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IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画ネタなども。5分で読める1,000文字、10分2,000字を目標。

アニメFate 解説(zero, stay night, unlimited blade works)

この三作品に一貫しているテーマ、「善と悪」について

 

 

※下記ネタバレを含みます。

 

 

 

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「zero」の主人公衛宮切嗣

「正義の味方」の名の下に、誰かを活かすために他の誰かを殺し続ける。

 

そんな彼のパートナーである「セイバー」ことアーサー王は、「正しい王」で有り続けようとした結果、反乱を招き、一番大切にしていた部下や家族に裏切れられ、戦争で多くの死者を出してしまう。

 

二人に共通しているのが、「正しくあろう」とした結果、悲劇を招いてしまうこと、「善い」「正しい」と思ってしたことが自らを不幸にしてしまったこと

 

そんな二人の生き方にそれぞれ疑問を投げかけるのが言峰 綺礼とアーチャーことギルガメッシュである。

 

言峰 綺礼は他人の不幸が自身の快楽である人格破綻者であり、ギルガメッシュは自分の欲望を最大化させるために他者が存在すると考えるような王であり、二人とも「悪」と言ってよい存在であり、セイバーたちとは思想的対極にある。

 

だが、そんな二人の「悪人」の生き方を擁護するように物語は流れる。

 

最もそれが象徴的なシーンがイスカンダルとの「王問答」である。

 

イスカンダルは語る。

王とは最も強欲であるべきで、それによって民から憧れるような存在でなければならない。

そして、セイバーは王足るものを何も示せなかったただの可哀想な少女と言われるが、逆に返答に詰まる。

 

そして、衛宮切嗣とセイバーとの間でも「善悪」の議論が起こる。セイバーは戦争を、騎士道などと言う戯れ言で美化する偽善者だと衛宮切嗣に批判される。

 

そして聖杯戦争に最終的に勝利するのも、この欲望最大化タッグ、言峰 綺礼とギルガメッシュである。

 

衛宮切嗣は自分が愛していた妻、仲間、そして守ろうとしていた者全てを失い、生き残った一人の少年にだけ自身の希望を見出す。そしてセイバーは失意の中消えて行く中で「zero」の物語は終わる。

 

そして衛宮切嗣が助けた一人の少年、士郎へと物語は続く。

 

「stay nightまたはunlimited blade works」はそんな士郎の物語である。

 

切嗣の遺志を継いだ士郎もまた、「正義の味方」を目指すが、「unlimited blade works」で描かれたのは、そんな士郎が死後、英霊となして本当に「正義の味方」となり、無限に人を殺し続ける世界で、次第にそれを悔やみ、過去の自分を殺しに来るという設定で、やはり一貫して「善」と「悪」がその物語の根幹に据える。

 

結果的に両作品ともかなりハッピーエンドに近い内容にはなっていて、結局のところ最後は悪者二人(言峰 綺礼とギルガメッシュ)は士郎とセイバーによって倒される。

 

未来の士郎も無限に人を殺し続ける世界に笑顔で戻っていく。

 

ここで「人を殺す」という概念にまず触れなくてはいけない。「王であること」は「人を殺すこと」である。権力を手にするということは、誰かを活かし、誰かを殺すことの必要に迫られる。もっと言えば警察、軍隊など社会機構の中に「殺人」というものはある程度合法的に組み込まれている。

 

つまり、社会が人を抹殺するが、その社会の中で人を殺す役割を誰かが担っているから、他の人は直接その業を背負わなくても良いだけであって、士郎は誰かがやらねばならないことなら、自分がやろう、という進んで汚れ仕事をやり続けることに納得をしているのである。

 

そして、最も重要なのは「正義の味方」とは理念であって行為ではないということだ。ここで、最も分かり易い例として、自分と自分の親友が海で遭難し、掴まれる木の枝は一本しかない。どちらかしか助からないという状況にあったとしよう。

 

この場合、現代的な常識の範囲で考えた時に、自己を助けることが通常の判断であって、他人を助け自分が生き残るという方を選択するのは、自己破壊的か偽善と思われるだろう。

 

法的にもこの場合、自己を優先することが認められている。だが、自己を優先した場合、他者を犠牲にした「生」でありその行為は「悪」と呼ぶこともできる。だが、自分を犠牲にする行為も誰かを犠牲にしているという点において「悪」ともなり得る。

 

ではこの自己か他人かどちらかという究極的な選択において、どうすることが「善」であり、「正しい」のであろうか。

 

結論は「他人を犠牲にして自分が助かること」も「自分を犠牲にして誰かを助けること」も、等しく「正しく」また「悪」ともなり得る。

 

自己を助けることも、他人を助けることもどちらも解になり得る、それだけがある意味、唯一の正しさとなる。善悪とは理念であって、行為そのものはどちらにも転ぶということである。

 

そのためには、前提としての「正義の味方」つまり、人類愛、全ての人間が幸福であり、それが正しいとする社会を理念として持つ必要がある。それにより、その道中の行為が例え「悪」があったとしても、最後は「正しい」答えを導く可能性を見出すことができる。

 

父親である衛宮切嗣は、この理念を間違えていた。つまり、最初から誰かを犠牲にしないといけないというのが、「正義」であり「正義の味方」というものだ、ということから始まり、結果的に彼の行為は「悪」であり、彼の願いもまた「悪」であると、聖杯に断じられてしまった。

 

そして息子である士郎は、自分だけを犠牲にして成り立つ「正義の味方」を最初は気取るが、ヒロインであるセイバーや遠坂凛により、幸福になるべき人間や対象に自分も含まれることを次第に悟っていく。

 

だから、善意があったとしても、その行為は悪となることもあり、ではそのような中で人はどう、善悪を判断し行動すればいいのか、あるいは悪として生きることがそれほど間違ったことなのか、むしろ善だと思っている人間の行為の中にも多くの悪が潜んでいる、それを投げかけている作品である。

 

そして、もう一つ、この作品にクロスオーバーするのが「銀魂」と「24」である。

 

この2つの作品に共通するのが、どちらも「誰か」をあるいは「何か」を守ろうとする主人公たちが戦いに明け暮れ、特に24のジャック・バウアーは大切なものを次々と失う。

 

結局、これも誰かを「守る」行為は究極的には誰かを「殺す」行為として戦いに身を費やし、時には破滅していく物語であり、「守る」ということの意味を問いたださなければならないのだろうと思う。