職業アーティストではない自分がアート、芸術について考えてみた。
芸術を語る時にしばしば、「斬新さ」が問われるような気がした。
人が思いつかないもの、新しいもの、驚きや意外性を持ってアートとは評価をされるもののような気がした。
人と同じものを作っても模倣であり、ありきたりなものを作ってもそれはなんらかのアウトプットであってもアートとは呼ばれない。
一つ料理の世界で考えてみる。
料理において、肉をどんなに美味しく焼いても、それを芸術と呼んで名をつけることは難しい。
その器に関してもそうである。
肉というものを、テーブルにサーブする時に、「肉」という固体の「色」や「形」そしてテーブルという「機能」の範囲の中で、自然に器は決まってくる。
機能が、そのモノの在り方を制約する。
例えば、肉が液体であったら、コップに入れてサーブをすることもできるし、肉がお菓子のように鮮やかな色合いを持っている食べ物であれば、その鮮やかさに負けない器の色も使うことができる。
芸術、アートとは、このモノが持つ機能との対話のようなものである、と感じた。
美味しい肉、というものを最も良い状態で、見栄えが良くサーブすることを考えた時に、その選択肢は自然と決まり、デザインに導かれていく。
これを芸術的にしようとするのであれば、その機能そのものに挑戦することになる。
単なる、意外性を持ちうるには、その肉の持っている本質の一つ、
つまり、「美味しい肉をサーブする」というものを破壊してみせることで表現できる。
例えば、肉を液体化してジュースのようにしてしまうことや、跡形もなく分解して、着色し、全く違うキャンディのような食べ物に変えてしまうこともできる。
器という機能も同じだ。肉のサイズ、テーブルのサイズを無視し、テーブルよりも大きな皿で、肉とは不釣り合いな煌びやかな色の器でサーブをされた絵を写真に撮って、「これはアートだ」と言われれば、確かにそれっぽくは見える。
そして、肉を食べ物、人間の栄養、という機能だけを本質とするなら、器も肉を置くだけのもの、とするならば、その機能はなんら失われていない。
一方で失われるものがある。それは、肉を焼いたときの香ばしさ、色、歯ごたえ、食感、それによってもたらされる幸福感といったものだ。
肉にまつわる、「侘び寂び」のような風情、文化的なものは原型を破壊することで、味わえなくなる。
これは住宅や衣服でも同じことが言える。
住宅を単なるシェルターだと言えば、どのような狭く殺風景な家でも、家と呼ぶことができ、衣服も身を覆い寒さを凌げれば衣服と呼べるなら、衣服と呼ぶ。
衣食住、それぞれが持っている本質的な機能というものは、ある意味、誰もがわかっている。その本質がもたらす、モノ自体が持っているものに導かれた結論というものを、芸術家、アーティストというものは破壊しにかかる。
ある意味、予定調和と思われるような、機能の制約によって決まってしまうデザインを、神の作り出した制約のように彼らは感じるのだろう。
しかし、その破壊した本質は「形」であれ「色」であれ、その破壊の仕方にもパターンがあることに気づき、それであれば、とモノの持つ本質的な機能を破壊し尽くし、それを「アート」と呼び、そうしたことに疎い人間に売ることも発明された。
普通のキャンディの何十倍の値段をするキャンディのようになった肉を見て、アートと呼ぶか、普通のキャンディを食べたほうが良いと思うかが、個人の感性に委ねられてしまう。
「斬新さ」と言えば、聞こえは良いが、斬新さが宗教となってしまうと、門外漢の人間には最早理解のできない世界観になって行く。
肉、というものの本質を崩さずに、サーブすることがなぜアートでない、となるのか?
例えば、これを肉とワインのマリアージュ、出されたときの部屋の温度、サーブした人間の持つ空気感など、最高の肉を出すために努力する箇所は無数にある。
器についても、その肉の色や香りを引き立て、あるいは食べやすくするための余白が存在するのは確かである。
レストラン、ミシュランを取るような店というのは、そのような「肉の本質」を損ねないまま、最高のものを提供する努力をする。
それは家であれば居心地の良さ、衣服であれば着心地の良さでも言える。
そういったモノが、言うほど現代に溢れているだろうか?
本当に居心地の良い家、住む人のことを考え、設計された家が今の日本にどれだけあるのだろうか?
芸術家、アーティストたちが「退屈」で「斬新さがない」と切り捨ててしまった領域にどれくらいの余地と可能性があるのだろうか。
ある意味において、アーティストは生活のために、門外漢でも、「斬新」とわかるようなものを作らざるを得なかったかもしれない。
例えば、質の良い肉はただ焼いて塩をかけるだけでも美味しい。
その部屋の温度や、器にいくら時間とお金をかけても、そのアーティストにしかわからない差を、門外漢は、普通は理解することはできないからだ。
その意味で、アーティストを「斬新さ」に走らせたのは、多くの門外漢であり、素人たちなのかもしれない。
アーティストが大衆に合わせた時、文化は失われる。
それは「斬新さ」という宗教を追い求めることによって。
一方でスティーブ・ジョブズのように、自身の持つ斬新さとモノの本質、そして大衆のニーズを一致させられるアーティストも中には存在する。
iPhoneは電話という機能を引くのではなく、機能を「足す」ことによって
電話でありながら、電話の常識を変えてしまった。
ジョブズの行った革新に、一切の電話としての機能の損失はない。
電話という機能を破壊して、「これは新しい電話だ、これがアートだ」、と主張するような者たちには、iPhoneは単なるビジネスであり、アートとしては認められないだろう。
そもそも門外漢には、アーティストの言うことの違いなどわからない。
アーティストだと名乗り、売れていてメディアに露出していれば、立派なアーティストが誕生する。
本質を損ねず、表現したアーティストと、斬新さを追い求め、破壊し尽くしたアーティストとを、異なるアーティストとして見做さない。
それは両者を区別する単語が存在しないことからもうかがえる。
アーティスト、芸術という大きな単語で括られてしまって、もはやそこにある種の実態が存在しない。
これはあらゆる芸術に当てはまる。
大衆は芸術を区別し、芸術家は本質の中に大きな余白があることを再認識するタイミングが来ているのではないだろうか。
そして、芸術はアーティスト、専門家のものではなく、誰もが所有するものであり、それは文化であり、最も人間らしいものの一つではないか、そのように感じる。