IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

ポストモダンの次に来るもの、分類の時代

ポストモダンの終焉

ポストモダンとは「個人主義により統一的な思想がなくなっていく現象」であり、平たく言えば、一人一人が自分の好みを追求して結局バラバラに分断されていくことでもある。

 

しかし、個人主義が一巡した21世紀に入り、ポストモダンは終焉を迎えつつある。

それはインターネットのもたらした力である。

 

ポストモダンを論じていた時代はインターネットを想定いていないにも関わらず、ウィトゲンシュタインばりの議論も終わらせ方をしたのはまずかった。

 

どのような現象が起きたかと言えば、インターネットを通じて、「思想的に近い個人」がどんどん繋がり出したのである。

 

これは例えば、日本のyoutube業界をみるとわかりやすいだろう。

どのようなyoutuberであっても「再生数」という知名度だけで繋がれ、どんどんコラボレーションをし、あたかもユーチューブエリートのような世界観を作り上げてしまっている。

 

さらにより一般的にわかりやすいのは、人々がSNSなどを通じて、気軽に趣味嗜好の合う人とどんどん繋がれる環境ができたことにある。

 

これは裏を返せば、人は自分の好きな人とだけ、話が会う人とだけ、自分と同じクラスの人とだけ付き合うようになり、それがコミュニティ化しつつある、ということである。

 

□イシューベースの政治団体の誕生

これはどのような現象になっていくかと言えば、将来的には例えば自転車好きな人が道路の真ん中で自転車を作る法案を通すために、全日本の自転車ファン数十万人を募って、政治家を動かす、みたいなことが起こりえる。

 

これまでは政治といえば、労働組合や宗教団体だけがおおよその団体票であったが、イシューごとに政治家を動かせるようなレベルの数が集められるようになる、ということである。

 

□いま現実に起きていること

これは国家というコミュニティの弱体化現象と見ることもできる。

 

そしてより深刻な問題としては、ユーチューバーたちをみるとわかるように、成功者や金持ちは同じ成功者や金持ちとだけつるむようになる。

 

そういたエリートコミュニティが自分たちの利己的な目的のために、その他から搾取するようなシステムを構築したらどうだろうか。

 

世界で起きている貧富の差、とは既にこれが表面化している現象である。

 

□分類の時代とは何か

個人主義は結局、「同根のコミュニティ」を誕生させたに過ぎない。

そしてそれは言い換えれば、「分類」を発生させたということである。

 

分類とは何か、わかりやすいものは例えば「金持ち」か「貧乏人か」である。

そして、それが資本のようなわかりやすい形では誰もが気づいているが、それ以外でも分類化が進んでいることにまだ人々は気が付いていない。

 

それがかなり表面化してきたのが今回のコロナ騒動でもある。

コロナに対するリスクの認識と対応は、それぞれが違う者同士、相慣れないレベルの分断を生み出している。

 

そしてコロナに対する認識と対応の違いはより本質的には「情弱か否か」「認識力があるか否か」というレベルに存在する。

 

そして、認識力が高い人は、認識力の低い人とは、話したくないし行動も違うし、おそらく見ているメディアなども違っているはずである。

 

表面的な違いは例えば薬を飲むか飲まないかくらいのはずが、実はもっと深いところで、差が生じている。それは、認識レベルの分断である。

 

これは実は金持ちか貧乏人か論にも当てはまる。例え金持ちでも、認識力が低いと詐欺にあったり、お金の使い方を誤り、一瞬で財を失ったりする。

 

つまり、いま生じているのは、単なる「金持ち」か「貧乏人」かというマルクスから続いているような階級闘争の議論ではない。

 

認識力があるか否かといった、本質的な人間の分断が起きている世界なのである。

 

最初に表面化してくるのは、単なる趣味人の集まるコミュニティに過ぎないだろう。

ラソンサークルが増えてきた、美食クラブが増えてきた、程度のものだろう。

 

しかし、だんだん、見えてくる世界観というのは、例えば味のわかる人しか入れないレストランであったり、お洒落な人しか買えない洋服店だったりする(それらは今も実際には存在するだろうが、それがより表面化してくる)

 

そして次に、先ほど述べたようにその集団が、次第に政治的な発言を行うようになるだろう。

 

コミュティ形成に関しては、ある面において、学歴でも年収でもないところで、コミュニティが形成されることは悪いことではないが、言い換えればそれは誤魔化しようのない世界、自分というものに全てが帰結する世界ともいえる。

 

ちゃんと誠実に、社会のことも考えて仕事をするような人が評価される、という意味では至極真っ当な世界でもある。

 

しかし、誠実な人間がますます誠実な人間と付き合うように、不誠実な人間はますます不誠実な人間と付き合い、やがてそれが肥大化し、社会全体、地球全体が対処を迫られるようになるだろう。

 

つまり、例えるなら、最初はユートピアのような犯罪者がいない平和な世界が実現するが、いずれ、誠実な国(コミュニティ)と不誠実な国とに分断され、その対処に迫られるような現象が起こりかねない、ということだ。

 

そしてその時に、人間の本質とは何か、その存在の理解が一般の大衆レベルにおいても変化が訪れないと、大きな悲劇が起きるであろうことは想像に難くない。

 

□分類の時代のビジネスとその課題

 

分類の時代、自分が好きな人とだけ繋がっていくコミュニティは、ビジネスにおいても変化をもたらす。

 

まず、わかりやすいところでは飲食店が客を選ぶ時代になる。

既にこれは起きている現象だが、それがもっと表面化するだろう。

 

飲食店はいくらでもあるが、人気店は全く客に困っていない。

簡単に店側からの逆選択が生じる。

 

ファッションでそれが起きるのは、ある意味ユニクロのようなファストファッションの登場やモノ余り、人々のリテラシーの向上、そしてSDGsなど様々な遠因がある。

 

ものの値段と質がわかると、後は自分の好みやデザインなどで買うようになる。

作る側も、決められた客に対して受注生産したほうが、遥かに効率が良い。

そして、飲食店と同じように、充分な客がいれば今度は質の高い客を選ぶのは至極当然であり、これは他の分野でもそうなって行くだろう。

 

中国の「信用スコア」というのは、ある意味これが最も歪んだ形で表面化したものと言えるだろう。

 

スコアが高いものと低いものでは、アクセスできるものも、手に入るものも違ってくる、という世界観である。

 

もう少し違う角度から見ると、オンラインサロンはこの現象の先走りとも言える。

 

既にサロンメンバーでないと得られない情報やサービスが存在するだろうが、サロン内であらゆるサービスが手に入るとなり、さらに貨幣のようなものを持つと、それはある意味国のような存在となる。

 

この現象がより進むと、例えばマスコミの報道を見ていても、マスコミというものを見ているコミュニティの中での現象しかわからなくなってくる。

 

つまり、自分が所属しているコミュニティによって、見ている世界が変わり、気がついたら世界の変化に取り残されていくようなことも発生するだろう。

 

会員化、コミュニティ化されることはある意味、資源の最適な分配、という側面もある。

なぜなら物の価値がわかる人のところに物が集まりやすくもなるからだ。

 

また人は好きな人同士集まる、それは認識領域の同質性から生じている話をしたが、実際こうした現象はおそらく、人類が始まって以降普遍的に変わっていないだろう。

ただし、それが多くの人にとってそのような認識がなかっただけだが、ますます社会が分断され、アクセスできないサービスが増えることにより、それらが顕在化されていくことになるだろう。

 

この先、コミュニティサービスや会員制ビジネスというのは大いに流行るだろう。

しかし、その先にまず課題が二つ見える。

 

一つは例えばある非常に腕の良いテーラーがいたとして、その人をコミュニティ内で奪い合うような現象である。今でいえば企業が優秀な人材を取り合うようなものだ。

それがあらゆるサービスで発生する。

 

そのような状態になった時に、仲裁する存在が今のところ存在しない、ということだ。

企業であれば契約書を書き、違反したら国家が法律を執行するような問題だが、腕の良い板前がどこのオンラインサロンに所属するかなど、まだ法律が全く追いついてこないだろう。

 

更に言えば、そこまでコミュニティが乱立するような時代というのは、必然的に国家コミュニティの力が大幅に衰えているため、果たして仲裁するような存在がいるのか、ということである。

 

もう一つは、コミュニティ化という名の圧倒的な差別が発生した場合、所属しているコミュニティによっては例えば、まともな食べ物さえ手に入らないような状況が発生する可能性もある。

 

優れたコミュニティは優れた人を集め続け、ますます繁栄する一方で、そうではないコミュニティ、あるいはコミュニティに入れない、はぐれ者の受ける便益は、国家の弱体化と相まって、ますます衰えていくだろう。

社会制度整理

社会制度整理

社会制度は政治、経済、市民と三つの領域に分け、政治がどの程度経済、市民領域と関わるのかで考えるとスッキリ理解できます。

 

また政治領域はどのように権力者を選ぶのか、何人いるのかなどそれぞれの組み合わせで何通りかのシステムを考えることができます。

 

例えば日本は天皇陛下という君主がおりますが、そこに権力はなく、国民主権で政治の代表者は国民の選挙で間接的に選ばれるので、立憲君主制というシステムになります。

 

色々な言葉が出てきてややこしいですが、どこの話をしているかがわかれば、整理されていきます。

 

●政治領域

①君主がいるかいないか

②権力がどこにあるか

③権力者の数

④権力者をどのように選ぶのか

中央政府の力

⑥市民権の範囲

 

●経済領域

政治がどの程度経済領域に干渉するか

 

●市民領域

政治がどの程度市民領域に干渉するか

 

 

●政治領域

①君主がいるかいないか

いる  いない

君主制 共和制

 

君主とは国王、王様、皇帝、天皇陛下など

 

②権力がどこにあるか

君主(独裁者)側 民衆側

 

権力が君主にある場合は絶対君主制、独裁者(組織)にある場合は独裁制

権力が国民、民衆にある場合は民主主義

 

君主ありで権力は民主にある場合は立憲君主制(日本、イギリスなど)

 

ファシズム

ファシズムは独裁者、独裁的な組織と結びつきやすいです

 

③権力者の数

・独裁者一人(ヒトラー、ナポレオンなど)

・複数独裁者(ローマの三頭政治)

・一党組織独裁(ソ連、中国)

・多数の民衆(民主主義国家の場合)

 

④権力者をどのように選ぶのか

・直接選挙(国民が選挙で直接選ぶ。アメリカ、フランスの大統領など)

間接選挙(国民が選挙で選んだ政治家が選ぶ。日本の内閣総理大臣など)

世襲制(血筋で決まる。君主制、王制など)

・独裁者指名制(独裁者が後任を決める。ローマ帝国など)

・クーデター(ソ連、中国など)

 

絶対君主制は基本的に世襲制

クーデターは基本的に軍事、独裁と結びつきやすいです。

 

中央政府の力

強いと中央集中(ロシア、中国など)

弱いと地域分散(アメリカなど)

 

□連邦制

連邦という言葉は中央集権か否か、というテーマと大きく関連しています。

連邦制は複数の国や州が合算してできている制度。

より国や州ごとの権限が強い場合は地域分散型

中央政府が強い場合は中央集権型

 

連邦国家は複数の民族や言語からなる場合が多いです

(ロシア、アメリカ、ベルギー、インド、イギリスなど)

 

地域分散が強いと独立運動や、内乱が起きたり

中央集権が強いと独裁、ファシズムと結びつきやすくなります。

 

⑥市民権の範囲

古代ローマなどでは奴隷には市民権がなかった

現代では例えば外国人に選挙権があるかないか

中国は共産党員と党員以外で範囲が分かれる

 

 

●国家の経済への介入

資本主義(自由経済)   小さな政府

共産主義(計画経済)   大きな政府

 

共産主義自由主義かは、政治が経済にどのくらい関与するかの問題。

 

計画経済のように、国家が経済を支配しているのが共産主義

民主主義では私有財産の廃止、計画経済のコンセンサスが得難いため、通常共産主義は独裁とセットになることが多い。

 

完全な資本主義と完全な共産主義の間を取ることもできる。

例えば

日本は原則、資本主義だが、政府も関与してくる

中国は原則、政府が決めるが、資本主義のルールにもある程度乗る

 

実際は完全な共産主義と完全な資本主義の間に、現代国家のほとんどはあると言っても良いでしょう。

 

大きな政府か小さな政府

経済領域、あるいは市民生活領域にどれくらい政府が関与するか。

 

社会主義共産主義

社会主義は国家が大きく経済、市民領域に介入する

共産主義はさらに介入が大きく、そもそも私有財産を認めない

 

□経済が政府に介入

政府が経済をコントロールするのではなく、経済が政府をコントロールする場合もあります(アメリカのケース)

経済領域が政治領域を支配し、市民領域を無視すると、民主主義が機能しなくなってくることになります。

 

政府による完全な経済、市民領域の介入が完全な共産主義

経済による完全な政治、市民領域の介入が完全な資本主義

とも言えます

 

サステイナブル

サステイナブルとは本質的には、経済領域の要望で、国が経済領域と市民領域に新しいルールを追加すること

 

●国家の市民(生活)領域への介入

介入の程度が大きくなると

自由主義(小さな政府)→社会保健→北欧型の高福祉(大きな政府)→監視社会、共産主義

 

政府が社会福祉を担えば担うほど、大きな政府になっていきます。ただし

介入=福祉の拡大、とは必ずしもなりません

例えば中国は強く市民領域に関与してきますが、生活の保障を国がするわけではありません。

 

ベーシックインカムもここの領域の話し

 

アリストテレスによる分類

君主制、共和制、民主制

堕落すると

専制、寡頭政、衆愚政

 

●当てはめ

□日本

政治は「立憲君主国家」

君主あり、主権市民、間接民主、中央集権

経済は社会主義寄りの資本主義

市民はある程度の福祉

 

□イギリス

政治は「立憲君主制連邦国家

君主あり、主権市民、間接民主、中央集権

経済は社会主義寄りの資本主義

市民はある程度の福祉

日本との大きな違いは、連邦制度になっていること。

 

アメリ

政治は「共和制独立連邦国家

君主なし、主権市民、直接民主、分散

経済はほぼ完全な資本主義

市民は社会保健も経済領域に委ねている

経済領域が強すぎて主権が経済になっている

 

□ロシア

政治は「共和制中央集権連邦国家

君主なし、主権市民、直接民主、中央集権

経済、市民ともにかなり国の関与が大きい(大きな政府

制度としてはアメリカに近いが中央集権。

中央集権が強く、独裁、ファシズムに近い状態になっている

 

□中国

政治は「一党独裁国家」

君主なし、主権共産党、独裁、中央集権

経済は計画経済だが資本主義も取り入れ

市民は監視社会に

アメリカとは逆で政治が経済領域を支配

 

□フランス

政治は「共和制民主主義国家」

君主なし、主権市民、直接民主、分散

経済は資本主義をベースに中程度の関与(国政企業など)

市民は労働者の保障などが厚い。 

 

サウジアラビア

政治は「絶対君主制独裁国家

君主あり、主権王族、独裁、中央集権

経済は国が主導

市民は国が大きく関与(宗教の規制など)

エッセンシャルリテラシー

はじめに エッセンシャルリテラシーとは

政治がワークするには、政治家も国民も必要なリテラシーを身につけることが重要だと考えています。

 

エッセンシャルリテラシーは、1票を投じるのに最低限必要なリテラシーやものの見方を発信します。

・選挙で投票をする人

・政治家を目指す人

・現職の政治家

にも必修であろうと考えるごく基本的な内容、特に本質的、根源的なことを中心に扱います。

 

●本質的、根源的

例えば、「原発をどうするか」「高齢化どうするか」「税金はどれくらいが適切か」

など政策論点は幅広く存在します。

 

それらの個別論点を議論する前に、本質的なものの見方や基礎知識を持っておくと、整理された理解ができます。

 

そうした個別論点を全て理解することは、現職の政治家はもちろん、有権者にもどだい無理な話です。

 

しかし、本質を理解すると、個別の論点の全てを理解しなくても、何がその分野の本質であり、何が無理筋な考えであるかなど、だんだん見えるようになってきます。

 

そうした各分野の個別論点のポイントが見え、判断できるようにしていくための知識がエッセンシャルリテラシーであり、本質的、根源的、の意味になります。

 

例としてのテーマ)

・社会制度論

・構造論

・前提論

・専門家とは何か

など

 

●大きなトピック

またエッセンシャルリテラシーは、よくマスメディアやSNSで話題にはなっても、あまり十分な理解、議論がされない重要なテーマ、トピックなども扱っていきます。

 

例としてのテーマ)

ベーシックインカム

・日本の教育

地方分権

など

 

●更新と修正

エッセンシャルリテラシーに関しては、一度公開した後も、よりよい表現や内容があれば、随時更新または修正をしていく方針です。

 

●記事の内容、コンセプト

基本的には、「どの政策が正しい」よりも「その政策を評価するのに何が必要か」

を提案するような内容が中心となります。

少しでもそうした判断に役立つ、刺激を提供し、また少しでも政治や政策がスッキリ整理、理解できる役に立てればと思います。

専門家をハックせよ

いまニュースで話題のロシア、ウクライナ問題に関して、専門家と称する輩に甚だ疑問を感じる。

 

どちらの専門家も、歴史上の経緯を述べた上で、ロシアのプーチンが頭が狂った、あるいはゼレンスキーがコメディアンだ、といったレベルの話が平然とマスメディアでなされている。

 

マスコミを通して、専門家という肩書きで話せば

ネットで検索して学生でも言えるような感想を、言っているに過ぎないののに、

なぜ人々が傾聴してしまうのかが不思議である。

 

そもそも、「専門家」とは何なのか。

 

インターネットが当たり前のように使われるようになった現代では、

実は従来の専門家の意義は大きく変わっている。

 

昔はそもそも、今回のような国際関係の専門家と言えば、

その国の言語をマスターしていることが重要であった。

 

しかし、今はGoogle翻訳の発達により、現地の言語がわからなくても、現地のニュースが読めてしまう。

 

また昔は現地に言って、そこの人々に話を聞かなければ得られなかった情報が、

webやSNSで手に入るようになってしまった。

 

つまり、「言語が話せて」「現地の文化や歴史を知っている」という専門家は既にインターネットによって陳腐化していることになる。

 

そしてこれは、国際政治の専門家に限らない。多くの分野の専門家にも言えるが、

そのためにはまず、職業に関する知識分野を大きく二つに分けて考えたいと思う。

 

一つは「蓄積が必要な分野」

もう一つは「気がつけば誰でもできる分野」としよう。

 

蓄積が必要な分野は、例えば物理学のような学問の世界である。

例えばマクスウェル方程式を理解するためには、複素数三角関数微分などといった複数の数学的な知識や、古典的なニュートン力学の考え方などがわからないと、充分な理解ができない。

これは知識に限らず、アスリートや職人のような経験、蓄積が必要な分野全般に言えることで、やり方がわかっただけでは、直ぐにできるようにならない分野である。

こうした蓄積を持っている人間は「専門家」と呼んでも違和感はないだろう。

 

もう一つは、気がつけば誰でもできてしまう分野は、今回のウクライナ情勢のように、ネットで調べれれば、それなりのことが言えてしまうようなもの全般である。

こちらは誰でも同じようなことができるので、専門家としての価値はない。

ネット以前にはあったかもしれないが、もはやないと言える。

ここで価値があるとすれば、それは一次情報を入手できる人物である。

今回の話で言えば、ゼレンスキーあるいはプーチンと直接やりとりができるようなことは、

ほとんどの人ができないため、専門家としての価値があると言える。

一次情報を聞けば誰でも同じことができても、一次情報そのものを得ることが極めて難しいからである。

 

つまりインターネットの発達によって

①経験や蓄積がある

②一次情報が入手できる

という二つのことを除いては、ほとんど専門家というのは存在意義を失っているのだが、

社会が明確に「専門家とは何か」ということを認識できていないので、ゾンビのようにマスメディアで生きながらえてしまっていると言えよう。

 

つまり、このどちらかがない人間の発言は、自分で調べた結論と大差ないので、特に傾聴に値するようなものではないと思われる。

 

従って、その発言している人間が自称専門家だろうが、お金持ちのどこかの元IT社長であろうが、インフルエンサーだろうが、意味がないし、間違った情報が拡散するだけなので、静かにチャンネルを変えることが良いと思われる。

 

あるいは、物語を見ているような感覚で、一人の感想、情報、ストーリーとして、捉えるような感覚で見た方が良いだろう。

 

専門家という陳腐化してしまったものを、今一度ネット時代に合ったものにハックする必要があると感じた。

使命、オリジナリティーの時代

□なぜ使命か?

これからの時代は一人一人の個性を活用する時代なのは間違いない。

言うまでもなくそれは、国際競争の激化や、AIやロボットにより誰でもできるような仕事はとって代わられるからである。

 

では何故人間の個性に留まらず、使命と呼ぶような領域まで話が及ぶのか、ということにはいくつか補足説明が必要だろう。

 

まず、一番大きなところは環境問題、SDGsといった論点である。

 

これまでは人間が思う存分、利己的に振舞おうとも、地球の方が、キャパシティがあったため問題にはならなかった。

しかし、結果として環境問題が深刻になり、それにある程度制限をかける必要性がある、状態まで閉まっている。

 

とりあえず売れるから木を伐採しまくれば良い、ではなく地球環境と人々の生活を両立させることが当たり前で求められる時代になった、ということだ。

 

そのような世界観になってくると、これまでのような合理性・利便性だけを追求するようなコーポレート・カルチャーというものは、単なる利己主義としか見なされなくなってきている。

 

いくら個人が個性や才能を発揮しても、それが、社会的にも利益がなければ評価されない、つまり社会そのものが個人や企業にミッション性、使命を求める時代になっているのである。

 

もう一つはそれに伴う人々の大きな意識の変化である。

 

日本ではバブル、海外ではmaterialなどと言われるように、拝金主義的な生き方に対して、そもそもいまの若い世代は冷めた目で見ている。

 

それは日本の若者がひと昔前よりも貧しくなったから、という側面もあるが、

インターネットによる情報収集力の飛躍的な革新の方が、影響が大きいだろう。

 

その気になればいくらでも情報を集められ、いま何が起きているか、自分は、本当は何が欲しいのか、などインターネット誕生前の時代に比べて、明らかに認識力が向上している。

 

情報がない時代は、そもそも一般人にとって、お金持ちがどんな生活をしていて、何ができて何ができないかも良くわかっていなかった。

それがお金持ちでも品がないとか、これくらいのキャリアでこれくらいの収入があれば自分の欲しいものは手に入るとか、より具体的に可視化された情報も手に入るようになった。

 

そしてSNSの普及により、自分が行きたい会社や、起業したい場合は起業家と繋がれる、あるいは話だけでも聞ける機会なども圧倒的に増えた。

 

結果として、情報過多の沼にハマって彷徨う若者も増えたが、自分のやりたいことや価値観がより俯瞰的に見えるようになってきている世の中といえよう。

 

それにより、結局仕事ができても拝金主義なだけでは、格好悪い、地球環境を汚染して自分だけが美味しいものを食べる世界観がみっともない、そういう風潮にまで及んでいる。

それが若い世代に起きている変化である。

 

□オリジナリティーとは何か

もう一つ、オリジナリティーという点について、何故使命や個性と分けて挙げたかといえば、突き詰めていくと、人間はオリジナリティーを持つのはなかなかハードルが高い、ということを感じたことだ。

 

つまり、個性を発揮し、自分の才能を有効に活用し、社会的な使命感はあったとしてもそれはオリジナリティーには到達したいのではないかと思ったのである。

 

そう思ったきっかけはイギリスのミュージシャンEd SheeranとLuwis Capardiを見ていたときだった。

 

Ed Sheeranはその人柄のよさも相まって、今世界で最も人気のあると言っても過言ではないミュージシャンである。

 

ギター一つ、ストリートで歌い上げるスタイルがベースにあるが、最近出てきたLuwis Capardiも同じスタイルで歌い上げる。

 

もちろん両者に音楽的な差異は大きくある。

ここではその話については触れないが、重要な気づきはEd Sheeranほどのミュージシャンであっても、オリジナリティーの危機感を感じるのだろうということだ。

 

そしてこれはおそらく聞き手よりもむしろ、当事者たちが一番理解していることだろう。

 

時折、才能あるミュージシャンやアーティストが理解不能は自殺をすることがあるのも、

おそらく彼らにしかわからない才能の限界のようなものを感じ取ってしまうからだろう。

 

似たようなミュージシャンが現れた時に、彼らは常にアイデンティティの危機に晒されている。

 

他にも例えば世界的なスーパースターJustin Biberなども、他のミュージシャンと何が違うのか?といえば、その理由は音楽性だけに留まらない。

歌唱力が抜群なのは当たり前、見た目や選曲、プロデューサーの腕、踊れるか否か、など含めると、ミュージシャンとして売れているのか、差別化できているのか、と言われれば、だんだん判断が難しくなってくる。

 

そもそも音楽の世界において楽曲は過去の楽曲からインスピレーションを受けているものだ、完全がオリジナルなんてものは存在しない。

 

そのような中で他との差別化、唯一性を担保するのが、果たして人柄や見た目だったとすると、ミュージシャンとしてはその結果に納得ができるのであろうか。

それは、ファンは当然気にしないだろうが、周りの人間や本人としてどうか、という世界である。

 

これは社会の他の仕事についても当てはまる。例えば、医者や会計士、弁護士、官僚、政治家、あるいはコンサルや外銀、商社と言った、学生にとっては憧れでエリートと呼ばれるような職業であっても同じである。

 

単なる医者であれば、いくらでも換えが効く。大手会社員であれば尚のことである(そもそも大手は誰が社員になってもある程度回る仕組みを作るので)

 

ミュージシャン、アーティストにですら当てはまるとすると、さらにこれは経営者、起業家にですら当てはまることがある。単にお金を稼ぐ、あるいはプログラミングができるレベルでは替えが効いてしまう。

 

もちろん、アーティストを目指す人間に比べて、医者や大手会社員を志す人間がそこまでオリジナリティーを追求するとは思えないが、資本と時代が人間にロボット以上の付加価値を求めている以上は、いずれそれと直面することになるだろう。(そうでなければロボットよりも効率が良い、という意味でマトリックスの電池パーツのような扱いになってしまうかもしれない)

 

複数の強みを持っておくことが、差別化という点は有効である。

例えば弁護士だが会計のこともわかる。医者だがITに詳しいなども、

弁護士同士、医者同士、という間においては、それなりに有効であることは間違いない。

 

しかし、単純な組み合わせ論で考えた差別化は誰もが思いつくので、唯一性というものを担保するには、より複雑か飛躍した組み合わせが必要になるだろう。

 

とはいえ、現状は自分の才能すら認識ままならず、企業のミッションもSGGsに合わせようと四苦八苦になっているようなレベルなので、オリジナリティーがアーティストの世界の外でも意識化されるのは、だいぶ先のことにはなるだろう。

 

一方で、つまり現状多くの人はいわゆるエリート的な職業に就いていても、大半は代替可能なパーツ的な仕事しかできていないのではないか、と考えてみることはこの先の時代を考えると有益な思考と言えるだろう。

 

そしてオリジナリティーとは、単なる才能や職業だけでなく、その人の経験や生まれ、価値観その全てが組み合わさって描かれるものである。

 

何故ならば、全く同じ人生を全く同じ肉体などの条件で送ることは、物理法則的にも人間は不可能なので、普通に生きていれば、一人一人は全くのオリジナルになるのが本来は当たり前である。

 

しかし、それが人生の多様さに留まっているが、仕事、あるいはクリエイティブな領域におけるアウトプットになり、それが人の役に立つような世界とは素晴らしいものだといえよう。

 

一人一人が代替可能なパーツではなく、ある意味全員がクリエイターでありアーティストでもあり、異なる付加価値を生み出し、その集合体としての社会が存在する。

 

そのような世界観は到底 AIには不可能であるし、仮に本当の意味でのAIが誕生しても、今度はそのAIが AIにしかできないオリジナリティーを発揮すれば、それは共存が可能な世界となり、シンギュラリティなどと呼ばれるものはある種の被害妄想の産物となるだろう。

 

内面世界のイノベーション

これから大きく伸びるビジネス分野といえば、バイオテクノロジーPHRを中心としたヘルスケアの分野が挙げられる。

 

そしてこれらは言うなれば、人間の外殻、表面部分に関するイノベーションとも言えるが、それに伴い精神的、内面の分野もイノベーションが起きるであろうと予想される。

 

何故ならばまず、人間の内面分野に関しては、現状ビジネスの現場においてすら、非常に原始的な状態である。

 

例えば、採用一つ取っても個人の能力や才能を図り活かすことは、ツールよりも上司やマネージャーの目利きや経験に依存している部分が大きい。

 

これは料理ですら素材の科学物質単位にまで分解して、マリアージュがある組み合わせを生み出すような次元や、職人の技巧をロボットで再現できるようになったことなどを考えると、遥かに原始的な状態といえよう。

 

ストレスや鬱といった現代病もそうである。多くは社会的、企業の現場において発生することがわかっているものも、特に日本では未だに根性でなんとかしろ、といった具合であろう。

 

これがどのように変わっていくかといえば、例えば人間がストレスを感じる状態のパターン化がまず計測によって可能となっていくだろう。

 

それによって例えば

・どのようなコミュニケーションを測ればストレスが軽減され

・それによって労働生産性が上がることなども、データとして現れるようになる。

(単にストレスを減らすのではなく、企業としてもその方が、メリットがある、ということも可視化される)

 

他にも例えば、人間の感情領域の閾値やセンチメントが測定されるようになると、例えば、ある特定の広告や商品がどのような人にウケるのか、そしてそれは何故なのか、ということも大まかには分類できるようになってくる。

 

そうなるとより正確な商品開発やマーケティングが可能となる。

 

こうなってくると次は企業の方から、本人も気づいてないが実は欲しているような提案などもされるようになるだろう。

 

さらにこれが加速すると、人間は自分の内面を把握し、それによって的確な対応が行えるようになる。

 

これは健康管理において、例えば運動不足だから運動する、血糖値が上がってきたから糖分は控える、といったレベルのものがより細分化される。

 

例えば、今日は仕事でプレゼンテーションがあるがプレゼンテーション能力に左右する、脳内物質はあれで、それに合わせて飲むサプリメント、あるいは運動はこれ、みたいなレベルに到達するだろう。

 

これは、一部の「天才」と呼ばれていた、例えばスポーツ選手などをある程度、人為的に再現できるような状態にもなるだろう。もしかしたらビジネスのイノベーションも法則化できるかもしれない。

 

更に加速させると、今度は人間が内面的にも外面的にもどのような方向に進化するのか、ということをデザインすることが可能になってくる。

 

また、バイオやPHR領域の発達は同時にそれらだけでは推し量れない人間の本質というものもいずれ明らかになるだろう。

 

それは AIがまだ人間に及ばない意識領域のような話である。

意識というものの存在が測定あるいは観測可能であるかどうか、そしてそれは一体どういうものなのか。意識自体は観測不可能であっても、周辺部が埋まることによって明らかになかもしれない。

 

いずれにせよ、スマホやロケットのようなレベルに対して、非常に原始的なレベルの人間理解、人間存在、特に内面性、精神性というところにこれからイノベーションが起きてくるだろう。

ロボットの人間化、人間のロボット化(人間の本質とは何か)

□機関構造に従うとロボット化する

今起きていることは、ロボットの人間化(AI)と人間のロボット化である。

前者には気づいても、後者にちゃんと気づけている人は少ないのではないか。

 

人間のロボット化、それは、人がそれぞれの立場で責務を果たして行動すればするほど、仕組みの中で間がロボットのように振る舞う、という状態である。

 

例えば、SNSではマスコミ批判、政治家批判、場合によってはコロナの件に絡んで製薬会社批判なども見受けられる。

 

批判する理由としては、要約すると、「国民にとって不利益がある」、といった内容になるが、実際問題としてその批判には的外れなところがある。

 

□企業の機関構造を理解する

まずマスコミの主な収益源は広告である。そして広告収入はどこからもたされるかといえば、企業スポンサーからである。

 

自分がマスコミのトップだったと思って想像して欲しい。

 

大手スポンサーから多額な収入が入ってくるのを、市民のためにならないから、と言って断ったとすると、会社にとって大幅な減益となる。

それは株式会社においては、株主に対して背任行為とも言える行為となる。

 

つまり、企業のトップとして(あるいは中にいても)責任を果たすことは、その大企業が国民の利益を損ねていようが、全力で広告を垂れ流すことにある。

 

製薬会社にしても同様だ。全く効かない薬を売るのは流石に無理があるが、ある程度の見込み、現状より良くなる可能性が少しでもあれば、売ろうとするのが普通である。

 

□政治の機関構造を理解する

最後に政治家だが、残念ながら政治家は現状全てが国民に仕えているわけではない。

政治家とは、特定の利益団体の代弁者なので、その利益団体が国民ではない場合は、国民を弁護することはない。

 

何故ならば、政治家になるには、資金と票が必要である。

その両方を提供する相手がその政治家にとって仕える相手となる。

SNSなどで過激に企業のトップや政治家を批判する人々は、さぞ彼らは邪悪な人間だろうと、思っているかもしれないが、実際は批判している人間と大差ない、普通の人間であることが多い。

 

□個人ではなく機関構造に問題がある

ただ、個人がそれぞれの職務において、必要なことをしているに過ぎないのが実際は現実に近い。

 

従って、その一見すると邪悪な人間を追い出して、新しい人間をそこに差し替えたとしても、繰り返し全く同じ状態が作られていくのではまず間違いないだろう。

 

そしてそれは、おそらく現状批判している側が、そのポストに収まっても同じ行動を取るくらいに仕組み化されている。

 

では、その普通の人間がそれぞれの職務を全うすることで、何故人々が批判したくなるよう事態が生じているのであろうか。

 

それについては、「個人が不利益をもたらしている」、という発想自体に問題がある。(もちろん純粋に個人が悪い場合も存在するが)

 

それは多くの場合、個人のせいではなく、むしろ人が制度の奴隷、企業の奴隷、機関の奴隷のような構造となっていることから生じる、と認識しなければならない。

 

そしてこの人が「制度や機関の奴隷と化している」のが、「人間のロボット化現象」である。

 

まずこの状態を認識することが物事のスタートとなる。

 

□機関構造を議論する必要がある。

従って、国民に不利益が生じているとしたら、個人を批判・攻撃するよりも、機関構造そのものを議論していく必要がある。

 

例えば、マスコミが国民にとって不利益な報道をするのは、スポンサーが大企業であることに起因する。つまり、国民が資金を集め、新しいメディアを作れば、国民目線のメディアを作ることは可能である、ということである。

 

ここでマスコミという組織とそこに所属する個人を批判するよりも、よほど具体的な提案ができたと思われる。

 

仮にマスコミ批判を続けていても、株式会社という形態を取り、広告収入というビジネスモデルを取る限り、誰が社長になっても同じことを繰り返すだろう。

 

これは他の企業形態や政治家にも同じことが言える。

 

そして人間のロボット化は、このまま進むとどんどん加速していくことになる。

 

PHRと利便性の奴隷

その中心となるのが、PHR(パーソナル・ヘルスケア・レコード)を中心とした人間のデータ化である。

 

PHRの幅は広い。現在Apple watchなどで計測されている心拍数のような健康に関わる基本的な生体データから、遺伝子検査まで、人間に関するデータを蓄積し、それを活用して行こう、という領域である。

 

確かに非常に利便性があるが、個人のデータ、生体データを企業や国家が管理する、という状態はかなりのリスクを伴う。(中国の信用スコアなども一つのそうした管理社会的な副産物と言える)

 

しかし、そもそものPHRの発想というのは、文字通りヘルスケアの分野から生まれたものだ。

その人のパーソナルデータにあった処方をすれば、より製薬的にも予防的にもより建設的な提案ができる、その利便性から生まれたものであると言える。

 

その上では如何にリスクが伴っても、この流れ自体が変わることはないだろう。

 

だが、利便性を追求することに関してはトラップが潜んでいることに目を向けるべきだろう。

 

一つは、例えば、利便性だけを追求するのであれば、例えば選挙であれば全て電子投票にすれば良い、という発想が生まれる。

しかし、電子投票にすると今度は改ざんの恐れが生まれる(今もそれは0ではないが)だから、電子投票にするには慎重な議論をしよう、ということになる。

 

これと同じことが、本来はあらゆるビジネスにおいて考慮される必要がある。

しかしビジネスの実際はそんなことを一々考えていたら進まない、ということでそうした規制を嫌う傾向がある。

 

□人は目的や思想でもロボット化する

そのような思考を持つ代表格が、ホリエモンだろう。

彼の行動は、利便性や合理性に特化しているように見える。

利便性や合理性というところだけを追求すると、彼の行動は企業人としては正しいが、社会全体として、あるいは利便性以外の視点を考えていない、というところが危険視されたのが国策捜査による逮捕だと思われる。

(本人はロケットでまた同じことをやろうとしているので、まだその点は無自覚であるように見えるが)

 

ホリエモンは利便性あるいは合理性の奴隷のようである。

しかし、利便性に仕えて、他を無視したほうが、企業人としては成功し、その成功が雇用やイノベーションを産む可能性があることを考慮すると、それ自体を批判することが必ずしも正しいとは限らない。

 

人間は機関のみならず、ある種の思想や目的に対して忠実になればなるほど、その目的に対しては誠実な結果が出せるが、その他の命題に関してはそれを損なうことがある。

 

個人や企業が、利便性だけを追求すると、結果的に人々の不利益になることがある、という構造は先ほどマスコミの例で述べたのと同じである。

 

□行き過ぎた企業の利益追求をどうバランスを取るのか

企業人としての個人は、利便性を追求することで、才能が果たされる以上、ある程度企業人には自由に動いてもらいつつ、法や秩序はそれをどう制限するか、という議論をするのが本来適切な議論ではないだろうか。

 

だが、現状はそうした企業人の自由さで生まれた利益を、既得権を守るために国家が潰しにかかり、ホリエモン国策捜査のように、才能そのものを塞ぐような権力の行使をしているような状態ではないだろうか。

 

そのアンバランスさを議論するためにも、そもそもまずは構造上の問題を人々が正しく理解する必要がある。

 

□放っておくと人間はロボット化される構造

これまでの例を見ると、人間はある条件下においては既にプログラミングされたコンピューターと似たような動きをするイメージがわかるのはないだろうか。

 

「株式会社の社長」という立場に押し込めば、誰でも同じような行動を取らせることができる、というのは人間の脳にはそもそも非常にロボット的なところがあるからであろう。

 

洗脳、あるいはマインドコントロールなどといったものが蔓延るのも、同じ仕組みである。

 

あらゆる面で、人間は自分達が思っている以上にロボット的なところがあることを理解する必要がある。(これは人間がロボットだと言っている訳ではなく、そのような性質があることを理解することで、より人間らしさとは何か、という議論もより建設的になる)

 

そうしないと、企業あるいは政府の都合を追求すれば、あるいは国民が利便性を追求すればするほど、ますます人間は文字通りマトリックスのような電池パーツ化されていくだろう。

 

何故ならば、データの話でいえば、企業の立場に立てば個人のデータがあれば商売をしやすい。国家の立場に立てば、個人のデータがあれば、税金を取りっぱぐれがない。

 

そしてどちらも、最終的には個人はパーツ化してくれた方が合理的で利便性がある。

少なくとも国家や企業にとっては。

 

そうなると、ますます個人の人権や情緒的な都合など、脇に追いやられていくだろう。

そしてそれはもちろん、PHR、データという概念に留まらず全ての分野で生じている問題でもある。

 

□人間の本質とは何か

また、AIもディープラーニングによって、だんだん人間に近づいてきている。

AI研究というのは、実際は「人間とは何か」ということを深く知ることができる分野といえよう。

 

既に認知領域においては、哲学的なテーマが研究の下地となってきており、またむしろ生物学的な領域からAIに切り込むアプローチも存在するが、そうすると最早ホムンクルスの領域である。

 

AIを研究することが人間研究のようなものにもなっている。

そしてAI研究の副産物として、人間とはどういうものか、人間のどこまでがプログラミング的な思考をするのか、という点は今起きている人間のロボット化、構造の奴隷化を理解する役には立つだろうか。

 

いずれにせよ、今そして、これから目を向けなければならないのは、人間の本質についてである。

 

人間が利便性を追求すると、あるいは社会で責務を全うすると、それが人間に機関構造的に不利益になる。あるいはそのような状況になると、人間はロボット化する。

このような基本認識ですら、社会においてはコンセンサスが得られないのが現状ではないだろうか。

 

人間は宇宙ロケットを開発し、スマホのような超小型コンピューターも作り上げ、テクノロジー的な分野に関しては、非常に進歩したと言えるが、人間の内面世界においては、それに見合った進歩が見られているようには見受けられない。

 

教育の現場ではいじめが繰り返されるがなくならず、先進国では自殺が後を絶たず、お金はあっても誰もがストレスや悩みを抱えて生きている。

 

テクノロジーの進歩に対して、これらの問題が未解決なことはこうして並べて見るとそのギャップに驚かざるを得ない。

 

スマホは作れて、世界の裏側とは会話ができても、身近な人間との会話のストレスからは解放されていない。

 

そしてそれらの原因が人間の本質にあることに気がついてはいるものの、事態が前に進まないのは、基本中の基本のような前提、起きている現象というものを、実際は多くの人々は捉えられていないことにあるのではないだろうか。

 

従ってまずは人間が構図の奴隷になっていることを気づき、そこからようやく利便性や合理性との対話が始まるのではないだろうか。