人物は好きという場合が存在するのだろうか

 

それは生まれ育った環境やDNAだろうとの推測はできていても、個別の因果に関しては未知のままである。

村上春樹“職業としての小説家”を読んで with〜文章についておもうこと

初めに、私は村上春樹の小説を読んだことが一度もない。でも彼のファンである。

 

ファンになったきっかけはイスラエルで、氏がスピーチをした内容がきっかけであった。

 

自分が小説を書き続けるのは、人間がシステムのような無機的なものに囚われて人間らしさを損ねること、それと戦うために小説を書くのだ、と。

 

そのメッセージそのものと、それをイスラエルという場所で話した彼のセンスに痺れた。

 

だが、どういうわけか、小説の方は全く気が向かず、本書が自分にとって初の村上春樹著作の本と相成った。

 

読んでみて、なぜ村上春樹の本は日本で、世界でこんなに受けるのだろう?と浅い階層の部分は読み解けた気がした。

 

まず、文章自体が恐ろしくプレーンで短く、簡潔であること。

 

これは本人がそう意識して書いているようで、ハンガリーの作家アゴタ・クリストフという作家が同じような手法を用いて成功していて、その書き方を習ったものらしい。

 

簡単で、簡潔で平易な文章で書かれているものは当然読み易く分かり易い。幅広い層に読まれる本に当然になるわけだ。

 

だがそれだけでなく、自分が読んでいて感じたのは村上春樹の文章は日本のビジネスメールに“デザイン”が似ている。

 

自分にとって相手に気を使い、読み易くレイアウトする日本のビジネスメールはデザインという概念があるのだが、

 

それと同様の読み手への気遣いと、文章そのものへのデザイン性を感じた。

 

これも日本のビジネスパーソンと親和性が深いのではないだろうか。

 

もう一つは、一度英語で書いた文章を日本語に直して書いている、という点だろう。

 

当然氏の英語力は日本のどの作家よりも高いだろう。自分の伝えたいものを英語で書くこともできるし、より重要なのは、日本的なものを直接、自分の言葉で海外に伝えることができる。

 

例えば先にあげた簡潔かつ簡易的な文章には、読み手への思いやりが感じられる。

 

こういう文章の書き方はある意味日本独特であるのかもしれない。

そして、スピーチの内容でもそうだったが、村上春樹のメッセージは強い。そして明確だ。だが、それを感じさせない謙虚さがある。

 

こんな文章は日本人にしか書けない、とても日本的なそしてポップな作家だ。それが売れている理由なのでは、と分析家としての視点はそれであった。

 

ちなみに私も小説(その他諸々)を書く。むしろ文章家に成りたくて(政治を思う存分やりたくて)、とりあえず起業しようと思っているくらいだ。

 

なので、文章の書き方というには色々思うところがある。

 

ちなみに自分が好きなスタイルは、日本で言えば歴史小説家の童門冬二さん、宮城谷昌光さん、海外だとフランスの文豪バルザックの文章(翻訳だけど)である。

 

どちらもダイナミックで、迫力のある文章を書く。そして凄くダイレクトに愛や感情を感じる。(この辺が村上春樹小説に自分が惹かれない理由かもしれない。)たぶん凄く偏見に満ちているのだけど、そんなのどうでもいいよね、みたいな凄く男らしい書き方に感じる。

 

他にも面白いなと、思ったのはレオナルド・ダ・ヴィンチゲーテそしてドストエフスキーである。

 

ダ・ヴィンチは小説ではないし、手記を翻訳たものなので、文章というより手記から垣間見る彼のセンスなんだけど

 

ダ・ヴィンチの面白いところは、文章で“人間”をスケッチのように描いてしまっているところが天才性を感じられる。

 

普通は文章は人柄やメッセージを表していて、伝えたいものは感情だったり、事柄であったりするのだけど

 

ダ・ヴィンチは一つの文章に昔の錬金術的な地水風火

つまり、人間の肉体、精神、感情、自我という構成要素を

全て表現する文章を描いているように見えること。

 

彼にとっては文章も絵を書くことも、彫刻を彫るのも何も変わらないのだって、感じさせること。そして文章で伝えることが感情でも事柄でもなく、人間を描くって、ことをしている人って他に見た事なくて斬新さに心打たれた。

 

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟が東大生が勧める本ベストワン的なふれこみで、読まないといけないのかー的な発想で

 

買ってはみたものは正直、何で東大生がそんな熱くなるのかの理由は理解できず。ただ、推理小説であり、恋愛小説であり、あらゆる小説のジャンルが含まれているコンセプトは面白いと思った。有名なゾシマの独白の迫力も確かに凄い。でも一番面白いのはドストエフスキーゲーテ、特にファウストの影響をもろに受けていて

 

むしろ未だに解読されていない、ファウストの解読書的な位置づけとして、この本はあるのではないかと思った。

 

ゲーテファウストをあえて“完結させないこと”で明快なメッセージを発信したと言われているし、表現者としての表現の選択にやはり感銘を受ける。

 

(ちなみに村上春樹ドストエフスキーに印象を受けているが、ドストエフスキーに比べるとなんて自分は作家として才能がないのだ、と感じているらしい。それは事実だと思う。才能を感じさせる文章は圧倒的にドストエフスキーだ。この辺が才能という言葉に酔い易い東大生との親和性なのだろうか)

 

最近は自分は色々書き方で悩むことがあり

試行錯誤の繰り返しで

自分の書きたいように書くと分かり辛くなってしまう

だけど、分かりやすく書こうとすると自分の言葉を失ってしまうというジレンマがあり

 

改めて文章について考えるいい機会を与えてもらった。

 

言の葉も同様で

 

昔から自分は周りの汚い言葉使いに無理して合わせて不快な思いをしたり、自分の表現したい言葉がなかなか見つかなくて苦労したり、使いたい言葉がとても古い言葉で日常会話でなかなか使えなかったり

 

とにかく自分の言葉で喋ろうとするのだが、そこにある自分の持つ文化と、日本社会が持つ文化との間での親和性というものに最近どう折り合いをつけようかと日々悶々としております。

 

着地点を見つけるには暫し時がいるようですが、

 

やはり自分の言葉と文章を大事にし、

書き続けていきたいと思う次第でありました。

人工知能は人間生成にいきつくというパラドクス

人工知能がスタートアップ業界でも盛り上がりを見せている。

 

Googleが目指している、欲しい情報を的確に検索できるアルゴリズムの構築などももちろん人工知能の話しだろう。

 

人工知能に関しては

特にコンピュータ的な演算能力の拡張と、人間の持つような複合的な知性の再現するコンピューターの作成と二つのアプローチが取られているように思う。

 

あくまで推測だが、前者はグノシーなどが取り組んでいるであろうベイズ統計を用いて、アルゴリズムにこれまでの経験を随時学習させ精度をあげていくやりかたである。

(これも推測だが、Googleベイズ統計に加え、独自のアルゴリズムをプログラムして精度を上げている。おそらくはベイズに組み込む条件をより増やすプログラムか、人間の思考パターンのうち法則化できるものを法則化し、回帰分析も用いて確率的な精度を上げているのではないだろうか)

 

もう一方は原丈人氏などが発案する、全くアプローチを変えたコンピューターを作ること、すなわち、人間の思考により近い人工知能を作るためには、そもそも既存のコンピューターの枠から脱却しなくてはならない、という事である。

 

個人的には原丈人の言うように(だったと思うが)、既存のコンピューターコードを書くことによる人工知能アルゴリズムの生成は、不可能であると自分は考えている。

 

なぜならば、本質的に人間というものを考えると、コンピューター頭脳との違いは、人間の脳には「感情」が存在するからである。

 

そして、人間と同様の処理能力を持つコンピューターを作る、ということは本質的に人間を生成すること、すなわち、中世では錬金術、最近ではバイオと呼ばれる領域に関することになる。

 

そして、「感情」は「社会」と「言語」と一体不可分の存在であるため、人間に近い人工知能を作る場合は、そのコンピューターに、「感情」と「社会」と「言語」機能を付加する必要がある。

 

だが、それは最早人間と呼べないだろうか。

 

逆に考えてみると、感情のない生物は社会を形成しない。殺されても文句も言わない生き物が社会を形成し得るのか、というフィクション世界を想像してみればわかる。

 

言語(テレパシーも可)がなくては意志の疎通が図れないため、それも社会を構築しない。

 

そうすると、根本的な問題として、人工知能という極めて機械的なプロジェクトを追い続けることは、生物の創生という極めて生々しいテーマに最終的に着地することになる。

 

そう思うので、ITとか理論演算の畑で盛り上がりを見せる人工知能論というのは、いささか自分には奇怪に映る。

 

これは本来はバイオ、バイオ×ITで盛り上がるところではないのだろうかと。

 

スティーブ・ホーキングなどが警告するような、自己学習するコンピューターの危険性、いわゆるターミネータースカイネット的な話しも

 

仮によくあるSFアニメのようにコンピューターが人間を通して「社会」と「言語」を学んだとして、人間の持つような複雑な感情の変化を計算して、瞬間的な値を出せるような演算コンピューターが物理的に存在し得るのか。全くメモリ不足である。

 

そして、人間の脳の特徴は「間違える」ことにある。コンピューターの計算は基本的に間違えることはない。

 

それは逆説的に言えば、間違える余地のある機能がなければ、いわゆるカオス系、日常的日本人的な言い方をすれば「空気を読む」ということができないからであり、それは感情と密接に関連をしている。

 

つまり、コンピューターに感情を付加し得たとしても、それは人間になり、同時にコンピューターが得意とする絶対的な演算能力を失うことにならないだろうか。

 

なので、スカイネット的な恐怖というのは、結局のところ、人間がコンピューターにそういう権限を与えるか否かでしかないのではないか。

 

人間のような思考を持ち、コンピューターのような絶対的な演算能力を持つ人工知能を作る、というのは右に曲がりながら左へ曲がってくれと言っているようなもので

 

ただあくまでそれを作るなら

 

むしろ、「人間」「社会」「言語」「感情」の関係性を民族ごとや、国ごとに文化人類学的に比較し、そこから擬似的にパターン化できる項目を抽出して、コンピューターに付加していった方が面白そうなものができるような気が

 

すると、今度は文系領域の話しにもなる。

 

人工知能」というと、とてもサイバーな香りがするが、すごく生ものなのが実態ではないだろうか。

 

徴兵制及び自衛権に関する議論

この問題に関しては、政治家及び関係者の軍事リテラシーの低さが不安を煽っているように思う。

さすが、軍事防衛に関しては専門家を自称する石破茂氏の発言が妥当である。

http://www.sankei.com/politics/news/150620/plt1506200003-n1.html

今日的に徴兵制の意味はない、というのは、まず

核兵器を各国が所有していること

②日本が主に想定されるのは海戦であり、練度の低い徴兵された素人が出る幕などないこと

③既にアメリカやイスラエルなどの一流軍事国家はドローンなどの無人戦闘機を次世代の主力に位置付けており、既に人間の兵士を投入する、という考え方が時代にそぐわないということは挙げられる。

 

もちろんここまで、ざっくばらんな話は石破氏からはでないかもはしれないが、概ね彼の頭にあるのはこの辺りの話しであろう。

 

細野豪志少子高齢化で戦力が不測した場合、徴兵制といった議論は不安を煽るための戦術に過ぎない。

 

そもそも陸戦力が必要な場合は練度の低い素人がでるくらいなら、アメリカの民間軍事会社や、他国の傭兵といった選択肢もある。

 

しかし、日本が全く戦争に巻き込まれる余地がないか、日本が戦場になる可能性がゼロではないかと言われればそうではない。

 

可能性は限りなく低いが、それは中国による日本の本土侵略作戦である。

 

基本的に今の国際情勢で、中国とアメリカは台湾、中国と日本は尖閣で部分的に衝突する可能性がある。

 

その場合は海戦になるが、彼我の戦力差から考慮すると、どちらも日米の圧勝に終わる。それ程中国と日米は海軍力では開きがある。そもそも中国は海戦を経験していないため、素人とプロの戦闘になるだろう。

 

だが、将来的にアメリカの国力が落ちた場合、中国がロシアがクリミアにとったようなやり方で尖閣や台湾を取る恐れはある。

 

そして、中国が軍部に握られて巨大な軍事独裁国家となった場合、国内向けに日本に対する戦争を仕掛ける可能性はゼロではない。疲弊していれば、アメリカは助けに来ないだろう。

 

その場合、日本本土において中国軍とゲリラ戦になるような可能性がほぼ唯一のケースであると考える。

 

しかし、中国は北にロシア、南にベトナム、西にインドを抱えており、日本に主力を送れば最悪四方からの四正面作戦を強いられる事になる。しかも、インドとロシアは核を持っている。

 

この場合よほど日本がならずもの国家になっていない限り、日本に味方する国が少ないとは思わない。

 

中国がアメリカを圧倒していたとしても、中国にここまでのリスクを負うメリットはなにもない。

 

中国首脳が重んじるのはあくまで、メンツであり、太平洋戦争の借りを返したと示せるレベル、すなわち尖閣などの部分的な勝利で充分であり、日本を併合あるいは焦土化するような作戦行動を取るとは考え難い。

 

従って、実際は心配する必要性は少ないが、戦争は歴史を見る限りよくわからない理由で始まり、当事者たちの予想を超えた規模で拡大する事がある。従って全くゼロと断言はできないだろう。

 

しかしその場合は、将来における日本の防衛のために、核武装するか否か、というのが必要な議論であり、日本が危ないから徴兵制を取るという議論は全く見当違いなナンセンスなものである。

 

徴兵制ではないが可能性があるのは、現在のイスラエルのように、優れたゲーマーの若者をスカウトして、自衛隊が無人戦闘機部隊を運用する事である。この場合は徴兵制ではなく、それなりに良い給与を払っての雇用という形になるだろう。

 

現実的に近い将来あり得ることはもう一つある。戦争を知らない現在の若者は急速に右局化しつつある。平和でのほほんと生きている同世代に、不満を感じる人々は少なからず存在する。

 

近い将来徴兵制ではなく、自衛隊の予備役や大学の夏休みを利用した、自衛隊キャンプなどに、進んで若者が参加するようになるだろう。

 

日米の軍事的な連携が強まれば、アメリカが採用しているようなエリート兵士を養成するプログラムも拡充するだろう。

 

トレーニングを受ける人間の動機も様々で、おそらくタフな人材として良い企業への採用のためにキャンプに参加する学生もでるだろう。

 

将来的に起きる可能性が高いのはつまるところそんなものである。

 

もう一つ徴兵制があり得ない根拠として、ある国を見て考えることだ。韓国、イスラエル、スイスなど。いずれも陸上に敵国と接しているもしくは、侵略された過去がある国だ。そして総力戦やゲリラ戦になる恐れがある国だ。

 

海に囲まれ容易く人が往来できない日本に、彼らと同じ制度は必要ないのは一目瞭然である。