IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

2;8の法則の本質

いわゆるどこの会社も2割優秀、6割普通、2割窓際という状態が、実はアリのような社会動物にも全く同じ現象が見られるという件。

 

そして、駄目な2割を排除してもまた残った中で2割が駄目になっていく、というこの現象が、あたかも人間が動物的な存在だからという事で説明が終わっていることに異を唱えたい。

 

私はそういう日本人だからとか、人間だからとか、動物だからのようなフワッとした議論を聞くと大抵、右半身がざわついてしまう。

 

この現象は簡単にもう少し論理的に説明が可能である。

 

まず、この問題で優秀な2割をどう定義しているかがポイントである。

 

要するに、例えば同い年の新卒を並べているにせよ、部署内比較にせよ、その中で目立った存在、この人に仕事を任せると早いし、確実だ。問題解決能力も高い。そんな人材の事ではないか。人当たりも良いかもしれない。

 

そうすると、当然、周りがその人を頼り始める。また仕事を振りたがる。上司も、通常の2倍の速度で仕事をこなして昼には暇になっている部下を見たら、倍の仕事を与えたくなるだろう。

 

そうすると、その優秀な2割はますます忙しくなると同時に、他の社員よりも仕事をこなす分だけますます経験を積み、優秀になっていき、どんどんその差が広がっていくことになる。

 

だがここでポイントは社内において、基本的に仕事の量は一定であるということだ。なぜなら、企業は仕事の量だけ人を採用をするため、今の社内でまわせてない量の仕事があるなら雇うし、逆に余っているなら整理するからだ。

 

つまり、その優秀な2割の社員の仕事というのは、元々誰かがやるはずだった社内の仕事2割をやっているのだ。だから、優秀な社員が2割いるところは、必ず窓際、優秀でないとのレッテルを貼られた社員も2割いることになる。

 

優秀な社員がそうでない社員の仕事を奪っているに過ぎないのだ。

 

だから優秀な社員だけを集めて会社を作っても、その中でまた序列がつき、2割さぼりだすし、駄目な社員だけを集めてもその中から2割頑張りだす、というのも正にこのことから説明がつく。

 

これをあくまでアリのような社会動物と比較して考えるのであれば、要するに人間もアリも放っておくと優秀な人間に仕事を任せたがるという傾向が、当たり前だがある事を示唆している。

 

これは企業や個人商売も同じことで、上位数%の企業がその業界のほとんどの収益を占めたり、一部のアーティストやミュージシャンはものすごくリッチで仕事も来たりするが、大部分は貧乏で仕事もないのと同じ現象である。

 

そして出来る所にはますます仕事がくるからできる様になり、できないところには仕事がこないから経験を積むことができずスキルが上がらず、両者の差はますます広がっていく、というわけだ。

 

これは企業間、個人事業間ならある意味仕方がないが、企業内の従業員間ということになると、要するにミドルのマネジメントが駄目だという結論になる。

 

人は自然にしてしまうと、優秀な社員とそうでない社員が出てしまうので、そこを如何にマネジメントが均等に仕事を振って、1人1人の仕事量が同じになるようにするか調節する、そういうことができる人材が今の企業にはいないのではないか、というのが実際にこの法則が企業で起こっていることから推察できる事柄である。

 

そして面白いことに当然ながら、こうした現象は大抵大企業で起こり、全員がフル稼働のスタートアップ業界では見られない。

 

つまり私が言いたいのは、2;8の法則は人間の愚かな絶望的な側面を示し、ただの悲観的なゴシップを提供しているのではない。このインフォメーションの本質は、人間と動物を分けるものの理解が浅く、社会全体がマネジメントというものに理解が弱い、そして日本の中間管理職が自分の役割をあまりよく理解してない側面を露呈しているのではないか、ということだ。

 

もしこれに採用の話しを絡ませるなら、常に2割駄目な社員を連れてくるような人材部門なら今直ぐ全員解雇すべきだろう。しかし、そうではないはずだ。

 

この話しを少し社会的問題に拡張すると、社会の所得格差についても全く同じ説明がつく。富める者はますます富めるようになるし、貧しいものはますます貧しくなる。その比率は驚く程一定で変わらない。何百年歴史が経っても、どの国でも同じである。

 

という事は、この問題を社会問題に置き換えて考えると、貧困層に手を差し伸べるべきは、富裕層ではなく、中間層ということになるのではないか。富裕層の労働力は、貧困層とは差があり過ぎて再現できないが、中間層なら労働を指導することができる。まずは労働に当てはめて考えた場合だが。

 

同様にミドルマネジメント間で差がついている企業があるのなら、それはトップの責任ということになる。ならば、これを社会問題に置き換えると、富裕層は本来中流階級に分配、支援すべきだ、ということになる。

 

だが、実際の社会においては、富裕層が貧困層を支援し、中流階級は自分たちが富裕層でないことを理由に、極めて利己的に振る舞う傾向がある。そして決まってその説明を学者は人の社会動物性などと言うのだろうか。

 

そうではない。企業がマネジメントで問題解決を図れるように、個人、社会も「意志」を持ったマネジメントによってそれは解決ができるはずだ。

 

そしてこの「意志」こそが人とアリ、動物を分け隔てるものであり、逆に言えば意志のない恣意に身を委ねた行動をし続ける限り、その人間は人間とは呼ぶに値しない。

 

では何故それができないか?それは「意志」を持って取り組むだけの根拠に明確性がないからだ。

 

人間の社会動物性を考慮すると、恣意的にすると常に貧富の差が産まれる。だから、それを「意志」によってマネジメントし、富裕層は中間層を、中間層は貧困層に支援・分配というマネジメントを個人で行い、集合体としての社会も同様にマネジメントされた状態にする。

 

え?である。それで社会は本当に良くなるのですか?という感じである。具体的にどうするの?と。

 

従って原則は実践あるのみだが、問題はこういった質問がでることや、そもそも2;8の法則をただの法則のように扱ってしまう、現代人の「人間に対するリテラシー」の低さにある。

 

非常に高学歴で、博士号を幾つも持っているような人物であっても、例えば自分の腰椎の骨の数とそれぞれの効果を知らなかったり(5つである)、そもそもニュートリノを検出できても、現代医学では未だに盲腸の役割すら分かっていなかったりする。人間は何故怒るのか?という問いにも厳密には答えられないだろう。

 

人間社会はスマホやPCなど、これ以上利便性に関しては進歩のしようがない程進歩していても、未だに夫婦喧嘩は耐えなかったり、嫉妬やいじめで苦しんだりする人間は後をたたない。

 

確かに人間に関する研究、それは肉体的にも精神的にもリテラシーの高さなど短期的には資金にならない。だから資本主義ではあまり発達せず、未だにソクラテス孟子の時代の域を出ないが、そうした人間存在に関するリテラシーを高めることが、新しい時代、よりよい社会を構築する上での土台となることを私は堅く信じている。

 

 

2;8の法則からマネジメントの話し、そして人間リテラシーへと話しが飛躍してしまって、いつもと同じような話しになってしまったが、要するに本質はいつも同じ。人間とは何か?それを理解せず、それに着せる服を作っても着た時にフィットした美しいラインのものはできない、それは社会設計も同じということなのだ。レオナルドダヴィンチが人体を理解した上で描いたデッサンが美しく、工学的に優れた物が作れたように、人間をマネジメントし、社会を設計するには、人間を理解する必要がある。

 

マネジメントと社会制度が今の特に日本社会の大きな課題の二つであるのは、そもそも社会全体で人間リテラシーが低い、これに起因するのではないだろうか。

 

それが2;8の法則にも垣間見えたため、今回はここまでの話しとなりました。

統計から経済を読む事の困難さ

ネイト・シルバーのシグナル&ノイズから着想

 

まず、ネイト・シルバーは前回のアメリカの大統領選挙を、殆どの選挙区で当落を的中させた人物であり、小説「マネー・ボール」に出てくる、大リーグのスカウトに統計学のアプローチを持ち込んだ開発者であり、いわばある業界では知る人ぞ知る人物である。

 

シルバーの統計分析に関するアプローチは、ビッグ・データとはただのデータでしかなく、どうやってその中の“ノイズ”から“シグナル”を見抜くか、それは扱う人間のセンスによって決まる、というものだ。

 

(ちなみに彼が使用する統計手法はベイズ統計であり、ベイズ統計は事前確率が事後確率に影響を与える、というシンプルなモデルで、それだけに確かに扱うデータを選ぶセンスがどうやら問われそうなものだ。)

 

さて、本の中でシルバーは専門家の経済予測、例えばGDP成長率などの経済指標は、天気予報よりも精度が低く予測が困難であることを述べている。(ちなみに我々日本人が最も関心があるであろう地震の予測はもっと困難である。)

 

それは何故か少し考えてみたい。

 

まず、土台としてGDPは需要ベース、Y=C+I+G+XーMで表す。

要するに、国内総生産は消費+投資+政府支出に輸出を加え輸入を引いたものだ。

 

さてここで我々が専門家であったとして数年先までのGDP成長率を予測してみよう。

分かり易いようにC、すなわち一番分かり易い消費のみに注目するとする。

つまり、消費が拡大すれば、GDPも増え、GDP成長率も増えるとする。(この場合他の数値は一定と仮定する。)

 

なので我々は消費の増加量を予想できれば、GDP成長率を予想できることになる。では、消費の増加量はどうやって予想するのか?

 

例えば全国的な過去の住宅や車などの過去の販売実績から、ある程度の物の消費予測は立てることができる。しかし、例えば今回のように消費税が8%になった場合、それは消費にどう影響するのか?

歴史的に事例のない事態に対しては、どう消費が動くかというのは類似の事例を使うかするしかない。そして、残念ながらグローバル経済となった今日では、消費に影響する要素というのは、一国の税制だけではない。為替レートや石油価格を始め多くの外的な変動を受ける。

 

つまり、数学的な予測モデルを立てるとなると、まず消費物を各項目毎に洗い出し、更にその項目に影響を与える事象の類似的な事例を見つけ出し、更に項目に影響を与える要因を全て洗い出し、更にその要因の未来の動きの予測を盛り込まなければならないし、更にその変数同士は相互に影響し合うのだ。

そして今回は消費だけ抜き出したが、後4項目実際は増えるのだ。

 

文章にしただけで嫌になるし、これを数式にしたら一体幾つの変数が必要になるのだろうか?そしてお気づきだと思うが、要するに予測は不可能なのだ。

 

従って、シルバーが言う様に、エコノミストの行う予想など殆ど詐欺的なものだというのは否定できない。

 

一見シンプルに見えるGDPの式も実際は、非常に複雑なものであることがわかる。ここもやや詐欺的である。

 

また仮にこれを生産、国内総供給の方からアプローチしてもさして話しは変わらない。だが、生産を増やしても需要がなく、在庫が増えている場合に、生産を伸ばすことだけで増大させたGDP成長率という指標にどれだけ意義があるか、という疑問が付加されることになるが。

 

また統計が詐欺的なのは、他にもある。例えば昨今中国がアメリカのGDPを抜いたことが話題になっている。確かに、基本的にGDPが国際社会における影響力と明確に関連がある以上注目する事態ではある。

 

しかし、見落としてはならないのは、アメリカは中国の半分以下の人口でその数値をたたき出している。つまり、半分の人口で倍の生産力がある事を意味している。それはアメリカが未だに凄まじい強さを持っている、とも言えないだろうか。つまり、このデータは中国が強いと同時にアメリカも強い、という事を実際は意味している。(だがマスコミは中国がアメリカに迫っている危機だけをどうしてもニュース性から報じるし、この手のニュースは国民からすれば、芸能人のゴシップレベルの事実だけを読んで印象を持つ記事だろう。)

 

要するにデータとは常に相対的なもので、視点を変え、目的を変えれば変化し、要素を操れる非常に有機的で主観的なものであるのだ。実際は人々は詐欺師を専門家、データを無機的で絶対的なもの、と思い込み易いのだが、それはリテラシーの問題だろう。

 

そして、一方で先ほどのGDP成長率の予測数値が全くの不要のものかと言われればそうでもない。確かに正確な数値は出ることはないし、政府がこの指標を使用する意図が仮に消費税増税の根拠という目的は不純ではあっても、正確な数値は分からなくても、+か−か位は予想がつく。そして、−の場合、政策的にどのような手を打つか、という議論をすることができる。先ほど述べた統計データの相対性の概念である。

 

ここからは少し余談も入るが、これらの経済学的な予測は流体力学に用いられるナヴィエ=ストーク式に近いものを感じる。それは、ある一定の場所の空気や水の流れは多くの要素が複雑に絡み合い、ある一点におけるそれらの数値の予測を行うのが非常に困難で、方程式自体は解かれておらず、近似式を用いてしか実用にはまだ至っていない、という点が正に先ほど述べたような経済予測にそっくりだからだ。

 

思えば、LTCMは破綻したとは言え、未だにヨーロピアンオプションの価格を導出するためのブラック・ショールズモデルは有効であると言われる。そしてこの数式は物理学の波動方程式を元に作られている。非常に理科的な分野のものである。

 

実際、経済学とは高度に理系の分野にも関わらず、何故か文系に位置づけられるのが問題だとも言われる。基本的に高いレベルの数学・物理学のリテラシーを必要とすると言われるにも関わらず。(そして統計学も)

 

そこが基本的には文系大卒が占めるエコノミストたちを詐欺師化させている一つの要因ではないだろうか。すなわち、言っている本人も自分の言っていることをよく理解していないのである。(もちろん私は素晴らしく頭の切れる経済学者やエコノミストを何人も知っているから、全員ではないのもよく理解しているが)

 

実は同様の危惧は、先ほど少し触れた地震の予測についても当てはまる。もちろん、地震の予測は理科的な分類に入るだろうが、果たして本当にそれを研究している人々は基礎的なリテラシーが足りているのだろうか。

 

私は専門ではないから直感的な意見でしかないが、仮に地震の予測を立てる場合、先ほどの流体力学的な発想であろうから、数学と物理学、そしてベイズ統計とデータを読み解くセンス、そこに地震特有の地質学や地学、仮に宇宙からの影響もあるのだとしたら、物理学でも重力に関わる相対性理論や、月や太陽の事も知らなければならないはずだ。

 

だが、現状は基礎的な数学と物理学に地質学、地学で終わってしまっているのではないだろうか。そして仮に統計学をやっていたとしても、シルバーが言う様に、統計学は非常にセンスを問われる学問だが、私の知る限り統計のセンスを教えてくれる教師が地震の専門家の卵にレクチャーしているのを見た事はない。

 

地震の予測、というのは我々日本人にとって死活問題であり、国家的なプロジェクトであるべきだ。学問の世界とはとかく、学閥や頑固な領域の分担、俗世的な人間関係に成りがちだが、こだわりを捨て、日本の研究者は一丸となって取り組むべきではないだろうか。

 

そして、これは専門家ではない私の私見だから、大いに間違っているかもしれないが、地震の予測とは本質的に数学者の仕事に思える。そのため、気象学者や地質学者に幾ら予算を割いても、運任せのような気がする。

 

従って、政府は地震の予測モデルを国家プロジェクトにするなら、数学者を要請する、あるいは数学の研究資金を飛躍的に高めなくてはならない、と私は思う。

 

要するに、最後は無理矢理本ブログのテーマに持っていくが、プロジェクトを採択する政治家、特に総理、官邸にも、同様の基礎的なリテラシーが求められている、ということなのである。専門家の言うことはわからない、任せるなどの丸投げでは、一体何が問題解決の手段なのか、一向に見えてこないというものである。

 

と、今回はちょっとだけ数式使ったり理科系の専門用語を並べてみたり、ちょっと専門家っぽい書き方をしてみた。本質は知識を発散したいだけの、これがいわゆるちょっと詐欺に近い文章である

災害から読み取く日本人と欧米人の違い

欧米諸国は大陸にある。従って日本に比べ、地震は少ない。当然、津波も少ない。

 

そして彼らの歴史には自然災害で大きな打撃を受けたというものがない。最も大きかったのは病気、ペストであったが、それもペニシリンの発明によって克服した、と彼らは考えている。

 

基本的に西洋史の最大の脅威は人災。いつも東から来る侵略者、フン族モンゴル族といった騎馬民族たちであった。

 

逆に日本は、海に囲まれているため、歴史上侵略を受けたのは、600年代の白村江の戦いの後と1200年台の元寇の二回だけである。だが、日本は地震津波、そして富士山などの噴火という自然災害に長く苦しめられてきた。

 

従って、次の思考がこの両者の環境による違いから導ける。欧米人にとって、最も忌むべきは人災であり、自然災害は克服できるもの、あるいは未知のものである。逆に日本人にとって、自然災害とは克服し得ないもので、人災こそ未知のものである。

 

その結果、他にも幾つかの要因が重なってだが、欧米人は“人災”を防ぐための発明を数多くする。法律、戦略、契約、国際条約、そして兵器。兵器は人を殺すことはできても、地震を防ぐものではない。

 

もちろん、彼らは物理学、生物学、などあらゆる自然科学も発達させるが、その根底にあるのは自然は征服できる、というものではないだろうか。

 

これは少しこじつけの感が否めない論調かもしれないが、日本人は人災に関して免疫が弱い。徳川幕府は300年間問題こそあったにせよ、政権を維持し続けた。日本人の精神や内面のどこかには、権威、あるいは他者に対する信頼感、“性善説”がある。

 

それが見事に破られたのが、太平洋戦争時代の軍部の暴走ではないだろうか。

 

あるいは、昨今の政治不審について考えてみよう。

 

現れては消える政治家たちに不満を抱きつつも、自分たちの政治家を監視するシステムが健全ではないかもしれない、と疑うことはない。それは権力、あるいは人災に対して未知であり、不満はあるが、ある面どうしたら良いかわからない、という日本人の精神が見え隠れしなくもない。

 

法治国家という概念は決して日本からは生まれえなかったであろう。逆に欧米人は最後には自然を克服できるつもりでいる。

 

それは地球をロボット化し、天候や地形をコントロールする発明である。彼らは究極的には必ずそこに辿り着く。しかし、それが一時的にできたとしても、僅かなミスで全てを制御仕切れなかったとき、訪れるのは大きな破滅である。

 

ところで、先日映画で観た「インターステラー」というのが、私には話題となっている映像よりも、テーマの方が衝撃であった。

 

それはいつ終わるかもしれない世界で生きる人々の物語であった。

 

我々は普段そんなことを考えもしない。だが、実際はいつこの今ある世界が一瞬のうちに失われてもなんの不思議もない。

 

我々日本人は、そうした超起的な出来事、それは人災であれ自然災害であれ、いつか訪れる終焉に際し、欧米人とは違った思いを抱き、解決策を探るだろう。

 

その映画では、人々は新しい惑星を求めて宇宙に飛び立つ選択をしていた。人類は宇宙にも行ける、という欧米人らしい発想と言えば発想である。(監督のノーランはイギリス人とアメリカ人の子供である)

 

日本人ならどう考えるのだろうか。もちろん、日本人は座してあるがまま滅びを受け入れる民族、という対比をしたいのではない。

 

作中のDyran Thomasの詩にあるように

 

“Old age should barn and rave at close of day.”

 

人は終わりを前にしても、生に対してあがくだろう。そしてその生き様はあまりにも欧米人とは違う。だから彼らは理解できない日本人に対して驚異し、感嘆するのである。

 

日本人の精神を持って、ノーランのテーマで映画を作ったら、果たして結末はどうなるのだろうか。

統一地方選挙

告示があり、既に前半戦はスタートしたが、正直見所に欠ける。

 

10都市の知事選に関しては、現職に新人が挑むという構図で、現職が圧倒的に強いというケースばかりだからである。候補者2人、内1人が現職、もう片方が共産推薦という区も少なくはない。

 

今の日本の政治の仕組み上、国政で一国会議員をやるより、大きな都市の知事をやった方が、よほど色々なことができる。もっと多くの人材が知事選に出た方が面白いのではないか。

 

原発県の争点は殆ど原発問題だろう。残念ながら一市民目線では、争点らしいものは他には殆ど見当たらない。これは国政にも同じことが言えるのだが、そもそも地方再生や、地域の暮らしを豊かに、といったスローガンを掲げる候補者は馬鹿げている。

 

政治家にとってそれは当たり前の義務であり、わざわざ街頭で主張するようなことではない。政府の子供を育て易い国作りなども、原則当たり前の政策であって、やらない方がどうかしている。(意図的に人口を減らしたいのなら別だが)

 

また、議員定数削減の議論も馬鹿げている。多いか少ないかは都市の人工や抱える業務によりけりで、ただ減らせば良い、というような主張は有権者を馬鹿にしている。供託金も同様である。

 

話しをいったん原発に戻すが、原発反対派が仮に今回の選挙で勝っても、自民は原発を強引に再稼働するのではないだろうか。先日の菅官房長官の沖縄へのコメントを見ているとそういう雰囲気が漂っている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150404-00000002-asahi-pol

都市部に限定されるが、やや見所になり得るのは、山本太郎グループがそこそこの人数の候補者を立ててきているところか。

http://yamamototaro.org/crew/

 

小沢一郎と組んで初の選挙で、ここで勝ってくると、次回の都知事選挙などに影響を及ぼす可能性がある。

 

後は、大阪都構想を掲げる大阪での維新の動静だが、どうも市民と橋下代表とでは温度差があるのが否めない。都構想は一部の人間が儲かるだけだ、という市民の間である指摘を説得しきれていないのだろう。

だが、大阪における選挙の注目度は、他の選挙区とは一線を隠すだろう。維新もここで勝つなら、安定的な政党になるかもしれない。

Henry Kissinger Diplomacyからアメリカ外交の本質とは

面白いと思ったのは大きく二つ。

  • 近代的な外交という概念はフランスのリシュリューにより産まれ、本質はそこに遡る。
  • キッシンジャーの外交の方針は常にパワーバランスという概念があること

 

前者は本書の一読を勧める。本ブログで取り上げるのは後者である。キッシンジャーニクソンの時から安全保障に関する大統領の補佐官を務め、以後、アメリカの外交に多大な影響を及ぼしている。

 

キッシンジャーの頭の中を読み解けば、近代のアメリカ外交の本質も見えると言っても過言ではない。

 

まずは、ベトナム、冷戦におけるアメリカの根本的な考え方だ。

 

基本的にアメリカは資本主義者、民主主義者の国である。当時のアメリカ人が絶対的に恐れていたこと、それは自らの資本を失うこと、すなわち、アメリカの共産化、世界の共産化に他ならない。

 

そのためには、ソ連という大国を如何に封じ込めるか、それが当時の外交の大きな課題であった。

 

ここでキッシンジャーの勢力の均衡(balance of power)という概念が出てくる。

 

それは共産陣営と戦争になった場合、常にアメリカが勝利しなければならない、ということだ。

 

まず、ベトナム戦争はその概念で、ベトナムが共産化しないように起こした戦争である。(トンキン湾事件というのはアメリカが口実を作るためにCIAに工作をさせたものである)

 

何故、アメリカからあんな遠く離れた国にアメリカが干渉するのか?その答えが正に勢力の均衡、のためである。

 

ベトナムペルシャ湾からのシーレーンにあり、かつあそこが共産化した場合、隣の中国も併せて東南アジア一帯が、一気に共産化する可能性があった。そうすると、中東においても不利になり、一気に勢力の地図が塗り変わっていた可能性がある。

 

ここでキッシンジャーの思考の本質に迫るにはもう少し予備知識が必要となる。

 

キッシンジャーの頭の中には根本的に“地政学”がある。マハン、そしてマッキンダーといった海上のおける権力論、あるいはクラウゼビッツ、リデル・ハートなどの戦略論、そして彼がユダヤ人であることに起因しているであろう、深い世界史への洞察である。

 

これらの予備知識が抜けていると、キッシンジャーが根本的に何故そう考えるのか、という部分は理解できない。

 

何故シーレーンが重要なのか、あるいはベトナムを失うことが、長期的にアメリカが戦争に敗北する、という結論に辿り着けない。

 

キッシンジャーの頭にあったのは、ベトナムを失うことは、アメリカの権益にとって致命的になり得る、ということだ。そしてこの考え方は、基本的に今も何も変わっていない。

 

その権益とは何か? 

 

よく、中東での戦争介入をする理由は①石油②イスラエルと日本では報道されるが、実際は違う。①海上権益イスラエル③が石油である。断言しても良いが、アメリカはイスラエルがなくても中東で戦争をしている。そして、アメリカは石油の産出量は自給自足できるレベルで、石油欲しさに戦争はしない。しても代理戦争で間に合う。

 

その本質を抑えると、アメリカがクリミアをロシアに対して妥協するわけがないのもわかる。(台湾も同様である。)

 

クリミア単体でそれを見ていないからだ。かつてベトナム単体でそれを見ていないのと同様に。アメリカの外交史は殆ど戦争史だが、そのほぼ全てが海上の権力を獲得、維持するためにある。それが本質である。日本と戦争になった原因も実は海洋権益の勢力争いである。

 

それはつまり、ギリシャ、ローマ時代から歴史的に覇権とは要するに海上権益を握ることに他ならないからだ。それがすなわち、キッシンジャーの頭の中にあることである。

 

そして、アメリカの自由主義と資本主義を守り、拡げようとするその双方の目的も勿論、海上権益あっての話しであり、逆に自由主義を盾に海上権益を拡げる事も目的に適っている。

 

逆に言えば如何に中国の経済力が成長しようと、アメリカの海洋覇権が覆らない限り、中国が本質的にアメリカを抜くことはない。

 

そしてリシュリュー時代から、外交とはそのパワーバランスをコントロールするためのものであり、戦争も外交の一部となる。

 

そして、パワーバランスを保つためには、敵の敵は味方になり得る。その概念で同盟国を選ぶ。そして、外交というものは、驚くほどに無機的に、誰が考えても合理的な結論や、ナッシュ均衡的なものに落ち着く。

 

例えば、ドイツを封じ込めるために、イギリス、フランスは百年戦争も戦った以来犬猿の仲であったにも関わらず、同盟を結んだが、それは状況が再現されれば、時代を変えても同じことをする、ということだ。第一次、第二次大戦はそれを物語っている。

 

従って、リシュリューの時代の外交でも学ぶこと、アメリカの歴史的な外交政策の本質を学ぶことは、現代の日本、そしてこれからの国際情勢の外交の動きの予測を容易にする。

 

アメリカがどう動くか、例えば何故、尖閣と台湾では対応が異なると予想されるのか?

 

(つまり台湾が中国に帰属するような事態になれば、覇権は大きく動く。中国はこれを、プーチンがクリミアでやったことと同じようなやり方でやろうとするだろう。)

 

またその意味では、1990年代のユーゴスラビアはアメリカにとって非常に特殊な戦争だったと言える。ユーゴスラビア介入はクリントンの選挙政策のためだが、アメリカは自国の兵士が犠牲になると直ぐに撤退し、バルカン半島はより混乱を極めた。

 

そして、アメリカはルワンダの内戦、虐殺にも干渉しなかった。

 

何故、ユーゴやソマリアルワンダイラクアフガニスタンは違ったのか?そして冷戦が終わっても、アメリカはロシアの南下を嫌がる理由もよくわかる。

 

全てはキッシンジャー時代から何も変わらないアメリカの外交方針と、それよりも昔の1700年代、リシュリュー時代から続く、“外交”というものの本質から読み解ける。

 

今日のまとめ

  • アメリカが世界一豊かな国であるのは、覇権を握っているからだ。そして、覇権とは海上を支配していることに強く結びつく。
  • アメリカの外交はキッシンジャー以来、この海洋の権益を守る、という点で一貫している。それはアメリカの自由主義と資本主義を守り、拡げるという理念にも繋がる。そして戦争は外交の一手段である。
  • アメリカの対外的な戦争の理由の大半もこの海洋の権益というものに結びついている。

 

参考文献(より深く知りたい人のために)

Diplomacy  Henry Kissinger 

100年予測 ジョージ・フリードマン

海洋権力史論            マハン

デモクラシーの理想と現実 マッキンダー

 

成人年齢18歳問題と移民政策について

与党が成年の年齢を20歳から18歳にまで下げる方向で動いている。一体自民党にとって何のメリットがあるのか、まずはその何故?に迫ってみる。

 

まず、選挙そのものに関してである。基本的に選挙は世帯の特徴として、親の支持政党を子供が支持し易い、という相関関係がある。従って、現状自民党を支持する層が、野党より多いのであれば、選挙年齢を引き下げることは、より自民党を有利にすることになる。

 

基本的に18歳(20歳でもだが)では全くといっていいほど、政治的な知識は乏しく、選挙民の投票行動は概ね、周囲の情報、すなわちマスコミ、家族、友人で形成されることになるからだ。

 

もう一つの理由の方が実際は大きな理由だろう。労働力不足である。日本は2050年には高齢者の割合が4割以上という超超高齢化社会を迎えようとしているが、保守派の反対もあり、移民制度は整っておらず、深刻な労働力不足が予想される。

 

そこで成人年齢を引き下げて、労働力にしようというわけだ。ということは、政府は明言していないが、若者の間で意図的に経済的な格差を作ることになる。

 

そう考えれば、今後政府は学費の補助金などの支援にはあまり動かなくなるだろう。そんなに多くの若者が大学に行く必要はないからだ。

 

皮肉な事に、移民政策というものは推進すると、日本人全体での格差は縮小する。低所得で嫌な仕事は全て移民に押し付けてしまえるからだ。そして残った高収入の仕事を日本人が独占する。その一方で移民政策を取らない事は、日本人同士での格差が増大することを意味する。

 

(実際この辺の皮膚感覚は、公然と植民地や奴隷制度を経験していない、今の現代の日本人、特に若者には分かり辛いだろうが。)

 

つまり、移民を受け入れるか否かは、多くの政策に関連する。

 

(移民を受け入れない)

→日本人間の所得差は拡大する。学費援助は削られる。都道府県の格差が増大し、沖縄と北海道の独立リスクが高まる、それによりロシア・中国からの介入が高まる。生産拠点は海外に。

 

 

(移民を受け入れる)

→社会コストが上がる。日本人間の所得差は減る。学費援助政策が実行される。連邦制・合衆国制へ向かうためアメリカとの親和性が高くなる。製造業を日本に戻しやすくなる。

 

ザッと挙げたが、他にも多くの項目に波及する。国体の在り方に関わる重大な選択である。が、よく見てみればわかると思うが、どちらにしてもメリット・デメリットは存在し、どちらが良いとは一概には言えない。

 

それに日本人の一部が豊かで一部が貧困にあるのと、外国人を貧困にさせ日本人の多くは豊かでいるのと、どっちが良いか、などというものは現代ではなかなか答えを明言できない問題である。

 

しかし、今の所、政府は保守派自民が与党なだけあってか、前者の方、つまり移民を受け入れない方向をベースに政策を組み立てている。従って、既に沖縄などでは辺野古移設を巡って問題が起きているし、貧富の差も急速に拡大している。それは何も偶然ではない。

 

そして先ほども述べたが、この辺の政策の皮膚感覚を殆どの戦後の日本人は掴み難い。

 

高齢化なら移民を入れれば良い、否、入れると社会コスト(犯罪率の上昇により)が上がる、失業者が増えるなどといった断片的な安易な部分での論争に成りやすい。

 

その本質は、日本人の大半が、現状日本という国が如何に世界から搾取して豊かになっているか、ということを実感できないからだろう。それはシーレーンなどアメリカという世界の覇権国の権益を利用させてもらっているからで、間接的な関与が多いからだ。

 

この点、欧米人、特にイギリス人は伝統的に奴隷や植民地がなくては、自分たちが如何に貧しくなるか、というのを皮膚感覚で理解している。

 

従って、イギリス人から世界平和だとか、みんなで幸せになどといった議論や提案など大体聞いたことがない。彼らは自分たちの豊かさは他者の犠牲にあることをよく知っているからだ。ユートピア的な議論をしない。

 

その本質が掴めないと、移民問題に関する連鎖的な問題を理解できず、移民問題それだけの議論で終わってしまう。

 

さて、これを政局レベルの予測に還元すると、移民が増えることは、移民たちの権益を代表とする政党の形成も促すが、移民への反発も高まり、日本の既存の政党を再び右極、左極化させるということになる。とは言っても、圧倒的に日本人が大多数であろうから、右派、つまり自民党が政権を取る。

 

従って、矛盾しているが、短期的に見ると、移民を受け入れた方が、自民党は選挙に強くなる。現状の非移民政策は自民党は支持母体のためにやっているのだが、皮肉にも選挙だけで言えば、自らを弱体化させている。(浮動票が多い日本ならではの現象だが)

 

まぁ、長期的に移民の数が増え過ぎるとアメリカのように逆転してしまうのだが。

 

(ちなみに、移民を全く取らない、という政策はオリンピックがなければあったかもしれないが、もうこの際考える必要はないだろう。)

 

そして奴隷や植民地無しでも、人々が豊かに暮らすにはどうしたら良いか?私はそれを一生費やして追い続けたい。そしてそれは日本人にしか出来ないような気もするから。

映画Son of God と新約聖書をあれこれ語る回

先日映画Son of Godに行ってきた。キリスト教徒しか行かないであろう当映画だが、非クリスチャンの私でも充分楽しめた。

 

この映画は聖書に忠実ということでも話題だが、そもそも聖書とはなんですか?ということで、ややマニアックな聖書の話しを

 

ちなみに、世界史の問題でキリスト教の開祖は誰ですか?という質問が出た場合、普通はイエス・キリストと答えそうだが、実際はパウロが正解である。

 

新約聖書の構成は福音、使徒言行録、手紙、黙示録の四つで構成されているが、量的には福音と手紙で殆どを占める。そして、この手紙、例えばコリント人への手紙、ローマ人への手紙など、この手紙シリーズの作者も大体パウロである。内容は教えの他、お願いとか、脅迫に近いようなものもあるが、旧約聖書モーセがしたことに比べると大分穏やかな内容だ。

 

そしてパウロは12使徒ではなく、実際はイエスに会ったことがない。ここもあまり皆が知らないポイントだ。まめ知識として自慢できるぞ。

 

そして、イエスのいわゆる12使徒のうち、最後まで生き残るのはヨハネだけである。ヨハネは福音、手紙、黙示録の作者で(実際は違うとの諸説あるが)重要な使徒の1人で、映画でも物語の語り手として描かれている。他の使徒はユダを除き、全員が殉教する。

 

そして聖書のうち、重要な部分と思われる福音の話しをするが、福音はイエスの教えを述べたものであり、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つがある。一度聖書を読んだことがある人ならわかると思うが、実際この4つはほとんど内容が被っている。と言うのも元々、全ての福音がマルコをベースに作られており、残りの3つはマルコをベースにそれぞれ特徴がある。

 

まず、マタイの福音は最も内容が多く、細かい。そしてユダの自殺に言及しているのもマタイだけである。映画はユダの自殺が含まれているので、実際は本映画はマタイの福音をベースに、ヨハネを重要な視点人物に加え描いていると言える。

 

そして、ルカはイエスの救済観が主題に、そしてヨハネはかの有名な言葉、“初めに言葉ありき”という概念、つまりロゴスについて触れたものであり、ギリシャ哲学とも繋がりを持つ内容となっている。

 

ちなみにロゴスとは言葉を始めとする、表現されたもの、メディアのようなものと、考えてくれれば良いだろう。ちなみにプラトンの書籍にはこの概念が多用される。

 

私もよく分かっていない使徒言行録は飛ばすとして、聖書を知らない人間でも少しかすっているのが、大体巻末のヨハネの黙示録だろう。666とか世界の終わりとか、皆が大好きそうな、とてつもなく物騒で危ない話しは大体ここに収まっている。

 

ちなみに666とは古代ユダヤの数秘術ゲマトリアつまり、数字で名前を表す考え方において、サタンであり、当時の時代背景ではネロを意味すると言われる。何故ネロかと言えば、当時キリスト教徒を徹底的に弾圧したローマ皇帝で、キリスト教徒からすればサタンそのものであったからだろう。

 

よく、聖書とギリシャ神話を読むと、欧米人の思考体系がわかる、と言われるが、それは間違いなくイエスだろう。殆どのカトリックプロテスタントは必ず読んでいるものだから。

 

具体的にどこが?となると思うので一つ例を挙げると、キリスト教性悪説を取っている。だから、罪がある人間のために、法律であり裁判所であり、刑務所であり、警察である、というものが自然に産まれる。その罪をイエス・キリストが人々に代わって受けることによって、人々は救済される、それがキリスト教の本質である。

 

ちなみに性悪説の根拠は旧約聖書の「創世記」いわゆるアダムとイブの話しになるので、旧約聖書聖典とするユダヤ教性悪説を取っていることになる。

 

だが、日本人は宗教がないため、おおむね、価値観は自然法をベースにしていて、性善説性悪説は個々の価値観によるものが多いため、この辺の欧米人の統一的な思考観は時々馴染まないことがある。各々が“武士道”という高いモラルを持っていればそんなものは要らないだろう、と考えることができるからだ。

 

後半は、東洋哲学を専行する一欧米人が書いた比較研究のような内容になってしまったが、最後に聖書からの引用を幾つか。

 

“There is no fear in love”   

”God is love”

”We love because God first love us”

 

聖書には“愛”という言葉が多用されている。キリスト教は愛の宗教でもある。だから、欧米人の映画やドラマにはloveという言葉が多い・・・のかもしれない。