IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画ネタなども。5分で読める1,000文字、10分2,000字を目標。

ピケティ、格差について

ピケティの主張は自明の理のように感じる。もし仮に、r>gではなくg<rであったとしたら、一体誰が起業家になるというのだろう。

 

また、ピケティがアメリカで受けたのは、アメリカは所得の再分配の少ない、自由主義的な政策を取っているからである。

 

日本のような、言ってしまえば社会主義国で所得格差の拡大を抑えている国は、小泉純一郎竹中平蔵政権時に新自由主義的な貧富の差の拡大を是とする政策に舵を切るまでは、累進課税や富の分配など、既にピケティの提案はやっているよね、というそれほど目新しいものでもなかったはずだ。

 

むしろ、アメリカで話題になり、資産課税というアイデアそのものが日本の財務省がやりたくて仕方ない提案であることも相まって、不可思議な盛り上がり方を日本ではしたように思う。

 

加えて、人間というのは不思議なもので、ある程度自明なものであっても、「データ」というパッケージに包まれると、改めて妙に説得してしまう。

ピケティが示したのはある種のヒストリカルデータ、あるいはビッグデータの類であり、その意味においては現代的な証拠ではあったが、主張していることに特に目新しことはないと言っても過言ではない。

 

更に問題があるのは、仮にピケティの主張を実行しようとすると、それは強制を伴うため、昔のソ連ナチスドイツのようなファシズム的な全体主義大きな政府下においてでしか実現しないという点である。

 

既存の格差社会が良いとは決して思わないが、「特定の誰かが」分配を決める社会は、スターリン下のソ連のような全体主義の社会にしかならないと知れば、進んでそちらに向かうのには抵抗を示して当然であろう。

 

そもそも、人間社会において、「格差」とはある意味社会を成長させる重要な素材となっている。

 

例えば、隣のレストランよりも自分のレストランの方が美味しい食事を提供するから、より高い付加価値を提供し、より高い利益を上げ、よりよい暮らしができるから、人は成長や付加価値を提供しようとする。

 

つまり、大学の偏差値と同じように、価値とは常に「相対」で決まるため、常にそこには「勝者と敗者」が存在し、「格差」が生まれることになる。

 

努力をすれば、頑張れば、より質の高い付加価値を生み出そうとすれば、それが格差に繋がってしまう。

 

これを巨大な政府の強制的な分配、つまり「ハード・パワー」によって是正することは、付加価値を産むものもそうでないものも強制的に同じ利益しか得られないようにするようなものであり、極めて矛盾したものになってしまう。

 

では人類社会は救いようがないか、と言われればそうではない。それはより文化的な「ソフト・パワー」による政策である。

 

確かに格差は産まれる。とは言え、競争に負けた人間がいつでもやり直せる社会を築くことは不可能ではない。それは社会がもたらすセーフティネットと一人一人の文化、価値観の変容があれば容易である。

 

同様に、格差の中でも憲法に定める「文化的、健康的な最低限の生活」をどのラインに敷くか、というのは議論の余地がある。だからこそユニバーサル・ベーシックインカムという政策には議論の余地があり、北欧のように、生涯の生活に関して一定の保証をする社会のあり方にも議論の余地がある。

 

それは既存の社会のフレームワークでも、充分に可能な政策メニューであり、実行に必要なのは主にリーダーシップや国民の意思、文化であったりする。

 

つまり、ピケティが示した結論を見て我々が考えないといけないのは、資本家への攻撃でも羨望でも、国家により強権的な解決でもなく、改めて消費に頼らない、持続可能な社会を文化的なアプローチで解決していくこと、寛容な社会を築き上げること、などではないだろうか

なぜ日本人はこんなにも働かないといけないのか

少し冷静に考えてみよう。日本は国としては世界第3位のGDPを持ち(一人当たりでは22位)、欧米諸国に並ぶ開発先進国である。世界で最も豊かな国と言って差し支えない。

 

にもかかわらず、多くのビジネスパーソンは残業を強いられ、休暇を取ることさえままならない状態にある。

 

実際、日本よりも豊かではない国の人々よりも、日本人は働いている。こんなに豊かなのだから、そこまで働かなくてもいいだろうと思わないといけないのだが、日本人は戦後教育で働くことが正しい、というピューリタン的な思想を刷り込まれているため、その思考にまず大半の人間が疑問を抱かない。

 

何のために働くか、ではなく、働くことそそのものが正しい、半ば宗教と同じ精神状態になってしまっているため、働くということに異論を挟む余地がない。

 

そこに、伝統文化である村社会の掟がのしかかり、働かない人間をとことんいじめ抜く圧力が、個人間と社会で生じる。

 

以上が主に日本人がよく働く(いい意味でも悪い意味でも)文化的なファクターなのだが、より制度的、構造的な問題にも焦点を当ててみる。

 

働きすぎなことを解析するために、雇用、賃金、労働時間はそれぞれどのように決まるのか。本項では、賃金、と特に表題でもある、労働時間に焦点を当てたい。

 

まず、雇用に関しては、企業の需要と労働力の供給の交点で決まる。これは経済学で習うことの中では、経験的に正しい事柄の一つで、あまり議論を挟む余地がない。

 

感覚的に言えば、好景気だと雇用は増加し、不景気であればリストラが増えるという話だ。

 

次に賃金である。これについては労働経済学的に諸説あるが、基本は限界生産量ベースに、売上に対して最適な費用として算出される。

 

ざっくり説明すると、人を増やしても利益が増えないと会社は倒産するから、利益を最大化させる、最適な人数を普通の経営者は雇用する(あるいは雇用を目指す)

 

ここでまず、人を一人増やすことよりも、既に雇っている人間の労働時間を長く設定した方が、企業にとって負担するコストが概ね低いということだ。

 

これと正規雇用者を解雇することが、日本の場合構造的に難しいことや、学習コストなどが相まり、まず構造的に新規雇用よりも残業を企業に選択させがちな原因である。

 

だが、ここで、限界生産量という説明は、残業問題の原因の一部を指摘しても、結局のところ賃金がどう決まっていくかについての回答にはなっていない。

 

実務的にはここに、限界生産量を上回る、効率賃金仮説というものが、経済学では一つ考えられている。

 

これは要するに、生産量ベースでのみ賃金が決まるのではなく、例えばライバルに社員を取られたくないから、多めに賃金を払うなど、生産量以外で賃金が決まっている、という説明である。

 

だがこれに加えて、賃金は労働市場だけからではなく、消費市場からも決まっていると思われる。なぜなら、基本的に物価が高い東京などの都市部と、物価が低い田舎とでは、同じ職業でも想定的に賃金に差が存在するからだ。

 

結局のところ、関連要因が多いため、あまり綺麗なモデルがないのが賃金決定に関する経済学の現状である。

 

ただしここでもう一つ、賃金に関して議論する必要があるのが、なぜ職業によってベース賃金に差があるのか、という点である。

 

例えば、事務職やアルバイトというのは、一般的に賃金が低く、エンジニアや法律家など高度な知的専門職は、ベース賃金が高いのか。

 

これは簡単に需要と供給からわかる話だが、要するに希少性、すなわち、企業の需要が高いが、労働市場における供給が少ないため、企業が高い賃金を払わざるを得ない。逆に需要はあっても、事務職の様に供給が膨大であると、企業側は賃金を限界生産量まで下げることができる。

 

ここで着目すべきはまず、賃金というものが、仕事の必要性や労働時間では決まらない、ということだ。企業にとっては、事務職も法律職も同じ様に必要である。にもかかわらず、法律家の方が賃金が高いのは、単に法律家が希少だからに過ぎない。

 

つまり、大半の日本人が宗教的に信じている、働けば働けるほど、豊かになれる、というのは論理的に考えて完全に破綻している。

 

あくまで労働者としての所得を増やすのであれば、希少性の高いスキルを身につけるべきなのだ。

 

だんだんと問題の核心に迫ってきたが、ではなぜ、エンジニアや法律職が、希少性が高いのだろうか。

 

まずどちらも、学習コストが高い。特に法律家になるには、高い学費と時間をかけてロースクールに通って弁護士資格を取る必要がある。これは医者や会計士も同様である。

 

さて、これら知的専門職資格に共通することは、何か。それはこれらの職業が全て国家資格である、ということである。

 

国家が、免許という独占的な特権を与え、資格合格者をコントロールすることによって、例えば弁護士の人数を制限している。

 

つまり、国家が供給を制限することによって、意図的に希少性を高め、賃金をこれらの職業は高めているのである。

 

そして、この独占というのは、ピーター・ティールが著書「ZERO to ONE」でグーグルの例で指摘するように、企業の従業員にとっては、高い収入、安定した地位、そして十分な余暇をもたらす。

 

つまり独占は、当事者たちにとっては豊かで良いことなのだ。日本で言えば、医者、会計士、弁護士などがそれに当たるように。彼らが高い年収と余暇を捻出できるのは、政府が彼らに独占を許しているからに過ぎない。

 

もし政府が免許制度を取りやめ、あるいはアメリカのように資格取得条件を緩和することがあれば、他の労働者と同じように、厳しい競争条件にさらされ、労働者としては同じような賃金や労働時間となるだろう。

 

逆に、エンジニアの賃金高騰に関しては、日本の教育システムが時代のニーズに合ってないから、需要に一早く反応した、一部の労働者が一時的に希少性の蜜をすすっているに過ぎない面がある。

 

では結論である。賃金は、市場のメカニズムに委ねると、企業は限界まで賃金を下げて労働者を搾取する。従って、政府の介入無しに賃金を向上させるには、海外の労働者を無視するなら、需給の関係だけでいけば、自らの希少性を高めるしかない。

 

だが、現状、労働者には、充分な余暇がないため、希少性を高める機会はその労働の中にしか存在しえない、それが今の日本の労働社会の構造的な問題である。(だから余暇を無理して削って学習せざるを得ない)

 

本題でもある、労働時間にも同じことが言える。市場の原理に委ねれば、企業は合理的な意思決定をするのだから、最も低い賃金で、最も労働者を搾取する(これをしない経営者はむしろ株主への背任行為にすらなる)

 

そして、労働時間の方は、賃金とは異なり、希少性そのものよりも、企業と労働者の力関係で決まるため、労働組合が強いところや、あるいは希少性を背景に交渉の結果、労働時間短縮を勝ち取る様な流れとなる。

 

ここで、もう一点、労働時間の議論が賃金の議論と異なるのが、今の日本の様な成熟したマーケットが存在し、モノが行き届いている様な社会では、生産量を増やせば売り上げが伸びるという、すなわち、右肩上がりではないため、工夫が必要だ、ということである。

 

つまり、イノベーションを起こし、より付加価値の高い製品や、サービスを提供することで、企業の収益を上げる、というやり方である。

 

だが、イノベーションを起こすには、インプットや起こす仕組みが必要であり、それはむしろ労働者に限界まで労働させることとは、相反することが多い。

 

従って、経営者として企業の収益を増大化させることに注力しつつ、労働者の労働時間を下げるには、イノベーションを起こす仕組みを会社が採用し、それによって、結果として増益すれば良いのである。

 

つまり、労働時間に関しては、企業構造の改革で起こすことが充分可能なわけだ。

 

まとめに入る。つまり、なぜ、これほど豊かな日本人がこんなにも働かないといけないのか。

①文化的背景。

これは最も愚かしいが根の深い問題であるが、教育を変えることと、マスメディアの論調が変わることで充分改善できる。

②賃金が低い。

これは企業ではなく原則、政府の介入が必要な問題。これは政府が最低賃金を設定する、という意味だけではなく、需給介入や教育改革なども意味する。

③労働時間が長い。

労働組合の政府保証、労働時間への政府介入、そして企業側のイノベーション重視への構造改革

 

つまり、文化、政府、企業、三位一体となった改善努力が必要である。

 

最後に、基本的に起業家は目的を達成するために働き、労働者は賃金を求めて働く。だから、両者の文化は異なり、すり寄せが必要である。

 

ブレンパワード解説

※下記作品のネタバレを含みます

 

 

 

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ブレンパワードは時間軸としては、実は他の未来アニメ、攻殻機動隊サイコパス、そして同じ監督のガンダム作品より後の時代の近未来世界の話になる。

 

攻殻機動隊サイコパスでは、人間の思考アルゴリズムそのものは現代のまま、ただテクノロジーの一部が肥大化している現代世界の延長にあるのに対して、ブレンパワード内の世界では主役たちには人の内面に変化が垣間見える。 すなわち、思考アルゴリズムの変化がある。

 

オーガニック的なもの、テクノロジーと有機的なものの融合、内面の「サステイナブル化」というものに近い。現代社会でサステイナブルが叫ばれていても、それは外面的なところに留まることが多く、内面の話題にはまだ遠い。それが最も象徴的なのは一人一人が戦う意義が、敵味方共に「愛情」にまつわる話が多い。

 

世界を支配しようとか、自分の権力や富を求めるといった、資本主義的な欲望の動機から行為が産まれるのではなく、それらと既存の社会の枠でもがきながら戦うわけでもない。

愛されなかったことに背を向けた人々(オルファン、リクレイマー、グランチャーサイド)と、愛されなかったけれども愛していこうと決めた人々(ノヴィス・ノアブレンパワードサイド)とが「愛情」にまつわる復習と願いのために戦う、かなりロマンチックな物語になっている。

 

主人公、伊佐未勇は、最初はグランチャーに乗り、オルファンサイドにいるが、ヒロイン宇都宮比瑪と出会い、ブレンパワードサイドに寝返る。

 

そこに存在する心境の変化というのは、彼自身が「愛」だと思っていたものとは、違う「愛」が存在することが宇都宮比瑪と出会って知ったことにある。

 

基本的にグランチャーは、パイロットがいないと死んでしまうが、その思いはいつも一方通行で、パイロットに強制を強いる。逆にブレンパワードはお互いの意思を尊重する。

 

お互いを求め合う愛と、お互いが協力して一緒に生きていく愛と、日本語では「恋人たち」とか「愛」と同じ表現しかない。しかし、愛には違いがある。お互いを求め合うだけの愛は、一方的な分、辛い時がある。愛しても愛した人が応えてくれなかった場合(伊佐未兄弟)、その愛し方が相手に伝わらなかった場合(ジョナサン)、失って途方に暮れてしまった場合(シラー)など。愛の形によって、色々な特徴あるだろうが、本作では一方的な愛の辛い面が、対比を用いてフォーカスされている。

 

伊佐未勇は宇都宮比瑪、ブレンと出会い、またそうした一方的な「愛情」に失望し、諦めてしまったリクレイマーたちと離れることで、お互いを理解し合う違う愛情があることを確信し、リクレイマーの統率者であった家族の元を離れる。

 

オルファンもノヴィス・ノアも同じようにオルファン(孤児)の集まりだが、ノヴィスが暖かさで満ちているのに対し、オルファンの人々は、心を閉ざし、冷たい。だが、その冷たさの中で育ってしまうと他に愛の形があることを知ることがない。

 

勇はオルファンに来る前、幼少の頃に、祖母、直子と共に自然と共に畑を耕し、家族を愛する生き方を本来は持っていたから、気づけたのだろう。

 

同じ生活をしていた姉の依衣子は、逆に家族を捨てられない。勇よりも家族への愛が深いが故に、家族への執着、依存から抜けられないために、最後までリクレイマーとして戦い、そしてオルファンとの融合を果たす。

 

ブレンパワードサイドもグランチャーサイドも、双方、「愛情」に何らかのトラブルやトラウマを抱えた人々だが、決定的な違いはブレンパワードサイドの人々は、自分の受けた仕打ちを受け止めて、それでも人を愛そうとする人々の集まりで、グランチャーサイドの人々は自分が受けた仕打ちで相手や世の中を恨み、責めてしまった人々の集まりである。

 

もう一つ、大きなテーマとなっているのが、「愛情」の権化たる「女性」である。

最も印象的なのは

 

「男も女も自分のエゴばかり追うようになって、男は女が女であることをやめるのを許した」

 

という勇のセリフがあるが、原作者、富野由悠季現代社会への嘆きが垣間見えるセリフでもある。このテーゼは風の谷のナウシカにも通じるものがある。現代では、もはや何が「男性らしく」「女性らしい」のかすら、わからない世界になってしまっているからだ。

 

何が女らしさか、それは小説で表現するより、こうした演劇や映像で表現する方がわかりやすい。作中では女として生き、それぞれの女性としてのあり方をする魅力的な女性たちで彩られている。

 

戦場にいても女であり続けようとするカナン、ヒンギス。女であることを捨てたはずなのに忘れられない、勇の母みどり。母性を捨てられなかったアノーア。一度女を捨てたことを後悔し、晩年に恋愛をする直子。そして母性の対比象徴としての姫と依依子など。

 

そしてどのような大義名分を並べても、結局女は女を捨てられない、ということが、作者が考えている女性像ではないだろうか。

 

戦争シーンも、殺しあっていても相手に敬意を払い、許すこともできる。敵味方でも協力することがあり、敵でも憎めないキャラが多く、作品全体がどこかほんわかしている。

 

結局、作者自身がガンダムの世界にある現代社会の延長でしかない、思考パラダイムの世界ではなく、その次の人類社会の思考パラダイムに気づいてそれを表現する内的な変化があったのもよく現れている。

 

次代の人の内面に目を向ける、男女の本質を問う、愛情のために戦う。どれもある意味、現代的なテーマではない。現代的なテーマは人の欲、人間のファンクション性や、もっと低俗な作品が多い。

むしろ、復古的でそれでいて、これからの時代のテーマとなるべき話題である。だからこそ、そのような評価は受けてないが、この作品は自分にとっては近未来の人類の話だと感じる。

お金持ちになるコツ

ドメイン(何をするか)の選択と集中が全てである。

 

まず、何百億といった単位を稼ぎたい、と考えた場合、公務員という選択肢は消えるのは自明だろう。

 

フォーブスランキングなどを見ればわかるように、その規模の資産を得る職業はほぼ決まっている。起業家、投資家、そしてあまり表には出ないが独裁者と相続だけである。

 

更に起業家と投資家の中でもドメインが決まっている。起業で言えば、小売とITに集中しており、エネルギーなどの分野の会社は大きいし、役員の報酬は莫大だが、公益性が強く、新規参入が難しい(ちなみにロックフェラーなどは相続をうまくやっているため、載ってこない)

 

逆にフォーブスに載る、一歩手前の収入であれば、アメリカなどのアイビーリーグレベルのMBAを取って、大企業のエグゼクティブになる戦略が考えられる。

 

投資家の中にも株式投資を行なっている比重が圧倒的に高い。もちろん、株式が金融商品の中では最もボラティリティが高く、うまくいった時の収益が大きいからだろう。

 

このように、どの職業、どのドメインを選択するかによって、原則収入の規模感の予測はできる。だが、選択と集中、これは大金持ちに限った話ではなく、どの職業においても同じことが言える。

 

原則として賃金は相対価値で決まる。つまり、収入というのは、大学の偏差値と同じ動き方をする。平均よりできれば収入は上がり、できなければ下がる。

 

もちろん会社員と賃金はマーケットよりも社内規定で決まるため、必ずしも綺麗に反映されるわけではないが、ドメインに集中した方が、賃金が上がる、という原則は変わらない。

 

では、ドメインの集中というのは、何か。これは原則そのドメインに対する学習量で決まる。つまり時間、経験、勉強したコストが多ければ多いほど、そのドメインに対するスキル、その人物の価値が上がっている。

 

ここで、そのドメイン自体が何らかの理由で独占状態だったとする。この場合、相対評価で決まることがないため、あまり学習しなくても一定の賃金が確保できるし、その逆に賃金が伸びないこともある。例えば公務員や、非常にニッチな産業などはこれに当たる。後者は本当に儲かるのであれば、必ず競争相手が参入してくるからである。

 

裏を返せば、原則競争相手がいる市場というものは、比較してどれだけドメインに集中しているからでその成果や報酬が決まる。

 

さて、長々と説明したがまず、説明したかったのは、うまい話などない。つまり例えばデイトレーダーのような仕事が楽、ということはありえない、ということである。

 

投資のシステムそれ自体の仕組みがわかっていれば、その結論になることはありえないのだが、それがわからなくても、これほど多くのプレイヤーが参加しているマーケットで高いリターンを継続的にあげるには、かなりの時間を費やすことになるのは明白である。

 

他のプレイヤーよりも学習し、また日々継続的に努力をする必要がある。

 

つまり努力の質も量も、社会で働くことと変わらない、むしろ大手で働く方が楽で、人付き合いがどうしても無理だ、という個性の人にとっては良い選択にすぎない、といった具合であると思う。

 

同じようなことは、他の副業、ネットワークビジネスのようなものにも言える。要するにうまい話は存在しない、ということだ。たまたままぐれ当たりで、儲かる人がいるが、それは宝くじで当たったのと変わらないため、サンプリングとしての参考にはならない。

 

では、一つの分野にこんなに頑張っているのに、なぜ成果が出ないのだ、というケースの場合、二つの可能性がある。まず一つは、最初に説明したように選択したドメインが悪い。もう一つは、ドメイン自体の理解が浅いため、必要な努力をしてない場合。(大学受験でいうなら繰り返し同じ問題を解いて偏差値が上がらないような状態など)

 

そして、どの分野もトップ、上位1、2割に報酬は集中しやすい。売れっ子は引き手数多だが、そうでない場合はスポーツや芸能の世界を見るとわかりやすい。会社においても、より良い会社に外注をするのと同じことである。

 

つまり収入を上げる、お金持ちになるにはどこまでいっても、選択と集中しかないのである。(女性が玉の輿結婚というドメインに集中して、女磨きをするのも同じである。)

 

 

トランプは北朝鮮を攻撃するか、ハイエクから読み解く

フリードリヒ・ハイエクが有名な著書「隷属への道」で説いたことは、ファシズム共産主義も同じ、全体主義の現れに過ぎず、両者には似たようなことがたくさんあるということである。

 

それと同時にファシズムが現れるには、中産階級の破壊や社会の全体主義的な下地があって、生じるものであることも合わせて指摘している。

 

また、これまでの人間社会の風潮として、特定の英雄あるいは悪役を祭り上げる「ヒロイズム」が蔓延しているが、ヨーロッパにおいてナチスドイツが台頭したのは、偶然ではないし、たまたまヒトラーという狂った指導者が現れたということもまた偶発的なことではない。

 

総じて人間は、特定の誰かを血祭りに、あるいは逆に祭り上げることで、物事を単純化して片付けようとするが、それでは真実は見えてこない。

 

さて、なぜトランプの話をする前にハイエクから入り、ナチスドイツの話をしたかと言えば、トランプが出現した経緯が極めてヒトラーの台頭に似たところがあるからである。

 

中産階級の崩壊、特定の階級への憎悪の広がり、政治に対する不信とそれと相反する過激な候補者への期待、全ての候補者に都合のいいことを言い、当選したらそれを反故にする政治家

 

これらは全てワイマール体制のドイツの現代のアメリカ社会に共通して見られる特徴である。

 

そしてヒトラーとトランプを比較してみると、両者ともファシズム的な要素を持ち合わせている。

 

ここでファシズムという言葉を改めて検討したい。というのは、独裁とファシズムというものが曖昧になりがちだからである。

 

ハイエクが述べたように、ファシズムは概ね共産主義と一致している。どこで一致しているかと言えば、全体主義的で、権力によって国民を一定の方向に強制するという点である。だが、ファシズム共産主義が異なるのは、ファシズムは国外、あるいは国内の特定の層から搾取する方向に向くのに対し、共産主義は資本家から土地を没収するベクトルに向く。

 

王制のように、単なる独裁は必ずしも全体主義と結びつかない。そしてファシズムが初めから対外的な拡張を抱えているのは、ファシズムとは国民が独裁者により富を望み、かつその富が得られる先が自国に存在しない、あるいは特定の人々に集中しているからである。ファシズムというのは常に敵の存在を求める体制なのである。

 

しかし、アメリカ国民の大半が無自覚的に本当に期待している大金持ちの資本階級への攻撃は起こらないだろう。それは共産主義であり、アメリカ人が心底嫌う概念で、そこに彼らは気づいていない。あるいは、日本のように社会主義的に、富裕層に重い税金をかけ富の再分配を強化すれば、アメリカは自らの優位性を失うことになるという様々な自己矛盾を抱えることになる。

 

そして、移民を排斥しようとする流れというのは、ヒトラーユダヤ人排斥に似ているところがある。国内産業を保護し、諸外国に圧力をかけているところも、ファシズムの原理に乗っ取ったものと言えよう。

 

ここで絶対に思ってはならないことは、トランプを生んだアメリカ人が愚かであるとか、今後トランプだけを悪者に祭り上げて終わらせてしまうことだ。

 

ナポレオンにしろ、ヒトラーにしろ、基本的に歴史上、同じ流れ、同じような土壌からファシズムは誕生している。これはある意味、人間社会の法則といっても過言ではないため、当然同じような条件が揃えば日本でも起こり得る。(既に海外から見れば、安倍総理というのはまさにそういう対象だが、日本人だけが気づいていないという説もありそうだが)

 

さて、トランプは国内的には「移民」という攻撃先を見つけたが、対外的にはどうだろうか。もちろん、メキシコ、日本や韓国といった傘下の国から資本を吸い上げようとするだろう。肝心の敵がいなければ、ファシズムは成り立たない。

 

従ってその原理から、アメリカが今後、北朝鮮を攻撃する可能性は極めて高いのではないだろうか。

 

テロは確かに脅威ではあるがファシズムの「敵」とするには弱すぎる(その意味では北朝鮮もアメリカからすれば、充分弱過ぎる敵だが)

 

とはいえ、戦争による特需は生まれ、政治的にも極めて今のトランプにとって都合のいいことが多い。

 

そしてアメリカが北朝鮮を攻撃する、あるいはしなければならない理由がもう二つ存在する。

 

一つは核の非拡散である。現在の北朝鮮政権は本気で核開発をしており、それを盾に国際社会を脅している。ここで核開発に成功した場合、闇市場を通して中東諸国に核が流出しないという保証が全くない。

 

もう一つは、先日起きたマレーシアでの公然の暗殺事件である。ロシアやイスラエルも暗殺はよく行うが、それはあくまで裏の話であって、公然とした暗殺、言うなればあれは処刑だが、それを行なっていい国はアメリカ一国だけなのだ。(ビンラディンにしたように)

 

これら二つの理由は、どちらもアメリカの覇権国としての「権益」を侵している。そして覇権国としての権益を侵されたあとで、アメリカが行動しなかった例が存在しない(キューバ危機は核が取り除かれたから戦争にならなかった。あるいはカストロがアメリカの権益そのものに挑んでいたら、キューバも併合されていたかもしれない)

 

裏を返せば、これまで北朝鮮は、核開発をする振りをしてまんまと、お金をゆすり取っていたのであり、非合法な拉致や暗殺を実行していたとしても、それはアメリカの権益に触れるような公然としたものではなかった。だが、今回、そのどちらも一線を超えてしまった。

 

また、ファシズムの本質から考えると、仮に北朝鮮をアメリカが打倒したところで、止まるものとも思えない。ナポレオン、ヒトラー共にヨーロッパ中を巻き込んで戦線を拡大し、最後はシベリアまで到達したが、今のところトランプにとってのシベリアがどこに当たるかは想像がつかない。

 

そもそも当時のフランスもドイツも覇権国ではなく、これほどの超大国、覇権国が全力でファシズムを他国に振りかざす可能性があるのは、歴史上初めてかもしれない。

 

ITが普及した現代的な社会においては、その戦場が複雑に入り組んだ経済、法律、あるいはサイバー空間上のものとなるのかもしれない。

 

旧世界の最後の王から新世界の最初の王へ (オバマからトランプへの意味)

オバマからトランプへの変化には、単なる政権交代に限らず、内在的な意味がある。それはBrexitを始めとする、現在の全世界的の人々が抱える内在的な思考にも関連してくる。

 

まず、オバマといえば、どんな人物だろうか?黒人初の大統領。ハーバードロースクールレビューの編集長をしていた弁護士で、エリート中のエリート。失言などなく、聡明で品があり妻や子を大事にする良き家庭人でもある。

 

次にトランプ。白人家庭の不動産会社社長の息子として生まれ、若い頃からビジネスに関わり、一度数百億の借金も背負うがそこからまた巻き返し、財を築く。女性関係も派手で、その発言は過激で攻撃的、失言など意にも返さない。

 

私はこの極めて対照的な人物間における政権交替に、「理性主義」の限界を垣間見た。

 

オバマは一言で言えば、「今の社会における理想像、想定される最強のエリート」である。人々がリーダーとは「こうあって欲しい」という多くの才能を兼ね備えたスーパーマンである。

 

しかし、そんな「スーパーマン」も「ただの人」であったことが任期中にバレてしまった。「チェンジ」とは名ばかりで大きな変革はなく、国民の失望を買い、共和党に議会もそしてホワイトハウスも明け渡す結果となった。

 

これは正確に言えばオバマ自身が有能か無能かと言う話よりも、アメリカという国が、ある程度社会的枠組みが決まっていて、その中でできることは、例え大統領であっても限られているので、オバマ自身が無能だと思われてしまうことに、やや個人的には同情的でもある。それは過剰な期待であるからだ。

 

だが、逆に言えば、オバマという人間は「今の世における」最高のエリートであり、今のルール下の中でその枠組みを取っ払うことができない堅物だということも言えなくもない。「品格」や「国際的なルール」に縛られ、思い切ったことができない人物ということもできる。

 

オバマが安倍やプーチンと合わないというのは、この両者は、理性主義というものは存在しても、人間はそう誰もが理性的な生き物ではない、と捉えるタイプであって、上品な理論を建前にアメリカ主導の国際社会のルールを押し付けるオバマとウマが合わないのは当たり前である。二人からすればオバマの言は都合のいい綺麗事に聞こえるのだろうと推察する。

 

そして、しばしばルールを無視してでも国益を取るプーチンにクリミア問題やシリア問題でアメリカが遅れをとったというのも、オバマのようなルールを守る「理性主義」そのものが、そもそも通用しない時代に突入しているということを示唆している。(もちろんアメリカもオバマも裏でルールを破ることはあるだろう。ここで言うのはあくまで建前論の話でもある。)

 

そんな時に現れたのがあの破天荒なトランプである、ということが全く偶然であるはずがない。アメリカに工場を作れと企業に脅しをかけ、国境を超えてきた不法移民は強制送還させるなど、全くルールも何もあったものではない、規格外の人物だ。

 

ここで注目すべきなのは、アメリカ人のマインドそのものは全くオバマの時もトランプの時も変わっていないということである。アメリカ人が求めているのは一貫して「変革」である。主に極端に貧富の差が広がった不公正な世の中をどうにかしたいと、多くのアメリカ人が願っている。

 

だから、今のルールにおける最強の人物、オバマが「チェンジ」できない社会なら、もはやルールを破ってまで結果を出すトランプを選ぶしかない。様々な表層的な理由が異なれど、内在的に今回の選挙で起きたことはこういうことではないかと私は考える。

 

そして同様のことが全世界で起きている。クリミア、シリア問題はもちろんのこと、ヨーロッパにおいて特に深刻なのは難民問題である。

 

難民を受け入れる、という「理性主義」的な品のある綺麗事を言った挙句、大量の難民が押し寄せ、難民の中にテロリストが紛れ、難民の中に犯罪を犯すものが増え、ヨーロッパ全体が混沌とした状況に陥っている。

 

人々も、これまでは他人が、難民が可哀想という「余裕」を持てるだけの状態であったが、もはや他人を構っていることなどできない、自身の職が脅かされ、安全が脅かされているのに、国際社会とか人類愛とかで難民をこれ以上受け入れられない。乱暴な言い方をするとそうしたマインドが人々の間で蓄積しているからこそ、ヨーロッパでは極右政党が、今非常に人気がある。

 

言い換えれば、これらの動きは「他人のことなど構っていられないなりふり構わぬ時代に突入した」ことへの現れであり、Brexitもトランプもそれが表面化した出来事に過ぎないのだ。

 

秩序から混沌へ、既存のルールが壊れ、新しいルールを模索する時代。各国が帝国主義的ななりふり構わぬ動きに出れば、当然戦争のリスクも高まる。オバマとは旧世界の最後の王であり、トランプは新世界の最初の王となったわけだ。

 

私が思うにこれからの時代の混沌は、逆に日本人のような助け合いの精神がある文化が、いずれ世界の中核となるように収束していくのではないかと思う。だが、実際に日本がそうなるためには、日本人が最も固執している、「理性主義的な既存のルール」やシステムから、如何に早く脱却できるかにかかっていると思う。

 

また、日本では橋下徹がトランプのようなものだと、誰かが言っていた。ある意味、日本でも似たような現象が起きていたということだ。だが、日本は所得格差や社会問題などでは、アメリカやヨーロッパほどの深刻な混沌に陥っておらず、橋下もまた「全体の変革」ではなく、大阪という一地域の変革、それも変革というには程遠い、ある種の「合理化」を促進しただけの人物であり、今の時点では、日本人は皮膚感でアメリカで起きていることは掴めないと思われる。だが、いずれ今後日本も周回遅れでアメリカやヨーロッパのような事態が生じることは充分に有り得る。

 

それは人類の歴史において、国家が必然的に通らないといけない過程なのか、未然に防ぐことができるものなのか、それはまだわからない。ただ一つ、最初に我々が認識すべきことは理性主義の一旦の終焉により、新しい混沌とした時代が表面化してきた、ということである。

アニメFate 解説(zero, stay night, unlimited blade works)

この三作品に一貫しているテーマ、「善と悪」について

 

 

※下記ネタバレを含みます。

 

 

 

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「zero」の主人公衛宮切嗣

「正義の味方」の名の下に、誰かを活かすために他の誰かを殺し続ける。

 

そんな彼のパートナーである「セイバー」ことアーサー王は、「正しい王」で有り続けようとした結果、反乱を招き、一番大切にしていた部下や家族に裏切れられ、戦争で多くの死者を出してしまう。

 

二人に共通しているのが、「正しくあろう」とした結果、悲劇を招いてしまうこと、「善い」「正しい」と思ってしたことが自らを不幸にしてしまったこと

 

そんな二人の生き方にそれぞれ疑問を投げかけるのが言峰 綺礼とアーチャーことギルガメッシュである。

 

言峰 綺礼は他人の不幸が自身の快楽である人格破綻者であり、ギルガメッシュは自分の欲望を最大化させるために他者が存在すると考えるような王であり、二人とも「悪」と言ってよい存在であり、セイバーたちとは思想的対極にある。

 

だが、そんな二人の「悪人」の生き方を擁護するように物語は流れる。

 

最もそれが象徴的なシーンがイスカンダルとの「王問答」である。

 

イスカンダルは語る。

王とは最も強欲であるべきで、それによって民から憧れるような存在でなければならない。

そして、セイバーは王足るものを何も示せなかったただの可哀想な少女と言われるが、逆に返答に詰まる。

 

そして、衛宮切嗣とセイバーとの間でも「善悪」の議論が起こる。セイバーは戦争を、騎士道などと言う戯れ言で美化する偽善者だと衛宮切嗣に批判される。

 

そして聖杯戦争に最終的に勝利するのも、この欲望最大化タッグ、言峰 綺礼とギルガメッシュである。

 

衛宮切嗣は自分が愛していた妻、仲間、そして守ろうとしていた者全てを失い、生き残った一人の少年にだけ自身の希望を見出す。そしてセイバーは失意の中消えて行く中で「zero」の物語は終わる。

 

そして衛宮切嗣が助けた一人の少年、士郎へと物語は続く。

 

「stay nightまたはunlimited blade works」はそんな士郎の物語である。

 

切嗣の遺志を継いだ士郎もまた、「正義の味方」を目指すが、「unlimited blade works」で描かれたのは、そんな士郎が死後、英霊となして本当に「正義の味方」となり、無限に人を殺し続ける世界で、次第にそれを悔やみ、過去の自分を殺しに来るという設定で、やはり一貫して「善」と「悪」がその物語の根幹に据える。

 

結果的に両作品ともかなりハッピーエンドに近い内容にはなっていて、結局のところ最後は悪者二人(言峰 綺礼とギルガメッシュ)は士郎とセイバーによって倒される。

 

未来の士郎も無限に人を殺し続ける世界に笑顔で戻っていく。

 

ここで「人を殺す」という概念にまず触れなくてはいけない。「王であること」は「人を殺すこと」である。権力を手にするということは、誰かを活かし、誰かを殺すことの必要に迫られる。もっと言えば警察、軍隊など社会機構の中に「殺人」というものはある程度合法的に組み込まれている。

 

つまり、社会が人を抹殺するが、その社会の中で人を殺す役割を誰かが担っているから、他の人は直接その業を背負わなくても良いだけであって、士郎は誰かがやらねばならないことなら、自分がやろう、という進んで汚れ仕事をやり続けることに納得をしているのである。

 

そして、最も重要なのは「正義の味方」とは理念であって行為ではないということだ。ここで、最も分かり易い例として、自分と自分の親友が海で遭難し、掴まれる木の枝は一本しかない。どちらかしか助からないという状況にあったとしよう。

 

この場合、現代的な常識の範囲で考えた時に、自己を助けることが通常の判断であって、他人を助け自分が生き残るという方を選択するのは、自己破壊的か偽善と思われるだろう。

 

法的にもこの場合、自己を優先することが認められている。だが、自己を優先した場合、他者を犠牲にした「生」でありその行為は「悪」と呼ぶこともできる。だが、自分を犠牲にする行為も誰かを犠牲にしているという点において「悪」ともなり得る。

 

ではこの自己か他人かどちらかという究極的な選択において、どうすることが「善」であり、「正しい」のであろうか。

 

結論は「他人を犠牲にして自分が助かること」も「自分を犠牲にして誰かを助けること」も、等しく「正しく」また「悪」ともなり得る。

 

自己を助けることも、他人を助けることもどちらも解になり得る、それだけがある意味、唯一の正しさとなる。善悪とは理念であって、行為そのものはどちらにも転ぶということである。

 

そのためには、前提としての「正義の味方」つまり、人類愛、全ての人間が幸福であり、それが正しいとする社会を理念として持つ必要がある。それにより、その道中の行為が例え「悪」があったとしても、最後は「正しい」答えを導く可能性を見出すことができる。

 

父親である衛宮切嗣は、この理念を間違えていた。つまり、最初から誰かを犠牲にしないといけないというのが、「正義」であり「正義の味方」というものだ、ということから始まり、結果的に彼の行為は「悪」であり、彼の願いもまた「悪」であると、聖杯に断じられてしまった。

 

そして息子である士郎は、自分だけを犠牲にして成り立つ「正義の味方」を最初は気取るが、ヒロインであるセイバーや遠坂凛により、幸福になるべき人間や対象に自分も含まれることを次第に悟っていく。

 

だから、善意があったとしても、その行為は悪となることもあり、ではそのような中で人はどう、善悪を判断し行動すればいいのか、あるいは悪として生きることがそれほど間違ったことなのか、むしろ善だと思っている人間の行為の中にも多くの悪が潜んでいる、それを投げかけている作品である。

 

そして、もう一つ、この作品にクロスオーバーするのが「銀魂」と「24」である。

 

この2つの作品に共通するのが、どちらも「誰か」をあるいは「何か」を守ろうとする主人公たちが戦いに明け暮れ、特に24のジャック・バウアーは大切なものを次々と失う。

 

結局、これも誰かを「守る」行為は究極的には誰かを「殺す」行為として戦いに身を費やし、時には破滅していく物語であり、「守る」ということの意味を問いたださなければならないのだろうと思う。