IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。

切り取られた才能

前回

映画『THRIVE』と陰謀論。日本人が陥りがちな過ちについて - IT人の政治リテラシー向上を目指して

の「お前が正しいことを言え」はプレゼンテーションに関しても同じことが言えます。

 

我々はもう退屈な話を聞いていられるほど、気が長くなくなっています。

質の高いコンテンツ、プレゼンが溢れ返っているからです。

「面白い、短い、わかりやすいプレゼン以外聞く耳はもたない」です。

 

そうした表現力が磨かれていくことは素晴らしいことですが、一方で受け手の認識力の方はますます低下して行きます。

 

実はわかりやすく面白いプレゼンは、伝え手が伝いたいところだけを明確に伝えているだけなのです。ですからそれ以上に何かを受け手が得ることは難しいです。なぜなら、「伝え手が伝えたい情報」以外を完全にカットしているので、それ以外の情報を受け取ることが極めて困難なのです。

 

例えばサイモン・シネックの「ゴールデン・サークル」やガー・レイノルズの「プレゼンテーション・zen」は非常に完成度の高いプレゼンですが、そのプレゼンの内容以外のことは頭に入ってきません。彼らの非凡さは伝わりますが、その背景やどこが非凡なのかは、おそらく実際に話してみないとわからないでしょう。

 

さて、パワポやキーノートを駆使したプレゼンらしいプレゼンだけでなく、「私が何者であるか」という自己紹介のような広義のプレゼンに関しても、同じことを考えてみましょう。

 

我々が自己紹介をするときに、「名刺」というツールが一般的だとは思います。ここには「会社名」、「肩書き」、「名前」が書かれます。

 

ですが、それがわかったからと言っても、その人が何ができるのか、信頼できるのか、という情報はわかりません。ですからそこに、デザイナーやエンジニアといった、役割、スキルを書く人もいます。

 

ですが、その人が「デザイナー」であることはわかっても、何が得意なデザイナーかまではわかりません。そこからはどういうものが得意か、というものを改めて説明します。

 

それは、商材を売るときに説明することと一致しています。自分の中のスキルで最も売れるものを切り取り、説明します。このとき、人は人から単なる商材へと変化します。

 

そして、受け手に認識力が乏しければ目の前の人間は、その人がプレゼンする、切り取られた才能だけを見て商品として扱います。

 

しかし、それは大きな木の葉の一部を見て木の価値を決めているようなものです。

 

その人が信頼できるかどうかは見るかもしれません。ですが、その人が自身で語ること以上に何ができるのか、どのような才能があるかをあまりみようとは

しません。

 

我々がこのような時にしているコミュニケーションとはお互いの指先を見つめ合いながら、この指先にできることは何か、と論じ合っているようなものなのです。

 

人が人を知り合う時に、相手をよく見る人間は本当に多くのことを見ます。その人の人格のみならず、才能、役割、そしてそれを時系列に見ることもできます。

 

そこには認識力の差があります。指先だけを見るのか、人という全体をみるのか。

 

同時に「見方」というものもあります。花を見てその美しさを見るか、儚さを思うか、蜜が売れるのかと考えることには大きな違いがあります。

 

そうした広さ、深さ、見方、同じ人を見る時にも認識力の違いで大きな差が出ます。

 

詐欺師を見れば詐欺師とわかる人とわからない人がいるのもこうした認識力に関連づけられるでしょう。もちろん経験からの判断能力の向上もあるでしょうが。

 

我々が気をつけなければいけないのは、「目の前にある人の素晴らしさを見損なうこと」です。特に謙虚な人間は自らの素晴らしさについて、自ら言及したりはしません。

 

その人の素晴らしさ、才能をその人が気づいている以上に見出すこと。経営者であれば特にこうした能力は必要になってくるでしょう。

 

自己のスキルを適切に評価し、表現できる人であっても、本人では気がつかない才能を隠し持っていたりします。それに気がつくか否かは我々次第なのです。

 

人は遠くに財宝を求めて冒険に行きがちです。しかし、目の前にもっと価値のある財宝が、実は存在することにはなかなか気がつかないのです。

なぜ同じ服を着てもイタリア人はお洒落に見えるのか

日本でも一時期雑誌「レオン」を代表するように、「ちょい悪オヤジ」が流行った時期があった。

 

もちろん今でも一定数都会にはいるが、ことファッション業界という視点で見ると、日本のちょい悪オヤジのファッションはダサいという評価が下されている。

 

基本的にファッションはブランディングが重要で、「どのような服」よりも「誰が着ているか」が特に流行には影響を与える。

 

つまり、イケてる人が着ているファッションならみんなそれを真似して、特に若い子は買いたがるし、逆にダサい人が着ている服はそのために売れなくなってくる。(以下基本的に若者も男、ブランドもメンズブランドを想定しての話)

 

ちょい悪オヤジが着ている服の大半は、ほとんどがイタリアのブランド品である。その質は変わらず世界最高峰であり、服自体のクオリティはほとんど変わっていない。

 

また、同じ服を着ていても、イタリア人が着ていると格好いい。

 

一体この差はどこからくるのか、またなぜ日本ではちょい悪オヤジの着るイタリア服はダメになってしまったのか

 

まず、日本の若者がなぜちょい悪オヤジをダサいと思っているかといえば、結局、彼らはセンスでなく、金にものを言わせた生活をしているからである。

 

美女とブランド服とスポーツカーと高級マンションと海外旅行と別荘という、お金持ちのパッケージをセット買いすることに、品の無さを感じている。

 

また、本来はファションはより個性、オリジナリティを重んじるはずが。お金持ちパッケージを誰もが購入することにより、全くの個性が乏しくなり、それが「ダサく」見えるのだ。

 

その他にも、自分をブランディングするのではなく、ブランド品を身に付け、格を上げようとする、高いものを買えばお洒落だと思っている、などあらゆるところが今の若者にはダサく見える。

 

どちからと言えば、今のファッションに興味がある若者はライフワークバランスや、持続可能性といった言葉に感度が良く、また、機能性や実用性を重視するため、そもそもそこまでブランド品に関心がない。

 

また、一部お洒落で感度が高く、高級品を買える若者はちょい悪に毒されていない、アメリカ、イギリス、ヨーロッパでもアントワープ系のブランドをセレクトすることが多い。そして、更に一巡して、日本のブランドやスポーツブランドが再評価されている現状で、イタリアは蚊帳の外におかれてしまっている。

日本にあるメゾンのイタリアハイブランドは、結局主にバブル世代を中心とした、ちょい悪オヤジ層をターゲットにせざるをえなくなっている。

 

その一方で、イタリアブランドが実際は流行りに遅れているかと言えば、全くそんなことはない。それこそレオンスナップで見ても、日本では見たことがないようなお洒落なイタリア人はたくさんいて、彼らはイタリアの服を多かれ少なかれ着ているし、それが似合っている。

 

その違いは何か、それは服を選ぶ「動機」にあるのではないだろうか

 

そもそも、イタリア人は、美意識やデザイン、芸術に対して非常に感度に優れた土壌で育っている。生まれた時から美に囲まれて育ち、親どこらか祖父母の代、何世紀前の祖先からお洒落な環境で育つため、おそらく自分たちでもあまり言語化できないような、意識があるのだと思う。

 

そんなイタリア人の無自覚なお洒落の本質は「愛」と「ファションの本質」であるように思う。

 

まず、ファションの本質とは「TPO」である。

「どのような環境で」

「どのような目的で」

「誰と何をするのか」

本来、ファッションというものは、デザインと同じで、目的のための指向性を持つ、ある種の手段の一つである。

だから、アメリカのセレブリティは、LAでハンバーガーを食べる時と、アカデミー賞のレッドカーペットを歩く時のファッションは違うし、欧米人のファッションには常に「オン」と「オフ」が存在する。それはファッションとは本来「TPO」がベースという文化が染み付いているからである。そのため、彼らはどんなにお金を持っていても、オフで必要がない時まで、高級品を身につけていたりしない。

 

それが全身ブランド品で、どこで何をするのにも高級品を身につける、日本の一部の金持ちのお洒落との違いである。(いわゆる学生がルイビトンのカバンを持って旅行や、学校には行くのは彼らには奇妙に見える)

 

そして、どんなファッションも自己満足ではただの奇抜な人になってしまう。

 

イタリア人がお洒落に見えるのは、そもそも美しい地中海の青さと、自然、そして古都に溶け込んだ装いを、自分の体格、個性にあった服装を選び、それをTPOに合わせて着ているからではないだろうか。

 

そしてそのTPOには一緒にいる相手に対するマナー、つまり「愛」が動機にあるのではないだろうか。イタリア人が欧米人の中でも突出してお洒落に見えるのは、イタリア人に「アモーレ」すなわち愛の文化が根付いているからではないだろうか。

 

例えばパーティーに参加すること一つ取ってもパーティーの趣旨、参加する人、その中での自分のメッセージなどある種の緻密な計算、気遣いがそこにはあるのではないだろうか。デートでも、相手のために服を着るような感覚である。

 

同じお洒落であっても、イタリア人が日本の東京の原宿や代官山、青山といったエリアで見られるような、奇抜なハイブランドファッションで街を歩いていることはないだろう。

 

それは、彼らにとって装いの基本とは、個性にあるのではなく、愛やTPOにあるからである。

 

それに対して日本人のファッション観と言えば、まず、社会全体が「とりあえずスーツ」ではないだろうか。そして、貧富の差の是正という名の、没個性の制服の強制を小学校からされては、イタリアのようなお洒落な人材が育つはずもない。

 

そしてそれに対抗、反抗するかのように若者は「個性的」なファッションを「お洒落」と位置付け、奇抜なものに走ってないだろうか。イタリア人のような「愛」や「ファッションの本質」という概念が抜けたままなのが日本人のファッションではないだろうか。

 

そして、そのような両極端なファッションに疲れ、とりあえず本質に近いところの「リアルクローズ」を本能的に嗅ぎ取ったのが、今の若者の主流ではないだろうか。

 

日本の場合、冠婚葬祭もダークスーツ。パーティーもダークスーツ。(たまにタキシードか、モーニングがあるがどちらも系統は同じようなもので、それをそういうものだから、と着ているだけ)

 

つまり、社会全体のファッションが「とりあえずスーツ」お洒落や儀式的な場も「なんとなくスーツ」で、金持ちがとりあえず「ハイブランド」を買うが基本で、そこに存在する動機、行動原理は「思考停止」と「人と違いたくない恐怖心」と「無難に見せたい射倖心」または「見栄」である。本質がそれでは、どんなに見てくれをよくしても「格好良く」見えるわけがない。なぜなら、ガワは中身の表現でしかないからだ。若者は特に感性が良いため、言語化はできなくても、鋭くそれを捉えている。

 

またファッションの本質から考えると、日本人が全く同じようにイタリア人と同じ服を、例えば東京で着ていて似合うわけがない。

 

日本人が特にイタリア服と認識するような、イタリアらしい服装の一つに、明るい、ビビッドな色使いの服がある。それは、イタリアの特に南部の特徴で、地中海の夏の青さとマッチして映えるようなもので、東京の港区でフェラーリが窮屈そうにカーブを曲がるように、都心で映えるような装いではない。

 

少しテーマを逸れると、IT業界ではむしろスーツ出なくてジーンズが制服のようになっており、今度は「とりあえずジーンズ」が主流になりつつある。

 

もともと、エンジニアは座り仕事が多く、高級な生地のスーツでは磨り減ってしまうためジーンズが増えたのだろうが、「とりあえずスーツ」から「とりあえずジーンズ」に移行するのは、どこか思考停止、宗教的で残念でならない。

 

そうではなく、イタリア人のようにファッションの本質、愛から日本人のファッションも再構築できないだろうか。

 

基本的に、日本には四季があり、四季によって装いも変え、また世界の流行にも敏感で、実際は日本人は世界で一番お洒落である、という評価も世界からも受けているしまた、世界で評価されるデザイナーも何人も排出している。

 

その外からの評価と、ちょい悪オヤジ現象に代表される内側の残念感のギャップは、社会の中でまだファッションの中に本質と愛が抜けていることが原因である。

 

つまり、日本の場合はどこの業界も変わらず、世界から見ると高いポテンシャルはあると思われているが、愛と本質は抜け、自己評価が低いため残念になっている状態である。

テレビの価値観は、もはや社会の価値観ではない

かつて(主に昭和、平成)はテレビの中の価値観と社会の価値観が一致していた。

 

なぜなら、テレビはほとんどの日本人が見ていたものだったからだ。

 

そんなテレビのルールと世の中のルールが微妙にずれだしている

 

最近のニュースを見るとそのようなことを感じることが多い

 

例えば松本人志の不良品発言にあるような一連の失言問題も、数十年前だったら問題にはなってないのではなかろうか。

 

とんねるず石橋貴明がテレビから姿を消したのも、大きく笑いのトレンドが変わってきたからだと言われている。

 

イジることは昔では面白い、弄られて美味しい、が、イジるが今の時代の特に若者には、やり過ぎ、イジメに見えるのだ。

 

ダウンタウン松本人志の発言も昔だったら、「面白い」で終わる、というその世界観のまま、プロデューサーや番組関係者含め観ていてオッケーだと思っていたのではないだろうか。

 

その視点で言えば、30代から下、主にSNSを主体とする世代と、今のテレビとは価値観がズレ始めている。

 

また、それは単なる世代のズレに留まらない。#me too問題に代表されるように、パワハラやセクハラというものも、時代として全世界規模で許されなくなっている。

 

LGBTなどの新しい価値観も形成されてきており、これは時代の流れ、トレンドである。

 

率直に言えば日本のテレビ、マスコミが、時代のトレンドのコンテンツではない

 

昔のようなテレビの価値観=日本の社会の標準的な価値観では最早ないのだ

 

それはKAT-TUN田口淳之介の土下座に関する世間のリアクションからも見て取れる。

 

田口淳之介は世代的には30代のSNS世代にあたるが、テレビの世界で生きてきた人間である。

 

だから、土下座というものが今の時代ではどのように映るかというものがわからなかったのではないか(ジャニーズから離れブランディングができてないというのもあるだろうが)

 

島田紳助から始まり、最近だとカラテカ入江の問題もそれに近い

 

昔は芸能界と裏社会の繋がりは密が当たり前だったが、今はそうではない、ということが業界の中にいると鈍くなってくるのだろう

 

また、テレビタレントたちも、もっと自由に番組つくりができるネットへとシフトしている。だが、若い層にも一定数そうした過激なコンテンツを支持する人がいても、それがトレンドに変わるものにはならないだろう。

 

自分たちが面白いと思っているもの、オッケーだと思っているものは、一部ファンがいるだけで、時代には合ってない

 

それは、ネットでテレビを作り、twitterで情報配信しても同じである。

そこだけ時代に適合しても、どこかでボロが出る。

なぜなら頭の中身までは変わってないからである。

 

少しずつテレビタレントが裸の王様と化しつつある。

 

そして裸の王様と化したテレビタレントは、SNSにとっては絶好の餌食である

 

そしてそれは政治家にも同じことが言える

 

例え政治家が若手であっても、永田町、霞が関の文化は古いままである

芸能界と同じように、そこに若くても順応していると、政界の常識が社会の非常識であることに気づきにくくなる

(ちなみに今話題の丸山穂高は、本人の政治家としての資質の問題であり、世代とか政界の文化とは無縁である)

 

これが民間企業のレベルになってくると、更に話はセンシティブになる

 

若手は若手で年長者が何を考えているかわからないから怖いが

 

実は企業のトップたちも今の若者は怖いのだ

 

なぜなら、SNSという未知のツールを駆使し何をするかわからないし、そもそも採用しないといけないし、育てないといけないが、自分たちの世代とNGライが違い過ぎて、どこまでがセクハラ、パワハラなのかがわからないからだ

(例えば昔は先輩の酒が飲めないのか、がいまは完全にパワハラどころか飲酒強制は場合によっては犯罪)

 

時代の流れが変わってきている、少し前の当たり前は今の非常識にもなり得るのだ。

 

なぜ電車の中で電話をしてはいけないのか

意外とあまり言語化されてなかったのであげてみた。

 

それは「キキタクナイ話」を無理やり聞かされるのが、「イヤ」だからである。

 

この「キキタクナイ話」というのがポイントで例えば電車の中で

安室奈美恵が急に歌い出した

向井理田中圭がイケメンなトークをしている

安倍総理が大事な話を麻生太郎としている

ホリエモンが他では聞けない話をしている

 

つまり

×声が大きいのが嫌

×人の会話が聞こえるのが嫌

 

というわけではなく

安室ちゃんであれば、声が大きいどころか、歌でも踊りでもオッケーなのである。また、自分が好きな人、ファンの話や、他で聞けない面白い話は聞けるなら、むしろ聞き耳を立てるはずだ。

 

電車の中で「電話」が「ダメ」で「会話」がオッケーなのはなんでなの?

という問いに関しても、厳密にいえば、電話だからダメで、会話だからオッケーなわけでも本当はない。

 

ただ、一般的に電話の特徴として

・電車の中はノイズが多いから、会話の時より声が大きくなりがちで周りからうるさく聞こえる

・相手が誰となんの会話をしているかよくわからないから、聞いていても何も面白くない(面白くない話を無理やり聞かされている苦痛)

 

なので、仮に電話でも

木村拓哉がスーパーイケメンボイスでkokiと電話で話している

釘宮理恵がモノマネしながら電話で話している

石原さとみが彼氏らしき人と電話で話している

ダウンタウン松本人志が一人でコントを始めた

 

は多分オッケーになる。(一部ファン限定かもしれないが)

 

ダメなのは

×自分の会社の仕事の話を他の社員とする(乗客には関係ない)

×妻と電話で夫婦喧嘩(他所の家庭の喧嘩など聞きたくない)

×友達に電話で悪口、自慢話し(人の悪口、自慢話など誰も聞きたくない)

×下手くそな歌を歌う(下手な歌はなるべく聞きたくない)

 

キーワードになるのは

「キキタクナイ話」

「不快な話」

 

なので実は「キキタイ話」は電話でも会話でもオッケーなのである。

 

基本は、人に迷惑のかからないことが大事で、迷惑に感じるか感じないかが、人それぞれなので、一律にとりあえず電話は駄目になったのだろう。

(鉄道会社の合理化的なトラブル対策)

また、電車の中で瞑想をしたい安室ちゃん嫌いな人からしたら、安室生ライブですら苦痛になるだろう。

だが、瞑想をしたい人もいれば、騒ぎたい人もいるので、とりあえず一律に処するしかない。

 

もう一つ違う角度から話をすると、同じ話を家の中でしたらオッケーで、外でするとなぜダメなのだろうか。

 

本質的なポイントとして「時」と「場所」を間違えることが、悪になる、という基礎概念が重要である。

アムラーにとって生ライブは阿鼻叫喚

×アンチ安室にとって生ライブは騒音

 

○家で一人で愚痴っても、悪い感情は自分が食らうだけ

×外で悪い感情を吐き出すと、周りに被害が及ぶ

 

そして、電車の中でなくても、レストランでもカフェでも、本来は不快な話はみんな嫌だが、電車の中のようなペースメーカーとか他の理由もないから放置されているに過ぎない。

 

そして、この不快感をより深掘りすると、「感情」がとても大事なポイントになる。

例えば、どんな赤の他人だろうが、電車の中でプロポーズして、盛り上がってるカップルを祝福しないわけがないだろう。

「幸福のお裾分け」はオッケーだが

「不幸の押し付け」は結構コケコッコーなのだ

 

人の悪口や叱責など、不快な感情、言葉や音は電話でも会話でも共有してくれるな、なのだが、ルールで「感情的に不快なことは電車の中ではやめてください」という条例は21世紀の日本ではまだ早すぎるから、やむなく「電車の中では電話はだめよ」に妥協しているに過ぎないのである。

 

余談だが、この「キキタクナイ」の権利は自分はもっと大事にされるべきだと思っている(このブログも、赤坂を歩いているときに、聞きたくもない話をスピーカーで流す車に遭遇した時の不快感から生まれている)

 

路上カーは選挙も含めて、真面目に「聞かない権利」について議論されるべきだ。そして22世紀までには認められていて欲しい。

 

さて、たまに上記のルール、快不快に当てはまることなく、とにかく電車で電話をしていると注意してくる人がいるだろう。

 

それらの人は「電話を電車で話してはいけない教」の信者である。「宗教的」になってしまっている状態である。

 

基本的にルールやマナーに関しては、作るたびに宗教的になってしまう人が一定数存在する。

 

つまり、こういうロジックでこれがダメとか、こういう場合が例外になるとか考えないで、とにかくダメだと律法的に人に怒りをぶつけてくるタイプである。

 

これは、「電話を電車で話してはいけない教」以外にもたくさん存在する。

「授業中スマホは電源切らないといけない教」→マナーモードでも可

「最初はビールで乾杯しないといけない教」→パワハラ

「とにかくペットボトルを使ってはいけない教」→他とのバランス

エスカレーターは右側が歩く教」→関西は逆

 

基本的に例外やロジックを考えることなく、なんでも、とにかくダメで「思考停止」状態に陥っているのが、「宗教的」な人の特徴である。

 

つまり、「電車の中で電話をするのはダメ」だと誰がいつ、なんで決めたかはどうでも良く、ただダメだから、相手を裁きたい、攻撃したいから注意してくる、というそもそもの「動機」が異なる人がいる。(正義感とか、自分が思い込むケースもある)

 

こういうタイプの人は、多分「怒りメーター」が限界に達していることが多い。

グラフィカルに言うと、コップに既に水がいっぱいになっていて、少しでも足したら溢れ出すイメージだ。

 

この状態になると、ルールがどうとかは実はどうでも良く「攻撃スイッチ」となるものが目の前に現れると、ゲンスルーのボマーな念能力のごとく発動するのだ。

 

「宗教的」かつ「攻撃的」な状態になると、歩く時限爆弾みたいになるので、その人の目の前でその人がルールだと宗教的に思い込んでいることをやらかすと「攻撃スイッチ」がオンになり、(攻撃=注意)してくることになる。

(いわゆるイライラしている人が八つ当たりをしたいだけ、というイメージでも良いが)

 

この手のタイプは、実はよくよく冷静になってみると、

「なぜ自分が怒っていたかわからない。」

「確かに言われていれば自分が誤解をしていた、理解が浅かった」

など気づくケースも多い。

ただ厄介なのは、一番危険な状態になると、そのまま犯罪や刑事事件に繋がってしまう。

 

例)

歩きスマホを若者に注意→無視されて激怒して電車のホームに突き落とす。

(元々歩きスマホは若者がホームに落ちないよう、注意したのだが、自分が突き落とすという矛盾に。また、歩きスマホで死ぬのはそもそもその人自身のせいで、誰かに迷惑をかけているわけでない、というケースを想定)

 

これはもちろん電車の中でのケース以外にも、様々なケースが存在するが、話が深く長くなりすぎるのでここまで。

 

<まとめ>

・電車の中で電話がいけないのは「キキタクナイ話」「不快」だから

・快不快は個人差があるが面倒だから一律NG

・不快の基準値は個人の好み

・不快だからと注意してくる人の中には、そもそもダメなものはダメだと理由がない怒りの人パターンが存在する

 

※ちなみに電車の中で電話をするのを推奨しているわけではない。

ただ、電車の中で自分の隣で安室奈美恵が歌って踊っても、間違えなく自分は注意しないだろう。

giver’s community を超えるもの

まずはtaker。つまり、クレクレであり、自分は何も与えないけど、自分は欲しいというタイプ。子供のうちは許されても、社会に出ると一番嫌われるタイプである

 

次はgive&taker。これはこっちもgiveするからどこかでお前もgiveしろというある意味恫喝に近い考えなのだが、肌感では個人事業主を中心に、日本のビジネスパーソンはここが一番多い気がする。

しかもいつもの考察と同じように、大半の日本人はそれに無自覚なことが多い。例えば、1giveして10takeしようとしているのに気がつかない人、giveする代わりに必ずリターンを求める人、も大体は無自覚だと思っている。

諺で言えば「持ちつ持たれつ」になるのだろうか。日本のビジネス習慣はこれがスタンダードになってしまったのは、多分これが正しいと教えるところがあって、その人たちがそこそこ経済的に成功しているからだろう。

 

この上に行くと、ほとんど有言実行できてないのがjust giveの人たちだ。giver‘s communityと言ってるところは数あれど、これが徹底してできてる人、組織はほとんど見かけない。やっぱりこんなに与えてるのにって気持ちに人はなってしまいますよね。

だからこそ、できている人はそれなりの人物のことが多い気がします。

 

と基本的にはtaker→give&taker→giverの順で上位種になって行くと思っているのだが、最近giverという言葉にも概念にも違和感を覚え、改めてその上があることを発見した。

 

それはlove and mission(日本語で言えば愛と使命)ますます特撮ヒーローものに出て来そうなネーミングになって来たな。

 

lovers and 使命。。(注;loversは英語で恋人たち)

 

言葉の部分はさておき、概念としては、まずgiveの前にloveがあることだ。基本的に愛があるから与えるのであって、ただ与えるだけだときっと疲れてしまうだろう。また、誰にも彼にも与えることが良いとも限らない。例えば大量殺人犯にピストルをgiveしちゃダメだろう。

 

また、より具体的に考えると、いつ、誰に、どのような文脈で何を与える、というところに行き着くことになる。それに道筋を与えるのが「使命」の概念である。

 

使命とは「一人一人に与えられたその人にしかできない、かつ世の中を永続的かつ本質的に良い方向にすることに取り組むこと」と大雑把に考えている。

 

そうすると例えば手元に500万円浮いたお金があって、どこか良いベンチャーに投資したいなとなったとしよう。その時に、まず、世の中を良い方向にしようとしないビジネスには投資しない(giveしない)というフィルタリングが生まれる。

 

そして、更にいつ、誰にとなってくると大体もう投資先は決まっているだろう。例えば、自分の全く知らない人よりは信頼できる人物、自分が知らないジャンルよりは、自分が意識があるジャンルとなるだろう。

 

基本的にこれからは「使命」が最先端になるわけだから、自分としてはこのlove and mission communityも最先端だと推奨したい(名前は要検討)

 

少し話はそれるが、私の中では最近本当に「愛」と「使命」の概念は奥深く、この二つが理解できたら、大体のことはわかるしできると思っている。

特に日本人はシャイなので「愛」を言葉には出しづらいけれど、心の中で慎ましく思っている人は多いと思っている。

前回の続きで言えば、だからこそ「愛」がテーマの「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」が日本でもヒットしたのは可能性を感じたし、そういうコンテンツの力でどちらの概念も拡げていけたらと思います。

 

アニメ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の物語を詩に表現してみる

毎エピソードが詩になるアニメ「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のエピソードのいくつかを詩にしてみました。改めて、1エピソード1エピソードが詩になるアニメて凄いなと。

 

「初恋のままで」

あなたは嘘だと思うでしょう

ただ一目あなたに会っただけで

私はあなたに夢中だったと言ったら

 

あなたはきっと信じてくれないでしょう

他の男を知らない小娘の戯言だろうと

でも私はあなたを既に愛してしまっているのです

 

少女にとって恋は一瞬

そしてそれが愛になるのも

 

愛しています あなたのことを

初恋のままずっと

あなたはそんな私をおかしく思うでしょうか?

でもそれでいいのです

例えあなたに笑われたとしても

あなたに思われない自分よりは

 

あなたの言葉は 愛そのもの

あなたの振る舞いは あなたそのもの

 

だから私はあなたを知っています

出会いは例え一瞬でも

遥か遠い昔であったとしても

 

私の心は変わらないまま

初恋のままずっと

(エピソード5。王女→王子への想い)

 

「愛を世界に」

私はあなたの呼ぶ声が好き

あなたの瞳を見ているだけで

その優しさを感じることができる

 

あなたが私に見せてくれたこの世界を通して

私はあなたを感じ 見つめている

 

あなたは私にとって

愛そのもの 世界そのもの

 

私にとってあなたの求めに応じる以上に

幸せなことがあるのでしょうか

あなたを感じること以上に

 

あなたは空 あなたは願い

光でもあり 愛でもある

 

あなたを通して世界を見つめていたい

あなたと一緒に世界を見渡したい

 

あなたは私にとって

輝ける翼 生命そのもの

(エピソード6。ヴァイオレットの「あの人は世界そのもの」より、その後のヴァイオレットの心情の変化も含め)

 

 

「愛は見えないけれど」

 

あなたの愛は見えないけれど いつも私を掴んでいるの
私が求める時に あなたは側に来てくれる
私が欲しい言葉も 私がして欲しいこともあなたは全部知っている
私はあなたに愛されている
あなたは私に愛されている
例えそれが 今はどんなに離れていても
変わらないと確信することができる
だからあなた もう待たなくていいの
いつでも側に あなたが望む時に
あなたの愛は私の元に届いているの
ありがとう 私も愛をあなたの所へ
あなたを光で包みたい
あなたに平穏を あなたに幸福を あなたを安らかに
愛の中でまた繋がる 永遠に
(エキストラエピソードより。戦場に行ってしまった彼⇄待っている彼女の双方向の気持ち)

映画『THRIVE』と陰謀論。日本人が陥りがちな過ちについて

 https://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI

 

これが陰謀論という議論があります。

 

そもそもにおいて、「連邦準備銀行」が無くなれば、「ロスチャイルド」、あるいは「ロックフェラー」が、という固有名詞でこれこれが支配者で打ち倒せばオールオッケー的な概念は的外れです。

 

例えば歴史において、20世紀初頭にロシア革命ロマノフ王朝が終わり、期待されて社会主義がスタートしました。しかし、それが結局はスターリンの大虐殺に繋がっていきます。これは歴史上、繰り返しのパターンとして存在します。

 

つまり、「連邦準備銀行」が潰れても、「第二連邦準備銀行」が生まれるだけです。(ここまで安易なネーミングには流石にならないでしょうが。)

 

同じようにロックフェラー家とロスチャイルド家が仮に世界を支配しているとしても、打ち倒しても違う家が出て来てまた同じことをするでしょう。

 

これは企業でも同じことが言えます。つまり、「モンサント」や「エクソン」という固有名詞や、そこにいる役員や会社員を議論することはほとんど意味のないことです。

 

彼らを破滅に追い込んだところで、違う時代あるいは国で、違う企業があるいは組織が全く同じことをするでしょう。

 

次にフリーエネルギーの話です。これは実現するかしないかはさておき、実現したとして人類は果たして本当に幸福と呼べるのでしょうか。

 

全く道徳心のない人間が無限のエネルギーを手に入れてしまう危険性を考えれば、どのような使い方をするでしょうか。あるいはそれによって、人類に怠慢と堕落をもたらすことの可能性は考慮しなくて良いのでしょうか。

 

もし、これで人々が堕落するなら、一部の良識のあるエリートが世界を支配する、という概念の方がむしろ正当化されてしまいます。良識のない人間に武器を渡し、知恵のない人間に社会を統治させ、道徳心の無い人間に秩序を与えないことの危険性を許すのであれば

 

人々がもっと道徳的かつ良識的になるにはどうすべきか、という点を同時に真剣に検討する必要があると思います。

 

確かに、目先の多くの人々をフリーエネルギーで救えるのではないか、という話はあります。しかし、それは物事の一面でしかありません。

 

フリーエネルギーが本当に利用できるのであれば、それを押さえつけている勢力さえ排除したら人々が救われる、という単純化された議論に問題があるのです。

 

また、世界を支配する構造についてですが、あまりに馬鹿馬鹿しい話です。

 

例えば、自身が企業にいたとして、あるいはプロスポーツ選手であったとして、必ず戦略というものを構築します。企業にあっては戦略を立てずに何かをすることは、株主に対する背任行為とすら言えます。

 

政治家も同じです。全くの無策でなんの戦略も無い政治家ばかりに国は、すぐに滅びるでしょう。

 

それは恋愛やゲーム、スポーツのような日常でも同じでしょう。

 

このようにより低いレイヤーにおいても、戦略は存在します。そのような中にあって、世界の権力の中枢を巡る場所でそのようなものがない、と考えること自体が馬鹿げています。

 

もっと単刀直入に言えば、人間社会、世界が特定の層によって統治されていない、と考えることの方が、無理があるのです。

 

つまり、「陰謀論」という議論自体がそもそもナンセンスなのです。

 

またそうした課題解決のために、大手銀行からみんなで地方銀行にお金を預けましょう、というような発想もややチープなものです。

 

作品中には正しいことや、もの凄い記述もありますが、全体のテイストがバラバラなので、結局疑わしいものにも見られるからさして驚異は感じない、という位置付けなのでしょう。(むしろそれを狙って出してたとしたらメッセージを読み取る側の力量が試される作品です)

 

その一方で作り手の愛や正義感、使命感のようなものも感じます。

 

このようなコメントを出すと、結局批判なのか肯定するのか、お前の立場はどっちなんだ、とか。ここはいいけどここはダメとか言われると混乱する、とかいった声が聞こえてきそうですが、なぜ、一つの作品の部分を肯定し、部分を否定してはいけないのでしょう。なぜ私の見解を統一する義務が読者に対してあるのでしょうか。

 

ここでこうした作品や陰謀論に対して、また現代の日本人の多くの物事に共通するスタンスこそ、一番問うべきテーマだと感じます。

 

それは「お前が正しいことを言え」というスタンスです。

 

どういうことかと言えば、例えばテレビで専門家が間違ったことを言う、あるいは、本で、テレビで、あるいは誰かが何かを言ったとして、間違ったことを言う人間の責任をひたすら責め、追求する姿勢です。

 

もちろん、専門家やマスメディアにはある種の権威があります。本来は正しいことを伝えるべきです。しかし、彼らも人間であり、ミスもします。また同様に利害関係から真実を述べないこともあります。

 

今回はマスコミや専門家の在り方までは論じませんが

 

「権威がある者は正しいことを言う。だから私は考えなくていい」

 

他人に正しいことを言うように求める人間は、暗にこのように言っていることと同じです。つまり言葉を変えれば「私は思考停止である」という自白です。

 

正しいことを言うべき人間が言ってくれないから、裏切られたと感じて憤慨して、責める。

 

これは特に今の日本の社会において非常に多く見られる現象です。家庭、職場でも本当によく見られる現象だと思います。

 

そして他人には正しいことを言うことを強要し、自らはそれをしない。そのような社会人が非常に多い気がします。

 

『THRIVE』を巡る議論も正に同じです。この映画が正しいことを言っているか否かを論じ、正しければ崇拝し、間違っていれば責める。どちらも的外れです。

 

そうではなく、「自らが正しいかを判断する目を養う」という姿勢が非常に重要です。

 

先に触れたように、権威や権力というものは、常に正しいことを、あるいはその人のためになることを言うわけでもするわけでもありません。それこそが普通です。

 

ですから、どのような権威や権力が付きまとっていても、その人の言っていることが正しいか、それを判断するのは自分だ、と思うことが最も肝心です。

 

そのような姿勢になることで多くのことが変わります。

 

まず、どのような肩書きの人間が出てきてもそれによって騙されることが少なくなります。そして、自らの判断力にこそ責を負うことになるので、人を責め、攻撃することは減ります。更にそれによって思考し、判断力が磨かれてきます。

 

このブログには何の権威も権力もありませんが、ここで述べていることが間違っている可能性も大いにあるわけです。(ロシア革命の年号をうっかりミスで間違える可能性だってあり得ます)

 

これは書き手や話し手に、いい加減な情報を発信しても良い、と推奨するものではありません。ですが、どのような権威のある文献であっても、膨大な分量にミスが一つもない、ということは難しいですし、そもそも元のデータや一次情報を誤ったものを教えられてしまうこともあります。そして、一時期正しかったとされた事実が、やがて過ちに変わることもあります。(一例として正に劇中のイラク戦争の事例がわかりやすいと思います)

 

それが世の中の現実だと思います。そのような中で、よく間違い探しをして攻撃をする人たちがいますが、全くのナンセンスと言えます。なぜならほとんどの人間は、同じことを自分がされたら、それに耐えうることができないからです。

 

マスメディアが真実を述べないことに怒りを覚える人々がいます。ですが、構造から考えて彼らがそうするのは当たり前で、怒るところではありません。この構造の話はノーム・チョムスキーの著作を読むとよくわかります。

 

アメリカには「もしマジソン・スクエアガーデンをイエス・キリストが歩いていたとしても、誰も気がつかないだろう」というジョークがあります。

 

このジョークの作り主は、おそらく人々の信仰の低下を暗に皮肉ったのだと思いますが、これは同時に人々の認識力の低下を揶揄しているものだとも取れます。

 

つまり、現代人にとって、目の前の人間がどれほど素晴らしいか、あるいは偉大な人物か、というのを自分では判断できない、ということです。

 

ハリウッドでセレブと言われ、フォーブスで長者番付に乗り、学者としてノーベル賞を取って初めて、人々はその人が非凡だと認めます。

 

つまり、その人が非凡か、頭が良いかを自分では判断せず、誰かに委ねるということをしてしまっているのです。そうではなく、今目の前にいる人物がどのような人物か、どのような計り知れない可能性を秘めているか、そのような目で人は人を見なくなってしまっているのです。

 

そうではなく、我々自身で「見出す」あるいは「見極める」ことをする必要があります。

 

このようにトレーニングを積めば、この映画のどこからどこまでが正しく、どこからどこまでが的外れなのかは、自然にわかります。

 

またそもそも、この映画が「正しいか否か」、という視点では観なくなります。必要なのは、この作品の中に自身に取って「得るものを見出す」ことができれば良いのです。

 

これは日常で、例えば、誰の言うことが正しいか、どの会社の商品を買うか、などを判断する上でも同じことが言えます。

 

間違ったものを掴んだ時に、それを相手のせいにすることは容易いです。

(実際相手が本当に詐欺師の場合もあるのでしょうが)

 

騙されたほうが悪いと乱暴なことを言うものではありませんが、我々の持つ姿勢というものは、「自らが正しい判断をするように務める」ということが非常に健全であり、強力なものであるということ

 

そして、それがまたこの映画で問いかけられている問題に対する自分なりの最大の答えでもあります。もしこのような世界が真実だとして、それを変えうるとしたら、どのようなことを我々はまず実際にすべきなのか。

 

我々は大袈裟な行動によってしか世界が変わらないと思い込みがちだが、実際はそうではない。たった一つの考え姿勢が変わることによって、少なくとも「私」が今見ているこの世界は変わるのだということを。