IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画ネタなども。5分で読める1,000文字、10分2,000字を目標。

通貨と仮想通貨の違い

通貨(法定)と仮想通貨の違いは二つある。

 

一つは「信用を担保する相手」である。通貨は国が信用を担保しているが、

通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律,(略)通貨法,通貨単位貨幣発行法

仮想通貨の信用を担保するのは、仮想通貨を取引する人々である。

 

もう一つは「信用の裏付け先の存在」である。円やドルといった通貨は、一対一の交換レートではないものの、「金」にある程度裏打ちされている。その信用を担保するために、国家はゴールドを備蓄している。つまり、実際に起こるかは別として、金という実物と交換できる紙幣ですよ、ということで貨幣に信用を与えている。

 

これに対して仮想通貨は、裏付けとなる資産は存在しない。仮想通貨でも金は買えるが、それは多くの人々が仮想通貨に価値があると思い込んでいるから、金と交換してくれる人がいるだけで、仮想通貨に関わる人々が、通貨に価値はない、と思い込むと信用崩壊を起こす。

 

つまり大きくは「信用」に関わるところが通貨と仮想通貨の違いであるが、その他の点に関して、通貨と仮想通貨の違いはそうない。

 

まず、よく言われる仮想通貨の実態のなさだが、実は既存の通貨にもそれほど実態があるわけではない。

 

なぜなら、例えば円紙幣は食べられるわけでもないし、それ自体が金でできているわけではない。あくまで国がこれは価値がありますよ、と言って信用を保証しているから価値があるにすぎない。一万円札を作る原価が一万円ではない、という例えの方がわかりやすいのだろうか。

 

そして大半の通貨が今や電子マネーとして銀行に眠っている。当然、銀行の店舗は全ての預金者の預金を実物の紙幣で持っているわけではない。その意味では、通貨も実態がそれほどあるわけでもないし、仮想通貨がなんらかの形で紙幣かコイン化したら、その境目はますます曖昧になる。

 

もっと言えば、あり得ない話だと前提して、G7やIMFが例えばビットコインは世界共通の通貨です。これからはビットコインを使いましょう、と宣言すれば、ビットコインはその時点で仮想通貨でも法定通貨となる。

 

もちろん、仮想通貨がインフレを起こさないために、何らかの裏付けが必要にはなるが、実際いまの世の中の通貨がインフレを起こさないのは、金の裏付けの存在よりも、FRBや日銀のような発行銀行の政策に依るところが大きいため、世界仮想通貨銀行がG7などが主導で作られることになるのだろうが。

 

話を戻すと、よく言われる仮想通貨が中央集権ではないこと、そしてそれを裏付けるブロックチェーンテクノロジーは言うなれば、国家の代わりに仮想通貨に関わる人々が、信用を与え、安全性を担保している、ということになる。

ブロックチェーンとは何か、については各所に文献があるためここでは触れない)

 

Criptocurrency(仮想通貨)においてblock chain技術がコアで、一体のものである、と言われるのは、国家という中央集権、保証機関を除いても通貨が機能するためにブロックチェーンというテクノロジーが補っているとも言えるからである。

 

だが、現実は一部の仮想通貨を大量に取得している人間やマイナー、あるいは極めて優れたエンジニアリング技術を持った企業に権力は集中している。ビットコインのような既に価格が上がったものはともかく、新規の仮想通貨は法規制も乏しく、投資の世界で言う仕手戦で、価格をコントロールできるような無法地帯となっている。

 

そして、度重なる仮想通貨流出事故にあるように、やはり人間が扱う世界であるから絶対はない。法定通貨が銀行から盗まれたら、銀行は保証するし、国や警察当局も動くが、仮想通貨は国が保証する通貨ではないため、国側に動く義務はない。その意味で、「信用保証」という点に絡み、盗まれた時の回復可能性、安全性がやや異なる。ただ、どちらもリスクが存在することには変わりはない。ネムの流出で金融庁が動いたように、社会問題になるような規模の事件では動くこともありえる。

 

ただ、それも仮想通貨、というよりブロックチェーン技術の理念に基づけば、国ではなく、人々のコミュニティの中で仮想通貨の安全性が担保され、盗まれたときに取り返す役を担うプレイヤーの出現が期待されているわけなのだが。

 

仮想通貨は参加者が価値があると思い込めば成り立つものなので、決済の手段として全世界で使えるようになれば、それなりに通貨としては価値を持つようになる。決済先が一斉に取引停止などをしなければ、いきなり無価値になるようなこともない。

 

全世界で使えるようになれば、既存の通貨に比べて利便性も高まる。しかし、その一方で全世界共通の仮想通貨で、それが各国の通貨と兌換できるようになると、各国の通貨が仮想通貨の価値を担保するかのような、奇妙な状態になる。

 

つまり、通貨というワンクッションがあってから、間接的に仮想通貨が金で裏打ちされていることになる。

 

これは仮想通貨コミュニティが目指す状態の一つかもしれないが、前提としてアメリカ、中国、ユーロ、日本、UKなどの主要な通貨を発行している全ての国家の同意が必要となる。だがそれは極めて難しい。コンセンサスが得られないだろう。

 

また、国家は防衛本能を持つため、自国の通貨価値を下げるような存在を容認しない。特に、小国ではそのインパクトが強過ぎるため、規制するのは当然である。(逆に仮想通貨を利用した為替ダンピングなどは論点になりえるかもしれないが、本稿ではそれには触れない)

 

その意味では、非中央集権というブロックチェーンテクノロジーの根本思想に立ち返るなら、仮想通貨は通貨との兌換をするのではなく、コミュニティの中でサービスや実物のみと兌換をしていれば、そのコミュニティが国境を越えていれば良かっただけで、既存の通貨との交換できる必要性はなかったのかもしれない。

宗教と権威

人間社会はどの分野にいても、「イケてる」「クール」「あの人はすごい」といったヒーロー、ヒロイン的な人が存在する。

 

野球やサッカーのようなスポーツ、音楽や演劇のような芸術、そしてビジネスや政治の世界にもそれは存在する。エンジニア、IT 企業家であれば、天才的なハッカーや経済的に成功した社長はリスペクトされる。

 

そしてそれは人生のどのライフステージにおいてもヒエラルキーとして現れる。例えば、大学生、日本であれば「東大」というのは一つの頂点と考えられている。

大人になってからの日本社会で言えば、「お金」が一つの尺度となり、女社会の中では「美」や「ライフスタイル」に尺度があり、階級が産まれる。

 

「東大だからすごい」

プロ野球選手だからすごい」

後者には「お金持ちだからすごい」という付加的な意味もあるが、同じように「すごい」と評されるのは、ある特定の分野で優れている、からである。

 

そのある特定の分野を探求している人々にとってその存在は憧れであり、権威となる。美を重んじる者には美が、スキルを重んじる者はスキルが、お金を重んじる者にはお金が権威となる。

 

権威とは影響力である。例えば自分が憧れるトップエンジニアから、開発の指導を受けたら、そのアドバイスはまさしく、神から賜った言葉のように有難く受け取るだろう。

 

逆に権威とは、その人物が重きを置かない分野では影響力を発揮しない。例えば芸術の世界で生きる人間にとって、金融の世界で稼いでいる人間、というのは、異業種としての尊敬や、ある一定のラインを超えた一流にはどの分野にもあるような才能への敬意が起こることはあっても、芸術家としての尊敬、権威は持ち得ない。

 

しかし、同じ芸術に生きるもの、特に自分が崇拝する芸術家を前にすると、それは途端に権威に変わる。すなわち、権威とは

「自らが重きを置くところに発生する。」

 

そして権威はやがてしばしば、本人も気づかないうちに宗教に変わる。

自分が崇拝して止まない人物が言ったことを全て正しい、と考える。あるいは盲目的に崇拝してしまうことは宗教の始まりである。

 

権威が宗教に変わる境目はどこか?

例えばそれを大学生のヒエラルキーで考えてみると、

○「東大生はよく勉強ができる」

△「東大生は頭がいい」

×「東大生は偉い」

 

東大に受かるには5教科7科目という膨大な量の勉強が必要である。その点、同世代と比較して、「よく勉強ができる」というのは最も話である。

 

しかし、「頭がいい」は実は宗教の始まりである。

勉強ができること=頭がいい、は確かなことではない。

例えば、お金を稼ぐ能力=頭がいい、と定義すれば、東大どころか大学に行かなくても頭がいい人間もいることになるし、東大に行っても、お金を稼ぐことができなければ、頭がいい、とは言い切れない。

そもそも「頭がいいとは何か」が抜け落ちてしまっているため、宗教化してしまっている。

 

「東大生は偉い」これは一見わかりやすそうに見えるが、多くの人間が混乱し、宗教化してしまっているところである。この「東大生」というところを他の言葉に置き換えてみると

「政治家は偉い」「金持ちは偉い」「弁護士は偉い」「医者は偉い」「国を守っている官僚は偉い」「日本の伝統を守っているから相撲協会は偉い」

こうして並べてみると、可笑しな話なのは誰でもわかるが、いざ当事者となると、無意識でそう思っていることが多い。

 

もちろんここで宗教化しているのは「偉いとは何か」ということが曖昧になっているからである。

 

例えば、ここはゴールドステイツである。この国の唯一絶対の人間の評価基準はお金である。したがって、金持ちこそが権威である。と定義した国があるとして、その国民誰もがその基準を受け入れたら、その国の中では「金持ちは偉い」ということになる。

これは芸術の世界の中で有名な芸術家が権威をもつことなどと、考え方は同じである。アートオブステイツならアート、スキルオブステイツならスキルである。

 

しかし、「なぜ、偉いか?」という小学生でも思いつく問いには答えることができない。この国ではお金が評価基準だ、だから金持ちは偉い。That’s all

 

つまり、「東大生は偉い」というところに話を戻すと、こういう意味になる。この国において、学歴が高い者が偉い。東大は最高学歴だ。だから東大生は偉い。という三段論法に落ち着くことになる。だが、学歴が高い者がなぜ偉いのだ?という質問に対しては、この国は学歴が評価基準だから、という説明以外ないだろう。

 

さてここで、「宗教」とは何かというところの説明にようやく入れる下地が整ったように思う。

 

「東大生は頭がいい」

これは「頭がいいとは何か」を「考える」ことが抜けてしまっている

「東大生は偉い」

これは「なぜ偉い」のかを「考える」ことが抜けてしまっている。

 

つまり、宗教とは「考える」ことを「放棄」することで生まれる。

そして「宗教」は「権威」の元で生じる。

 

しばしば、自分が思いもしない奇跡をやってのける人物を「教祖」とするのも、自分ができないと思っていることを、できる人間に権威を感じるメカニズムの一部である。

 

それは自分が重要だと思うこと、それが「できる」のは「すごい」という尺度を持っているから産まれる。つまり、「権威」と「評価基準」は一体のものである。

 

では宗教的にならないアプローチとは何か。

例えば、ある有名なスポーツ選手がいたとする。そのスポーツの世界では超一流であっても、その人がプライベートでしていることに問題であれば、「スポーツ人としての評価はしても、人としては尊敬できない」と切り分けて考えることができることである。

 

別の例を挙げると、原発の専門家がいて、原発は絶対に安全だ、と言っていたとする。そこでその人物の肩書きはどうあれ、震災があったのだから、本当にそうだろうか、と考えてみることである。

 

前者は「区分する」後者は「疑う」というどちらも「思考」をしている。

逆にあのスーパースターは、スターだから正しい。あの人は専門家だから間違いない。とするところには「思考」が存在していない。

 

また、そもそも「評価基準」を持たない場合はどうだろうか。

「人は神の元において全て平等である。そして全ての才能は天から与えられたものであり、それぞれがその才能を活かして社会が成り立っている。」

 

このように考える人物に対して、「神」(あるいは親、祖先も)以外のものが権威を持つことは難しい。

 

続けて言えば、「考える」ことと、「評価基準」を持たないこと(あるいは人ではなく、天に権威がある、あるいは能力や行動に評価を持たないこと)を人々が持ち始めた時、世の中はどう変化するであろうか。

 

また多くの誤解がある。宗教とはユダヤ、キリスト、イスラム、仏教などを思い浮かべがちだが、常に「神」から生まれるわけではない。

それがなんであれ、盲目的に信じたらそれは宗教となる。マルクスを盲目的に信じればマルクス教、お金を盲目的に信じれば拝金教、電通という会社を盲目的に信じたら電通教だ。そういう意味では恋愛と宗教も紙一重である。

 

つまり、「宗教」は多くの人々が思っている以上に、日常生活の中に浸透している。更に厄介なことに、当事者の大半は無自覚となっている。

 

このような問題提起に、幼稚な統治者はこう反論するだろう。

“国民が思考し、正しい評価基準を持ってしまったら、その国を統治できない”

 

そうではなく、権威とは今を生きる全ての人達に恩恵を与える者に存在する。つまり、親であり、祖先であり、始祖である。そして権威に対する我々の態度は盲従ではなく、敬意と自ら考える姿勢である。とすることもできるのである。

実は、日本の皇統というものは、世界でも稀有なこうした権威の形を具現化した、超近代国家となり得る可能性を秘めている。(超近代国家とは人々が思考し、権威への態度が変わった国家のこと。勝手な造語である。)

なぜならば、日本は「権威」と「権力」を分離した国家であるのだから。

日米選挙、トランプと小池百合子を、エスタブリッシュメントとポピュリストという軸から読み解く

佐藤優 副島隆彦インスパイア

https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%94%BF%E6%B2%BB-%E8%A3%8F%E5%81%B4%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%89%AF%E5%B3%B6-%E9%9A%86%E5%BD%A6/dp/4537261730

 

この本を読んで改めて気づいたのは、アメリカで起きている現象は富裕層VS貧困層であり、それはエスタブリッシュメント層(上流階級)とポピュリストが対象とする層(大衆、以下ポピュリスト層)の対立に置き換えることができ、その基軸は日本で小池百合子が勝利し、敗北した現象を読み解くのにも寄与しないだろうか。

 

まずトランプは、実際はクリントンよりも資産家という面ではエスタブリッシュメント層に近い。そこを、巧みにアメリカの現在の対立構造を読み解き、自分をイメージコントロールし、ポピュリスト層を取り込み選挙に勝利した。

 

一方、小池百合子自身はエスタブリッシュメント層という面を全面に出しかつ、失態の多い安倍政権に失望するポピュリスト層を政策で取り込み、両方の層から支持を得て、都知事選には勝利した。

 

しかし、民進党合流の際に踏み絵をしたせいで、ポピュリスト層からは支持を失い、また都知事なのに国政という欲を出したため、エスタブリッシュメント層からも見放され、選挙に敗れたというのが今回の小池百合子敗北の見立てである。

 

ここでエスタブリッシュメント層とポピュリスト層のそれぞれのペルソナを考えてみる。

 

エスタブリッシュメント層とは、いわばアメリカであればアイビーリーグ卒、日本でもそれなりに良い大学を出て、教養があり、洗練されたものを好み、週末にはどちらかと言えば品の良いレストランでワインを飲むことを好むような層である。更に言えばゴルフやテニスに勤しみ日本なら日経新聞を読むような層で、アメリカでは主に北部とカリフォルニア州に多い。

(真のエスタブリッシュメント層はまた違う定義になるが)

 

かたやポピュリスト層は、学歴はそれほどでもなく、荒っぽく、洒落たレストランなどよりもパブや居酒屋に行き、スポーツ観戦を好む層で、アメリカで言えば南部に多く、日本で言えばテレビを観て大衆紙を購読するような層である。

 

エスタブリッシュメント層からすれば、ポピュリスト層は堕落し、教養もないのに自分の権利を主張するから許し難い存在であり、

ポピュリスト層からしたら、エスタブリッシュメント層は差別主義でお高くとまって、忌々しい存在で、お互いの対立というものは、根が深いものがある。

 

花形の職業も異なる。エスタブリッシュメント層であれば、一流企業、官僚、弁護士、医師、会計士などであり、アメリカであればクリントンを支持していた層でもある。

彼らからしたら、トランプのような下品な人間を大統領にするなど正気の沙汰ではないという感覚だろう。

 

方やポピュリスト層の花形の職業は軍人、警察官、自衛隊などであり、基本的にグローバル化の恩恵を受けることがない層である。アメリカで言えば彼らが見ている世界、望んでいる世界は、世界最強のアメリカだけであり、外の国は興味を持たず、もっと言えば観光で行くこともない。

それがトランプを支持した層で、日本人がメディアや日本で出会うことない、ある意味典型的な本来のカウボーイ、アメリカ人である。

だから、日本人はトランプが勝つという現象を理解できる人が少ない。何故ならトランプを支持する人たちと接触したことがまずないからである。

 

日本人がよくアメリカ人、として議論しているのはニューヨークかDC、カリフォルニアにいるエスタブリッシュメント層を指すことが多い。

 

無論、トランプはアメリカの産業界の代表であり、娘夫婦はど真ん中のエスタブリッシュメント層であり、富裕層の支持を得ていない訳ではない。ポピュリスト層をとるために、色々な失言や失態も合わせて抜群に見せ方がうまかったともいえる。

 

今回のテーマから外れるが、オバマもまさにエスタブリッシュメント層の代表であり、今回の選挙結果はオバマによる改革への失望、エスタブリッシュメント層、エリート層への失望からのトランプという流れも見える。

 

代々アメリカでは、民主党が北部エスタブリッシュ層、共和党が南部ポピュリスト層のカルチャー寄りの大統領を排出している。これはおそらく南北戦争からの傾向だろうか。アメリカは未だに南北戦争の文脈は根付いていると思われることがメディアを見ていても随所に感じられる。その構造も日本人には馴染みがないところであろう。

 

一方で日本はそこまで国内に明確かつ、深刻な階級対立は表層化していない。ただ、地域格差という意味ではそれが特に沖縄では顕著に起きており、だから沖縄は最も地域政党という議論が根強く、与党は選挙に勝てない。

 

とは言え、資本主義である以上、今後も富裕層、大衆、両方を取り込むことが選挙で勝つ秘訣である。日本の場合、特に自民党は出自がエスタブリッシュメント層が多いのもあり、必ず政策でポピュリスト層寄りにせざるを得ないだろう。逆に野党は差別化のため、庶民的なイメージを出してくる、と言えば既に各政党が行なっている選挙のイメージに合致するはずだと気づくはずだ。なぜなら自民党がポピュリスト寄りの政策を打ち出してしまっている以上、野党は政策で勝負も差別化もできないからである。

 

なので、小池百合子が今回の選挙で掲げたように、しがらみのない保守というよく分からない言葉が出てきてしまうのだ。そもそもしがらみ、特定の権力と結びつかない政治家など存在し得ないのに。

 

小池百合子個人がエスタブリッシュメント感を出し、政策もポピュリスト層寄りでは自民党と違うところなど、何も存在し得ないからそう言わざるを得ないのだろう。しかし、そのような発言は、勘のいい有権者からは自民党の劣化版だと思われて票を失うのが関の山である。欺瞞も透けて見えてしまうからだ。

 

あくまで新党に期待されるのは、“質の高い自民党”としての役割である。その期待値を裏切ってしまうと選挙には勝てない。今回の場合、その期待値を裏切ったターニングポイントが、踏み絵と都知事選直後に国政に出てしまう判断、そして周辺人材の質の低さの三つであったと言えよう。

 

したがって、今の有権者の温度感からすると、自民党の中から最も優秀な議員をエッセンスとして抽出し、それが野党の中でもスター級の議員や民間のセレブリティと合流するような構図が、次の選挙で自民以外が勝つパターンとしては考えやすい。

 

例えば小泉進次郎石破茂河野太郎が若手を引き連れ離党し、小泉は年長者を立てて今回は総裁にはならない、という構図は面白い。そこに民間から池上彰などが合流するイメージである。

 

今回の国政選挙も小池百合子も最初は、そのパターンとして入ったが、結果的に自民党を上回る人材を揃える、という求心力が足りなかったという一面もある。だが、先ほどのメンバーに都知事として小池百合子が応援する、というパターンは今後もまだ充分活きると思われる。

 

あまりにも堕落した自民党を、志のある若い自民党議員が離反して新党を立ち上げ、そこに支援者が現れる、というストーリーが最も有権者からしたら望ましく、安心感がある。その意味でも石破茂小泉進次郎のような議員の今後の動静は注目すべきであろう。

 

むしろアメリカの今後の方が深刻で、トランプの後にオバマのようなエスタブリッシュメントの権化のようなタイプに戻るとも思えないし、一体いつまで二大政党制を続けるのだろうと、アメリカの近未来を自分は悲観的に見ている。

 

トランプが過激過ぎたから、一見大人しそうな民主党の大統領か、共和党の中でも穏健なタイプが次の大統領にでもなりそうだが、そういうときのアメリカの方がカーターやクリントンのように怖い動きをするかもしれない。

 

最後に本の中で両氏が述べているように、中間選挙にトランプが勝つために何らかの行動に出るのは、自分もagree である。それは違う角度から以前ブログには書いたが、思えば中間選挙というファクターを自分が見落としていただけだったと思われる。http://itseiji.hatenablog.com/entry/2017/04/05/182508

 

世界の未来予測、国家というアソシエーションの衰退

まずこれから述べることは斬新でもないが、よく耳にすることでもないだろう

 

現代人の持つ一つの大きな錯覚に、国家とは不可避かつ絶対の帰属先であるという誤解がある。

 

例えば日本で言えば、個人が帰属する組織、共同体には国家と家族がまずあり、次に学校、企業というレイヤーがある。その全てに帰属していない人はほとんどいないし、大多数の日本人はこの全てに帰属している。

 

まず、初めに一つの誤解を解こう。国家とは、企業、学校、家族と同じ一つの共同体のあり方に過ぎず、国家が絶対的な存在であるというのは誤解であり、これら四つは並列的な存在である。

 

それは、近代国家という概念が18世紀に生まれ、日本では戸籍制度が19世紀に産まれたに過ぎず、それ以前の歴史において、国家とは最大の個人の帰属先ではなかった(例えば日本の戦国時代であれば、領民のその最大の帰属先は大名である)

 

なぜ、人が国家に帰属することになったかと言えば、それは一つは防衛、もう一つはサービスのためである。

 

特に19世紀後半、アメリカの南北戦争が起き、初めて総力戦が行われると、戦争は兵力や物量で決まり、国家が国民に対してそれを強制するという概念が生まれた。

 

国民総徴兵などとした、太平洋戦争の思考を色濃く残す現代の日本人にとって、特にそれは当たり前のように感じるであろうが、元々、戦争とは例え国同士の間で自分が当事者であっても、必ずしも参加しなくていいものであった。(それも戦国時代に必ずしも農民が戦争に参加しなかったことのイメージと重なる)

 

つまり、防衛という意味での強制が、国家が国民に対して帰属を促した、というのが一つ。

 

もう一つは、インフラや保険といった、極めて大規模なサービスを利用する場合、その規模の資金調達を公平にした場合、租税というシステムが最も合理的であったことにある。

 

最も大規模なサービスを行うために、最も大規模な資金調達が必要で、最も人口が大きい集団が国民国家であった。この視点に関しては、サービスの受益者側も、国家に所属することによって、特に所得の低い層は大きな恩恵を被ることができるから、強制だけでなく、双方のメリットにより自発的な国家への参加が促されたと言えよう。

 

だが裏を返せば、軍事と租税、それだけが国家が持つ特徴であり、特権であるとも言える。

 

ここでもう一つ誤解を解こう。国家、企業、学校、家族、そのどれも人と人とが集まってできた、共同体、アソシエーションという視点においては同義である。

 

そしてそれに追加をすれば、労働組合、共済、宗教団体、サークル、そうしたものも全て同じ、人と人とが集まってできた集合体に過ぎない。

 

近年、国家権力が弱まってきている。これは企業という共同体の方が国家よりも人気があるアソシエーションだからと見ることもできる。

 

例えば、国家官僚と企業に就職する、というのを同列に共同体に入る選択肢であったとすると、現代では優秀な人材からすると、後者の方が所得も高く、リスクも低い(特にキャリアにおける)ため、選択することになる。そうするとまず、国家を維持する機構よりも、企業の方に人材が集まることになる。

 

また、特に先進国で顕著なのが、インフラが既に出来上がってしまい、既に民営化され、あるいは民間企業が代替のサービスを提供するため、必ずしも国家に帰属することが、高いサービスを受けられることではなくなってきている。

 

防衛に関してもしかりで、民間企業でも一国家に匹敵するような軍事力を保有する研究所やPMCもあれば、核兵器や細菌兵器のようにそもそも人員を必要としない軍事テクノロジーが発展してしまった。

 

言い換えれば、軍事とサービス、国家の二大特権は既に失われつつある。

 

つまり、今挙げただけでも三重に国家というアソシエーションに所属するメリットは失われているのだから、弱体化するのは必然であり、その上部構造である国連が機能不全なのも当然なのだ。国連は世界に無数と存在するアソシエーションの一レイヤーの上澄みをすくっているに過ぎないのだから。

 

今後起こり得るのが、特にサービス面の国家からの分離である。既に日本でもいくつかの共済では、あらゆる生活に関するサービスを提供し、グーグルのような大企業は優秀な人材を確保するために、従業員に対して衣食住、生活に関わるあらゆるサービスを提供しつつある。

 

その行為がイリーガルかどうかの議論はさておき、特に今後、宗教団体や共済は、そのアソシエーションに所属する人間に対し、国家や大企業とは別に、特に所得が低い層に対して、保険、金融などあらゆるサービスを提供する可能性がある。既にそれは行われているが、それがもっと表面化するだろう。

 

それは企業においても同じである。ゆりかごから墓場まで、教育、子育て、あらゆる面をカバーする企業グループが必ず誕生する。(既にしているのがこれも表面化する)

 

国家は最初それを激しく弾圧しようとするだろう。これまでのところ、それらの団体は国家と共存できているのは、それが国家の存亡を脅かすほどには表面化していないのと、国家間の協定と同じで宗教団体と国家、企業間においてある種の協定が存在しているからである。

 

しかし、今後は全世界的に貧富の差が拡大し、先進国においても、国家に所属しているだけの人間はそのサービスだけでは生活できなくなるだろう。そして、個人の貧富の差、というものがどのレイヤーに所属しているかで決まることになる。

 

それは既存の家族、学校、企業、国家という基本の四つでこれまでも決まっているが、特に三番目の企業と、この基本の四つにないレイヤーを如何に活用できるか、という時代になり、そして家族という単位が最も重要になるだろう。(これも正しく言えば既になっている)

 

これから全世界的に起こる現象は、グローバルからローカルではない、巨大な一つの国家というアソシエーションの弱体に伴い、無数の様々な思想やサービスを持つアソシエーションが浮上化する、言わば群雄割拠の戦国時代のようなものである。

 

起業というのも、ある意味戦国時代に置き換えれば、新たな戦国大名が自分の領土を主張するようなもので、企業という器が最も現代社会において、資金と人員を集めやすいため、最も巨大で最も人々が選択する器となっているに過ぎない。

 

そしてこうした企業群はいずれ、独自の通貨を発行すると、ますます持って、国家にとってその存在は脅威なものとなってくる。それは企業において、例えば社員割引という別レートの価格を設定することで既に行われている。

 

それがブロックチェーンやそれに類似する技術によって加速化されるだろう。国家はもはや通貨の発行権も失いつつあるのだ。

 

司法権や警察権も一見侵し難いように見えるが、それも学校において教師やガキ大将が担っているように、国家にだけ可能な権利でもない。

 

ここで、国家の存続の意味を逆に擁護する。

とは言え、アメリカのような超大国がすぐに聚落し、中国のような国家を上回るような企業が誕生するとも思えない。

 

アメリカの権力の基盤である海軍力を凌駕するアソシエーションなど存在し得ないし、中国ほどに人口、資源、陸地、野心を有するアソシエーションも出現しない。

 

その意味で、ここで強調したいのは、あくまで国家が無数にあるものの中の一アソシエーションに成り下がる、という現象と、おそらく国家とは最低限のイフンフラを提供し、他のアソシエーションに対する牽制や統制の一過渡期のメディア(媒介)としての役割が強調されるのではないか、という可能性である。

 

もっと要して言えば、世界は中国やアメリカの存在は無視できないが、どちらも世界を支配することではきないし、国家の役割は変化し、次第に弱体化するということである。

 

以上のことは途中何度も言及しているが、目新しい現象ではなく、マスメディアの都合により、一般的に国民がマスメディアを通しては知ることはない、今の人々の真の“生活の実態”である。

 

さておそらく向こう100年で課題となるのが下記である

①ますます肥大化する企業というアソシエーションをどう抑留するか

②自らの生活を守るために、如何にして、どのような基準を持って自らが所属するアソシエーションを選択するか

③国家の弱体化が一層表面化した時に世界的にどのような事態が引き起こされるか

など

 

ますます持ってこのテーマの議論は尽きない。ただ、最も重要な点は、おそらく人類が始まって以来、最も強力なアソシエーションというものの思想やルールは変化していない、ということである。それは様々な国の様々な言語で様々に表現されているが、一つの呼び名は王道という。

 

したがって、一時的な一部の企業が全世界の市民の権利を侵害し、独裁しているような現象が起こり得たとしても、それは揺り戻しがくるであろう。

 

そして、普遍なものがある中で日本、日本人が担うべきところは、その普遍さ、王道と呼ばれるものが、テクノロジーによって、全世界、全市民に普及することが可能となったその担い手としての特徴を持つのである。

 

王道を全市民に対して普及する、という概念は日本の文化からしか生じ得ない。一部の欧米の知識人は獲得し、試みてはいても、国としてはまず日本からになるだろう。

 

それは、極めて悲観的な未来予測の中にある、一筋の光でもある。全世界の市民が王道を知り、歩むことができれば、それは全世界の人間が歴史上再び形を変えて幸福になれることを意味する。

 

そしてその時までくれば、アソシエーションというものは生活のためではなく、もっと人の本質のために存在する器となるだろう。

ピケティ、格差について

ピケティの主張は自明の理のように感じる。もし仮に、r>gではなくg<rであったとしたら、一体誰が起業家になるというのだろう。

 

また、ピケティがアメリカで受けたのは、アメリカは所得の再分配の少ない、自由主義的な政策を取っているからである。

 

日本のような、言ってしまえば社会主義国で所得格差の拡大を抑えている国は、小泉純一郎竹中平蔵政権時に新自由主義的な貧富の差の拡大を是とする政策に舵を切るまでは、累進課税や富の分配など、既にピケティの提案はやっているよね、というそれほど目新しいものでもなかったはずだ。

 

むしろ、アメリカで話題になり、資産課税というアイデアそのものが日本の財務省がやりたくて仕方ない提案であることも相まって、不可思議な盛り上がり方を日本ではしたように思う。

 

加えて、人間というのは不思議なもので、ある程度自明なものであっても、「データ」というパッケージに包まれると、改めて妙に説得してしまう。

ピケティが示したのはある種のヒストリカルデータ、あるいはビッグデータの類であり、その意味においては現代的な証拠ではあったが、主張していることに特に目新しことはないと言っても過言ではない。

 

更に問題があるのは、仮にピケティの主張を実行しようとすると、それは強制を伴うため、昔のソ連ナチスドイツのようなファシズム的な全体主義大きな政府下においてでしか実現しないという点である。

 

既存の格差社会が良いとは決して思わないが、「特定の誰かが」分配を決める社会は、スターリン下のソ連のような全体主義の社会にしかならないと知れば、進んでそちらに向かうのには抵抗を示して当然であろう。

 

そもそも、人間社会において、「格差」とはある意味社会を成長させる重要な素材となっている。

 

例えば、隣のレストランよりも自分のレストランの方が美味しい食事を提供するから、より高い付加価値を提供し、より高い利益を上げ、よりよい暮らしができるから、人は成長や付加価値を提供しようとする。

 

つまり、大学の偏差値と同じように、価値とは常に「相対」で決まるため、常にそこには「勝者と敗者」が存在し、「格差」が生まれることになる。

 

努力をすれば、頑張れば、より質の高い付加価値を生み出そうとすれば、それが格差に繋がってしまう。

 

これを巨大な政府の強制的な分配、つまり「ハード・パワー」によって是正することは、付加価値を産むものもそうでないものも強制的に同じ利益しか得られないようにするようなものであり、極めて矛盾したものになってしまう。

 

では人類社会は救いようがないか、と言われればそうではない。それはより文化的な「ソフト・パワー」による政策である。

 

確かに格差は産まれる。とは言え、競争に負けた人間がいつでもやり直せる社会を築くことは不可能ではない。それは社会がもたらすセーフティネットと一人一人の文化、価値観の変容があれば容易である。

 

同様に、格差の中でも憲法に定める「文化的、健康的な最低限の生活」をどのラインに敷くか、というのは議論の余地がある。だからこそユニバーサル・ベーシックインカムという政策には議論の余地があり、北欧のように、生涯の生活に関して一定の保証をする社会のあり方にも議論の余地がある。

 

それは既存の社会のフレームワークでも、充分に可能な政策メニューであり、実行に必要なのは主にリーダーシップや国民の意思、文化であったりする。

 

つまり、ピケティが示した結論を見て我々が考えないといけないのは、資本家への攻撃でも羨望でも、国家により強権的な解決でもなく、改めて消費に頼らない、持続可能な社会を文化的なアプローチで解決していくこと、寛容な社会を築き上げること、などではないだろうか

なぜ日本人はこんなにも働かないといけないのか

少し冷静に考えてみよう。日本は国としては世界第3位のGDPを持ち(一人当たりでは22位)、欧米諸国に並ぶ開発先進国である。世界で最も豊かな国と言って差し支えない。

 

にもかかわらず、多くのビジネスパーソンは残業を強いられ、休暇を取ることさえままならない状態にある。

 

実際、日本よりも豊かではない国の人々よりも、日本人は働いている。こんなに豊かなのだから、そこまで働かなくてもいいだろうと思わないといけないのだが、日本人は戦後教育で働くことが正しい、というピューリタン的な思想を刷り込まれているため、その思考にまず大半の人間が疑問を抱かない。

 

何のために働くか、ではなく、働くことそそのものが正しい、半ば宗教と同じ精神状態になってしまっているため、働くということに異論を挟む余地がない。

 

そこに、伝統文化である村社会の掟がのしかかり、働かない人間をとことんいじめ抜く圧力が、個人間と社会で生じる。

 

以上が主に日本人がよく働く(いい意味でも悪い意味でも)文化的なファクターなのだが、より制度的、構造的な問題にも焦点を当ててみる。

 

働きすぎなことを解析するために、雇用、賃金、労働時間はそれぞれどのように決まるのか。本項では、賃金、と特に表題でもある、労働時間に焦点を当てたい。

 

まず、雇用に関しては、企業の需要と労働力の供給の交点で決まる。これは経済学で習うことの中では、経験的に正しい事柄の一つで、あまり議論を挟む余地がない。

 

感覚的に言えば、好景気だと雇用は増加し、不景気であればリストラが増えるという話だ。

 

次に賃金である。これについては労働経済学的に諸説あるが、基本は限界生産量ベースに、売上に対して最適な費用として算出される。

 

ざっくり説明すると、人を増やしても利益が増えないと会社は倒産するから、利益を最大化させる、最適な人数を普通の経営者は雇用する(あるいは雇用を目指す)

 

ここでまず、人を一人増やすことよりも、既に雇っている人間の労働時間を長く設定した方が、企業にとって負担するコストが概ね低いということだ。

 

これと正規雇用者を解雇することが、日本の場合構造的に難しいことや、学習コストなどが相まり、まず構造的に新規雇用よりも残業を企業に選択させがちな原因である。

 

だが、ここで、限界生産量という説明は、残業問題の原因の一部を指摘しても、結局のところ賃金がどう決まっていくかについての回答にはなっていない。

 

実務的にはここに、限界生産量を上回る、効率賃金仮説というものが、経済学では一つ考えられている。

 

これは要するに、生産量ベースでのみ賃金が決まるのではなく、例えばライバルに社員を取られたくないから、多めに賃金を払うなど、生産量以外で賃金が決まっている、という説明である。

 

だがこれに加えて、賃金は労働市場だけからではなく、消費市場からも決まっていると思われる。なぜなら、基本的に物価が高い東京などの都市部と、物価が低い田舎とでは、同じ職業でも想定的に賃金に差が存在するからだ。

 

結局のところ、関連要因が多いため、あまり綺麗なモデルがないのが賃金決定に関する経済学の現状である。

 

ただしここでもう一つ、賃金に関して議論する必要があるのが、なぜ職業によってベース賃金に差があるのか、という点である。

 

例えば、事務職やアルバイトというのは、一般的に賃金が低く、エンジニアや法律家など高度な知的専門職は、ベース賃金が高いのか。

 

これは簡単に需要と供給からわかる話だが、要するに希少性、すなわち、企業の需要が高いが、労働市場における供給が少ないため、企業が高い賃金を払わざるを得ない。逆に需要はあっても、事務職の様に供給が膨大であると、企業側は賃金を限界生産量まで下げることができる。

 

ここで着目すべきはまず、賃金というものが、仕事の必要性や労働時間では決まらない、ということだ。企業にとっては、事務職も法律職も同じ様に必要である。にもかかわらず、法律家の方が賃金が高いのは、単に法律家が希少だからに過ぎない。

 

つまり、大半の日本人が宗教的に信じている、働けば働けるほど、豊かになれる、というのは論理的に考えて完全に破綻している。

 

あくまで労働者としての所得を増やすのであれば、希少性の高いスキルを身につけるべきなのだ。

 

だんだんと問題の核心に迫ってきたが、ではなぜ、エンジニアや法律職が、希少性が高いのだろうか。

 

まずどちらも、学習コストが高い。特に法律家になるには、高い学費と時間をかけてロースクールに通って弁護士資格を取る必要がある。これは医者や会計士も同様である。

 

さて、これら知的専門職資格に共通することは、何か。それはこれらの職業が全て国家資格である、ということである。

 

国家が、免許という独占的な特権を与え、資格合格者をコントロールすることによって、例えば弁護士の人数を制限している。

 

つまり、国家が供給を制限することによって、意図的に希少性を高め、賃金をこれらの職業は高めているのである。

 

そして、この独占というのは、ピーター・ティールが著書「ZERO to ONE」でグーグルの例で指摘するように、企業の従業員にとっては、高い収入、安定した地位、そして十分な余暇をもたらす。

 

つまり独占は、当事者たちにとっては豊かで良いことなのだ。日本で言えば、医者、会計士、弁護士などがそれに当たるように。彼らが高い年収と余暇を捻出できるのは、政府が彼らに独占を許しているからに過ぎない。

 

もし政府が免許制度を取りやめ、あるいはアメリカのように資格取得条件を緩和することがあれば、他の労働者と同じように、厳しい競争条件にさらされ、労働者としては同じような賃金や労働時間となるだろう。

 

逆に、エンジニアの賃金高騰に関しては、日本の教育システムが時代のニーズに合ってないから、需要に一早く反応した、一部の労働者が一時的に希少性の蜜をすすっているに過ぎない面がある。

 

では結論である。賃金は、市場のメカニズムに委ねると、企業は限界まで賃金を下げて労働者を搾取する。従って、政府の介入無しに賃金を向上させるには、海外の労働者を無視するなら、需給の関係だけでいけば、自らの希少性を高めるしかない。

 

だが、現状、労働者には、充分な余暇がないため、希少性を高める機会はその労働の中にしか存在しえない、それが今の日本の労働社会の構造的な問題である。(だから余暇を無理して削って学習せざるを得ない)

 

本題でもある、労働時間にも同じことが言える。市場の原理に委ねれば、企業は合理的な意思決定をするのだから、最も低い賃金で、最も労働者を搾取する(これをしない経営者はむしろ株主への背任行為にすらなる)

 

そして、労働時間の方は、賃金とは異なり、希少性そのものよりも、企業と労働者の力関係で決まるため、労働組合が強いところや、あるいは希少性を背景に交渉の結果、労働時間短縮を勝ち取る様な流れとなる。

 

ここで、もう一点、労働時間の議論が賃金の議論と異なるのが、今の日本の様な成熟したマーケットが存在し、モノが行き届いている様な社会では、生産量を増やせば売り上げが伸びるという、すなわち、右肩上がりではないため、工夫が必要だ、ということである。

 

つまり、イノベーションを起こし、より付加価値の高い製品や、サービスを提供することで、企業の収益を上げる、というやり方である。

 

だが、イノベーションを起こすには、インプットや起こす仕組みが必要であり、それはむしろ労働者に限界まで労働させることとは、相反することが多い。

 

従って、経営者として企業の収益を増大化させることに注力しつつ、労働者の労働時間を下げるには、イノベーションを起こす仕組みを会社が採用し、それによって、結果として増益すれば良いのである。

 

つまり、労働時間に関しては、企業構造の改革で起こすことが充分可能なわけだ。

 

まとめに入る。つまり、なぜ、これほど豊かな日本人がこんなにも働かないといけないのか。

①文化的背景。

これは最も愚かしいが根の深い問題であるが、教育を変えることと、マスメディアの論調が変わることで充分改善できる。

②賃金が低い。

これは企業ではなく原則、政府の介入が必要な問題。これは政府が最低賃金を設定する、という意味だけではなく、需給介入や教育改革なども意味する。

③労働時間が長い。

労働組合の政府保証、労働時間への政府介入、そして企業側のイノベーション重視への構造改革

 

つまり、文化、政府、企業、三位一体となった改善努力が必要である。

 

最後に、基本的に起業家は目的を達成するために働き、労働者は賃金を求めて働く。だから、両者の文化は異なり、すり寄せが必要である。

 

ブレンパワード解説

※下記作品のネタバレを含みます

 

 

 

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ブレンパワードは時間軸としては、実は他の未来アニメ、攻殻機動隊サイコパス、そして同じ監督のガンダム作品より後の時代の近未来世界の話になる。

 

攻殻機動隊サイコパスでは、人間の思考アルゴリズムそのものは現代のまま、ただテクノロジーの一部が肥大化している現代世界の延長にあるのに対して、ブレンパワード内の世界では主役たちには人の内面に変化が垣間見える。 すなわち、思考アルゴリズムの変化がある。

 

オーガニック的なもの、テクノロジーと有機的なものの融合、内面の「サステイナブル化」というものに近い。現代社会でサステイナブルが叫ばれていても、それは外面的なところに留まることが多く、内面の話題にはまだ遠い。それが最も象徴的なのは一人一人が戦う意義が、敵味方共に「愛情」にまつわる話が多い。

 

世界を支配しようとか、自分の権力や富を求めるといった、資本主義的な欲望の動機から行為が産まれるのではなく、それらと既存の社会の枠でもがきながら戦うわけでもない。

愛されなかったことに背を向けた人々(オルファン、リクレイマー、グランチャーサイド)と、愛されなかったけれども愛していこうと決めた人々(ノヴィス・ノアブレンパワードサイド)とが「愛情」にまつわる復習と願いのために戦う、かなりロマンチックな物語になっている。

 

主人公、伊佐未勇は、最初はグランチャーに乗り、オルファンサイドにいるが、ヒロイン宇都宮比瑪と出会い、ブレンパワードサイドに寝返る。

 

そこに存在する心境の変化というのは、彼自身が「愛」だと思っていたものとは、違う「愛」が存在することが宇都宮比瑪と出会って知ったことにある。

 

基本的にグランチャーは、パイロットがいないと死んでしまうが、その思いはいつも一方通行で、パイロットに強制を強いる。逆にブレンパワードはお互いの意思を尊重する。

 

お互いを求め合う愛と、お互いが協力して一緒に生きていく愛と、日本語では「恋人たち」とか「愛」と同じ表現しかない。しかし、愛には違いがある。お互いを求め合うだけの愛は、一方的な分、辛い時がある。愛しても愛した人が応えてくれなかった場合(伊佐未兄弟)、その愛し方が相手に伝わらなかった場合(ジョナサン)、失って途方に暮れてしまった場合(シラー)など。愛の形によって、色々な特徴あるだろうが、本作では一方的な愛の辛い面が、対比を用いてフォーカスされている。

 

伊佐未勇は宇都宮比瑪、ブレンと出会い、またそうした一方的な「愛情」に失望し、諦めてしまったリクレイマーたちと離れることで、お互いを理解し合う違う愛情があることを確信し、リクレイマーの統率者であった家族の元を離れる。

 

オルファンもノヴィス・ノアも同じようにオルファン(孤児)の集まりだが、ノヴィスが暖かさで満ちているのに対し、オルファンの人々は、心を閉ざし、冷たい。だが、その冷たさの中で育ってしまうと他に愛の形があることを知ることがない。

 

勇はオルファンに来る前、幼少の頃に、祖母、直子と共に自然と共に畑を耕し、家族を愛する生き方を本来は持っていたから、気づけたのだろう。

 

同じ生活をしていた姉の依衣子は、逆に家族を捨てられない。勇よりも家族への愛が深いが故に、家族への執着、依存から抜けられないために、最後までリクレイマーとして戦い、そしてオルファンとの融合を果たす。

 

ブレンパワードサイドもグランチャーサイドも、双方、「愛情」に何らかのトラブルやトラウマを抱えた人々だが、決定的な違いはブレンパワードサイドの人々は、自分の受けた仕打ちを受け止めて、それでも人を愛そうとする人々の集まりで、グランチャーサイドの人々は自分が受けた仕打ちで相手や世の中を恨み、責めてしまった人々の集まりである。

 

もう一つ、大きなテーマとなっているのが、「愛情」の権化たる「女性」である。

最も印象的なのは

 

「男も女も自分のエゴばかり追うようになって、男は女が女であることをやめるのを許した」

 

という勇のセリフがあるが、原作者、富野由悠季現代社会への嘆きが垣間見えるセリフでもある。このテーゼは風の谷のナウシカにも通じるものがある。現代では、もはや何が「男性らしく」「女性らしい」のかすら、わからない世界になってしまっているからだ。

 

何が女らしさか、それは小説で表現するより、こうした演劇や映像で表現する方がわかりやすい。作中では女として生き、それぞれの女性としてのあり方をする魅力的な女性たちで彩られている。

 

戦場にいても女であり続けようとするカナン、ヒンギス。女であることを捨てたはずなのに忘れられない、勇の母みどり。母性を捨てられなかったアノーア。一度女を捨てたことを後悔し、晩年に恋愛をする直子。そして母性の対比象徴としての姫と依依子など。

 

そしてどのような大義名分を並べても、結局女は女を捨てられない、ということが、作者が考えている女性像ではないだろうか。

 

戦争シーンも、殺しあっていても相手に敬意を払い、許すこともできる。敵味方でも協力することがあり、敵でも憎めないキャラが多く、作品全体がどこかほんわかしている。

 

結局、作者自身がガンダムの世界にある現代社会の延長でしかない、思考パラダイムの世界ではなく、その次の人類社会の思考パラダイムに気づいてそれを表現する内的な変化があったのもよく現れている。

 

次代の人の内面に目を向ける、男女の本質を問う、愛情のために戦う。どれもある意味、現代的なテーマではない。現代的なテーマは人の欲、人間のファンクション性や、もっと低俗な作品が多い。

むしろ、復古的でそれでいて、これからの時代のテーマとなるべき話題である。だからこそ、そのような評価は受けてないが、この作品は自分にとっては近未来の人類の話だと感じる。