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IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画ネタなども。5分で読める1,000文字、10分2,000字を目標。

ブレンパワード解説

※下記作品のネタバレを含みます

 

 

 

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ブレンパワードは時間軸としては、実は他の未来アニメ、攻殻機動隊サイコパス、そして同じ監督のガンダム作品より後の時代の近未来世界の話になる。

 

攻殻機動隊サイコパスでは、人間の思考アルゴリズムそのものは現代のまま、ただテクノロジーの一部が肥大化している現代世界の延長にあるのに対して、ブレンパワード内の世界では主役たちには人の内面に変化が垣間見える。 すなわち、思考アルゴリズムの変化がある。

 

オーガニック的なもの、テクノロジーと有機的なものの融合、内面の「サステイナブル化」というものに近い。現代社会でサステイナブルが叫ばれていても、それは外面的なところに留まることが多く、内面の話題にはまだ遠い。それが最も象徴的なのは一人一人が戦う意義が、敵味方共に「愛情」にまつわる話が多い。

 

世界を支配しようとか、自分の権力や富を求めるといった、資本主義的な欲望の動機から行為が産まれるのではなく、それらと既存の社会の枠でもがきながら戦うわけでもない。

愛されなかったことに背を向けた人々(オルファン、リクレイマー、グランチャーサイド)と、愛されなかったけれども愛していこうと決めた人々(ノヴィス・ノアブレンパワードサイド)とが「愛情」にまつわる復習と願いのために戦う、かなりロマンチックな物語になっている。

 

主人公、伊佐未勇は、最初はグランチャーに乗り、オルファンサイドにいるが、ヒロイン宇都宮比瑪と出会い、ブレンパワードサイドに寝返る。

 

そこに存在する心境の変化というのは、彼自身が「愛」だと思っていたものとは、違う「愛」が存在することが宇都宮比瑪と出会って知ったことにある。

 

基本的にグランチャーは、パイロットがいないと死んでしまうが、その思いはいつも一方通行で、パイロットに強制を強いる。逆にブレンパワードはお互いの意思を尊重する。

 

お互いを求め合う愛と、お互いが協力して一緒に生きていく愛と、日本語では「恋人たち」とか「愛」と同じ表現しかない。しかし、愛には違いがある。お互いを求め合うだけの愛は、一方的な分、辛い時がある。愛しても愛した人が応えてくれなかった場合(伊佐未兄弟)、その愛し方が相手に伝わらなかった場合(ジョナサン)、失って途方に暮れてしまった場合(シラー)など。愛の形によって、色々な特徴あるだろうが、本作では一方的な愛の辛い面が、対比を用いてフォーカスされている。

 

伊佐未勇は宇都宮比瑪、ブレンと出会い、またそうした一方的な「愛情」に失望し、諦めてしまったリクレイマーたちと離れることで、お互いを理解し合う違う愛情があることを確信し、リクレイマーの統率者であった家族の元を離れる。

 

オルファンもノヴィス・ノアも同じようにオルファン(孤児)の集まりだが、ノヴィスが暖かさで満ちているのに対し、オルファンの人々は、心を閉ざし、冷たい。だが、その冷たさの中で育ってしまうと他に愛の形があることを知ることがない。

 

勇はオルファンに来る前、幼少の頃に、祖母、直子と共に自然と共に畑を耕し、家族を愛する生き方を本来は持っていたから、気づけたのだろう。

 

同じ生活をしていた姉の依衣子は、逆に家族を捨てられない。勇よりも家族への愛が深いが故に、家族への執着、依存から抜けられないために、最後までリクレイマーとして戦い、そしてオルファンとの融合を果たす。

 

ブレンパワードサイドもグランチャーサイドも、双方、「愛情」に何らかのトラブルやトラウマを抱えた人々だが、決定的な違いはブレンパワードサイドの人々は、自分の受けた仕打ちを受け止めて、それでも人を愛そうとする人々の集まりで、グランチャーサイドの人々は自分が受けた仕打ちで相手や世の中を恨み、責めてしまった人々の集まりである。

 

もう一つ、大きなテーマとなっているのが、「愛情」の権化たる「女性」である。

最も印象的なのは

 

「男も女も自分のエゴばかり追うようになって、男は女が女であることをやめるのを許した」

 

という勇のセリフがあるが、原作者、富野由悠季現代社会への嘆きが垣間見えるセリフでもある。このテーゼは風の谷のナウシカにも通じるものがある。現代では、もはや何が「男性らしく」「女性らしい」のかすら、わからない世界になってしまっているからだ。

 

何が女らしさか、それは小説で表現するより、こうした演劇や映像で表現する方がわかりやすい。作中では女として生き、それぞれの女性としてのあり方をする魅力的な女性たちで彩られている。

 

戦場にいても女であり続けようとするカナン、ヒンギス。女であることを捨てたはずなのに忘れられない、勇の母みどり。母性を捨てられなかったアノーア。一度女を捨てたことを後悔し、晩年に恋愛をする直子。そして母性の対比象徴としての姫と依依子など。

 

そしてどのような大義名分を並べても、結局女は女を捨てられない、ということが、作者が考えている女性像ではないだろうか。

 

戦争シーンも、殺しあっていても相手に敬意を払い、許すこともできる。敵味方でも協力することがあり、敵でも憎めないキャラが多く、作品全体がどこかほんわかしている。

 

結局、作者自身がガンダムの世界にある現代社会の延長でしかない、思考パラダイムの世界ではなく、その次の人類社会の思考パラダイムに気づいてそれを表現する内的な変化があったのもよく現れている。

 

次代の人の内面に目を向ける、男女の本質を問う、愛情のために戦う。どれもある意味、現代的なテーマではない。現代的なテーマは人の欲、人間のファンクション性や、もっと低俗な作品が多い。

むしろ、復古的でそれでいて、これからの時代のテーマとなるべき話題である。だからこそ、そのような評価は受けてないが、この作品は自分にとっては近未来の人類の話だと感じる。