現代社会において「文化」は支配的な影響力を持っている。資本主義社会において、「貨幣」に「価値」を付加しているのは文化である。
個人間においても、「尊敬」「愛情」「信頼」といったものの由来は全て文化から由来する。
そう言えるのは、文明や文化圏が変われば、「評価」の基準が変わるからだ。アフリカのある部族では男性は如何に高く飛べるかで男として評価されるが、ニューヨークにおいては、ハンサムの金髪、金持ちで高学歴、頭も肉体もマッチョかつユーモアのある男が評価される。そして評価は脳内で愛情へと変換される。
貨幣も我々の文明がこれは貨幣だと認識するから価値があるものであって、宇宙人に100ドル札を渡しても何の取り決めのなくては、ただの紙以下の価値しかおそらくないだろう。
すなわち、ものの「価値」や「評価基準」というものは、時代や場所によって変化するものであり、それはそれを使用する文化によって決定される。
個人間における文化と説得というものも面白い。とある日本の若者グループでは、金髪でピアスをした派手な服装をしていなければ、仲間に入れず、あるグループでは運動神経が高くないと、あるいは美しくないと、そのグループには所属できず、信頼もされない。そのグループの中では、話される話題も重要とされる問題も全く異なっている。
あるグループでは、どこどこの誰が強い、あるグループでは新作の化粧品について、あるグループでは昨日のプロ野球の試合結果が話題になる。
あるグループにはとって、他のグループの話題など興味もない、たわいもないものに感じるが、当事者たちにとってこれほど重要な問題はないと思って話されることもある。
日本の社会においては、男性は黒髪短髪の方がまともにみられ、女性は化粧をしなければならないが、国際社会においては様々な髪の色の人間が存在しており、それは人類の普遍的なものではなく、日本の社会が持つ一つの文化に過ぎない。
愛情の話しになるが、美しい人間は美しさを評価基準とする人間に対し、文化的な影響力を。お金持ちの人間はお金を評価基準とする人間に対し、文化的な影響力を持つ。すなわち、より多くの条件を備えたものの方がより多くの人間に対して説得力を有することになる。
しかし、全ての条件を備えた人間は存在せず、また個人が条件をどれほど揃えても、それ自体が原因で、例えば嫉妬のような感情により、文化的な支配力・説得力が存在しない事もあり得る。
従って、社会統治という観点からすると、支配のために能力や容姿とは異なる基準が必要となり、権威が生まれ、血統主義という御輿が誕生することになる。
宗教間における対立、戦争、または民族間における対立、紛争もその根底には文化の違いがある。
さて、幾つかの例を挙げてきたが、如何に我々が「文化」という概念の内にあり、それにより社会が成り立ち、問題も生じているかがお分かり頂けたであろうか。
これ程重大な論点にも関わらず、「文化」というものが「意識的に」人々の間で議論される事は少ない。大抵の場合、無意識的なものに終わっている。
なぜ私は美容よりもスポーツの話題を好むのか?経済よりも法律を好むのか?テニスよりもゴルフを優先するのか?AさんではなくBさんを愛するのか
同様に、何故嫌いなものが存在し、自分にとって嫌いなものもある人物は好きという場合が存在するのだろうか
それは生まれ育った環境やDNAだろうとの推測はできていても、個別の因果に関しては未知のままである。