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IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画ネタなども。5分で読める1,000文字、10分2,000字を目標。

環境問題の本質的な論点②各論

次に枝葉のエコなどの問題に移る。

 

これは私から言わせれば優先順位や問題が倒錯している場合が多い。

 

例えば昨今ニュースでイルカの追い込みが可哀想だとか、古くから日本は捕鯨の禁止を道徳的な理由でアメリカや動物愛護団体のような輩から批判を受ける。

 

だが、私に言わせれば毎年何万頭もの豚や牛をホルモン注射で薬付けにして屠殺している方がよほど非人道的に思う。

 

イルカやクジラは牛や豚に比べると可愛いから非人道的だからとでも言うのであろうか。ちなみに、豚は大変知能が高い生き物で人間の5歳児程度の知能は有するらしい。

 

知能や外見ではないのだとしたら、政治的な理由と単なる感情論以外にイルカやクジラと牛や豚をわける垣根が見出し難い。いや、もしかすると合理的な理由があるかもしれないが、そこは議論し尽くされているとは言い難い。

 

更に言えば、動物と植物はどうだろうか?動物が可愛そうだからベジタリアンになるという人々がいるそうだが、植物も動物も同じ生き物である。生殖方法などに違いはあるだろうが、同じ命である。その差が明確に議論されないまま、感情論や雰囲気だけでこの両者も区別され、一方だけは無尽蔵に刈り取ることが許されている。

 

そして、極論を言えば、植物を命だから食べない、と言っていたら我々が死んでしまう。人は生きている限り大なり小なり他の生き物から命を奪う。その事実から逃げることはなんの問題解決にもならないのではないか。

 

そして、犬や猫の保護を訴える団体もいる。確かに犬や猫の命を決して祖末にしてはいいとは思わないが、食べるのに困り日々餓死する人間がいる現実世界の中で、本当に人間の命よりも犬猫の命を優先すべきなのだろうか。

 

これも答えの見出し難い問いである。

 

また、昔後輩がオンラインでNPO法人への寄付を募るwebサービスを実施している時があった。webページの写真や文章から寄付の相手を選んで自由に寄付ができる仕組みであるが、後輩曰く、貧しい日本人の子供よりもアフリカの貧しい子供たちの方が、寄付が集まり易いという。

 

彼は私にその理由がわかるか尋ねてきたが、私は未だにその後輩の問いに明確な回答が出せずにいる。

 

こうした問題の倒錯は一つには概ね無知からくるものが多い。その無知とは、人間に対する理解、そして現実に起こりえていることへの理解である。

 

人間に対する理解、それは裏を返せば動植物との違いである。かつてこれをテーマに研究した人物はゲーテである。「形態学」という分野を産み出し、鉱物、植物、動物を研究し、主に骨格形成などから人間と動物の違いを明確にしようとした。

 

が、現代社会ではこうしたテーマは日の目を見ることは殆どない。これ程重要なテーマもないと思うのだが、資本主義社会ではしばしばこうした収益性に乏しい研究テーマは日の目を見ることはない。

 

人間がどういう存在であるか、その理解を少しでも深めれば、他の生き物とどう付き合えば良いか、あるいは人としてどう生きるべきか、また地球上における人間の役割のようなものも、少しは見出し得るとは思うのだが。

 

もう一つは、世界が広いため、その選択肢の全てを把握しきれない、ということだ。同じ1000円があったとして、その1000円の人類に対する使い方として、全ての選択肢を把握して最適化することは難しい。

 

そして、自分が克服した、自分と同じ病に苦しんでいる人間がいたら、他の病気にかかっている人よりも応援したくなるのは人間の心情としてはあるだろう。

 

それは全く至極当然のことかもしれないが、人間は驚くほど、自身では気がつかない程、自身の経験や体験、そして感情に左右され易く、それはしばしば素晴らしく作用することもあれば、議論の方向性を見失うこともある。

 

こうしたことから分かる様に、環境問題というのは、多岐に渡って答えが見出し難い問題が多い。議論をするレベルに人類が到達していない、と言っていいだろう。まだその時期に差し迫ってもいない、とも言える。だが、それはいずれ突きつけられる事になるだろう。その瞬間にまだいない事は、実際は幸運なのかもしれない。(いずれ命に明確に順序をつける意思決定に迫られることになるという意味である。)

 

その時期に達していないのに、これ程答えの見出し難いテーマの問題が国家、個人を問わずまとまるはずがない。まとまる方がハッキリ言って正気ではない。それが環境問題ではないか。

 

最後に、私個人の死生観に触れるが、私はカスタネダの死生観に大変な印象を受けた事がある。

 

ハンターが獲物を狙い、刈り取り、その動物の命は尽きる。この死は突然のものであり、全く不条理なものだ。

 

そして先祖たちの多大な努力により、人類は驚く程自然や「死」そのものから守られてはいるが、根本的なものは何も変わっていない。

 

全ての命は一瞬で何の理由もなく終わることがある。それは人であれ、虫けらであれ、自分自身であれ何も変わらない。不条理な死というものから逃れられない、という点において、全ての生き物は等しいというものだった。

 

私はこの話しを聞いた時に、如何に自分が傲り高ぶっていたか思い知らされたものだった。

 

だが、その一方で、福沢諭吉先生が言う様に、人間は動物ではない。気高く、品格を持って生きることができる生き物である。だから動物にはできないことを為していかねばならない、そう思うのである。

 

「命」としては全ての生命は、死に対して等しくとも、「存在」としては他の生物には為し得ない事ができるのではないか。そう常々考えている。

 

人間はしばしばこの二つを混同して考えるため、根拠のない傲慢さや悲観さに囚われることがある。だが、そうではない、全て一律で考える必要など何もないのだ。

 

もっと日常的な事柄を例にすれば、社会人として優秀であるからといって、人間として優れているとは限らない。男性あるいは女性として魅力的であっても、いい親になれるとは限らない。頭が良くても、運動神経は乏しいかもしれないし、その全てに優れていても、愛情が得られるとも限らない。

 

全てが一律などはあり得ない。傲慢さも悲観さも己に対する無知から生じるのである。何かができるからといって傲慢になることも、何かができないからといって悲観することも、本来はないはずなのである。何故なら人間は常にそのどちらでもあるのだから。

 

(観測点が変われば、という点でこれはまさに相対性理論を人間の精神を分析する際に適用した場合に観測できる事柄であることは示唆があるのではないか。そして種として全体から見た人の生死の決定には量子論的な、カオス論的な側面がある点との関連性も。)

 

環境問題という問題、いずれ答えを見出さないような時にはどうするか?それには、私は人間に対する理解を深めること、そして問題を細分化して柔軟に対応すること、それが問題解決のキーとなるのではないかと気づいた。矛盾しているかもしれないが。そして一律で対応しないために理解がいる。

 

だが、人類は実際はそうした問題に直面しない限り、理解を深め柔軟にはならないだろう。つまり、人類はどう足掻いても、存亡の危機に関わるような問題に直面するように、遺伝子レベルで組み込まれているとも取れる。つまりアポトーシスというものは、進化そのものにも必要なのだろう。

 

“We are strong and weak, merciful and brutal, and we are lives and death.”