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IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画ネタなども。5分で読める1,000文字、10分2,000字を目標。

モナドから量子の海へ

レイ・カーツワイルの言う「シンギュラリティ」の最終ステージとされる、人間の知性が光速を越え(あるいは亜光速であっても)この宇宙を埋め尽くす、という箇所に言及したい。

 

仮に知的生命体にそうしたことが可能であるのなら、なぜ我々の住む地球に、もっと文明の進んだ知的生命体が到達できないのか?という疑問が沸く。

 

考えられる選択肢としては

①それは不可能である

②既に到達しているが今の人類にはわからない

③宇宙は広過ぎるので、たまたまこれまでのところ巡り会っていない

④なんらかの法則により巡り会っていない。

(自分は人間以外に知的生命体が宇宙に存在しない、という説を全く信じていない)

 

それぞれの選択肢を掘り下げることができるが、私が常に思うのは、人間が生身の肉体のまま宇宙空間にでることの無意味さである。

 

宇宙は肉体にとってリスクの塊でしかない、酸素が存在せず、極寒の有害な宇宙線が降り注ぐ中において、肉体はあまりにも脆い。

 

機械の方がまだ可能性はあるだろう。人間の脳の情報を電子頭脳にアップロードし、機械の体が宇宙を旅する方がおそらくもっと楽に遠くに行けるかもしれないが、所詮はエネルギーが尽きた時に機械は停止する。

 

だが、その一方で、光やあるいは電子はどうだろうか。既に人類は人工衛星を打ち上げ、そこから様々な情報を宇宙から受け取っている。光や電子は時間はかかっても、数光年を超えて旅ができることが既にわかっている。

 

仮に人間の情報を電子脳にアップロードし、それを遥か遠い惑星にある送信し、そこに同じような電子脳を設置して受信する方が、生物や機械が物理的な旅行をするよりは、よほど遠くへ行くことができるだろう。

 

つまりここでは②と④の可能性について言及している。

 

人間の最小単位はなんであろうか?実は未だにそれはわかっていない。実際は万物は素粒子なのか「紐」なのか、あるいは便宜上の概念としてライプニッツが言うところの「モナド」のような共通なもので、すべてのものに本当の意味で境界は存在するのだろうか。

 

しかし、人間の情報を電子に変換して送信できるとして、それは送信する途中にブラックホールや惑星があれば、その重力に引かれてそこに落ち、その電子はどう変位していくのであろうか。あるいは宇宙を旅する途中で宇宙線で電子が変異するのではないだろうか。

 

そして人間の情報を全て電子化して送信したとしても、全く同じ情報を送信する、ということはそもそもにおいて時間のズレが発生し得るため、不可能ではないだろうか。(つまり人間の電子脳化による再生産も、時間的な制限を突破する、つまり光速の壁を破らない限り、一度死んで限りなく自分に近い自分とは異なるゴーストが電脳上に存在するだけで、同一の意識は存在できない)

 

自分の1つの仮説に人間は死後、「量子化」される、という仮説がある。この説によれば、人々が「霊魂」と呼ぶもののことをある程度科学的に説明が可能だと思ってはいる。(今回は直感的な表現だけに留める)

 

なぜここで量子化仮説を持ち出しかと言えば、物質の最小単位が共通であるなら、人間は死後、あるいは生前も常に万物の中に溶け込んでいるとも言えるからだ。あるいは、「モナド」のように属性を持つのであれば、生前も死後も人々は「モナド」による属性を持つことで方向性を持つ事になる。

 

そして、人々が死後も量子化され、宇宙の海に溶け出すことが確信できれば、わざわざ知的生命体は、自らの情報を送信し、他の惑星で機械の体に、電脳の海に、自らを投げ出す必要性を感じないはずである。

そして、人間が量子化した際に、量子が肉体から持ち去るものは、「記憶」の電子情報ではなく、おそらく最も根源的な何らかの質をもった嗜好性のあるモナド的なものである。

 

量子化した人間にとっては、時間とはさしたる問題ではない。100万光年あろうが、機械の体を得られるような文明にとって、寿命などさしたる問題でもなく、むしろ長く肉体を持って生きるよりも、死を選ぶことを望むだろう。またエネルギー効率や、電子化して宇宙線ブラックホールのただよう宇宙空間に放り出すよりも、量子化した方が安全でもあるからだ。(量子化は電子化とは違うため、電子のような情報は保存できない代わりに、電子のような毀損をすることがないようなものと仮定している。)

 

以上のことが起きれば、光速を超えて宇宙を満たす、という必要性がそもそも起きなくなる。つまり、我々よりも優れた知的生命体はその可能性を選択している可能性がある、ということを示唆するに留めたい。

 

もう1つ、人間の意識について最近は随分と多くのことがわかってきていて、カーツワイルの言うように、人間の脳をリバースエンジニアリングして人工知能を作ることなく、どのようなものか明らかになってきている。

 

特に自分が「意識」に関して注目しているのが2つの性質である。

①分離不能性

②同時不存在性

 

①分離不能性

基本的に物質は分解できる。しかし、意識は決して分解して存在することができない。例えば小脳と大脳といったある一定の脳のパーツが揃った時に意識は発生すると仮定して、大脳を失えば意識はなくなる。これは車というものが分解して、エンジンとタイアになることはできても、「車」という存在ではなくなることと同じである。(もちろん、エアコンだけのない車は、車としての機能は果たしていることになるため、意識で言えば、「ある」状態になる。つまり、発生した後の人間の脳内における意識は強い、弱いという離散的よりも相対的・連続的なものであると考える方が自然である。ただし、意識が0の状態から発生する状態に移る状態は離散的か連続的かは議論の余地がある)

 

②同時不存在性

意識は二カ所に同時に存在することはできない。人は寝ている時に意識を失うことはあっても、例えばフランスと日本に同時に自分という意識は存在することはできない。なぜなら、上記のように意識は分割して存在し得ないものだからだ。(ただし、意識を離散的なものではなく、連続的なものだとすると、同時不存在性は、分離不能性の性質よりも、先ほど述べたような時間のズレ、相対性理論量子論からの方から導くのが正しいかもしれない)

 

これを工学的な世界、例えばロボットにおいてどのようなことになるのか、という話しに拡張すると

 

例えば無数のロボットを作成し、それらを人工知能によって動かそうとした場合、各個体にそれぞれ意識を持った人工知能を搭載しないといけない、ということだ。つまり、1つの意識を持った人工知能で無数のロボットを同時に動かすクラウドタイプの運用はできない。もしくは、意識の弱い人工知能、つまり今あるロボットによるしかないのだ。

 

人工知能研究の最大の課題である意識研究が一段落したところで、最近少し興味を持ったのが、脳のリバースエンジニアリングの成否よりもむしろそこから産まれるであろう副産物である。

 

その「脳のポテンシャル」と呼べるようなもの。例えば、人間の「目」の視力はアフリカなどでは、2.0を超える視力の人々がいるが、この現代化社会された日本ではまずそんな人間はいない。

 

これは、現代人の生活が、極度に近視化しており、遠くを見る必要性がないため、肉体がそう変化したからである。だが、実際の人間の肉体は2.0を超えることはできる。

 

同じ事が当然脳にも言える。例えば脳の機能に電磁波を感知できるものが備わっているとしよう。これだけ電波の飛び交う中でそのような機能がアクティブになっていれば、普通の人間は発狂するだろう。だからオフになっているのかもしれない。そうした脳の持っている本来の機能、眠っている役割というものを掘り出すことが、興味深いと考えている。全く新しいセンサー、テレパシーの解明。外部機能の作成よりも、それにより人間のポテンシャルを引き出すことの方に興味がある。

 

最後に、脳のリバースエンジニアリングがもし本当に可能であれば、人間が行っている殆どの仕事はロボットに置き換えることができる。

 

私は、世間で言われる、単純作業は機械が得意で、いわゆるセラピストのような、ソーシャルコミュニケーションの分野は人間の方が得意、という風には思っていない。脳のリバースエンジニアリングが成功すれば、バイアスや自己利益概念の少ない機械の方がソーシャルな領域にも優れたパフォーマンスを発揮できると考えている。それは、クリエイターの領域、音楽、芸術、文学も同様である。もっと言えば、人間の固有のものと思われる「快楽」や「幸福」の感受ですら、機械によって代用することができる。

 

そうすると残されたものは、人間に残っているものは何か。それは1つは人間同士の関係性。それだけが残されて肥大化した社会はグロテスクにならないだろうか。

 

人工知能による社会構造変化の議論はいつ巻き起こるのだろうか。