IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

ワクチンと美容クリーム

今話題の無印良品の「リンクルケアクリームマスク」を使ってみた

 

実は最初の感想は、「乾燥が治らない」「効かない」だった。

Amazonレビューなら2.0点を付けるような話かもしれない。

 

でも使い続けていくと、肌質がだいぶ良くなってきた。

これはなんでだろう?とふと考えると、乾燥していた時期に

コーヒー勉強会とお茶会があったことを思い出した。

 

1日に、コーヒー8杯、お茶8杯みたいな飲み方をしていた。

お茶はわからないが、コーヒーは脱水するので、乾燥したのはコーヒーの飲み過ぎが原因ではないかと、気づいた。

 

ここでタイトルの「ワクチンと美容クリーム」について

健康や美容に関することは、関係性が一見するとわかりづらい、ということだ。

 

リンクルクリームは、本当は効いていたのに、コーヒーが原因で脱水していた。

危うくゲームならクソゲー扱いしてしまうところだった。

でも本当は、クリームではなく、単に最近水を飲むようにしていることが、肌に効いているのかもしれない。

 

健康や美容は食事、睡眠、ストレスなど様々な要因が絡み合うので

例えば、全く同じ時間に寝て、全く同じ食べ物を食べて、全く同じ仕事をしないと、何が理由で良くなったか、明確にわかりづらい。

 

ワクチンの副作用をぼやかすことができるのも、人によって症状が異なるのも、こうした理屈によるのだろう。

 

そしてこれはワクチンと美容クリーム以外にも当然当てはまる。

 

例えば、デートなんかもそう。酔った勢いとはよく言ったもので、お店の雰囲気、食事やお酒が美味しいから気分が良くなっているのを、相手が好きと勘違いする。そしてあとであれ?ってなる。

相手を喜ばせることは大事だが、見方を変えるとマインドコントロールのようなテクニックを使っているようにも見える。

 

レストランの評価もそう。食べログのレビューで評価が割れるのは、一つは美味しいと感じる「美味しさ」に個々のバラつきがあるが、食べた人のその時のコンディションにも左右される。

例えば、お店で酷い扱いを受けたり、嫌な客がいたら、例え味が良くても、評価は自然と下げてしまうだろう。

 

反対に自分の中で評価がある程度一定なのは、例えば読書などが挙げられる。

本を読んで楽しかったかどうかは、同じ本を読んで毎回変化するようなこともないし、よほど鈍感でなければ、この本が楽しいかどうかわからないなんてことはない。

 

これは読書は「本を読む」という「行為」に対して「面白いか否か」という関係が直接繋がっていて、かつ他の要因に左右されず、自分にとってわかりやすいからである。

 

ちょっとだけ数学っぽい話をすると、方程式で表すとこんなイメージである

Y=X

(本の面白さ)=(読んだ時の感じた面白さ)

 

これに対して美容は

Y=X

(お肌に良い効果)=(美容クリームを塗ったから)

とするには

お肌に対して影響を与える他の要素を一定にする必要がある。

すなわち

Y=X+aS+bT+cU+V

(お肌への効果)=(美容クリーム+ストレス+食生活+睡眠+ etc)

のうち、X以外の要素を無視できるようにしないといけない。(つまり難しい)

 

これは言い換えると、物事の因果関係を突き詰めるときに、パラメーターが多く判定しづらいものと、パラメーターが少なく判定しやすいものがある、ということである。

 

他にも、殴られたから痛いとかも、判明しやすいパラメーターである。

 

(パラメーターが多い群)

・美容、健康に関すること

・恋愛

・ファッション

・政治の評価

 

(中程度のカテゴリー)

・食事のレビュー

・旅行のレビュー

 

(パラメーターが少ない群)

・ダイエット

・殴られて痛い

・本を読んで楽しい

・映画やアニメを見て楽しい

・ディズニーランドに行って楽しい

・お酒を飲むと酔っ払う

 

映画やアニメは人によって、面白いと感じるものが違うだろうが、その個体差は今回のテーマではないので無視するとする。

 

また本や映画は、見たタイミング、つまり子供の時には楽しかったけど、大人になってからはつまらない、など時系列の変化はあり得る可能性はある。

 

またダイエットのように一見するとパラメーターが多そうに見えるが、実はシンプル(食べなければとりあえず痩せる)なものなど、バイアスによってパラメーターの誤解をしやすい場合もある。他にも例えば、美容に関しては高額な美容品さえ使っていれば、というのは誤解である。

 

ワクチンは最も変数の多いカテゴリーに属する、つまり、ワクチンを仮に打ったとしても

・激しい運動をする、もしくは全く運動しない

・酒を大量に飲む、暴飲暴食をする

・日常的にストレス過多、睡眠不足

このような状態であった場合、仮にワクチンが効いたとしても、他の病気にかかる可能性は大である。

 

健康、ヘルスケアはこのように項目が多いため、だから特効薬というものが難しい世界だ。ワクチンが良いか悪いかも大事だが、それ以前に自身の健康、ヘルスケアに対する価値観はどうなっているか、そこから見直すこと、そのためには大まかに何のパラメーターが関連しているか、把握することは大切ではないだろうか。(コロナや病気でいえば免疫のパラメーターが何か)

 

どんなに流行りの美容クリームを塗りたくっても、コーヒーを1日に8杯も飲んでいたら、お肌は乾燥するのである。

知性の整理②アインシュタイン神を語るより

アインシュタイン神を語る」というタイトルに惹かれ手にとってみた

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%80%81%E7%A5%9E%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8B-%E6%96%B0%E8%A3%85%E7%89%88-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B9/dp/4875024649

 

本の内容については割愛するが、ここでアインシュタインは「世界統一政府」「世界唯一の軍隊」の必要性について述べる。

 

これは政治的には極めて初歩の間違いと言える。

なぜなら、世界統一政府および軍隊を監督する機関がないと、それらが暴走した場合、つまり世界政府が暴君になった場合、止める術はないからだ。

 

ここではアインシュタインの真意の全てを本人と対話して引き出しているわけではないので、やや題材に取り上げるのは申し訳もないが、アインシュタインほどの知性を持っていても、これほど初歩の考え違いを犯すことに注目したい。

 

前回の続きから考えるが、まず、世界統一政府の難しさを理解説明するのに知識は必要としない。

 

アインシュタイン相対性理論を導出した思考の100万分1の思考時間で結論が出るようなものだ。すなわち、世界政府が暴走した場合どうするのか?という問いの答えが必要なことだ。

 

アインシュタインが初歩の過ちを犯したのは、二つの可能性が考えられる。

 

一つは認知のバイアスである、アインシュタインヒトラーユダヤ人を抹殺している中で、この発言をしている。ユダヤ人を守るためには、このシステムしかない、と感情的なものが思考を妨げていた可能性である。

(実際シオニストは世界政府を作って、その中枢をユダヤ人が握れば、自分たちに安全な世界を作れる、という思想を持っていても不思議はない)

 

もう一つは、前回の脳を「ハード」「ソフト」「入力」で分けて考えた場合、今回の話は「ソフトウェア」に該当する、ということだ。

 

例えるなら、アインシュタインは最新のエクセルを積んでいるが、それでパワーポイント的なことをしても限りがある、というイメージである。

 

ある特定の分野の処理に特化したソフトウェアは、その分野では強くても、一つ専門を変えると、十分に仕事を果たすことができない、という話である。

 

これはアインシュタインがイヴ=サンローランほど、ファッションに関しては優れておらず、反対にサンローランがアインシュタインほど、物理学に秀でてはいなかった、ということも同じ話である。

 

さて、今回本当に言いたいことは、仮にアインシュタインの真意がどうであっても、関係ない話であるから、アインシュタインの真意を反証されても問題はない。

 

すなわち、一般大衆が、アインシュタインが、世界政府が必要だ、という意見を述べたらどう思うかについてである。

 

ほとんどの人間が、アインシュタインが正しいと思ってしまわないだろうか。

 

おそらく脳内ではこのようなプロセスになるだろう

  • 頭が良い人の言うことは正しい

  • 世界政府は正しい

 

この安易な思考プロセスと、知識人の時に善意のある勘違いが、如何に世の中を狂わせているか。

 

これが起きるのは、人間が人間の知性というものをちゃんと理解していないことに起因するのではないか。

 

つまり、自身の思考プロセスを知り、専門家や知識人に思考を丸投げするのではなく、自分で考える頭を持たない限り、大衆は永遠に洗脳され続ける。

 

例えば、洗脳やマインドコントロールのテクニックとして、よく利用されていると感じるのは、「情報量」と「信頼」の因果関係である。

 

これは企業がCMを流すこともそうだが、人間は情報量が多い、つまりよく身近に触れるものほど、親しみを感じやすい、信じやすい、ということである。

政治家が未だに時代錯誤な選挙カーで、自分の名前や政党を連呼するのもこのためである。

 

これは言い換えると、CMを流すだけの資金量が多いほど、自分たちの正当性を主張しやすい、つまり「資本力」と「情報量」と「信頼」の因果関係を示している。

 

これは要するに、お金持ちが簡単に大衆に自分たちの主張を信じさせることができる、ということである。

 

ワクチンでこの話を見てみよう。ある時点でワクチン、反ワクチン両方の情報が出るが、反ワクチンの情報を締め付けワクチン肯定派の情報だけを流すとしよう。そうすると、大衆は自ずと、ワクチン肯定派を信じるようになるだろう。

 

これはワクチンに限らず、例えば、非常に重要な政治的な真実、科学的な発見、あらゆる益のある情報についても同じことが言える。

 

つまり、その情報を拡散さえさせなければ、大衆が信じることはない。

都合の悪い情報は全て潰す必要はなく、要は拡散さえさせなければ良いのだ。

 

これはつまり、資本家によって踊らされる大衆でいることから、自立した一市民となるためには、自身の思考プロセス、認知バイアスについてある程度理解を持たなければならない、ということである。

 

専門家を信じるな、自分の頭で考えろ、ということだけではある意味、不十分だ、と言っても差し支えないだろう。

 

「人間の頭は情報量が多い方を信じやすい、そして報道には誘導がかけられており、自分の脳はその誘導に引っかかっていないだろうか」

 

そのような思考ができる必要があるのである。

 

そしてこれは政治的には、投票行動の基本であり、政治家の資質にとっても基本であるはずが、思考もままならない政治家と選挙民ではおおよそ、まともなシステムなどできるはずもないものだ。

 

そのような中で、政策や日本の未来を論じていても虚しい絵空事にしか見えず、選挙もどこか茶番じみたものになってしまう。

 

知性というものを再度整理する

「頭が良い」「優秀」

巷で見かける、とてもフワッとしている会話の一つだ。

 

これを、人間の優秀さを、コンピューターで考えると、結構見通しがよくなる。

 

例えば、凄く計算が早い人間、頭の回転が早いような人間はパソコンでいえばCPUに置き換えて考えることができる。

 

CPUが遅いパソコンは読み込みが遅いし、処理も遅い。

人間であれば、瞬時に状況を分析し、意見を述べたりできるようなタイプだ。

 

続いて記憶力の話をしよう。

記憶力は記憶する量なら、パソコンのHDの容量が大きい方が、当然記憶量が大きい。容量をオーバーするなら、当然何かを消す。人間でいえば忘却する必要がある。

 

次に、意思決定プロセスの話に移る。

例えば、デートで店を選ばないといけないようなシチュエーションを想像してもらいたい。

 

この時、「イタリアンならなんでも良い」というリクエストを処理する場合、極めて単純なコーディングになる。

 

しかし、世の中のデートというものは、そんな単純なリクエストは存在しない。

大抵の場合「おいしくて」「雰囲気が良くて」とかが必要になる。

 

ここで、更により綿密なデートを立てる場合、雨の場合どうするか、駅からどうやって向かうか、も考慮に入れるとしよう。

 

そうすると例えば、「駅から近いがイマイチな店」「駅から遠いが美味しい店」

雨の場合は、駅から近い方がいいだろう、ここでif構文が一つ足される。

 

しかし、ここで相手の好みがどうだろうか、と考えるに至る。

そして「イマイチなイタリアン」と「美味しいフレンチ」はどっちがいいのかを考えだす。そうするとまたここでifやcompareが追加されることになる。

 

これは少しでもプログラミングをかじった人間なら直感的にわかるはずだ。

『Aが出たら○』『Bが出たら×』のような単純なプログラミングよりも

『Aの時は赤』『Bの時は青』『Cの時は緑』など、条件や選択肢が増える度、コードの数が増える。

 

つまり、意思決定プロセス自体は、今度はコンピューターで言うとソフトウェアの領域になる。

 

そしてコードが増えすぎて、複雑になりすぎるとソフトウェアがバグを起こすように、人間も意思決定が混乱しやすくなる。

(ただし、CPUが優秀ならどんなにコードが多くても処理が早いように、コードの数をハードウェアで補うことができるのも似ている)

 

だから、食べログのようなサイトが脳にとっては非常にありがたい。

点数だけを見て判断すれば良いからである。

 

余談だが、ワクチンや選挙のようなものは、このように対立する複雑な情報を与えることによって、人間の脳にバグを起こし、意思決定を狂わせる手法を用いている。

 

色々考えすぎて、面倒臭くなって、最後は食べログの点数で決める人間のように、思考が複雑になると思考停止し、その後極めて単純な解答を求めるプログラムが人間の頭には存在することを、おそらく利用している。

 

このように脳の仕組みを理解しておくと、洗脳やマインドコントロールというのが、パソコンのプログラミングレベルで簡単にできる、ということも思いつく。

 

話を戻すが、「頭が良い」「優秀」というのは頭を「ハードウェア」と「ソフトウェア」というものに分けて考えると、少しは言葉に重さが見えてくる。

 

直感的に計算が早い、記憶力が良い人間は、生まれつきの場合が多いだろうとわかる。これはハードウェアに関わる領域だからである。

 

そして、訓練や手法によって後天的に計算能力を身につけているのは、ソフトウェアの方である。例えば、暗記法を作るなどがそれに当たる。

 

□言語能力について

この考え方でいくと、複数の言語能力がある人間はどうだろうか。

 

まず、一つの言語だけなら大体誰でも使えるので省力する。

 

ちなみにヨーロッパ人は複数の言語を扱えるのが多いとされるが、彼らは日本人がハワイで買い物をできるレベルの英語力でも、自分は喋れる、と言い張ることが多いのと、スペイン語とイタリア語などは極めて似ているため、日本語と英語が話せるようなバイリンガルと比較するのは少し異なる前提を理解する必要がある。

 

言語の難しいところは、ネイティブレベルで考えた場合、かなりの語彙数の完全な暗記が必要なことだ。その意味では、ハードウェアが優秀でない人間が、複数言語をネイティブレベルで操る、というのは考え難い。

 

ただし、それに示唆はある。要するによく使う部分だけ抑えてしまえば良い。

要領と呼ばれるやつだが、これはソフトウェアに関わる話である。

 

つまり複数の言語をネイティブレベルに話せるような輩はハードウェアが優秀、うまくポイントを抑えてコミュニケーションが取れるような輩はソフトウェアが優秀、ということだろう。

 

□大学の偏差値について

 

大学の偏差値についても似たようなことが言える。傾向と対策を練るのがソフトウェアの仕事だ。ソフトウェアの優秀さは如何に目的に対してスマートなコードを入力するか、ということである。

 

□お金儲け

 

お金を稼ぐ、という論点に関してはあまりハードウェアが関係ないことがわかる。スペックの高いパソコンを買っても、それだけではお金を稼げないのと同じように、人間も処理が早くて偏差値が高くても収入に必ずしも比例しない。

 

□音楽的才能

例えばモーツァルトは逸話から想像するに、ハードウェアが優れている。

そして直感的に脳だけでなく、耳や三半規管といった、音楽に関連する身体機能のハードウェアが優れていたのではないかと推察される。

音楽に限らず、多種多様な天才というのは、生まれ持ったものであるから、脳+何かしらの身体機能が生まれ持って優れている、ということだろう。

 

そしてかの音楽家よろしく、性格や人格がキテレツになるのは、性格や人格はどちらかといえば、ソフトウェアの領域だと考えるとスッキリする。

 

よく性格が悪いが頭は良い、というのも、ハードは良いがソフトは悪い、あるいは良いソフトウェアがマルウェア付きでインストールされているようなものだろう。

 

□本質的な知性について

今回のテーマで最も言いたいことは、既に限りなく人間の知性にAIやコンピューターが近づいている、という話である。

 

今回挙げたのは一例に過ぎないが、プログラミングをやっている人間なら誰でも、かなりの脳の機能がパソコンと類似し、脳の処理がプログラミング言語とも類似していることに気がつくはずだ。

 

その上で、人間もAIも共通して不明とされるのが、「入力者」の存在である。

 

例えば、AIはそれ自体で何かをすることはできない。人間が入力し、なんのための計算か目的を与えることで計算結果を出す。

 

人間の脳も同じで、例えばそれがお金儲けなのか、大学受験なのか、ある程度も目的を定め、それに対して処理を行う。

 

つまり、人間で言うところの自我、意識、意思、そういった脳に対して命令を与える存在がAIではまだ見つかっていない。これをAIが獲得した時に、本当の意味でコンピューターが「人工知能を獲得した」と言えるのだ。

 

そして、知性においてはここが最も重要になる。

それもパソコンを例にとるとわかりやすい。

最高のスペックのハードウェアに、最新のOSをインストールさせても、何もしなかったり、単なる1+1の計算をさせていては、価値に乏しい。

 

人間も同じで、その能力をどのような目的のために、どのように消費するのか、ということが知性にとって最も重要ではないだろうか。

 

そのような知性観であるがゆえに、私にとって例えば世界平和を実現できないような知性の優秀さを論じること自体が、非知性的に思えてならない。

 

また、全ての天才に言い聞かせたいのが

「もし天才であるのなら、今すぐに世界をより良いものに変えてみせよ」と。

大衆とエスタブリッシュメントを再考する

いまの日本で最も話題性のあるような人物、例えばホリエモンやメンタリストDAIGOといった人間は、日本のエスタブリッシュメントからしてみたら、興味のない人々である。

 

しかし、100年経ったのちに、20世紀、21世紀にカルチャーを形成した人物として後世の人にもそう思われるのか、と思った時にふと浮かんだのが

 

19世紀20世紀のヨーロッパの音楽と芸術との関連である。

 

例えば、今の日本のエスタブリッシュ層でも、絵画であれば印象派、音楽であればモーツァルトくらいは知っているだろう。

 

しかし、当時、印象派といえば絵画で主流ではなくアメリカのMOMAが購入して値が上がったものであり、モーツァルトも自身は大衆向けに音楽を書いていたものが多い。

 

何が言いたいかというと、つまり、現在のエスタブリッシュメントは過去の大衆文化をあたかも、ハイソなもののように勘違いしていたら面白いと思った次第である。

 

つまり、100年後の日本のエスタブリッシュメントがいまの若者の間ではやっているようなポップカルチャーを貴族の嗜みのように耽っていて、そしていまのエスタブリッシュは100年前のポップカルチャーを賛美していたら、なかなかの喜劇であるということだ。

 

100年前の真にエスタブリッシュメントの間で流行ったことが、どれだけ現代に引き継がれているか、それを吟味する必要がある。

 

おそらく、それはほとんど表に出ていない、と考えるほうが真実に近いのではないだろうか。

 

もしくは、絵画やクラシック音楽の中でも、これはわかる人にはわかる、といった分類や、あるいはこの画家、この音楽家は大衆にも人気があったが、エスタブリッシュメントに好かれた、というものもあっただろう。

 

ほとんど表に出てこないもの、あるいはクラシック音楽の中で、モーツァルトの中で、どれがなぜ良いのか、それは自身にそれを見極める力が備わってないとわからない。

 

つきつめると、大衆とエスタブリッシュメントの差は、ショパン好きか嫌いかではない、なぜショパンが好きか嫌いか説明できることに尽きる。

 

例えば、大衆はカバンを買う時に、「ブランド」で買う。「ルイ・ビトン」という名前があるから買うのである。

これに対して、エスタブリッシュメントは同じビトンを買うにしても、そこにストーリーがある。そしてそこに買う理由(日持ちが良い、革の質が良い、作りが良い、アフターケアが良いなど)が備わってなければ、そのブランドのものは買わない。ブランド自体をそもそも大衆と違う視点でみている。

 

これは成金=大衆と置き換えても同じである。

成金がよく真の富裕層に揶揄されるのは、表面的でモノの価値を知らないにもかかわらず、お金にモノを言わせてなんでも手に入れるからである。

 

この分類は今まで、あまり言語化されていなかったものである。

つまり、大衆とエスタブリッシュメントを分ける本質的な境界線は

家柄でも学歴でも、お金でもなく、ストーリーである。

 

ストーリー、つまり、なぜそれをするのか、が説明できること

これはセンスや思考力、自己認識といったもののほうが比重がおかれる。

 

つまり、大衆がエスタブリッシュメントになりたいと思うなら(エスタブリッシュメントになりたい、という動機自体が大衆的だが)必要なのは、お金でもタイトルでもなく、センスや思考力を身につけるべき、ということだ。

 

実際、驚くほど、富裕層は一つ一つ細かいことにまで造詣が深いことが多い。

生まれ持ってそういう環境で育っている人もあるだろうが、センスや思考力があるから、後天的にエスタブリッシュメントになっている人も少なからずいるのはそのためだろう。

 

芸術について考えてみる

職業アーティストではない自分がアート、芸術について考えてみた。

 

芸術を語る時にしばしば、「斬新さ」が問われるような気がした。

 

人が思いつかないもの、新しいもの、驚きや意外性を持ってアートとは評価をされるもののような気がした。

 

人と同じものを作っても模倣であり、ありきたりなものを作ってもそれはなんらかのアウトプットであってもアートとは呼ばれない。

 

一つ料理の世界で考えてみる。

 

料理において、肉をどんなに美味しく焼いても、それを芸術と呼んで名をつけることは難しい。

 

その器に関してもそうである。

 

肉というものを、テーブルにサーブする時に、「肉」という固体の「色」や「形」そしてテーブルという「機能」の範囲の中で、自然に器は決まってくる。

 

機能が、そのモノの在り方を制約する。

 

例えば、肉が液体であったら、コップに入れてサーブをすることもできるし、肉がお菓子のように鮮やかな色合いを持っている食べ物であれば、その鮮やかさに負けない器の色も使うことができる。

 

芸術、アートとは、このモノが持つ機能との対話のようなものである、と感じた。

 

美味しい肉、というものを最も良い状態で、見栄えが良くサーブすることを考えた時に、その選択肢は自然と決まり、デザインに導かれていく。

 

これを芸術的にしようとするのであれば、その機能そのものに挑戦することになる。

 

単なる、意外性を持ちうるには、その肉の持っている本質の一つ、

つまり、「美味しい肉をサーブする」というものを破壊してみせることで表現できる。

 

例えば、肉を液体化してジュースのようにしてしまうことや、跡形もなく分解して、着色し、全く違うキャンディのような食べ物に変えてしまうこともできる。

 

器という機能も同じだ。肉のサイズ、テーブルのサイズを無視し、テーブルよりも大きな皿で、肉とは不釣り合いな煌びやかな色の器でサーブをされた絵を写真に撮って、「これはアートだ」と言われれば、確かにそれっぽくは見える。

 

そして、肉を食べ物、人間の栄養、という機能だけを本質とするなら、器も肉を置くだけのもの、とするならば、その機能はなんら失われていない。

 

一方で失われるものがある。それは、肉を焼いたときの香ばしさ、色、歯ごたえ、食感、それによってもたらされる幸福感といったものだ。

 

肉にまつわる、「侘び寂び」のような風情、文化的なものは原型を破壊することで、味わえなくなる。

 

これは住宅や衣服でも同じことが言える。

 

住宅を単なるシェルターだと言えば、どのような狭く殺風景な家でも、家と呼ぶことができ、衣服も身を覆い寒さを凌げれば衣服と呼べるなら、衣服と呼ぶ。

 

衣食住、それぞれが持っている本質的な機能というものは、ある意味、誰もがわかっている。その本質がもたらす、モノ自体が持っているものに導かれた結論というものを、芸術家、アーティストというものは破壊しにかかる。

 

ある意味、予定調和と思われるような、機能の制約によって決まってしまうデザインを、神の作り出した制約のように彼らは感じるのだろう。

 

しかし、その破壊した本質は「形」であれ「色」であれ、その破壊の仕方にもパターンがあることに気づき、それであれば、とモノの持つ本質的な機能を破壊し尽くし、それを「アート」と呼び、そうしたことに疎い人間に売ることも発明された。

 

普通のキャンディの何十倍の値段をするキャンディのようになった肉を見て、アートと呼ぶか、普通のキャンディを食べたほうが良いと思うかが、個人の感性に委ねられてしまう。

 

「斬新さ」と言えば、聞こえは良いが、斬新さが宗教となってしまうと、門外漢の人間には最早理解のできない世界観になって行く。

 

肉、というものの本質を崩さずに、サーブすることがなぜアートでない、となるのか?

 

例えば、これを肉とワインのマリアージュ、出されたときの部屋の温度、サーブした人間の持つ空気感など、最高の肉を出すために努力する箇所は無数にある。

 

器についても、その肉の色や香りを引き立て、あるいは食べやすくするための余白が存在するのは確かである。

 

レストラン、ミシュランを取るような店というのは、そのような「肉の本質」を損ねないまま、最高のものを提供する努力をする。

 

それは家であれば居心地の良さ、衣服であれば着心地の良さでも言える。

そういったモノが、言うほど現代に溢れているだろうか?

 

本当に居心地の良い家、住む人のことを考え、設計された家が今の日本にどれだけあるのだろうか?

 

芸術家、アーティストたちが「退屈」で「斬新さがない」と切り捨ててしまった領域にどれくらいの余地と可能性があるのだろうか。

 

ある意味において、アーティストは生活のために、門外漢でも、「斬新」とわかるようなものを作らざるを得なかったかもしれない。

 

例えば、質の良い肉はただ焼いて塩をかけるだけでも美味しい。

その部屋の温度や、器にいくら時間とお金をかけても、そのアーティストにしかわからない差を、門外漢は、普通は理解することはできないからだ。

 

その意味で、アーティストを「斬新さ」に走らせたのは、多くの門外漢であり、素人たちなのかもしれない。

 

アーティストが大衆に合わせた時、文化は失われる。

それは「斬新さ」という宗教を追い求めることによって。

 

一方でスティーブ・ジョブズのように、自身の持つ斬新さとモノの本質、そして大衆のニーズを一致させられるアーティストも中には存在する。

 

iPhoneは電話という機能を引くのではなく、機能を「足す」ことによって

電話でありながら、電話の常識を変えてしまった。

 

ジョブズの行った革新に、一切の電話としての機能の損失はない。

 

電話という機能を破壊して、「これは新しい電話だ、これがアートだ」、と主張するような者たちには、iPhoneは単なるビジネスであり、アートとしては認められないだろう。

 

そもそも門外漢には、アーティストの言うことの違いなどわからない。

アーティストだと名乗り、売れていてメディアに露出していれば、立派なアーティストが誕生する。

 

本質を損ねず、表現したアーティストと、斬新さを追い求め、破壊し尽くしたアーティストとを、異なるアーティストとして見做さない。

 

それは両者を区別する単語が存在しないことからもうかがえる。

アーティスト、芸術という大きな単語で括られてしまって、もはやそこにある種の実態が存在しない。

 

これはあらゆる芸術に当てはまる。

 

大衆は芸術を区別し、芸術家は本質の中に大きな余白があることを再認識するタイミングが来ているのではないだろうか。

 

そして、芸術はアーティスト、専門家のものではなく、誰もが所有するものであり、それは文化であり、最も人間らしいものの一つではないか、そのように感じる。

○○を作ってみてわかった、なぜ日本はご飯が美味しいか

日本はよく「ご飯が美味しい」と言われるが、その理由はなぜかは不明であった。

 

「海に囲まれ山があるから」

「食文化があるから」

「日本人がグルメだから」

 

この辺の理由が上がるが、イタリアもフランスもそうだし、

日本だけの理由としてはイマイチ弱い。

 

そんな中、なぜ日本のご飯が美味しいか、

それがある料理を作ることで明らかになった。

 

その料理とは「ハンバーガー」である。

 

順を追って説明したいと思う。

 

まず、アメリカに住んでいた自分からすると、

日本のハンバーガーはまずい。いわゆる人気店とか行ったところで、

「食べられなくはない」くらいのレベルである。

 

だがしかし、初めてハンバーガーを自作してみてわかった。

日本で美味しいハンバーガーを食べようと思ったら、アメリカのレシピで自作したほうが、圧倒的に美味しいことに。

 

そしてこの事件がそのまま「なぜ日本のご飯が美味しいか」という謎を解き明かす鍵となった

 

同じようにアメリカでは美味しいのに、日本だとまずくて食べられないのが

「ピザ」と「ホットドッグ」だ。

基本的にアメリカはほとんどのもので日本よりも食は劣るのだが、ステーキ、ピザ、ホットドッグ、ハンバーガーだけは日本よりも遥かに美味しい。

 

チーズや牛肉が違うのもあるが、結局ポイントは

「家でその料理を作るか作らないか」にあることに気づいた。

 

基本的にアメリカ人は家では料理を作らない。

専業主婦のような文化がないため、大抵は冷凍食品で済ますことが多い。

たまに家で作るのがハンバーガーやホットドッグなのである。

 

つまり、家で美味しいハンバーガーが食べられるということは

外食してお金を出してまでハンバーガーを食べるときというのは、

・より美味しい

・より安い

・それ以外の何か特徴がある

大きくはこの3パターンに分かれる。

マクドナルドは2、3番目のパターンに当てはまる。

 

つまり、家で料理を作ると、それ以下のものは、外で食べるようなものでない、となるのだ。

 

これが日本の食が美味しい理由に繋がってくる。

もちろん、日本は美味しい食材が手に入る環境にも恵まれているが、

「家庭における料理のレベルが高い」ということが本質的な理由ではないだろうか。

 

日本の家庭では和洋中イタリアンといったバリエーションに富んだものが、家で食べることができる。

 

料理を作れる人はいなくても、コンビニや惣菜でも和洋中のバリエーションがごく当たり前のようにある。

 

アメリカ人は家では和食は作らない。当然和食の味がわからないから、アメリカで食べる和食は美味しくない。

 

同じように日本人は家ではハンバーガーを作らない。

だから、日本で食べるハンバーガーは美味しくない。

 

これはイタリアで食べるパスタが美味しいこと、中国で食べる点心が美味しいことにも繋がってくる。

 

家庭で料理を作り、その料理の水準が高ければ高いほど、外食のレベルが上がるのだ。

 

また、日本の寿司のように、回転寿司という安いラインと板前という高いラインが両方あることも、そのジャンルの料理のレベルを引き上げる。

 

なぜなら同じ寿司が食べられるなら、より美味しいものでないと、あるいは特別な付加価値がないと、高い方の店には行かないからである。

 

回転寿司レベルの寿司を出すが値段は倍する寿司屋には誰も行かないだろう。

 

なので、その国の料理のレベルを上げたいときは、その上げたいジャンルの料理を家で美味しいものを作れるようになってくると、レベルアップしていくことになる。

 

日本でもアメリカ人やオーストラリア人が納得するピザやハンバーガーを食べられるようにするには、ピザやハンバーガーを作る家庭を増やすことなのだ。

Netflixドラマ「ビリオンズ」に見る新しい経営のカタチ

Netflixのドラマ「ビリオンズ」はヘッジファンドと連邦検事との戦いの実話を元にしているドラマだ。

https://www.netflix.com/title/80067290

 

そしてモデルとなった投資家スティーブ・コーエンは未だに現役というのも興味深い。

(普通こういうドラマは、引退した後とかで作られるものなのに)

 

ビリオンズのドラマの内容自体の面白さは、ここでは割愛するとして

興味深いと思ったのが、ボビー・アクセルロッド(アックス)率いるAXEキャピタルの経営システムが、これまでの経営システムと大きく異なる点だ。

 

AXEキャピタルは

アックス(CEO)

ワグズ(COO)

ウェンディ(人材コーチ)

 

という役員構図なのだ。

 

例えば普通の企業、大企業であれば

CEO、CFO、COO、CTO

代表取締役、取締役、執行役

などといった肩書きが並ぶ

 

あるいはベンチャーで3人役員であれば

CEO、CTO、COOのパターンが多い。

 

AXEキャピタルはIT企業ではなく、ヘッジファンドなので、CTOは要らないかもしれないが、それにしても今までにない構図である。

 

CEOであるアックスとCOOのワグズの業務は従来のものとさほど変わらない。

アックスはリーダーであり、最高意思決定責任者であり、彼がヘッジファンド一の稼ぎ頭で、彼に並ぶものはいない。

 

COOのワグズはそんなアックスの無茶ぶりを淡々とこなす。なんでもやるところが実にCOOっぽい。

 

そして優秀だがムラのあるトレーダーたちをコントロールするのが、ウェンディの役割である。パフォーマンスが落ちたトレーダーを回復させ、やる気のない人間に火をつけ、組織の中のいざこざをコーチングで導き、巧みに取り除いて行く。アックスやワグズでさえ、彼女の意見を仰ぐ。ある意味、陰のCEOであり、経営者でもある。しかし、ウェンディの経営スタイルは、従来型の経営者ではない。

 

従来型の経営者のやることはCOOのワグズに近い。プロジェクトマネージメントであり、CEOと社員との間に立つような位置付けである。

 

それに対して、ウェンディはどこまでもHR領域で、人間のインサイトによって、人間のパフォーマンスを高めることに特化している。

しかし、本来であれば経営は人を扱うことであり、ウェンディを経営のプロというのは、本来の意味に近いようにも見える。

 

これは起業、経営の黄金比率ともいうべき

イノベーター(アックス)

パートナー(ワグズ)

メンター(ウェンディ)

 

という構図も持っている。

しかし、これまではメンターというものは概して、社外に存在するものだ。

例えば、社長のメンターが社内にいる企業。あるいは、人材コーチが社内にいる企業を見たことあるだろうか?

 

従来型の企業はこれらの機能は、社外とされてきた。

この点においても、全然違うのだ。

 

もちろん、ヘッジファンドという一人一人が独立性を持ち、彼らのパフォーマンスをあげることが重要である業態であるから、この形態が成り立つ可能性もある。

 

しかし、一人一人の性格や才能を的確に捉え、組織を一つの目標に向かって整えるのは、本来は必要な機能ではないだろうか。

 

これまでの経営組織は言ってしまえば、プロジェクトに重きが置かれすぎていて、人間の才能やポテンシャル、組織の摩擦を取り除くことには鈍感になり過ぎてはいないだろうか?

 

人間の能力を最大限に発揮して、経営目標を達成するような組織であれば

むしろウェンディのようなHRのプロフェッショナルが経営陣に必要なのではないだろうか。

 

この点、日本におけるHRといえば人事採用、それも履歴書と職務経歴書のレビューとインタビュー機能に過ぎない。心理学のPhDやコーチングの能力を問われることはない。

 

つまり、人事の経験があることがいまの日本における、プロフェッショナルの意味であり、それは「人間のプロフェッショナル」ではない。

 

心理学やコーチングの知識がどこまで有用か、というところには議論の余地があるが、少なくともアメリカはその分野で進んでいるのはドラマの中からでも垣間見える。

 

整理するとAXEキャピタルは以下が全く新しい

 

・人間のプロフェッショナルをHRのトップに置く

・メンターやコーチといった機能を社外ではなく社内に置く

 

これは経営システムのイノベーションではないだろうか。