IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

政府用語集解説①

政府が使う単語用語は、日本人の本音と建前のようにわかりづらいものがあるので、本当はどういう意味なのかを解説していきたいと思います。

特に英米は言葉使いが非常に巧みで洗練されています。

 

独裁国家

グローバル資本の言うことを聞かない強い政治家がいる国のこと

反対に独裁者であっても、外資の投資をどんどん受け入れる国の独裁者は素晴らしい指導者と呼ばれる。

 

グレートリセット

官僚による全体主義の構築

要するに政治家を通して何かをやろうとすると民主主義だと面倒なので、政治家の上に官僚や経済エリートを持って来てソ連みたいなことをやりましょうという意味。

ダボス会議はその実行メンバー集めのコミュニティで、全体主義なので監視社会、ベーシックインカムとセットに議論されることが多い。

 

●グローバルスタンダード

外資と米英に都合の良いスタンダードのこと

 

SDGs

中国を叩き、新しい環境利権を作ろう運動

政治文脈が使う意味と一般に浸透している意味が違うことに注意

 

●移民政策

正規雇用を減らして企業利益を上げよう。そして移民利権も美味しいです。

 

マイナンバー

資産課税するからタンス預金減らせ、な

 

陰謀論

人々をマインドコントロールしてたので、ネタバレやめてください

 

自然エネルギー

太陽光パネルの業界から献金がありまして

あと、新しい産業作って経済回したいっす

 

●バイオミート

バイオミート食品の会社から献金がありまして

あと、新しい産業作って経済回したいっす

 

ムーンショット計画

なんかすごいこと多分できるので、税金で研究開発費よろしくお願いします

 

●前例がないので

責任取りたくないのでやりたくないっす

 

●専門家が言うには

専門家が言えば人々は思考停止に信じるだろう

 

●国連が言うには

国連とか言えば人々は思考停止に信じるだろう

 

●検討します

しません

世の中を変えるには、富でも影響力でもない、本当に必要なものはなにか

多くの人が

・総理大臣になって権力があれば
・大金持ちになれば
・有名人になって影響力があれば
・あるいは天才であれば
・もっと甘い人は志さえあれば
世の中を良くできる、変えられると思っているのではないでしょうか。

まず残念ながら、歴史と現状を見る限りその全ては失敗に終わっています。

 

■富、目的がなければ無意味なもの

まず、富です。

例えば、一時期ホリエモンライブドア旋風を起こし国政に出ようとしましたが、敢えなく逮捕されました。
またロックフェラーやロスチャイルドといった噂の大富豪の面々も、結局自分たちの利権を守る方に流れるので、世の中を良くしようということに現実なっていません。
お金持ちになれば、世の中を良くできる、変えられるというのは残念ながら幻想と言えます。
きっと自分が高い家や服を買うということは実現できるでしょうが、世の中を変えるのはそれだけでは叶いません。

今の世界中の大富豪は誰1人として世の中から戦争一つ無くすことができていません。

 

■影響力、幻想の産物

次に影響力です。何回総理大臣が変わっても日本が良くなる様子はありません。
いい加減無駄だと気づいても良い頃でしょう。
政権交代も一度ありました。
そして松本人志のように、影響力のある人物であっても簡単にメディアによって葬られてしまいます。
マザーテレサは多くの人の心を打ち、多くの人を救ったかもしれませんが、世の中を変えるには至りませんでした。
一個人のなし得ることは偉大ですが、影響力だけでは限界があります。

 

■権力、単なる投資家の使いパシリ

アメリカの大統領であっても、日本の総理大臣であっても選挙にはお金がかかるそうです。

そのお金のために、投資家、お金を出してくれる人の言うことを聞かざるを得ません。

世界一の権力者、日本のリーダーなどというのは単なるハリボテです。

彼らはスポンサーの単なる使いパシリに成り下がります。

こうして政治権力が役立たずになっていきます。

 

■知性、天才を名乗るなら貧困の一つも無くして見せよ

次に知性を検討しましょう。
歴史上最大の知性が集まったのは、近現代で代表的なのはマンハッタン計画でしょう。
映画オッペンハイマーで観るように、アインシュタインファインマンノイマンといった最高の知性が集まってました。
しかし、彼らが作り出したのは原子爆弾であり、アインシュタインほどの知性をもっても、戦争を止めることはできませんでした。
その後、ハイエクが世界賢人会議よろしく、モンペルランソサエティを作りましたが、EUは未だ多くの問題を孕んだままでいます。
世界のエリートダボス会議も、今ではエリートたち自身の思い込みとは裏腹に、日々醜態と傲慢を晒すだけの集まりになっています。

自分は天才、エリートだと思い込んでいる人たちは、口ほどにもないほどに何も成し遂げていません。

 

■志、甘すぎて最早響かない空想の産物

そして最後の志です。
志だけで世界が良くなるなら、世界はとうの昔に戦争のない世界になっているでしょう。

 

そしてこれらの現実は今の若い人々は皆気づいていることだと思います。

自分が総理になれば世の中を変えられる、そのような大人の戯言にうんざりしているのが、いまの若い世代なのではないでしょうか。

いまの若い人が支持できる、本当に世の中を変える手段、それはワールドトリガーよろしくの戦略と戦術、そして運になります

また、運というのは更に具体的にすることができます。それはタイミングです。

天の時を見計らうことになります。

ワールドトリガーはまさに今の若者の現実感を代弁しているセリフであり、今後このような発言をする人も現れ始めると思います。

戦略と戦術、運、つまりタイミングを図って世の中を大きく変えることを実現した人物は歴史的には何人かいます。

 

その代表例の1人がキングダムで有名な秦の始皇帝になった政です。

政は中華統一という目標実現のために、戦略と戦術を立てて中華を統一しました。
そして時代が僅かにズレていれば、秦はそれを成し遂げられなかった可能性があります。  

政はキングダムで見ればわかるように、楚王と比べて最初から権力を持っていたわけではありません。また経済は呂不韋に劣り、武力は蒙武に及ぶべくもなく、知性は韓非子に及ばないでしょう。

しかし政だけが、中華統一に対して具体的な目標と戦略と戦術がありました。

富も知性も権力も、目標と戦略と戦術に紐づいていました。というよりも、本来目標や戦略と結びつかないと、意味がないのです。

多くの人が、目標も戦略もなく、たた喚くから運動になって終わっていくのです。

また、お金があれば、権力があればと考えているうちに人生が終わるか、お金や権力を手にした瞬間、これまで批判していた体制側と同じことをするようになっていくのも何度となく歴史では繰り返されています。

 

ですから、我々が世直しを言う人間を見るときは、目標があるのか、それに対して戦略や戦術があるのかで評価すべきであり、同じように我々が世直しを言うのであれば、常に戦略や戦術があることを理解してもらう必要があるのです。

 

多くの世直しを口にする野党や芸人が思いばかりを口にしますが、それは時代に合っていません。

具体的になぜ自分が総理になれば、何がいまの権力者と異なり、それをどう実現できるのか、その説明ができない人間はことごとく、ここ半世紀の間繰り返してきた同じ失敗しかしないでしょう。

 

そして最も重要なのが目標、つまり大義です。

完全な戦略や戦術も、それが目指すところが人の不幸や自己中心であるなら、それは人類にとって災いになります。戦略と戦術に大義が加わる必要があります。

そしてある意味、いまの時代、大義はわかりやすいところにあります。

それは人々のための政治、市民のための政治です。

秦の始皇帝のような中華統一のようなものとは違う、誰でも思い描き実現できる可能性を持ったものです。

誰もがその大義のためにできることがあり、その大義を実現したら影響を受けます。

誰でも簡単に持てる大義であり、戦略や戦術も少し考えれば良いし、思いつかない人はキングダムの信のようにそれを考えられる人と共にいれば良いだけです。

ですから世の中に少しでも疑問を感じ、世の中を良くしたいと思う人は、まず身近なところにある大義に目を向けてください。そしてその大義を実現できる戦略と戦術を考えるところから始めることです。

それは、富でも権力でも知性でもなく、誰でもなし得ることです。

そしてその想いが真に迫る時、政のように後からそれらのものは必要なだけ、ついてくるのではないでしょうか。

薬屋のひとりごと 今日本人が気づくべきこと

本作品のあらすじは、人攫いに遭って宮廷に売り飛ばされた薬屋の少女が、宮廷内で毒見役として徐々に頭角を現していくストーリーになっている。

 

設定だけを聞くと、相当重いように聞こえるが、実際観てみるとラブコメの要素ありの全体的に明るく描かれている作品である。

 

このアニメには実は日本人が気づくべき本質が詰まっているが、言われてみないと気が付かないと思ったので、解説を試みる。

 

主人公の猫猫(これでマオマオと読む)は薬屋であり、設定で強化されているが、毒が大好きなのである。

 

通常、毒味と言えば、いつ主君の代わりに命を落としてもおかしくない、現代では認められない、誰もが就きたくない仕事のはずである。

 

そのような仕事だが、薬屋であり、毒が大好きっ子の猫猫は喜んで毒を飲みに行く。

 

猫猫は全体的に明るい。

だが、宮廷に売り飛ばされる前も、足の不自由な父親と貧しい暮らしで、娼館の世話になり、わざと化粧で顔を醜女にしないと売り飛ばされるような治安の街に住んでいる。

 

これも設定だけ聞くとだいぶ陰鬱だが、当の猫猫は宮廷も自分の育った荒れた環境もたいして変わらない、と言って宮廷から出られるようになった後も、割と自由に行き来をする。

 

おそらく多くの日本人が最初に思うのは、猫猫可愛そうで、その後すぐに、その気持ちが薄れていく、それが本作の視聴者の心境の流れではないかと思う。

 

ここに重要な示唆が含まれていると思う。

 

まず、毒味役という危険かつ誰もがやりたくない仕事も、それが天職であるような人間にとっては、そうではない、ということである。

 

作中、猫猫は何度も毒をすするが、プロなので、どれくらい飲んだら大丈夫かを見極めて毒を味わう(さらに言えば毒の耐性があり、あまり効かない)

従って、リスクもあまりない。

 

これは別の職業で言えば、心底戦闘が好きな軍人にとって、戦闘や戦争が苦にならないのと同じである。

 

ただし、それらは一般の人、あるいは適性のない仕事を強制的にさせられている人からすれば、苦痛以外の何者でもないわけである。

 

戦争が嫌いな平和的な人を無理やり徴兵して、戦場に送り込むのは、どう考えても人道に反している。

 

つまり、多くの日本人が最初猫猫に同情してしまうのは、猫猫が毒見役が天職であることを知らないからで、それに気づくと、なんだと思うわけである。

 

だがここに、多くの日本人の現実も詰まっているように思う。

まず、多くの日本人がいま、仕事を天職でしてはいないではないかということである。

 

猫猫に最初同情するのは、自分たちと同じように奴隷のようにやりたくない仕事をさせられているから、だから共感をする。

そして実際は違うから、なんだとなる。

 

日本人は共感や同情が強い文化を持っている。欧米人や他のアジア人に比べても、かなり情緒的な民族であるように見える。

 

だが、共感の前提が常に自分目線になっていることに問題がある。

 

例えば、もし猫猫が現実にいたら、多くの人々が嘆願書のようなものを出し、可哀想だ、と言い、おそらく寄付も募り彼女に毒を飲ませないようにしよう、などというキャンペーンがなされることだろう。

 

だが当の猫猫は、毒見役は天職であり、むしろそんなことをしたら傍迷惑に違いない。

 

つまり、本人は天職、好きでやっているという意思確認もせず、自分の目線だけで勝手に可哀想と思い込み、善意の押し付けをする。

 

例えば、ウクライナ千羽鶴を送るような行為も、日本人のこうした情緒的で、中途半端な共感から出ているように思う。

 

相手の立場に立って共感はできるが、いつも自分目線で共感が中途半端なのだ。

自己満足的なボランティア、相手が本当に必要なのか喜んでくれているか、ではなく、なんとなく自分が良いことをした、という気分になるだけのものが生まれるのもこのためだろう。

 

そしてこの同情の根底の問題は、まず多くの人が天職、自分の好きな仕事、やりたい仕事に就いていないということが本質的な根幹にあるのではないだろうか。

 

また同時に、日本、あるいは世界全体の問題として多くの人が天職ではない仕事に無理やり、主に経済上の理由から就かされていて、かつ天職に就かせるという概念が社会から欠如してしまっていることにあるのではないか。

 

毒見役でも軍人であろうと、天職であれば楽しんでやれる。

作中では娼館の娼婦たちも比較的明るく描かれている。

 

だが、無理やり、強制的にそれらの仕事をさせられている人にとっては地獄である。

 

天職か否かが、その人の人生を天国にも地獄にも変えうる。

 

あるいは猫猫の明るさは気の持ちよう、マインドセットによることかもしれない。

 

しかしそれは、天職であるから他の人からすれば過酷な環境も楽しく過ごせるだけで、例えば猫猫に武官をやらせようとしたら、おそらく気が滅入るに違いない。

 

なんでも気の持ちようというのはやや暴論であり、やはり天職であるか否か、それが天国と地獄を分ける境目なのではないだろうか。

 

天職とはなかなか面白いもので、全く人によって価値観が異なるのである。

例えば、誰もが羨むプリンセスとして生まれても飛び出す人もいれば、ドロドロした王族皇族に進んで入りたがる一般女性もいる。

 

売り飛ばされた毒見役とは逆で、温室で生まれたプリンセスでさえ、天職でなければそれは苦痛になりうるということである。

 

日本人が共感をする上で、いま一歩なのが、こうした相手にとって、人によって心情が異なる、という個別性にまで想像が届かないまま、自分目線の同情でやったつもりになっているのが勿体無いということ

 

そして、天職という概念があれば、実は世界観が逆転しうること

 

これらのことは今の日本人が気づくべきことで、実は鮮烈なメッセージを有している作品ではないだろうか。

本当にこれでいいのか是枝監督作品「怪物」に見る日本の姿

※以下本作品の重大なネタバレを含みます※

 

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本作品は、第76回カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞した作品で、海外からも評価の高い作品である。

 

内容としては、誰もが「怪物」に見えるけど、「怪物」は誰もいない、というまさに日本の闇、日本の現状抱える問題の本質を、見事に描写している。

 

作品の内容を含めて補足すると、例えば学校でモンスターペアレントと化す親は、実は子供思いであり、だが学校側の視点ではモンスター化しているように見える。

同じように、教師は生徒を守るため、校長先生も学校を守るためにモンスター化しているように見える。

 

しかし、誰もが、日常に目を当てて、その動機に目を当てると、皆が守りたいものがあり、誰も悪意はなく、怪物(モンスター)はいない、というのが本作の要旨である。

 

これは確かに日本の現状、本質を見事に捉えて僅か数時間で表現した凄い作品ではあるが、個人的には二つ大きな違和感がある。

 

まず一つ目、これは海外向けの作品ではなく、国内向けの作品ではないか。

日本の闇をもっとリアルに感じるべきは日本人であり、外国人がこの作品を見ても、半分はコントにしか見えないのではないか。

例えば、アメリカ人なら、この作品を観て

「言いたいことがあれば言えばいいだろう」

という感想になるのではないだろうか。

 

もっと言えば、この作品を観て、外国人は日本を好きになったり、日本に来たいと思うようになるだろうか。

 

日本の闇を全世界に発信するよりも、もっと日本の良さを海外には伝えることではないだろうか。

 

もう一つは、「誰も怪物はいない」という結論である。

つまり、誰も悪くない、ということを言っているようだが、それは誤りであり、

怪物は言い過ぎだが、全員「悪い」と思う。

 

何が悪いのかと言えば、この作品で描かれている怪物たちは、結局、相手との対話を諦めている人たちばかりだからである。

 

学校の教師を問い詰める母親は、教師や学校を信用していない。

学校の教師や学校は、母親は感情的になっていて、どうせ言うことを聞かない、そのような決めつけの前提の上に会話が行われている。

 

そして全員、自分の価値観や立場でしか物事を話していない。

相手の立場を考え、その上で自分の立場からの主張をせず、ただひたすらどうせ相手はわかってくれない、という心を閉ざしたまま、感情の一方通行の会話を繰り広げるだけである。

 

これは悲劇ではなく、喜劇である。

 

先ほど、欧米人からは新しいコントに見える、とう話をしたが、彼らはそもそもお互いが違う前提に立ち、だからお互いの意見の主張をする文化である。

 

だから、お互いの違いを考えもせず、主張もせず、ただ黙ったり自虐したり、感情的になるのは、彼らの頭では理解できないだろうから、おそらく、コント、喜劇に見えるだろうな、と思うのである。

 

おそらく、この作品を見た多くの日本人も、是枝監督と同じ「怪物はいない」という世界観、だから仕方ないよね、で終わってしまっているのではないか。

 

そこを、決定的に日本人は間違えているように思う。

そうではなく、お互いの立場が違うことを認識した上で、対話を重ねることこそ重要なのではないか。

 

それができない日本社会はとんでもないモンスター社会であり、

相手の立場を考えず、一方的に自分の価値観を主張し、対話に応じない日本人も同じように悪なのである。

 

このような場面は今の日本でいくらでも目にすることができる。

例えば、役所の窓口で訳のわからないクレームをする市民、あるいはいまだにお客様は神様だと思い込んで、上から目線で言いたい放題、店員に言うような人間も、きっと家族や友人から見たら「怪物」ではないかもしれない。

 

役所でもあるいは飲食店であっても、従業員も同じ人間で、客と従業員の間に人間としての上下はない、この基本がわかっていない、悪を持っている。

 

SNSなど最たる例である。相手のことを知りもしないで、一方的な悪口を書き込む。相手が傷つくなどまるで考えもしない、悪そのものだが、きっと一人一人は税金を納める良い市民なのだろう。

 

日本と日本人は大きな捉え違いをしている。

是枝監督が描いた、「怪物」はいないのではなく、確かにいるのである。

悪は存在する。そしてそれを悪いことと認識しない、あるいは仕方のないことと思い込み、みんなで貧しく苦しもう、となっているいまの日本は本当に側から見たらコントのようなものであると思う。

 

  • いまの日本の「怪物」

・相手の立場を考えない

・相手の価値観を考えない

・お互い違うと言う前提を持たないコミュニケーションをする

・そしてその結果、悪意がないけどみんな傷ついている

・でもみんな悪くないよねと開き直って何も問題解決しない

 

  • 日本の怪物退治の処方箋

・立場の違い、価値観の違いを考える

・お互いの違いをもとにコミュニケーションをする

・やれる人、場所から始める

 

基本的に対話を日本人が避けるのはおそらく大半が「面倒くさい」「争いたくない」と思っているからではないか。

しかし、その対話を怠ったが故に、「より面倒くさく」「感情的に争うこと」に発展していることも、この映画を見るとよくわかるはずである。

 

本作の主要なテーマでもある性に関する話もそうである。

自分の性に関する価値観を一方的に押し付けるようなことは、やはり悪ではないだろうか。

 

怪物は確かにいる。そして、日本人一人一人の「相手と立場や価値観が違う」という前提を間違えることを餌として、その怪物たちは生まれてくる。

 

■補足としてコミュニケーションの問題

お互いの価値観を尊重し、対話を重ねる上でもう一つ欠かせないのが、お互いの信頼関係である。

 

この点において欧米社会は、前提がそもそも違う民族、信頼関係がない前提を主としている。だから契約書のような文化が生まれる。

 

同時に彼らの文化はお互いの主張をしても、それはそれ、と割り切る、あるいは仕事とプライベートを切り離すことで問題を回避しているように思える。

 

これに対して、日本の場合、信頼関係を築いた上で、話し合える土壌が存在することが、欧米文化と比べた相違のように思える。

 

その根拠として性善説とかなり近い文化と言語を互いが持っていることにあるのではないか。

 

従って、日本の場合(こちらの方が世界に発信するテーマとして相応しいように思うが)欧米にはできない「信頼関係に基づいた対話」が可能な文化を持っているのである。

 

また、上記のような対話ができないのは、信頼関係がないからであるとも言える。母親は教師のことを知らない、校長も教師のことを知らない。

 

もう1段階掘り下げるので出れば、今の日本の闇は、お互いが信頼関係を築き、対話ができる土壌があったものの上に、欧米型の信頼関係がない前提の商慣習を含めた社会システムをそのまま詰め込んだことによるミスマッチにあるとも言える。

 

これはmacにwidowsをインストールしたら動作不良が増えたという例えがIT人にはわかりやすいかもしれない。

 

従って、まずは信頼の回復、本作品の例で言えば、まずは親と教師が対話をすることから始めるだろう(そういうと今の忙しい教師にそのような時間はない、となるので、そこを制度から見直す必要があるということでもある)

 

本作品のように、親と教師が分かり合えた時は、取り返しのつかない瞬間、そうなっては悲劇なのだから。

 

※最後に全体的に「欧米」「日本」といったざっくりした表現をしたことをご容赦願いたい。これは、詳細さよりも簡潔さを優先した文書方針という意図である。

搾取モデルの終焉のインパクト

個人的な見立てでは、産業革命以来続いていた、奴隷および搾取のモデルが崩壊に近づいていて、これから起きる金融危機の本質の一端も実はそこにあるのではないかと考えている。

 

まず、これまでの奴隷および搾取モデルは、基本的に先進国と途上国との賃金格差を利用したものである。

 

しかし、途上国が経済的に成長し、日本のように先進国が停滞していると、その賃金格差というのはどんどん埋まってくることになる。

 

そうすると、強制的に賃金が安い階級を作るインセンティブが働き、古代ローマなどでは史略で他の民族を奴隷化したりしていたが、近代国家ではそのようなことはできないため、目下のところはAIやロボットにやってもらおうというわけであろう。

 

また一方で、テクノロジーの発達により、これまで奴隷にさせていた仕事が不要になっている。例えば、受付や事務手続きは電子化され、警備員は監視カメラに置き換わり、物流にロボットが加わるようになっている。

 

残すところは建設などの肉体労働や、手工業といったものだが、そもそもこれらを奴隷にやらせる世界観自体に疑問がある。

 

例えば、日本のホワイトカラーはせっせとジムに通うが、同じようなエネルギーを建設現場で活かせば極めて生産的になる。

実際、それができないのは、マッチングの問題で、都合の良い時間に労働をして運動しつつお金をもらう、という世界観はそう遠くないうちに実現するように思う。

 

奴隷および搾取モデルというのは、多くの角度から陳腐化を見ることができるのだが、日本の教育は奴隷教育のままなのが国としては大きな課題だが、行政担当者が全くこの問題に理解がないように見える。

 

そして奴隷および搾取モデルに代わるモデルというのは、付加価値モデルに他ならないし、その源泉は個人の才能や才媛によるものだろう。

 

つまり、あらゆる仕事に個性や能力が必要となり、各自が非凡な仕事をすることで付加価値を産み、経済を回す世界観である。世界はその方向にシフトしつつあるように思う。

しかし、多くの日本の企業が、奴隷教育を修正できない行政担当者同様、この問題に気づいていないように見える。

 

そして話の核心として、そもそも奴隷および搾取モデルと、個性および付加価値モデルで、どちらの方が経済的に合理的なのかというものがある。

 

奴隷および搾取モデルは前提として、強制や非自発性を伴う。

これに対して、個性および付加価値モデルでは自発性が優先される。

ここに大きなモチベーションの差が生まれる。

 

おそらくモチベーションの差が、生産性の差を産むことを証明するような論文はいくらでも出てくるだろう。

 

いまの日本の現状は奴隷を、会社員や公務員といったネーミングで誤魔化して旧来システムを維持しているが、実態は奴隷なので甚だ限界が見えている。

日本の生産性が一向に向上しないのも、結局モチベーションのない奴隷しかいないからだと考えることもできる。

お金の第四の機能

お金、貨幣の機能として一般的に言われる機能は

①交換

②価値を測る(これは100円、あれは1万円の価値みたいな)

③価値の保管

 

この三つが挙げられ、あるいはここに決済の機能が加わり、三つ、四つだとされているが、実はお金にはもっと秘められた機能があるのではないか、というのが今回の話である。

 

それは分配の基準を決める機能である。

 

世の中の経済的な問題の本質の一つに、貴重な資源をどのように分配するのか、というテーマが存在する。

 

例えば、希少な宝石や不動産、食べ物などもそれらに含まれる。

もっと具体的に言えば、とてつもなく美味しいフグが100匹しか取れないとして、食べたい人が100万人いたらどのように分配するのか、という話である。

 

ここでお金が果たす役割は、フグの値段が例えば100万円とすることで、まず100万円持っていない人が買えなくなり、100万人いた食べたい人が10万人くらいまで減る。

それでもまだ多いので、今度は1000万にすることで、ちょうど100人になった、ここでお金は資源の分配先を決める役割をしているのではないか。

 

実際の市場はここまでは効率的に機能しない。

それはマッチングが不完全だからである。つまり、フグを食べたい人全員がフグの情報にアクセスできないからである。

例えば、漁師がとてつもなく良いフグが上がっても、それをオークションに出さず、馴染みの客に売る、こういうことも起こるため、お金は分配の基準を決める機能がありながら、分配自体はお金以外の基準でも起きるからである。

 

実はこの分配の基準となる役割は、重要なのに見落とされている機能ではないだろうか。

実際、世界は資源の奪い合いのようなものであり、お金でその分配が決まるなら、直接的な奪い合い、戦争の抑止にも繋がっているのではないだろうか。

 

つまり、欲しいものがあれば奪う、という原始的なやり方をしなくても、お金を払うことで資源が手に入るなら、その方が効率的だと考えるプレイヤーが出てくる。

(一方でお金のために戦争をする輩も出てくるため、結果的にお金の出現が戦争そのものに与えるインパクトはプラスマイナスではあまりないのかもしれないが)

 

またこれを一つの着想とするなら、分配の基準をお金ではないものに変えることも可能ではないだろうか。例えば、先ほどの漁師が上客を優先するのもその一つの例と言える。

これはある種の信用や、付き合いを分配の基準としている例でもある。

 

そうすると、通貨には信用という概念も存在することになるため、実は主要な機能は三つ、あるいは四つなのかもしれないが、通貨に付帯する機能や概念は実はもっと奥深いのではないかと思う。

 

例えば今ある仮想通貨は、信用や決済の不便さという点で既存の通貨に比べて劣後しているが、通貨の機能三つは不十分ながら備えている。

 

このように通貨の本質がわかれば、仮想通貨のように、数字の羅列、ほとんど無のようなものから通貨を作ることも可能ということである(価値が実際にあるかは別として)

高付加価値貨幣論(未来における通貨の一つの可能性について)

世界的に通貨の交換が行われるようになり、その裏付けとして金本位制が導入されたのが19世紀、そしてそれが消失したのが20世紀に入ってのことだった。

 

裏付けに金という実態を失ったにも関わらず、紙幣はすぐにはただの紙切れとはならなかった。それは、紙幣への信仰が残っていたこともあるだろうが、より本質的な理由があったのではないだろうか。

 

貨幣の本質、そして未来の通貨に関して今回は考察をしていきたいと思う。

 

まず、金本位制が崩れたあと、世界はなぜハイパーインフレになっていないのだろうか?

近頃、グレートリセットなどが叫ばれているが、それは言ってしまえば、経済実態に対して通貨、紙幣が増えすぎたことによるテーパリングのことではないのか。

 

確かに昨今、世界的にインフレで物価は上がってきている。だが、なぜ今なのか、金本位制が終わった時ではなかったのか、その辺りに誰も気が付かないインフレの本質があるのではないだろうか。

 

まず、インフレとは実態経済に対して貨幣があまりにも増えた場合に、生じる現象である。しかし、この実態経済とは何か、というところが全くの不明である。

 

金本位制であった時が、それが明確で金であった、それだけで、それ以降の通貨は完全になんの裏付けもないものなのだろうか?

 

「ペトロダラー体制」という言葉がある。これは石油に対して取引通貨としてドルを選ぶ、ドルを基軸通貨とする一つの根拠となっている。

 

ドルが基軸通貨である以上、ドルにペッグした通貨の価値はドルの価値に依存するが、ドル自体の価値を金の代わりに担保するものとして、実は石油が使われていたのではないだろうか。

 

しかし、金の代わりに石油を裏付けとした貨幣であったとして、ドルの価値と石油の価値は必ずしも比例関係とは言えない。

 

実は人間が思っている以上に、通貨の価値は実態経済に紐付いているものではないのだろうか。

 

例えば、ここ100年の世界的な実態経済を眺めてみると、次々に新しい商品が市場に登場している。まず、石油製品、自動車などに代表される電化製品、そしてインターネットに紐づいたwebアプリケーションなどである。

 

プラスチックは石油ゴミから作られ、インターネットに至っては電気を変換しているものに過ぎない。つまり、ゴミやエネルギー、無から人間の創造力によって、新たに付加価値が作られていると言っても過言ではない。

 

そして、これらの人間が生み出した付加価値の総量こそが、実態経済を支える石油以外の要素となっていたのではないか、というのが本稿の着想である。

 

もう一つの人間が無から生み出した価値が、株式会社と言われるシステムそのものである。

つまり、何らかの付加価値を生み出す組織そのものに価格を付け、取引できるようにしたのである。

 

付加価値を創出する着想からすると、この発想は革命的である。

単なる商品に加え、それを生み出す組織、個人までも実態経済にしてしまうわけだから、一種の錬金術と言っても何らおかしなことはない。

 

そして、現在のインフレとは、実際にこうした付加価値を創出するネタが世界的に尽きてきたことによることではないだろうかということである。

 

事実、例えばAIやブロックチェーンといったものは期待したほど、大きな市場を生み出せていない。石油から車、家電製品が生まれたインパクト、インターネットからパソコンやスマートフォンが生まれたインパクトと比べると、小さなマーケットにおけるイノベーションに過ぎないと言える。

 

他にもここ10年で何か革命的な経済の変動はあっただろうか?

中国における経済成長により、中国の株式会社はいくらか成長したかもしれないが、結果的に世界経済における、局所的な経済成長は資源と経済のパイの奪い合いだけが起き、全体の実態経済を底上げできるに至っていないのではないだろうか。

 

日本の経済の伸び悩みもまさにこれが原因であるのではないか。

すなわち、限られた経済マーケットと資源を奪い合うだけで、上に老人たちが利権として居座り、その老人から利権を譲られない限り、決して豊にはなれない。

 

経済的に豊かな人間の数は一定で、その席を奪い合うだけ、それが日本の経済の実態ではないだろうか。

 

しかし、その一方で貨幣だけは永遠に発行され続けている。

これでインフレにならない方がおかしいと言えるだろう。

 

だが一方で、インフレの実態が本当に厳密に実態経済と結びついているのであれば、未来の通貨には可能性がある。

 

例えば、絵画や芸術のような世界である。

絵画はわかりやすい、絵の具とキャンバスは数ドル程度のものが、人の手が入るだけで、数万ドル、数千万ドルの価値を生み出すのである。

 

つまり、人間が付加価値のあるものを、ゴミ、あるいは無から生み出すこと、あるいは幾つかの価値の組み合わせでより高付加価値なものを作り続けることができるのであれば、あるいはその経済実態に紐づく通貨量が規定できるのであれば、人間はインフレの呪縛から脱することができるのではないだろうか。