IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

人工知能へのイーロン・マスクの本当の懸念は何か?

イーロン・マスクとスティーブ・ホーキング博士Googleが特に押し進めている人工知能の計画に関して、汽笛を鳴らしている。

 

その警告の意味は、映画『ターミネーター』のようないわゆる「スカイネット」的なものを、ラリー・ペイジセルゲイ・ブリンは作ってしまうのではないか、ということを懸念している、と報道を見る限りそう感じてしまうのだが、それは細部を大幅に省略している。

 

特にイーロン・マスクが警告している問題点は「認識」や「観測」に関する事柄ではないだろうか。

 

すなわち、機械に人間を認識させるべきではない、ということだ。

 

(これは裏を返せば、現時点での世界最先端の人工知能、機械はまだそれ単体だけでは、人間を認識することができないということを意味している。)

 

機械に人間とは何か、というものを人間がまだ教えなくてはならないのだが、そもそも人間というものを人間自身が認識できていない。

 

しかし、一度入力してしまったデータを元に人工知能が動きだし、誤ったデータを元に学習し、何らかの実行をしてしまえばそれは深刻な事態を巻き起こす恐れがある。

 

それは人間の可能性や、未来を摘み取る恐れがある。導かれる全ての結論は今の人間の人間に対する認識に基づいたものであるが、その情報は既に不十分であり、更に未来の人間についての情報がまるでない。

 

それこそが、彼らが懸念する問題の本質であり、おそらく現時点における人工知能が抱える最先端の問題であると私は推察する。

 

人間が人間をまず認識できないのは、確かデカルトであったか、自己は自己を観察できない、という原則がまずあるからだろう。

 

であれば、むしろ、本当に自立した機械が存在するのならば、人は機械に観測する手段だけを与え、機械が認識する人間を人間として受け入れた時に、自己

 

を認識できることになる。我々が妄想する人工知能など、使い勝手はむしろそんな程度であろう。

 

人々は時に未来を想像する。それは当たる時もあれば外れる時もある。SF『マトリックス』のような機械による人間の支配、ジョージ・オーウェルの『1984』のような管理されたディストピア、あるいは『ガンダム』のような宇宙で暮らす人間の世界。

 

それらは全て、人間が人間を認識、あるいは観察して導かれたフィクションに過ぎない。だが、現実の未来は、機械は人よりも賢いが故に、人を支配しないかもしれない、人はそこまで愚かでないため、管理が行き過ぎた社会は壊されるかもしれない、人は宇宙で生存できるだけのエネルギー資源を、確保できないかもしれない。

 

映画や小説の影響もあるが、人間は同じ性質持つが故に、全世界の人間が同じような未来社会を、これが人間の未来社会の一つだと、思い込んでしまう習性がある。

 

だが、そう人間が基本的に当然だと思っている前提が真実ではないとしたら、その全ては覆り、全く違った社会が我々の未来には待っているだろう。

 

そして、自己は自己を計測できないという事が本当に真であるならば、そもそも人間が人間で構成される人間社会の未来など、人間のしたその予測の全ては外れることになる。

 

つまり、逆説的に言うのであれば、人工知能を生成することの最大の意味は、人間を観測すること、つまり機械を作ることはより人間を知ることに他ならない。

 

これは以前述べたように、人間のような不確実な事柄を処理できるコンピューターを作ろうとしたら、バイオの領域、すなわち人間を複製するホムンクルスでしかあり得ないことにも繋がる。

 

 

もう一つ、人工知能が人の知性を凌駕し、人が発明をするのではなく、あらゆるものを機械が代わりに創造するという、映画『トランセンデス』にも描かれた「シンギュラリティ」に関しても思う所がある。

 

仮にシンギュラリティが起きた場合、機械が創造しうる最高の発明はおそらく「人間」になるだろう。つまり人間が人間以上の機械を発明したとして、その機械が人間を産み出すというパラレルに陥ることになる。

 

だが、この繰り返しは矛盾しない。有機的な生命である人間が無機的な存在である機械を創造することに躍起になり、自らを全知全能とでも思い込むかもしれないが、元々人間を創造したのは機械とは言わないまでも、無機的な存在、つまりは宇宙そのものである可能性があるからだ。

 

人がする最後の発明が人工知能になるかもしれない。その説は間違ってはいないかもしれないが、それは振り出しに戻るに過ぎないのだ。

 

問題点があるとしたら、それを機械に委ねることで、人が真理から孤立し隔離されてしまう可能性だろう。機械が全てを代行する社会、それでしばしば問題とされるのは、人の堕落、機械による支配、そうしたものにフォーカスがいきがちだが、それは枝葉に過ぎない。

 

本質的に恐れるべきは、人が人を創造しうることができない段階で機械が人の理解できないものを理解し、人を創造してしまい、その理由の考察を人が諦めた時であろう。

 

その瞬間に、ディストピアSF小説のような未来、つまり人間が人間を認識しないまま、描き出してしまった未来が本当に訪れてしまうだろう。

 

この問題、理論ではなく、直感で捉えるなら、こちらこそが本質的な問題、すなわち人工知能に関する最大の問題なのだが、それに気づいている人間は果たしているのだろうか。

「文化」に関する考察と研究

現代社会において「文化」は支配的な影響力を持っている。資本主義社会において、「貨幣」に「価値」を付加しているのは文化である。

 

個人間においても、「尊敬」「愛情」「信頼」といったものの由来は全て文化から由来する。

 

そう言えるのは、文明や文化圏が変われば、「評価」の基準が変わるからだ。アフリカのある部族では男性は如何に高く飛べるかで男として評価されるが、ニューヨークにおいては、ハンサムの金髪、金持ちで高学歴、頭も肉体もマッチョかつユーモアのある男が評価される。そして評価は脳内で愛情へと変換される。

 

貨幣も我々の文明がこれは貨幣だと認識するから価値があるものであって、宇宙人に100ドル札を渡しても何の取り決めのなくては、ただの紙以下の価値しかおそらくないだろう。

 

すなわち、ものの「価値」や「評価基準」というものは、時代や場所によって変化するものであり、それはそれを使用する文化によって決定される。

 

個人間における文化と説得というものも面白い。とある日本の若者グループでは、金髪でピアスをした派手な服装をしていなければ、仲間に入れず、あるグループでは運動神経が高くないと、あるいは美しくないと、そのグループには所属できず、信頼もされない。そのグループの中では、話される話題も重要とされる問題も全く異なっている。

 

あるグループでは、どこどこの誰が強い、あるグループでは新作の化粧品について、あるグループでは昨日のプロ野球の試合結果が話題になる。

 

あるグループにはとって、他のグループの話題など興味もない、たわいもないものに感じるが、当事者たちにとってこれほど重要な問題はないと思って話されることもある。

 

日本の社会においては、男性は黒髪短髪の方がまともにみられ、女性は化粧をしなければならないが、国際社会においては様々な髪の色の人間が存在しており、それは人類の普遍的なものではなく、日本の社会が持つ一つの文化に過ぎない。

 

愛情の話しになるが、美しい人間は美しさを評価基準とする人間に対し、文化的な影響力を。お金持ちの人間はお金を評価基準とする人間に対し、文化的な影響力を持つ。すなわち、より多くの条件を備えたものの方がより多くの人間に対して説得力を有することになる。

 

しかし、全ての条件を備えた人間は存在せず、また個人が条件をどれほど揃えても、それ自体が原因で、例えば嫉妬のような感情により、文化的な支配力・説得力が存在しない事もあり得る。

 

従って、社会統治という観点からすると、支配のために能力や容姿とは異なる基準が必要となり、権威が生まれ、血統主義という御輿が誕生することになる。

 

宗教間における対立、戦争、または民族間における対立、紛争もその根底には文化の違いがある。

 

さて、幾つかの例を挙げてきたが、如何に我々が「文化」という概念の内にあり、それにより社会が成り立ち、問題も生じているかがお分かり頂けたであろうか。

 

これ程重大な論点にも関わらず、「文化」というものが「意識的に」人々の間で議論される事は少ない。大抵の場合、無意識的なものに終わっている。

 

なぜ私は美容よりもスポーツの話題を好むのか?経済よりも法律を好むのか?テニスよりもゴルフを優先するのか?AさんではなくBさんを愛するのか

 

同様に、何故嫌いなものが存在し、自分にとって嫌いなものもある人物は好きという場合が存在するのだろうか

 

それは生まれ育った環境やDNAだろうとの推測はできていても、個別の因果に関しては未知のままである。

村上春樹“職業としての小説家”を読んで with〜文章についておもうこと

初めに、私は村上春樹の小説を読んだことが一度もない。でも彼のファンである。

 

ファンになったきっかけはイスラエルで、氏がスピーチをした内容がきっかけであった。

 

自分が小説を書き続けるのは、人間がシステムのような無機的なものに囚われて人間らしさを損ねること、それと戦うために小説を書くのだ、と。

 

そのメッセージそのものと、それをイスラエルという場所で話した彼のセンスに痺れた。

 

だが、どういうわけか、小説の方は全く気が向かず、本書が自分にとって初の村上春樹著作の本と相成った。

 

読んでみて、なぜ村上春樹の本は日本で、世界でこんなに受けるのだろう?と浅い階層の部分は読み解けた気がした。

 

まず、文章自体が恐ろしくプレーンで短く、簡潔であること。

 

これは本人がそう意識して書いているようで、ハンガリーの作家アゴタ・クリストフという作家が同じような手法を用いて成功していて、その書き方を習ったものらしい。

 

簡単で、簡潔で平易な文章で書かれているものは当然読み易く分かり易い。幅広い層に読まれる本に当然になるわけだ。

 

だがそれだけでなく、自分が読んでいて感じたのは村上春樹の文章は日本のビジネスメールに“デザイン”が似ている。

 

自分にとって相手に気を使い、読み易くレイアウトする日本のビジネスメールはデザインという概念があるのだが、

 

それと同様の読み手への気遣いと、文章そのものへのデザイン性を感じた。

 

これも日本のビジネスパーソンと親和性が深いのではないだろうか。

 

もう一つは、一度英語で書いた文章を日本語に直して書いている、という点だろう。

 

当然氏の英語力は日本のどの作家よりも高いだろう。自分の伝えたいものを英語で書くこともできるし、より重要なのは、日本的なものを直接、自分の言葉で海外に伝えることができる。

 

例えば先にあげた簡潔かつ簡易的な文章には、読み手への思いやりが感じられる。

 

こういう文章の書き方はある意味日本独特であるのかもしれない。

そして、スピーチの内容でもそうだったが、村上春樹のメッセージは強い。そして明確だ。だが、それを感じさせない謙虚さがある。

 

こんな文章は日本人にしか書けない、とても日本的なそしてポップな作家だ。それが売れている理由なのでは、と分析家としての視点はそれであった。

 

ちなみに私も小説(その他諸々)を書く。むしろ文章家に成りたくて(政治を思う存分やりたくて)、とりあえず起業しようと思っているくらいだ。

 

なので、文章の書き方というには色々思うところがある。

 

ちなみに自分が好きなスタイルは、日本で言えば歴史小説家の童門冬二さん、宮城谷昌光さん、海外だとフランスの文豪バルザックの文章(翻訳だけど)である。

 

どちらもダイナミックで、迫力のある文章を書く。そして凄くダイレクトに愛や感情を感じる。(この辺が村上春樹小説に自分が惹かれない理由かもしれない。)たぶん凄く偏見に満ちているのだけど、そんなのどうでもいいよね、みたいな凄く男らしい書き方に感じる。

 

他にも面白いなと、思ったのはレオナルド・ダ・ヴィンチゲーテそしてドストエフスキーである。

 

ダ・ヴィンチは小説ではないし、手記を翻訳たものなので、文章というより手記から垣間見る彼のセンスなんだけど

 

ダ・ヴィンチの面白いところは、文章で“人間”をスケッチのように描いてしまっているところが天才性を感じられる。

 

普通は文章は人柄やメッセージを表していて、伝えたいものは感情だったり、事柄であったりするのだけど

 

ダ・ヴィンチは一つの文章に昔の錬金術的な地水風火

つまり、人間の肉体、精神、感情、自我という構成要素を

全て表現する文章を描いているように見えること。

 

彼にとっては文章も絵を書くことも、彫刻を彫るのも何も変わらないのだって、感じさせること。そして文章で伝えることが感情でも事柄でもなく、人間を描くって、ことをしている人って他に見た事なくて斬新さに心打たれた。

 

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟が東大生が勧める本ベストワン的なふれこみで、読まないといけないのかー的な発想で

 

買ってはみたものは正直、何で東大生がそんな熱くなるのかの理由は理解できず。ただ、推理小説であり、恋愛小説であり、あらゆる小説のジャンルが含まれているコンセプトは面白いと思った。有名なゾシマの独白の迫力も確かに凄い。でも一番面白いのはドストエフスキーゲーテ、特にファウストの影響をもろに受けていて

 

むしろ未だに解読されていない、ファウストの解読書的な位置づけとして、この本はあるのではないかと思った。

 

ゲーテファウストをあえて“完結させないこと”で明快なメッセージを発信したと言われているし、表現者としての表現の選択にやはり感銘を受ける。

 

(ちなみに村上春樹ドストエフスキーに印象を受けているが、ドストエフスキーに比べるとなんて自分は作家として才能がないのだ、と感じているらしい。それは事実だと思う。才能を感じさせる文章は圧倒的にドストエフスキーだ。この辺が才能という言葉に酔い易い東大生との親和性なのだろうか)

 

最近は自分は色々書き方で悩むことがあり

試行錯誤の繰り返しで

自分の書きたいように書くと分かり辛くなってしまう

だけど、分かりやすく書こうとすると自分の言葉を失ってしまうというジレンマがあり

 

改めて文章について考えるいい機会を与えてもらった。

 

言の葉も同様で

 

昔から自分は周りの汚い言葉使いに無理して合わせて不快な思いをしたり、自分の表現したい言葉がなかなか見つかなくて苦労したり、使いたい言葉がとても古い言葉で日常会話でなかなか使えなかったり

 

とにかく自分の言葉で喋ろうとするのだが、そこにある自分の持つ文化と、日本社会が持つ文化との間での親和性というものに最近どう折り合いをつけようかと日々悶々としております。

 

着地点を見つけるには暫し時がいるようですが、

 

やはり自分の言葉と文章を大事にし、

書き続けていきたいと思う次第でありました。

人工知能は人間生成にいきつくというパラドクス

人工知能がスタートアップ業界でも盛り上がりを見せている。

 

Googleが目指している、欲しい情報を的確に検索できるアルゴリズムの構築などももちろん人工知能の話しだろう。

 

人工知能に関しては

特にコンピュータ的な演算能力の拡張と、人間の持つような複合的な知性の再現するコンピューターの作成と二つのアプローチが取られているように思う。

 

あくまで推測だが、前者はグノシーなどが取り組んでいるであろうベイズ統計を用いて、アルゴリズムにこれまでの経験を随時学習させ精度をあげていくやりかたである。

(これも推測だが、Googleベイズ統計に加え、独自のアルゴリズムをプログラムして精度を上げている。おそらくはベイズに組み込む条件をより増やすプログラムか、人間の思考パターンのうち法則化できるものを法則化し、回帰分析も用いて確率的な精度を上げているのではないだろうか)

 

もう一方は原丈人氏などが発案する、全くアプローチを変えたコンピューターを作ること、すなわち、人間の思考により近い人工知能を作るためには、そもそも既存のコンピューターの枠から脱却しなくてはならない、という事である。

 

個人的には原丈人の言うように(だったと思うが)、既存のコンピューターコードを書くことによる人工知能アルゴリズムの生成は、不可能であると自分は考えている。

 

なぜならば、本質的に人間というものを考えると、コンピューター頭脳との違いは、人間の脳には「感情」が存在するからである。

 

そして、人間と同様の処理能力を持つコンピューターを作る、ということは本質的に人間を生成すること、すなわち、中世では錬金術、最近ではバイオと呼ばれる領域に関することになる。

 

そして、「感情」は「社会」と「言語」と一体不可分の存在であるため、人間に近い人工知能を作る場合は、そのコンピューターに、「感情」と「社会」と「言語」機能を付加する必要がある。

 

だが、それは最早人間と呼べないだろうか。

 

逆に考えてみると、感情のない生物は社会を形成しない。殺されても文句も言わない生き物が社会を形成し得るのか、というフィクション世界を想像してみればわかる。

 

言語(テレパシーも可)がなくては意志の疎通が図れないため、それも社会を構築しない。

 

そうすると、根本的な問題として、人工知能という極めて機械的なプロジェクトを追い続けることは、生物の創生という極めて生々しいテーマに最終的に着地することになる。

 

そう思うので、ITとか理論演算の畑で盛り上がりを見せる人工知能論というのは、いささか自分には奇怪に映る。

 

これは本来はバイオ、バイオ×ITで盛り上がるところではないのだろうかと。

 

スティーブ・ホーキングなどが警告するような、自己学習するコンピューターの危険性、いわゆるターミネータースカイネット的な話しも

 

仮によくあるSFアニメのようにコンピューターが人間を通して「社会」と「言語」を学んだとして、人間の持つような複雑な感情の変化を計算して、瞬間的な値を出せるような演算コンピューターが物理的に存在し得るのか。全くメモリ不足である。

 

そして、人間の脳の特徴は「間違える」ことにある。コンピューターの計算は基本的に間違えることはない。

 

それは逆説的に言えば、間違える余地のある機能がなければ、いわゆるカオス系、日常的日本人的な言い方をすれば「空気を読む」ということができないからであり、それは感情と密接に関連をしている。

 

つまり、コンピューターに感情を付加し得たとしても、それは人間になり、同時にコンピューターが得意とする絶対的な演算能力を失うことにならないだろうか。

 

なので、スカイネット的な恐怖というのは、結局のところ、人間がコンピューターにそういう権限を与えるか否かでしかないのではないか。

 

人間のような思考を持ち、コンピューターのような絶対的な演算能力を持つ人工知能を作る、というのは右に曲がりながら左へ曲がってくれと言っているようなもので

 

ただあくまでそれを作るなら

 

むしろ、「人間」「社会」「言語」「感情」の関係性を民族ごとや、国ごとに文化人類学的に比較し、そこから擬似的にパターン化できる項目を抽出して、コンピューターに付加していった方が面白そうなものができるような気が

 

すると、今度は文系領域の話しにもなる。

 

人工知能」というと、とてもサイバーな香りがするが、すごく生ものなのが実態ではないだろうか。

 

徴兵制及び自衛権に関する議論

この問題に関しては、政治家及び関係者の軍事リテラシーの低さが不安を煽っているように思う。

さすが、軍事防衛に関しては専門家を自称する石破茂氏の発言が妥当である。

http://www.sankei.com/politics/news/150620/plt1506200003-n1.html

今日的に徴兵制の意味はない、というのは、まず

核兵器を各国が所有していること

②日本が主に想定されるのは海戦であり、練度の低い徴兵された素人が出る幕などないこと

③既にアメリカやイスラエルなどの一流軍事国家はドローンなどの無人戦闘機を次世代の主力に位置付けており、既に人間の兵士を投入する、という考え方が時代にそぐわないということは挙げられる。

 

もちろんここまで、ざっくばらんな話は石破氏からはでないかもはしれないが、概ね彼の頭にあるのはこの辺りの話しであろう。

 

細野豪志少子高齢化で戦力が不測した場合、徴兵制といった議論は不安を煽るための戦術に過ぎない。

 

そもそも陸戦力が必要な場合は練度の低い素人がでるくらいなら、アメリカの民間軍事会社や、他国の傭兵といった選択肢もある。

 

しかし、日本が全く戦争に巻き込まれる余地がないか、日本が戦場になる可能性がゼロではないかと言われればそうではない。

 

可能性は限りなく低いが、それは中国による日本の本土侵略作戦である。

 

基本的に今の国際情勢で、中国とアメリカは台湾、中国と日本は尖閣で部分的に衝突する可能性がある。

 

その場合は海戦になるが、彼我の戦力差から考慮すると、どちらも日米の圧勝に終わる。それ程中国と日米は海軍力では開きがある。そもそも中国は海戦を経験していないため、素人とプロの戦闘になるだろう。

 

だが、将来的にアメリカの国力が落ちた場合、中国がロシアがクリミアにとったようなやり方で尖閣や台湾を取る恐れはある。

 

そして、中国が軍部に握られて巨大な軍事独裁国家となった場合、国内向けに日本に対する戦争を仕掛ける可能性はゼロではない。疲弊していれば、アメリカは助けに来ないだろう。

 

その場合、日本本土において中国軍とゲリラ戦になるような可能性がほぼ唯一のケースであると考える。

 

しかし、中国は北にロシア、南にベトナム、西にインドを抱えており、日本に主力を送れば最悪四方からの四正面作戦を強いられる事になる。しかも、インドとロシアは核を持っている。

 

この場合よほど日本がならずもの国家になっていない限り、日本に味方する国が少ないとは思わない。

 

中国がアメリカを圧倒していたとしても、中国にここまでのリスクを負うメリットはなにもない。

 

中国首脳が重んじるのはあくまで、メンツであり、太平洋戦争の借りを返したと示せるレベル、すなわち尖閣などの部分的な勝利で充分であり、日本を併合あるいは焦土化するような作戦行動を取るとは考え難い。

 

従って、実際は心配する必要性は少ないが、戦争は歴史を見る限りよくわからない理由で始まり、当事者たちの予想を超えた規模で拡大する事がある。従って全くゼロと断言はできないだろう。

 

しかしその場合は、将来における日本の防衛のために、核武装するか否か、というのが必要な議論であり、日本が危ないから徴兵制を取るという議論は全く見当違いなナンセンスなものである。

 

徴兵制ではないが可能性があるのは、現在のイスラエルのように、優れたゲーマーの若者をスカウトして、自衛隊が無人戦闘機部隊を運用する事である。この場合は徴兵制ではなく、それなりに良い給与を払っての雇用という形になるだろう。

 

現実的に近い将来あり得ることはもう一つある。戦争を知らない現在の若者は急速に右局化しつつある。平和でのほほんと生きている同世代に、不満を感じる人々は少なからず存在する。

 

近い将来徴兵制ではなく、自衛隊の予備役や大学の夏休みを利用した、自衛隊キャンプなどに、進んで若者が参加するようになるだろう。

 

日米の軍事的な連携が強まれば、アメリカが採用しているようなエリート兵士を養成するプログラムも拡充するだろう。

 

トレーニングを受ける人間の動機も様々で、おそらくタフな人材として良い企業への採用のためにキャンプに参加する学生もでるだろう。

 

将来的に起きる可能性が高いのはつまるところそんなものである。

 

もう一つ徴兵制があり得ない根拠として、ある国を見て考えることだ。韓国、イスラエル、スイスなど。いずれも陸上に敵国と接しているもしくは、侵略された過去がある国だ。そして総力戦やゲリラ戦になる恐れがある国だ。

 

海に囲まれ容易く人が往来できない日本に、彼らと同じ制度は必要ないのは一目瞭然である。

大阪都構想について

大阪都構想の本質的な問題は、大阪都にすることで、現在よりもどれだけ大阪が良くなるか示せなかった事にある。やってもやらなくてもそれほど変わらないのであれば、面倒だからやらない方がいいよね、というのが今回の民意の結論だと私は見ている。

 

ただこれは当たり前の話しである。府から都に変えた位で大阪経済圏が倍になって、所得が倍になるような話しであれば、全ての県が同じことをしようとするだろう。

 

つまり、大阪都構想で橋下代表が表現すべきところは、大阪がどれほど具体的に良くなるかではなかった。そんなものは語れば語る程つまらないものになるだけだ。

 

今の東京を見るがいい!何と腐敗し堕落し切ったことか!日本を変えるのは大阪の力しかない!位、夢に満ちた理想的な事を掲げるべきであったのだ。

 

ただ、ただの理想論を掲げるだけの姿勢に国民は民主党で辟易している。従って、そこに対しては現実的かつ具体的なビジョンを語らねばならない。

 

橋下が具体的に語るべきは地方再生による日本再生であった。そのため第一歩としての大阪都構想である、という大義を説明できなかった。というよりもそもそも彼自身はモラルに問題があり過ぎて大義を掲げることに最早説得力を失っていた。

 

つまり、維新は橋下を代表に据えなければ今の組織を維持できない、という現実と橋下であるが故にこれ以上いけない、という二つの矛盾した事実に直面していたのである。これは会社経営とも非常によく似た話しであり、企業で言えば結果的に優秀な後継者を連れて来られなかったことが最大の原因である。

 

橋下は夢である都構想に執着したが、実際それは橋下がやるべき仕事ではなかった。それに気づくべきだった。都構想が敗れたら辞めますではなく、都構想実現のために辞めておくべきだった。

 

ということは、逆に言えば、次の機会は大いにある。今国民が求めている政治家像は極めて明確だ。とてつもなくモラルの高い人物だ。国民の側はそうではないのに、なんと厚顔無恥な要求だ、とは思うが、それが現実だ。

 

地方から非常にモラルの高いリーダーが生まれ、その人物が地方再生と日本再生を主張した時、日本は変わる。それは繰り返し主張してきたことではあるが。

 

では何故その人物が見当たらないかと言えば、私は既に政界にいると思う。国民の側がその存在に気づいていないだけなのだと思う。

 

なぜ気づかないかと言えば、国民の価値観の方がまだ追いついていないからだ。とにかく金、金、利権。モラルや人間性で飯が食えるか!

 

それが大半の国民の無意識の意見だろう。

 

政治家とは国民の水準レベルしか出てこないのが原則である。モラルが低い集団はモラルの低い人物を代表に据える。企業と同じだ。そうしないと居心地が悪いからだ。

 

だが、少なからずモラルの高い人物が政界にいる、ということは少数派ながら、良心的な日本人、モラルの高い日本人も存在する、というわけだ。

 

後はこうしたモラルの高い集団が、現実的に経済力を確保しつつ、どう文化圏を拡げていくか、それが現在の日本が直面している最先端の政治課題だろう。

既に搾取されている日本

今回はエマニュエル・トッドのドイツ観に着想。

Amazon.co.jp| 「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告 (文春新書)| エマニュエル・トッド, 堀 茂樹| 本

 

業種にもよるが、ドイツ人は一月もの休暇を取ることができるが、日本人は一日の有給を取る事さえはばかられる。その説明はあくまで、日本の文化慣習によるものであると説明されてきたが、当然私が納得いくようなものではない。

 

より根本的な理由の一つとして、ドイツの方がロンドン標準時に近いことは確かにある。日本は地球の反対側にあり、ロンドンマーケットに時間を合わせるような仕事をしている場合、労働時間がいびつなものになる。

 

だが、本質的な原因というのは、日本が既にグローバル市場において、搾取する側でなく、される側にまわっているからだ、という事が事実であれば納得がいく。

 

まず、始めの原則として日本という国は太平洋戦争の後、徹底的に欧米によって価値観が破壊されてしまっている。

 

これは旧日本の価値観が優れていたからとか、今の欧米主義の全てが悪いというレベルの話しではなく、事実としてあの日を境に全く違う国になっている、という事である。

 

安倍晋三があんなにも安保に熱心なのは、彼はそこに気づいていて、心情としては実際にはここに根ざしているものがある。彼が持つ日本に対する愛や誇りというものは並々成らぬものがあり、ほぼ無意識に欧米主義に隷属し、拝金主義に陥っている大半の日本人など彼にとっては我慢のならない存在であろう。

 

その点は評価できるとしても、それならば彼の問題は想いを表現する表現力と、現実的に実現するために知性に乏しいことだろう。それが昨今の自衛権を巡るよくわからない、総理と国民の間の本質的な対立である。

 

総理の方が日本を愛し、誇りがある。大半の日本国民の方が、プライドがない俗物である。だが、残念ながら国民の方が俗物であるが故に現実的で理性的なのだ。

 

この問題は唯一、司法界だけが誠実で現実的な主張をしている。

 

話しを戻すが、日本の収奪というのは実際にこの時に始まっているが、朝鮮戦争を機に日本は、アメリカと共にアジア諸国を搾取する側に転じる。これが一つの高度成長期とバブル経済の本質である。

 

それらの過程があった上で今、何が起きているかと言えば、エマニュエル・トッドの指摘によるまずドイツによるヨーロッパ諸国への搾取だ。(アメリカによる中南米に対する搾取も同様にずっと続いているが)

 

何故ドイツ人は労働時間が少なくかつ、高い賃金を維持できるか?これは基本的にアメリカも同じだが、それは他国の労働者を搾取、あるいは自国の低賃金労働者を搾取できているから成り立つのである。(もちろんドイツにもアメリカにも日本人より働くエグゼクティブは存在する。だが、その給与は桁違いである。)

 

どちらも多数の移民を抱えている。アメリカは主にメキシコから流入してくるヒスパニックであり、ドイツは東欧から来るスラブ系の労働者である。

 

それに対して、日本は搾取すべき他民族というのはほとんど選択肢がない。「学歴社会」という意図的な貧困層、つまり昔と変わらない「えた・ひにん」システムを自国民の間で作り出しているが、手厚い社会保障と高い教育水準に守られて、ドイツやアメリカほどの格差社会を今の所は形成できていない。(だから今その方向に向かっている。)

 

そうすると、中間層、つまり労働者から搾取する、という現象が現在の日本には起こっている。つまり年収400万〜2000万、ある意味欧米では搾取する側になっている層も搾取される側になっており、それに国民が気づいていない、という真に愚かしい現象が起きている。

 

自分が搾取する側であり、される側でありそれに気づいていない、というのは日本人の一つの特徴であろう。

 

だが、何故日本人が最近になって搾取される側にまわったか?その理由の一つが、アメリカの凋落とドイツの台頭(あるいはそしてASEANの先進国化、中国の経済大国化)があるのではないかと暗に指摘したくて、氏はこの本を日本に向けて上納したのではないだろうか。

 

要するに日本人は長く働かなければ、今の経済力を維持できない。より多くの労働者を動員しなければ、経済大国として搾取する側にまわることができない。そのように追いつめられているというわけだ。

 

ではその本質的な原因とは何か、と言えばそれは佐藤優も繰り返し指摘しているように、各国が急速に帝国主義化しており、ブロック経済圏を構築し、それ以外のものを閉め出そうとしていること。同時にピケティの言うように、1%の人口に富が集中し過ぎていて、分配機能が全く破綻していることにあるだろう。

 

「食うか食われるかの嫌な時代になってきた。」そう佐藤優氏が呟いていたが、その片鱗が休めない労働環境なのだろう。そこに何人の日本人が気づいているのだろうか?

 

ここで私は、あるいはトッド氏は日本にドイツのようになれ、とかあるいはかつてそうしてきたことを復活させろ、と言いたいのではない。

 

日本がすべきことはそうした事に対するアンチテーゼを投げかけることだ。

 

それが日本の国際社会における本質的な立ち位置であるのだから、大半の日本人の無意識な欧米拝金主義への妄信など愚の骨頂であると言わざるを得ないだろう。