※以下本作品の重大なネタバレを含みます※
===================================
本作品は、第76回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞した作品で、海外からも評価の高い作品である。
内容としては、誰もが「怪物」に見えるけど、「怪物」は誰もいない、というまさに日本の闇、日本の現状抱える問題の本質を、見事に描写している。
作品の内容を含めて補足すると、例えば学校でモンスターペアレントと化す親は、実は子供思いであり、だが学校側の視点ではモンスター化しているように見える。
同じように、教師は生徒を守るため、校長先生も学校を守るためにモンスター化しているように見える。
しかし、誰もが、日常に目を当てて、その動機に目を当てると、皆が守りたいものがあり、誰も悪意はなく、怪物(モンスター)はいない、というのが本作の要旨である。
これは確かに日本の現状、本質を見事に捉えて僅か数時間で表現した凄い作品ではあるが、個人的には二つ大きな違和感がある。
まず一つ目、これは海外向けの作品ではなく、国内向けの作品ではないか。
日本の闇をもっとリアルに感じるべきは日本人であり、外国人がこの作品を見ても、半分はコントにしか見えないのではないか。
例えば、アメリカ人なら、この作品を観て
「言いたいことがあれば言えばいいだろう」
という感想になるのではないだろうか。
もっと言えば、この作品を観て、外国人は日本を好きになったり、日本に来たいと思うようになるだろうか。
日本の闇を全世界に発信するよりも、もっと日本の良さを海外には伝えることではないだろうか。
もう一つは、「誰も怪物はいない」という結論である。
つまり、誰も悪くない、ということを言っているようだが、それは誤りであり、
怪物は言い過ぎだが、全員「悪い」と思う。
何が悪いのかと言えば、この作品で描かれている怪物たちは、結局、相手との対話を諦めている人たちばかりだからである。
学校の教師を問い詰める母親は、教師や学校を信用していない。
学校の教師や学校は、母親は感情的になっていて、どうせ言うことを聞かない、そのような決めつけの前提の上に会話が行われている。
そして全員、自分の価値観や立場でしか物事を話していない。
相手の立場を考え、その上で自分の立場からの主張をせず、ただひたすらどうせ相手はわかってくれない、という心を閉ざしたまま、感情の一方通行の会話を繰り広げるだけである。
これは悲劇ではなく、喜劇である。
先ほど、欧米人からは新しいコントに見える、とう話をしたが、彼らはそもそもお互いが違う前提に立ち、だからお互いの意見の主張をする文化である。
だから、お互いの違いを考えもせず、主張もせず、ただ黙ったり自虐したり、感情的になるのは、彼らの頭では理解できないだろうから、おそらく、コント、喜劇に見えるだろうな、と思うのである。
おそらく、この作品を見た多くの日本人も、是枝監督と同じ「怪物はいない」という世界観、だから仕方ないよね、で終わってしまっているのではないか。
そこを、決定的に日本人は間違えているように思う。
そうではなく、お互いの立場が違うことを認識した上で、対話を重ねることこそ重要なのではないか。
それができない日本社会はとんでもないモンスター社会であり、
相手の立場を考えず、一方的に自分の価値観を主張し、対話に応じない日本人も同じように悪なのである。
このような場面は今の日本でいくらでも目にすることができる。
例えば、役所の窓口で訳のわからないクレームをする市民、あるいはいまだにお客様は神様だと思い込んで、上から目線で言いたい放題、店員に言うような人間も、きっと家族や友人から見たら「怪物」ではないかもしれない。
役所でもあるいは飲食店であっても、従業員も同じ人間で、客と従業員の間に人間としての上下はない、この基本がわかっていない、悪を持っている。
SNSなど最たる例である。相手のことを知りもしないで、一方的な悪口を書き込む。相手が傷つくなどまるで考えもしない、悪そのものだが、きっと一人一人は税金を納める良い市民なのだろう。
日本と日本人は大きな捉え違いをしている。
是枝監督が描いた、「怪物」はいないのではなく、確かにいるのである。
悪は存在する。そしてそれを悪いことと認識しない、あるいは仕方のないことと思い込み、みんなで貧しく苦しもう、となっているいまの日本は本当に側から見たらコントのようなものであると思う。
・相手の立場を考えない
・相手の価値観を考えない
・お互い違うと言う前提を持たないコミュニケーションをする
・そしてその結果、悪意がないけどみんな傷ついている
・でもみんな悪くないよねと開き直って何も問題解決しない
・立場の違い、価値観の違いを考える
・お互いの違いをもとにコミュニケーションをする
・やれる人、場所から始める
基本的に対話を日本人が避けるのはおそらく大半が「面倒くさい」「争いたくない」と思っているからではないか。
しかし、その対話を怠ったが故に、「より面倒くさく」「感情的に争うこと」に発展していることも、この映画を見るとよくわかるはずである。
本作の主要なテーマでもある性に関する話もそうである。
自分の性に関する価値観を一方的に押し付けるようなことは、やはり悪ではないだろうか。
怪物は確かにいる。そして、日本人一人一人の「相手と立場や価値観が違う」という前提を間違えることを餌として、その怪物たちは生まれてくる。
■補足としてコミュニケーションの問題
お互いの価値観を尊重し、対話を重ねる上でもう一つ欠かせないのが、お互いの信頼関係である。
この点において欧米社会は、前提がそもそも違う民族、信頼関係がない前提を主としている。だから契約書のような文化が生まれる。
同時に彼らの文化はお互いの主張をしても、それはそれ、と割り切る、あるいは仕事とプライベートを切り離すことで問題を回避しているように思える。
これに対して、日本の場合、信頼関係を築いた上で、話し合える土壌が存在することが、欧米文化と比べた相違のように思える。
その根拠として性善説とかなり近い文化と言語を互いが持っていることにあるのではないか。
従って、日本の場合(こちらの方が世界に発信するテーマとして相応しいように思うが)欧米にはできない「信頼関係に基づいた対話」が可能な文化を持っているのである。
また、上記のような対話ができないのは、信頼関係がないからであるとも言える。母親は教師のことを知らない、校長も教師のことを知らない。
もう1段階掘り下げるので出れば、今の日本の闇は、お互いが信頼関係を築き、対話ができる土壌があったものの上に、欧米型の信頼関係がない前提の商慣習を含めた社会システムをそのまま詰め込んだことによるミスマッチにあるとも言える。
これはmacにwidowsをインストールしたら動作不良が増えたという例えがIT人にはわかりやすいかもしれない。
従って、まずは信頼の回復、本作品の例で言えば、まずは親と教師が対話をすることから始めるだろう(そういうと今の忙しい教師にそのような時間はない、となるので、そこを制度から見直す必要があるということでもある)
本作品のように、親と教師が分かり合えた時は、取り返しのつかない瞬間、そうなっては悲劇なのだから。
※最後に全体的に「欧米」「日本」といったざっくりした表現をしたことをご容赦願いたい。これは、詳細さよりも簡潔さを優先した文書方針という意図である。