IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

人工知能は人間生成にいきつくというパラドクス

人工知能がスタートアップ業界でも盛り上がりを見せている。

 

Googleが目指している、欲しい情報を的確に検索できるアルゴリズムの構築などももちろん人工知能の話しだろう。

 

人工知能に関しては

特にコンピュータ的な演算能力の拡張と、人間の持つような複合的な知性の再現するコンピューターの作成と二つのアプローチが取られているように思う。

 

あくまで推測だが、前者はグノシーなどが取り組んでいるであろうベイズ統計を用いて、アルゴリズムにこれまでの経験を随時学習させ精度をあげていくやりかたである。

(これも推測だが、Googleベイズ統計に加え、独自のアルゴリズムをプログラムして精度を上げている。おそらくはベイズに組み込む条件をより増やすプログラムか、人間の思考パターンのうち法則化できるものを法則化し、回帰分析も用いて確率的な精度を上げているのではないだろうか)

 

もう一方は原丈人氏などが発案する、全くアプローチを変えたコンピューターを作ること、すなわち、人間の思考により近い人工知能を作るためには、そもそも既存のコンピューターの枠から脱却しなくてはならない、という事である。

 

個人的には原丈人の言うように(だったと思うが)、既存のコンピューターコードを書くことによる人工知能アルゴリズムの生成は、不可能であると自分は考えている。

 

なぜならば、本質的に人間というものを考えると、コンピューター頭脳との違いは、人間の脳には「感情」が存在するからである。

 

そして、人間と同様の処理能力を持つコンピューターを作る、ということは本質的に人間を生成すること、すなわち、中世では錬金術、最近ではバイオと呼ばれる領域に関することになる。

 

そして、「感情」は「社会」と「言語」と一体不可分の存在であるため、人間に近い人工知能を作る場合は、そのコンピューターに、「感情」と「社会」と「言語」機能を付加する必要がある。

 

だが、それは最早人間と呼べないだろうか。

 

逆に考えてみると、感情のない生物は社会を形成しない。殺されても文句も言わない生き物が社会を形成し得るのか、というフィクション世界を想像してみればわかる。

 

言語(テレパシーも可)がなくては意志の疎通が図れないため、それも社会を構築しない。

 

そうすると、根本的な問題として、人工知能という極めて機械的なプロジェクトを追い続けることは、生物の創生という極めて生々しいテーマに最終的に着地することになる。

 

そう思うので、ITとか理論演算の畑で盛り上がりを見せる人工知能論というのは、いささか自分には奇怪に映る。

 

これは本来はバイオ、バイオ×ITで盛り上がるところではないのだろうかと。

 

スティーブ・ホーキングなどが警告するような、自己学習するコンピューターの危険性、いわゆるターミネータースカイネット的な話しも

 

仮によくあるSFアニメのようにコンピューターが人間を通して「社会」と「言語」を学んだとして、人間の持つような複雑な感情の変化を計算して、瞬間的な値を出せるような演算コンピューターが物理的に存在し得るのか。全くメモリ不足である。

 

そして、人間の脳の特徴は「間違える」ことにある。コンピューターの計算は基本的に間違えることはない。

 

それは逆説的に言えば、間違える余地のある機能がなければ、いわゆるカオス系、日常的日本人的な言い方をすれば「空気を読む」ということができないからであり、それは感情と密接に関連をしている。

 

つまり、コンピューターに感情を付加し得たとしても、それは人間になり、同時にコンピューターが得意とする絶対的な演算能力を失うことにならないだろうか。

 

なので、スカイネット的な恐怖というのは、結局のところ、人間がコンピューターにそういう権限を与えるか否かでしかないのではないか。

 

人間のような思考を持ち、コンピューターのような絶対的な演算能力を持つ人工知能を作る、というのは右に曲がりながら左へ曲がってくれと言っているようなもので

 

ただあくまでそれを作るなら

 

むしろ、「人間」「社会」「言語」「感情」の関係性を民族ごとや、国ごとに文化人類学的に比較し、そこから擬似的にパターン化できる項目を抽出して、コンピューターに付加していった方が面白そうなものができるような気が

 

すると、今度は文系領域の話しにもなる。

 

人工知能」というと、とてもサイバーな香りがするが、すごく生ものなのが実態ではないだろうか。

 

徴兵制及び自衛権に関する議論

この問題に関しては、政治家及び関係者の軍事リテラシーの低さが不安を煽っているように思う。

さすが、軍事防衛に関しては専門家を自称する石破茂氏の発言が妥当である。

http://www.sankei.com/politics/news/150620/plt1506200003-n1.html

今日的に徴兵制の意味はない、というのは、まず

核兵器を各国が所有していること

②日本が主に想定されるのは海戦であり、練度の低い徴兵された素人が出る幕などないこと

③既にアメリカやイスラエルなどの一流軍事国家はドローンなどの無人戦闘機を次世代の主力に位置付けており、既に人間の兵士を投入する、という考え方が時代にそぐわないということは挙げられる。

 

もちろんここまで、ざっくばらんな話は石破氏からはでないかもはしれないが、概ね彼の頭にあるのはこの辺りの話しであろう。

 

細野豪志少子高齢化で戦力が不測した場合、徴兵制といった議論は不安を煽るための戦術に過ぎない。

 

そもそも陸戦力が必要な場合は練度の低い素人がでるくらいなら、アメリカの民間軍事会社や、他国の傭兵といった選択肢もある。

 

しかし、日本が全く戦争に巻き込まれる余地がないか、日本が戦場になる可能性がゼロではないかと言われればそうではない。

 

可能性は限りなく低いが、それは中国による日本の本土侵略作戦である。

 

基本的に今の国際情勢で、中国とアメリカは台湾、中国と日本は尖閣で部分的に衝突する可能性がある。

 

その場合は海戦になるが、彼我の戦力差から考慮すると、どちらも日米の圧勝に終わる。それ程中国と日米は海軍力では開きがある。そもそも中国は海戦を経験していないため、素人とプロの戦闘になるだろう。

 

だが、将来的にアメリカの国力が落ちた場合、中国がロシアがクリミアにとったようなやり方で尖閣や台湾を取る恐れはある。

 

そして、中国が軍部に握られて巨大な軍事独裁国家となった場合、国内向けに日本に対する戦争を仕掛ける可能性はゼロではない。疲弊していれば、アメリカは助けに来ないだろう。

 

その場合、日本本土において中国軍とゲリラ戦になるような可能性がほぼ唯一のケースであると考える。

 

しかし、中国は北にロシア、南にベトナム、西にインドを抱えており、日本に主力を送れば最悪四方からの四正面作戦を強いられる事になる。しかも、インドとロシアは核を持っている。

 

この場合よほど日本がならずもの国家になっていない限り、日本に味方する国が少ないとは思わない。

 

中国がアメリカを圧倒していたとしても、中国にここまでのリスクを負うメリットはなにもない。

 

中国首脳が重んじるのはあくまで、メンツであり、太平洋戦争の借りを返したと示せるレベル、すなわち尖閣などの部分的な勝利で充分であり、日本を併合あるいは焦土化するような作戦行動を取るとは考え難い。

 

従って、実際は心配する必要性は少ないが、戦争は歴史を見る限りよくわからない理由で始まり、当事者たちの予想を超えた規模で拡大する事がある。従って全くゼロと断言はできないだろう。

 

しかしその場合は、将来における日本の防衛のために、核武装するか否か、というのが必要な議論であり、日本が危ないから徴兵制を取るという議論は全く見当違いなナンセンスなものである。

 

徴兵制ではないが可能性があるのは、現在のイスラエルのように、優れたゲーマーの若者をスカウトして、自衛隊が無人戦闘機部隊を運用する事である。この場合は徴兵制ではなく、それなりに良い給与を払っての雇用という形になるだろう。

 

現実的に近い将来あり得ることはもう一つある。戦争を知らない現在の若者は急速に右局化しつつある。平和でのほほんと生きている同世代に、不満を感じる人々は少なからず存在する。

 

近い将来徴兵制ではなく、自衛隊の予備役や大学の夏休みを利用した、自衛隊キャンプなどに、進んで若者が参加するようになるだろう。

 

日米の軍事的な連携が強まれば、アメリカが採用しているようなエリート兵士を養成するプログラムも拡充するだろう。

 

トレーニングを受ける人間の動機も様々で、おそらくタフな人材として良い企業への採用のためにキャンプに参加する学生もでるだろう。

 

将来的に起きる可能性が高いのはつまるところそんなものである。

 

もう一つ徴兵制があり得ない根拠として、ある国を見て考えることだ。韓国、イスラエル、スイスなど。いずれも陸上に敵国と接しているもしくは、侵略された過去がある国だ。そして総力戦やゲリラ戦になる恐れがある国だ。

 

海に囲まれ容易く人が往来できない日本に、彼らと同じ制度は必要ないのは一目瞭然である。

大阪都構想について

大阪都構想の本質的な問題は、大阪都にすることで、現在よりもどれだけ大阪が良くなるか示せなかった事にある。やってもやらなくてもそれほど変わらないのであれば、面倒だからやらない方がいいよね、というのが今回の民意の結論だと私は見ている。

 

ただこれは当たり前の話しである。府から都に変えた位で大阪経済圏が倍になって、所得が倍になるような話しであれば、全ての県が同じことをしようとするだろう。

 

つまり、大阪都構想で橋下代表が表現すべきところは、大阪がどれほど具体的に良くなるかではなかった。そんなものは語れば語る程つまらないものになるだけだ。

 

今の東京を見るがいい!何と腐敗し堕落し切ったことか!日本を変えるのは大阪の力しかない!位、夢に満ちた理想的な事を掲げるべきであったのだ。

 

ただ、ただの理想論を掲げるだけの姿勢に国民は民主党で辟易している。従って、そこに対しては現実的かつ具体的なビジョンを語らねばならない。

 

橋下が具体的に語るべきは地方再生による日本再生であった。そのため第一歩としての大阪都構想である、という大義を説明できなかった。というよりもそもそも彼自身はモラルに問題があり過ぎて大義を掲げることに最早説得力を失っていた。

 

つまり、維新は橋下を代表に据えなければ今の組織を維持できない、という現実と橋下であるが故にこれ以上いけない、という二つの矛盾した事実に直面していたのである。これは会社経営とも非常によく似た話しであり、企業で言えば結果的に優秀な後継者を連れて来られなかったことが最大の原因である。

 

橋下は夢である都構想に執着したが、実際それは橋下がやるべき仕事ではなかった。それに気づくべきだった。都構想が敗れたら辞めますではなく、都構想実現のために辞めておくべきだった。

 

ということは、逆に言えば、次の機会は大いにある。今国民が求めている政治家像は極めて明確だ。とてつもなくモラルの高い人物だ。国民の側はそうではないのに、なんと厚顔無恥な要求だ、とは思うが、それが現実だ。

 

地方から非常にモラルの高いリーダーが生まれ、その人物が地方再生と日本再生を主張した時、日本は変わる。それは繰り返し主張してきたことではあるが。

 

では何故その人物が見当たらないかと言えば、私は既に政界にいると思う。国民の側がその存在に気づいていないだけなのだと思う。

 

なぜ気づかないかと言えば、国民の価値観の方がまだ追いついていないからだ。とにかく金、金、利権。モラルや人間性で飯が食えるか!

 

それが大半の国民の無意識の意見だろう。

 

政治家とは国民の水準レベルしか出てこないのが原則である。モラルが低い集団はモラルの低い人物を代表に据える。企業と同じだ。そうしないと居心地が悪いからだ。

 

だが、少なからずモラルの高い人物が政界にいる、ということは少数派ながら、良心的な日本人、モラルの高い日本人も存在する、というわけだ。

 

後はこうしたモラルの高い集団が、現実的に経済力を確保しつつ、どう文化圏を拡げていくか、それが現在の日本が直面している最先端の政治課題だろう。

既に搾取されている日本

今回はエマニュエル・トッドのドイツ観に着想。

Amazon.co.jp| 「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告 (文春新書)| エマニュエル・トッド, 堀 茂樹| 本

 

業種にもよるが、ドイツ人は一月もの休暇を取ることができるが、日本人は一日の有給を取る事さえはばかられる。その説明はあくまで、日本の文化慣習によるものであると説明されてきたが、当然私が納得いくようなものではない。

 

より根本的な理由の一つとして、ドイツの方がロンドン標準時に近いことは確かにある。日本は地球の反対側にあり、ロンドンマーケットに時間を合わせるような仕事をしている場合、労働時間がいびつなものになる。

 

だが、本質的な原因というのは、日本が既にグローバル市場において、搾取する側でなく、される側にまわっているからだ、という事が事実であれば納得がいく。

 

まず、始めの原則として日本という国は太平洋戦争の後、徹底的に欧米によって価値観が破壊されてしまっている。

 

これは旧日本の価値観が優れていたからとか、今の欧米主義の全てが悪いというレベルの話しではなく、事実としてあの日を境に全く違う国になっている、という事である。

 

安倍晋三があんなにも安保に熱心なのは、彼はそこに気づいていて、心情としては実際にはここに根ざしているものがある。彼が持つ日本に対する愛や誇りというものは並々成らぬものがあり、ほぼ無意識に欧米主義に隷属し、拝金主義に陥っている大半の日本人など彼にとっては我慢のならない存在であろう。

 

その点は評価できるとしても、それならば彼の問題は想いを表現する表現力と、現実的に実現するために知性に乏しいことだろう。それが昨今の自衛権を巡るよくわからない、総理と国民の間の本質的な対立である。

 

総理の方が日本を愛し、誇りがある。大半の日本国民の方が、プライドがない俗物である。だが、残念ながら国民の方が俗物であるが故に現実的で理性的なのだ。

 

この問題は唯一、司法界だけが誠実で現実的な主張をしている。

 

話しを戻すが、日本の収奪というのは実際にこの時に始まっているが、朝鮮戦争を機に日本は、アメリカと共にアジア諸国を搾取する側に転じる。これが一つの高度成長期とバブル経済の本質である。

 

それらの過程があった上で今、何が起きているかと言えば、エマニュエル・トッドの指摘によるまずドイツによるヨーロッパ諸国への搾取だ。(アメリカによる中南米に対する搾取も同様にずっと続いているが)

 

何故ドイツ人は労働時間が少なくかつ、高い賃金を維持できるか?これは基本的にアメリカも同じだが、それは他国の労働者を搾取、あるいは自国の低賃金労働者を搾取できているから成り立つのである。(もちろんドイツにもアメリカにも日本人より働くエグゼクティブは存在する。だが、その給与は桁違いである。)

 

どちらも多数の移民を抱えている。アメリカは主にメキシコから流入してくるヒスパニックであり、ドイツは東欧から来るスラブ系の労働者である。

 

それに対して、日本は搾取すべき他民族というのはほとんど選択肢がない。「学歴社会」という意図的な貧困層、つまり昔と変わらない「えた・ひにん」システムを自国民の間で作り出しているが、手厚い社会保障と高い教育水準に守られて、ドイツやアメリカほどの格差社会を今の所は形成できていない。(だから今その方向に向かっている。)

 

そうすると、中間層、つまり労働者から搾取する、という現象が現在の日本には起こっている。つまり年収400万〜2000万、ある意味欧米では搾取する側になっている層も搾取される側になっており、それに国民が気づいていない、という真に愚かしい現象が起きている。

 

自分が搾取する側であり、される側でありそれに気づいていない、というのは日本人の一つの特徴であろう。

 

だが、何故日本人が最近になって搾取される側にまわったか?その理由の一つが、アメリカの凋落とドイツの台頭(あるいはそしてASEANの先進国化、中国の経済大国化)があるのではないかと暗に指摘したくて、氏はこの本を日本に向けて上納したのではないだろうか。

 

要するに日本人は長く働かなければ、今の経済力を維持できない。より多くの労働者を動員しなければ、経済大国として搾取する側にまわることができない。そのように追いつめられているというわけだ。

 

ではその本質的な原因とは何か、と言えばそれは佐藤優も繰り返し指摘しているように、各国が急速に帝国主義化しており、ブロック経済圏を構築し、それ以外のものを閉め出そうとしていること。同時にピケティの言うように、1%の人口に富が集中し過ぎていて、分配機能が全く破綻していることにあるだろう。

 

「食うか食われるかの嫌な時代になってきた。」そう佐藤優氏が呟いていたが、その片鱗が休めない労働環境なのだろう。そこに何人の日本人が気づいているのだろうか?

 

ここで私は、あるいはトッド氏は日本にドイツのようになれ、とかあるいはかつてそうしてきたことを復活させろ、と言いたいのではない。

 

日本がすべきことはそうした事に対するアンチテーゼを投げかけることだ。

 

それが日本の国際社会における本質的な立ち位置であるのだから、大半の日本人の無意識な欧米拝金主義への妄信など愚の骨頂であると言わざるを得ないだろう。

環境問題の本質的な論点②各論

次に枝葉のエコなどの問題に移る。

 

これは私から言わせれば優先順位や問題が倒錯している場合が多い。

 

例えば昨今ニュースでイルカの追い込みが可哀想だとか、古くから日本は捕鯨の禁止を道徳的な理由でアメリカや動物愛護団体のような輩から批判を受ける。

 

だが、私に言わせれば毎年何万頭もの豚や牛をホルモン注射で薬付けにして屠殺している方がよほど非人道的に思う。

 

イルカやクジラは牛や豚に比べると可愛いから非人道的だからとでも言うのであろうか。ちなみに、豚は大変知能が高い生き物で人間の5歳児程度の知能は有するらしい。

 

知能や外見ではないのだとしたら、政治的な理由と単なる感情論以外にイルカやクジラと牛や豚をわける垣根が見出し難い。いや、もしかすると合理的な理由があるかもしれないが、そこは議論し尽くされているとは言い難い。

 

更に言えば、動物と植物はどうだろうか?動物が可愛そうだからベジタリアンになるという人々がいるそうだが、植物も動物も同じ生き物である。生殖方法などに違いはあるだろうが、同じ命である。その差が明確に議論されないまま、感情論や雰囲気だけでこの両者も区別され、一方だけは無尽蔵に刈り取ることが許されている。

 

そして、極論を言えば、植物を命だから食べない、と言っていたら我々が死んでしまう。人は生きている限り大なり小なり他の生き物から命を奪う。その事実から逃げることはなんの問題解決にもならないのではないか。

 

そして、犬や猫の保護を訴える団体もいる。確かに犬や猫の命を決して祖末にしてはいいとは思わないが、食べるのに困り日々餓死する人間がいる現実世界の中で、本当に人間の命よりも犬猫の命を優先すべきなのだろうか。

 

これも答えの見出し難い問いである。

 

また、昔後輩がオンラインでNPO法人への寄付を募るwebサービスを実施している時があった。webページの写真や文章から寄付の相手を選んで自由に寄付ができる仕組みであるが、後輩曰く、貧しい日本人の子供よりもアフリカの貧しい子供たちの方が、寄付が集まり易いという。

 

彼は私にその理由がわかるか尋ねてきたが、私は未だにその後輩の問いに明確な回答が出せずにいる。

 

こうした問題の倒錯は一つには概ね無知からくるものが多い。その無知とは、人間に対する理解、そして現実に起こりえていることへの理解である。

 

人間に対する理解、それは裏を返せば動植物との違いである。かつてこれをテーマに研究した人物はゲーテである。「形態学」という分野を産み出し、鉱物、植物、動物を研究し、主に骨格形成などから人間と動物の違いを明確にしようとした。

 

が、現代社会ではこうしたテーマは日の目を見ることは殆どない。これ程重要なテーマもないと思うのだが、資本主義社会ではしばしばこうした収益性に乏しい研究テーマは日の目を見ることはない。

 

人間がどういう存在であるか、その理解を少しでも深めれば、他の生き物とどう付き合えば良いか、あるいは人としてどう生きるべきか、また地球上における人間の役割のようなものも、少しは見出し得るとは思うのだが。

 

もう一つは、世界が広いため、その選択肢の全てを把握しきれない、ということだ。同じ1000円があったとして、その1000円の人類に対する使い方として、全ての選択肢を把握して最適化することは難しい。

 

そして、自分が克服した、自分と同じ病に苦しんでいる人間がいたら、他の病気にかかっている人よりも応援したくなるのは人間の心情としてはあるだろう。

 

それは全く至極当然のことかもしれないが、人間は驚くほど、自身では気がつかない程、自身の経験や体験、そして感情に左右され易く、それはしばしば素晴らしく作用することもあれば、議論の方向性を見失うこともある。

 

こうしたことから分かる様に、環境問題というのは、多岐に渡って答えが見出し難い問題が多い。議論をするレベルに人類が到達していない、と言っていいだろう。まだその時期に差し迫ってもいない、とも言える。だが、それはいずれ突きつけられる事になるだろう。その瞬間にまだいない事は、実際は幸運なのかもしれない。(いずれ命に明確に順序をつける意思決定に迫られることになるという意味である。)

 

その時期に達していないのに、これ程答えの見出し難いテーマの問題が国家、個人を問わずまとまるはずがない。まとまる方がハッキリ言って正気ではない。それが環境問題ではないか。

 

最後に、私個人の死生観に触れるが、私はカスタネダの死生観に大変な印象を受けた事がある。

 

ハンターが獲物を狙い、刈り取り、その動物の命は尽きる。この死は突然のものであり、全く不条理なものだ。

 

そして先祖たちの多大な努力により、人類は驚く程自然や「死」そのものから守られてはいるが、根本的なものは何も変わっていない。

 

全ての命は一瞬で何の理由もなく終わることがある。それは人であれ、虫けらであれ、自分自身であれ何も変わらない。不条理な死というものから逃れられない、という点において、全ての生き物は等しいというものだった。

 

私はこの話しを聞いた時に、如何に自分が傲り高ぶっていたか思い知らされたものだった。

 

だが、その一方で、福沢諭吉先生が言う様に、人間は動物ではない。気高く、品格を持って生きることができる生き物である。だから動物にはできないことを為していかねばならない、そう思うのである。

 

「命」としては全ての生命は、死に対して等しくとも、「存在」としては他の生物には為し得ない事ができるのではないか。そう常々考えている。

 

人間はしばしばこの二つを混同して考えるため、根拠のない傲慢さや悲観さに囚われることがある。だが、そうではない、全て一律で考える必要など何もないのだ。

 

もっと日常的な事柄を例にすれば、社会人として優秀であるからといって、人間として優れているとは限らない。男性あるいは女性として魅力的であっても、いい親になれるとは限らない。頭が良くても、運動神経は乏しいかもしれないし、その全てに優れていても、愛情が得られるとも限らない。

 

全てが一律などはあり得ない。傲慢さも悲観さも己に対する無知から生じるのである。何かができるからといって傲慢になることも、何かができないからといって悲観することも、本来はないはずなのである。何故なら人間は常にそのどちらでもあるのだから。

 

(観測点が変われば、という点でこれはまさに相対性理論を人間の精神を分析する際に適用した場合に観測できる事柄であることは示唆があるのではないか。そして種として全体から見た人の生死の決定には量子論的な、カオス論的な側面がある点との関連性も。)

 

環境問題という問題、いずれ答えを見出さないような時にはどうするか?それには、私は人間に対する理解を深めること、そして問題を細分化して柔軟に対応すること、それが問題解決のキーとなるのではないかと気づいた。矛盾しているかもしれないが。そして一律で対応しないために理解がいる。

 

だが、人類は実際はそうした問題に直面しない限り、理解を深め柔軟にはならないだろう。つまり、人類はどう足掻いても、存亡の危機に関わるような問題に直面するように、遺伝子レベルで組み込まれているとも取れる。つまりアポトーシスというものは、進化そのものにも必要なのだろう。

 

“We are strong and weak, merciful and brutal, and we are lives and death.”

環境問題の本質的な論点①本論編

これは全て、CO2であり、原発であり言えることだが、概ね環境問題の論点はズレたところで争われているように思う。

 

環境問題はまず、人類の生存に関わる論点と、そうでない論点、いわゆる地球環境保全、エコに関わるような論点に別れる。

 

イメージとしては生存に関わるもの、例えば温暖化などがまさにそうで、それがまず軸にあり、野生動植物の保護や自然公園の保護など、それ以外の細分化されたエコ的な枝葉の論点が無数にある感じである。

 

そして、環境問題の本質とは、異なる二つの意見のどちらを、多数決による強制するかである。

 

とりあえず軸の方からみていこう。

 

一つはいわゆる環境保護論者である。これは突き詰めると、自由や利便さを犠牲にしてでも、人類が少しでも長く地球上に生存しよう、というものである。

 

もう一つは現在の自由や利便さを継続しようというもの、あるいはまだそれを獲得していない国や人種はそれを目指そうというものであり、人類が長く地球に生存するかよりも、今いる地球人がどれだけ豊かに暮らせるか、というものである。

 

環境問題の軸の論点とは、この両者がお互いの価値観をお互いに強制し合う、というものであるから実際は難しいのである。

 

現在であれば、例えば非常に中途半端な対応をすることは可能である。だから、みなこれが環境問題の本質的な論点だと気づきにくい。持続可能性という言葉で、ある程度の豊かさと地球環境保全を両立させることが出来ると信じているからだ。

 

だが、例えばこれが既に石油資源が枯渇した状態であったらどうだろうか?そういう未来は大なり小なり訪れる。もっと言えば、どの世代が果たして人類最後の世代になるのだろうか?それは誰にも分からないそれは100年先かも1000年先かもしれないし、今かもしれない。

 

持続可能性といっても、現在はまだ資源の豊富さに救われているだけに過ぎない一面がある。

 

では、そういう資源が枯渇しないために、我々の子孫が貧しい暮らしをしないために、そのためには今の豊かさをある程度捨てる必要がある。そして、これが環境問題の最大の問題なのだが、それを人類全体でやらなければならない。

 

それが環境問題が、異なる二つの意見のどちらかにコンセンサスを合わせないといけないという問題の意味である。中途半端にやる人間とやらない人間がいる、という状態が作れないのだ。

 

だが、勿論、人々の中には今の豊かさを捨てたくない人もいるだろう。その理由も様々で、極めて利己的に考えている人もいるだろうし、単に楽観的な人間や無知な人間もいるだろう。

 

しかしながら、世界がいつ終わるか、人類が終わる世代がいつなのか、それは誰にも予想できない。我々の代かもしれない。にも関わらず、今日明日滅びるかもしれないのに、今の楽しみを捨てろと言えますか、ということである。

 

世間的には環境問題に取り組まないあるいは、軽視するような輩は利己的な存在のように思われたりする。が、実際はそれを批判する側が、本質的に環境問題に取り組むことがどういう事かわかっていない。

 

今を生きることを大事にするか、それとも明日終わるかも知れない世界であっても明日を大事にするか、どちらか選びなさい。そういう極めて答えのない厳しい問題を突きつけられているのである。

 

私には正直それに答えがあるとは思えない。現実的に、本当に危機が迫ってどちらか選ばなければならなくなったとしても、果たしてコンセンサスが取れるのか疑わしい。

 

もう一つ、ある種の楽観的な見方も存在する。

 

それは資源の問題をテクノロジーによって解決しようというものである。

 

例えば核融合発電である。これが実現化すれば化石燃料に依る事無く、ほぼ無尽蔵なエネルギーを供給できる。海水すら真水に変えることができる。すなわち、土地が許す限り人類を養うこともできるし、宇宙開発ももう少し現実的になるだろう。

 

しかし、太陽と同じようなものを地球上で再現するわけだから、そのリスクも計り知れない。事故があったらそれこそ地球が吹っ飛ぶかもしれない。

 

気候や地殻、地球を管理できるシステム、ジオコントロールシステムも同じようなものだろう。極めて魅力的な案には大抵、極めて巨大なリスクが伴う。

 

楽観視するならばリスクを引き受ける覚悟がいるだろう。

資本論の交換に関する考察①

マルクスの著書『資本論』の本質的な議論の一つに「交換」の定義がある。

 

論中、交換価値とは極めて主観的なものであり、資本と労働という関係性において、特に労働者は「搾取」されている、というのが内容の一つである。

 

今回はこの交換価値が主観的なものである、という点にフォーカスして論じてみたい。

 

まず、交換価値が主観的である、というのはそもそも通貨、貨幣がヴァーチャルなものから始まり、交換に関する絶対的な原則がない事から始まる。

 

1万札は実際は1万円の価値があるわけではない。製造原価は微々たるものであり、言ってしまえば人間が紙切れに価値があると思い込むことにより発生している事象に過ぎない。これが貨幣のヴァーチャル性である。

 

ヴァーチャルなものによって値付けされるモノたちも、必然的にヴァーチャル性を伴うものになる。

 

ここで古典派の経済学者たちは、市場の需要と供給によってモノの「価格」が決定される、と言う。これは裏を返せば、価格とは「希少性」に起因する、ということになる。つまり、需要が高いが供給が少ないモノが、価格が高くなり、供給が多いが需要が少ないモノは価格が安く、なるということだ。

 

これをとりあえず価格決定のメカニズムを「希少性価値基準」と呼ぶことにする。

 

しかし、現実は古典派の理論通りではなく、企業が資源を独占し、価格をコントロールしたり(例えばデビアス社のダイアモンドに対する)政府が市場に介入して、価格を引き揚げたり下げたりする。(例えば日本の減反政策)

 

従って、原則交換価値というものは、市場における希少性価値基準で決定されるはずが、様々な外部効果、情報の非対称性によって、歪みが発生し、よりヴァージョン性を増していくというわけだ。

 

(ここでいう情報の非対称性とは、例えば労働市場における労働者の賃金決定のメカニズムがそうだ。雇用者は労働者の完全情報を入手することが不可能なため、相対的な比較や慣習によって、賃金が決まり、それはしばしば実際の労働付加価値とは乖離する)

 

もう一つ、交換価値がヴァーチャル性を帯びるのが、人々の付加価値に対する需要そのものも主観的だからである。

 

例えば、ホテルの宿泊で考えてみるが、四つ星のフォーシーズンズホテルは平均的なシティホテルの数倍の値段がするが、「宿泊」というホテルの本質的な機能が数倍に変化する、例えば数泊余分に泊まれるようになるわけではない。

 

人々がフォーシーズンズを支持するのは、そこにある「体験」例えばそれがアメニティーであったり、ベッドのリネンの質であったり、ホスピタリティーであったりなんでも良いが、「体験価値」がシティホテルの数倍の価値がある、とユーザーが思い込む事によって成立している。

 

実際はベッドのリネンはシティホテルの1.5倍程度の値段のもので、アメニティーも2倍位、トータルの原価はシティホテルの2倍位かもしれないが、フォーシーズンズというブランド価値をユーザーに認識させることによって、4.5倍の価格の値付けをすることができる。

 

つまり、この場合も価格は極めて主観的なものによって決まっていると言える。従って、フォーシーズンズがシティホテルの数倍の価値はない、と思うユーザーは違うホテルを選択する、という行動に出るだろう。

 

この場合の価格決定理論は、希少性価値基準とは異なり、ユーザーの考える付加価値の相場、すなわち「付加価値判断基準」というもので決定されると名付けることにしよう。

 

ここで交換価値について、いったん話しをまとめると、市場の交換取引には2つの交換基準が存在する。一つは「希少性価値基準」であり、これは政府や企業といったプレイヤーにより、価格が歪められ、よりヴァーチャル性が増して行く。もう一つは、「付加価値判断基準」であり、基本的にデマンドサイドの主観によって価格が形成されるヴァーチャルなものである。

 

つまり、要するに資本主義においては、貨幣がヴァーチャルである。貨幣によって交換されるモノの価格もヴァーチャルである。そして時に、交換されるモノそのものも価値もヴァーチャルである、ということになる。

 

ここで一つ、全く違う角度からモノの交換価値基準を作ってみたい。それは「生存価値優先基準」である。

 

この交換価値基準とは、すなわち、人間が生存に関して優先度が高いモノから高価格の値付けになる、というものだ。当然最高値は空気、水、そして食糧、エネルギーだろう。

 

現在、現実では空気はフリー、そして水も日本ではただで手に入る地域もある。食糧、エネルギーは国家が市場に介入することによって安く抑えられている。

 

なぜ、ここで「生存価値優先基準」の話しをしたかと言うと、まず人間は生存に関して優先度が高いものに、現在は必ずしも高い価格の支払いをしているわけでないない、ということを言いたかったからだ。

 

もう一つは、マルクスの指摘する交換価値の主観性、それ自体が搾取を産み、市場を歪めていると仮定して、では交換価値の適切性を政府ではなく、一定の価値基準を市場がもって決定した場合、どうなるか、ということを議論したかったからである。

 

実際、「主観的な価値」に依らず、価格が決定されるのなら、希少性で価格は決まるし、かつ人々の生存に優先度が高いモノから価格が高騰するだろう。

 

しかし、現実にそうした「より客観的な価値基準」で価格が決まった場合どうなるだろうか。空気は現実的に今直ぐの議論には成り難いが、既に水や食糧、エネルギーといった分野では、アクセスのできない人々が増えている。

 

それらの資源を国が介入することなく、客観的な価値で値付けをした場合、多くの人々が生存資源にアクセスできなくなる。実際、まだこれらの資源が人口に対してまだ豊富にあるから、安く入手できるわけであって、供給が減少した場合、どうなるかは全くわからない。

 

実はこれが示すのは非常に皮肉なことだ、というのが本稿で言いたい結論である。

 

すなわち、貨幣や価格、需要といったものが主観的であり、政府や企業のような価格を歪めるプレイヤーがいるからこそ、ヴァーチャルであればあるからこそ、我々の生活は維持され、生存に適うのだ。そしてそれはヴァーチャルであればある程、労働者は収奪される。つまり、交換価値が主観的であるからこそ、我々の生活が守られるが、主観的であればあるほど、労働者は搾取されるという皮肉な運命が導かれる。

 

(実際は本稿は価格に関する議論だけで終始しており、それと労働者の収奪との関係性は改めて検証する必要性はあるのだが)

 

それはヴァーチャルであればある程、人類が夢想的で生存に必要のない消費をすればするほど、資本主義社会は維持され、人々は豊かになっていくが、資源は尽きていくという、現代社会の現象の本質を貫いている。

 

裏を返せば、人々がモノの価値において極めて客観的になり、地球資源を保存し、交換のリアリティーが高まれば高まるほど、今の社会は失われ、そしておそらく人々は今のような豊かさを享受できなくなる、というわけだ。

 

これはすなわち、資本主義の打倒を夢見る、プロレタリアートを代弁する左翼主義者たちにとっては絶望的な真実であり、同様に環境保護論者、社会を良くしようと考える理想主義者たちにとっても、最初に訪れる壁であろう。

 

労働者の解放も、地球の保護も、全ての人に高い教養を与えることも、持続可能な社会というものも、全て同様に今のモノが豊富な豊かな社会とは逆行するのだ。

 

それも当事者たちが思っている以上にそれは、深刻な現象を引き起こすであろう。

 

私は左翼ではないし、資本主義論者ではない。持続可能な社会を目指し、全ての人々に高い教養ある社会を目指すが、そこに帰結した場合に関する社会というものの予測を怠ってはいけない。可能な限り想定し、デザインすることが、大きな社会システムの構築に関わる人間、すなわち知識人や政治家、官僚の義務ではないかと思う。