IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画ネタなども。5分で読める1,000文字、10分2,000字を目標。

映画『THRIVE』と陰謀論。日本人が陥りがちな過ちについて

 https://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI

 

これが陰謀論という議論があります。

 

そもそもにおいて、「連邦準備銀行」が無くなれば、「ロスチャイルド」、あるいは「ロックフェラー」が、という固有名詞でこれこれが支配者で打ち倒せばオールオッケー的な概念は的外れです。

 

例えば歴史において、20世紀初頭にロシア革命ロマノフ王朝が終わり、期待されて社会主義がスタートしました。しかし、それが結局はスターリンの大虐殺に繋がっていきます。これは歴史上、繰り返しのパターンとして存在します。

 

つまり、「連邦準備銀行」が潰れても、「第二連邦準備銀行」が生まれるだけです。(ここまで安易なネーミングには流石にならないでしょうが。)

 

同じようにロックフェラー家とロスチャイルド家が仮に世界を支配しているとしても、打ち倒しても違う家が出て来てまた同じことをするでしょう。

 

これは企業でも同じことが言えます。つまり、「モンサント」や「エクソン」という固有名詞や、そこにいる役員や会社員を議論することはほとんど意味のないことです。

 

彼らを破滅に追い込んだところで、違う時代あるいは国で、違う企業があるいは組織が全く同じことをするでしょう。

 

次にフリーエネルギーの話です。これは実現するかしないかはさておき、実現したとして人類は果たして本当に幸福と呼べるのでしょうか。

 

全く道徳心のない人間が無限のエネルギーを手に入れてしまう危険性を考えれば、どのような使い方をするでしょうか。あるいはそれによって、人類に怠慢と堕落をもたらすことの可能性は考慮しなくて良いのでしょうか。

 

もし、これで人々が堕落するなら、一部の良識のあるエリートが世界を支配する、という概念の方がむしろ正当化されてしまいます。良識のない人間に武器を渡し、知恵のない人間に社会を統治させ、道徳心の無い人間に秩序を与えないことの危険性を許すのであれば

 

人々がもっと道徳的かつ良識的になるにはどうすべきか、という点を同時に真剣に検討する必要があると思います。

 

確かに、目先の多くの人々をフリーエネルギーで救えるのではないか、という話はあります。しかし、それは物事の一面でしかありません。

 

フリーエネルギーが本当に利用できるのであれば、それを押さえつけている勢力さえ排除したら人々が救われる、という単純化された議論に問題があるのです。

 

また、世界を支配する構造についてですが、あまりに馬鹿馬鹿しい話です。

 

例えば、自身が企業にいたとして、あるいはプロスポーツ選手であったとして、必ず戦略というものを構築します。企業にあっては戦略を立てずに何かをすることは、株主に対する背任行為とすら言えます。

 

政治家も同じです。全くの無策でなんの戦略も無い政治家ばかりに国は、すぐに滅びるでしょう。

 

それは恋愛やゲーム、スポーツのような日常でも同じでしょう。

 

このようにより低いレイヤーにおいても、戦略は存在します。そのような中にあって、世界の権力の中枢を巡る場所でそのようなものがない、と考えること自体が馬鹿げています。

 

もっと単刀直入に言えば、人間社会、世界が特定の層によって統治されていない、と考えることの方が、無理があるのです。

 

つまり、「陰謀論」という議論自体がそもそもナンセンスなのです。

 

またそうした課題解決のために、大手銀行からみんなで地方銀行にお金を預けましょう、というような発想もややチープなものです。

 

作品中には正しいことや、もの凄い記述もありますが、全体のテイストがバラバラなので、結局疑わしいものにも見られるからさして驚異は感じない、という位置付けなのでしょう。(むしろそれを狙って出してたとしたらメッセージを読み取る側の力量が試される作品です)

 

その一方で作り手の愛や正義感、使命感のようなものも感じます。

 

このようなコメントを出すと、結局批判なのか肯定するのか、お前の立場はどっちなんだ、とか。ここはいいけどここはダメとか言われると混乱する、とかいった声が聞こえてきそうですが、なぜ、一つの作品の部分を肯定し、部分を否定してはいけないのでしょう。なぜ私の見解を統一する義務が読者に対してあるのでしょうか。

 

ここでこうした作品や陰謀論に対して、また現代の日本人の多くの物事に共通するスタンスこそ、一番問うべきテーマだと感じます。

 

それは「お前が正しいことを言え」というスタンスです。

 

どういうことかと言えば、例えばテレビで専門家が間違ったことを言う、あるいは、本で、テレビで、あるいは誰かが何かを言ったとして、間違ったことを言う人間の責任をひたすら責め、追求する姿勢です。

 

もちろん、専門家やマスメディアにはある種の権威があります。本来は正しいことを伝えるべきです。しかし、彼らも人間であり、ミスもします。また同様に利害関係から真実を述べないこともあります。

 

今回はマスコミや専門家の在り方までは論じませんが

 

「権威がある者は正しいことを言う。だから私は考えなくていい」

 

他人に正しいことを言うように求める人間は、暗にこのように言っていることと同じです。つまり言葉を変えれば「私は思考停止である」という自白です。

 

正しいことを言うべき人間が言ってくれないから、裏切られたと感じて憤慨して、責める。

 

これは特に今の日本の社会において非常に多く見られる現象です。家庭、職場でも本当によく見られる現象だと思います。

 

そして他人には正しいことを言うことを強要し、自らはそれをしない。そのような社会人が非常に多い気がします。

 

『THRIVE』を巡る議論も正に同じです。この映画が正しいことを言っているか否かを論じ、正しければ崇拝し、間違っていれば責める。どちらも的外れです。

 

そうではなく、「自らが正しいかを判断する目を養う」という姿勢が非常に重要です。

 

先に触れたように、権威や権力というものは、常に正しいことを、あるいはその人のためになることを言うわけでもするわけでもありません。それこそが普通です。

 

ですから、どのような権威や権力が付きまとっていても、その人の言っていることが正しいか、それを判断するのは自分だ、と思うことが最も肝心です。

 

そのような姿勢になることで多くのことが変わります。

 

まず、どのような肩書きの人間が出てきてもそれによって騙されることが少なくなります。そして、自らの判断力にこそ責を負うことになるので、人を責め、攻撃することは減ります。更にそれによって思考し、判断力が磨かれてきます。

 

このブログには何の権威も権力もありませんが、ここで述べていることが間違っている可能性も大いにあるわけです。(ロシア革命の年号をうっかりミスで間違える可能性だってあり得ます)

 

これは書き手や話し手に、いい加減な情報を発信しても良い、と推奨するものではありません。ですが、どのような権威のある文献であっても、膨大な分量にミスが一つもない、ということは難しいですし、そもそも元のデータや一次情報を誤ったものを教えられてしまうこともあります。そして、一時期正しかったとされた事実が、やがて過ちに変わることもあります。(一例として正に劇中のイラク戦争の事例がわかりやすいと思います)

 

それが世の中の現実だと思います。そのような中で、よく間違い探しをして攻撃をする人たちがいますが、全くのナンセンスと言えます。なぜならほとんどの人間は、同じことを自分がされたら、それに耐えうることができないからです。

 

マスメディアが真実を述べないことに怒りを覚える人々がいます。ですが、構造から考えて彼らがそうするのは当たり前で、怒るところではありません。この構造の話はノーム・チョムスキーの著作を読むとよくわかります。

 

アメリカには「もしマジソン・スクエアガーデンをイエス・キリストが歩いていたとしても、誰も気がつかないだろう」というジョークがあります。

 

このジョークの作り主は、おそらく人々の信仰の低下を暗に皮肉ったのだと思いますが、これは同時に人々の認識力の低下を揶揄しているものだとも取れます。

 

つまり、現代人にとって、目の前の人間がどれほど素晴らしいか、あるいは偉大な人物か、というのを自分では判断できない、ということです。

 

ハリウッドでセレブと言われ、フォーブスで長者番付に乗り、学者としてノーベル賞を取って初めて、人々はその人が非凡だと認めます。

 

つまり、その人が非凡か、頭が良いかを自分では判断せず、誰かに委ねるということをしてしまっているのです。そうではなく、今目の前にいる人物がどのような人物か、どのような計り知れない可能性を秘めているか、そのような目で人は人を見なくなってしまっているのです。

 

そうではなく、我々自身で「見出す」あるいは「見極める」ことをする必要があります。

 

このようにトレーニングを積めば、この映画のどこからどこまでが正しく、どこからどこまでが的外れなのかは、自然にわかります。

 

またそもそも、この映画が「正しいか否か」、という視点では観なくなります。必要なのは、この作品の中に自身に取って「得るものを見出す」ことができれば良いのです。

 

これは日常で、例えば、誰の言うことが正しいか、どの会社の商品を買うか、などを判断する上でも同じことが言えます。

 

間違ったものを掴んだ時に、それを相手のせいにすることは容易いです。

(実際相手が本当に詐欺師の場合もあるのでしょうが)

 

騙されたほうが悪いと乱暴なことを言うものではありませんが、我々の持つ姿勢というものは、「自らが正しい判断をするように務める」ということが非常に健全であり、強力なものであるということ

 

そして、それがまたこの映画で問いかけられている問題に対する自分なりの最大の答えでもあります。もしこのような世界が真実だとして、それを変えうるとしたら、どのようなことを我々はまず実際にすべきなのか。

 

我々は大袈裟な行動によってしか世界が変わらないと思い込みがちだが、実際はそうではない。たった一つの考え姿勢が変わることによって、少なくとも「私」が今見ているこの世界は変わるのだということを。