IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画ネタなども。5分で読める1,000文字、10分2,000字を目標。

宗教と権威

人間社会はどの分野にいても、「イケてる」「クール」「あの人はすごい」といったヒーロー、ヒロイン的な人が存在する。

 

野球やサッカーのようなスポーツ、音楽や演劇のような芸術、そしてビジネスや政治の世界にもそれは存在する。エンジニア、IT 企業家であれば、天才的なハッカーや経済的に成功した社長はリスペクトされる。

 

そしてそれは人生のどのライフステージにおいてもヒエラルキーとして現れる。例えば、大学生、日本であれば「東大」というのは一つの頂点と考えられている。

大人になってからの日本社会で言えば、「お金」が一つの尺度となり、女社会の中では「美」や「ライフスタイル」に尺度があり、階級が産まれる。

 

「東大だからすごい」

プロ野球選手だからすごい」

後者には「お金持ちだからすごい」という付加的な意味もあるが、同じように「すごい」と評されるのは、ある特定の分野で優れている、からである。

 

そのある特定の分野を探求している人々にとってその存在は憧れであり、権威となる。美を重んじる者には美が、スキルを重んじる者はスキルが、お金を重んじる者にはお金が権威となる。

 

権威とは影響力である。例えば自分が憧れるトップエンジニアから、開発の指導を受けたら、そのアドバイスはまさしく、神から賜った言葉のように有難く受け取るだろう。

 

逆に権威とは、その人物が重きを置かない分野では影響力を発揮しない。例えば芸術の世界で生きる人間にとって、金融の世界で稼いでいる人間、というのは、異業種としての尊敬や、ある一定のラインを超えた一流にはどの分野にもあるような才能への敬意が起こることはあっても、芸術家としての尊敬、権威は持ち得ない。

 

しかし、同じ芸術に生きるもの、特に自分が崇拝する芸術家を前にすると、それは途端に権威に変わる。すなわち、権威とは

「自らが重きを置くところに発生する。」

 

そして権威はやがてしばしば、本人も気づかないうちに宗教に変わる。

自分が崇拝して止まない人物が言ったことを全て正しい、と考える。あるいは盲目的に崇拝してしまうことは宗教の始まりである。

 

権威が宗教に変わる境目はどこか?

例えばそれを大学生のヒエラルキーで考えてみると、

○「東大生はよく勉強ができる」

△「東大生は頭がいい」

×「東大生は偉い」

 

東大に受かるには5教科7科目という膨大な量の勉強が必要である。その点、同世代と比較して、「よく勉強ができる」というのは最も話である。

 

しかし、「頭がいい」は実は宗教の始まりである。

勉強ができること=頭がいい、は確かなことではない。

例えば、お金を稼ぐ能力=頭がいい、と定義すれば、東大どころか大学に行かなくても頭がいい人間もいることになるし、東大に行っても、お金を稼ぐことができなければ、頭がいい、とは言い切れない。

そもそも「頭がいいとは何か」が抜け落ちてしまっているため、宗教化してしまっている。

 

「東大生は偉い」これは一見わかりやすそうに見えるが、多くの人間が混乱し、宗教化してしまっているところである。この「東大生」というところを他の言葉に置き換えてみると

「政治家は偉い」「金持ちは偉い」「弁護士は偉い」「医者は偉い」「国を守っている官僚は偉い」「日本の伝統を守っているから相撲協会は偉い」

こうして並べてみると、可笑しな話なのは誰でもわかるが、いざ当事者となると、無意識でそう思っていることが多い。

 

もちろんここで宗教化しているのは「偉いとは何か」ということが曖昧になっているからである。

 

例えば、ここはゴールドステイツである。この国の唯一絶対の人間の評価基準はお金である。したがって、金持ちこそが権威である。と定義した国があるとして、その国民誰もがその基準を受け入れたら、その国の中では「金持ちは偉い」ということになる。

これは芸術の世界の中で有名な芸術家が権威をもつことなどと、考え方は同じである。アートオブステイツならアート、スキルオブステイツならスキルである。

 

しかし、「なぜ、偉いか?」という小学生でも思いつく問いには答えることができない。この国ではお金が評価基準だ、だから金持ちは偉い。That’s all

 

つまり、「東大生は偉い」というところに話を戻すと、こういう意味になる。この国において、学歴が高い者が偉い。東大は最高学歴だ。だから東大生は偉い。という三段論法に落ち着くことになる。だが、学歴が高い者がなぜ偉いのだ?という質問に対しては、この国は学歴が評価基準だから、という説明以外ないだろう。

 

さてここで、「宗教」とは何かというところの説明にようやく入れる下地が整ったように思う。

 

「東大生は頭がいい」

これは「頭がいいとは何か」を「考える」ことが抜けてしまっている

「東大生は偉い」

これは「なぜ偉い」のかを「考える」ことが抜けてしまっている。

 

つまり、宗教とは「考える」ことを「放棄」することで生まれる。

そして「宗教」は「権威」の元で生じる。

 

しばしば、自分が思いもしない奇跡をやってのける人物を「教祖」とするのも、自分ができないと思っていることを、できる人間に権威を感じるメカニズムの一部である。

 

それは自分が重要だと思うこと、それが「できる」のは「すごい」という尺度を持っているから産まれる。つまり、「権威」と「評価基準」は一体のものである。

 

では宗教的にならないアプローチとは何か。

例えば、ある有名なスポーツ選手がいたとする。そのスポーツの世界では超一流であっても、その人がプライベートでしていることに問題であれば、「スポーツ人としての評価はしても、人としては尊敬できない」と切り分けて考えることができることである。

 

別の例を挙げると、原発の専門家がいて、原発は絶対に安全だ、と言っていたとする。そこでその人物の肩書きはどうあれ、震災があったのだから、本当にそうだろうか、と考えてみることである。

 

前者は「区分する」後者は「疑う」というどちらも「思考」をしている。

逆にあのスーパースターは、スターだから正しい。あの人は専門家だから間違いない。とするところには「思考」が存在していない。

 

また、そもそも「評価基準」を持たない場合はどうだろうか。

「人は神の元において全て平等である。そして全ての才能は天から与えられたものであり、それぞれがその才能を活かして社会が成り立っている。」

 

このように考える人物に対して、「神」(あるいは親、祖先も)以外のものが権威を持つことは難しい。

 

続けて言えば、「考える」ことと、「評価基準」を持たないこと(あるいは人ではなく、天に権威がある、あるいは能力や行動に評価を持たないこと)を人々が持ち始めた時、世の中はどう変化するであろうか。

 

また多くの誤解がある。宗教とはユダヤ、キリスト、イスラム、仏教などを思い浮かべがちだが、常に「神」から生まれるわけではない。

それがなんであれ、盲目的に信じたらそれは宗教となる。マルクスを盲目的に信じればマルクス教、お金を盲目的に信じれば拝金教、電通という会社を盲目的に信じたら電通教だ。そういう意味では恋愛と宗教も紙一重である。

 

つまり、「宗教」は多くの人々が思っている以上に、日常生活の中に浸透している。更に厄介なことに、当事者の大半は無自覚となっている。

 

このような問題提起に、幼稚な統治者はこう反論するだろう。

“国民が思考し、正しい評価基準を持ってしまったら、その国を統治できない”

 

そうではなく、権威とは今を生きる全ての人達に恩恵を与える者に存在する。つまり、親であり、祖先であり、始祖である。そして権威に対する我々の態度は盲従ではなく、敬意と自ら考える姿勢である。とすることもできるのである。

実は、日本の皇統というものは、世界でも稀有なこうした権威の形を具現化した、超近代国家となり得る可能性を秘めている。(超近代国家とは人々が思考し、権威への態度が変わった国家のこと。勝手な造語である。)

なぜならば、日本は「権威」と「権力」を分離した国家であるのだから。