IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

2;8の法則の本質

いわゆるどこの会社も2割優秀、6割普通、2割窓際という状態が、実はアリのような社会動物にも全く同じ現象が見られるという件。

 

そして、駄目な2割を排除してもまた残った中で2割が駄目になっていく、というこの現象が、あたかも人間が動物的な存在だからという事で説明が終わっていることに異を唱えたい。

 

私はそういう日本人だからとか、人間だからとか、動物だからのようなフワッとした議論を聞くと大抵、右半身がざわついてしまう。

 

この現象は簡単にもう少し論理的に説明が可能である。

 

まず、この問題で優秀な2割をどう定義しているかがポイントである。

 

要するに、例えば同い年の新卒を並べているにせよ、部署内比較にせよ、その中で目立った存在、この人に仕事を任せると早いし、確実だ。問題解決能力も高い。そんな人材の事ではないか。人当たりも良いかもしれない。

 

そうすると、当然、周りがその人を頼り始める。また仕事を振りたがる。上司も、通常の2倍の速度で仕事をこなして昼には暇になっている部下を見たら、倍の仕事を与えたくなるだろう。

 

そうすると、その優秀な2割はますます忙しくなると同時に、他の社員よりも仕事をこなす分だけますます経験を積み、優秀になっていき、どんどんその差が広がっていくことになる。

 

だがここでポイントは社内において、基本的に仕事の量は一定であるということだ。なぜなら、企業は仕事の量だけ人を採用をするため、今の社内でまわせてない量の仕事があるなら雇うし、逆に余っているなら整理するからだ。

 

つまり、その優秀な2割の社員の仕事というのは、元々誰かがやるはずだった社内の仕事2割をやっているのだ。だから、優秀な社員が2割いるところは、必ず窓際、優秀でないとのレッテルを貼られた社員も2割いることになる。

 

優秀な社員がそうでない社員の仕事を奪っているに過ぎないのだ。

 

だから優秀な社員だけを集めて会社を作っても、その中でまた序列がつき、2割さぼりだすし、駄目な社員だけを集めてもその中から2割頑張りだす、というのも正にこのことから説明がつく。

 

これをあくまでアリのような社会動物と比較して考えるのであれば、要するに人間もアリも放っておくと優秀な人間に仕事を任せたがるという傾向が、当たり前だがある事を示唆している。

 

これは企業や個人商売も同じことで、上位数%の企業がその業界のほとんどの収益を占めたり、一部のアーティストやミュージシャンはものすごくリッチで仕事も来たりするが、大部分は貧乏で仕事もないのと同じ現象である。

 

そして出来る所にはますます仕事がくるからできる様になり、できないところには仕事がこないから経験を積むことができずスキルが上がらず、両者の差はますます広がっていく、というわけだ。

 

これは企業間、個人事業間ならある意味仕方がないが、企業内の従業員間ということになると、要するにミドルのマネジメントが駄目だという結論になる。

 

人は自然にしてしまうと、優秀な社員とそうでない社員が出てしまうので、そこを如何にマネジメントが均等に仕事を振って、1人1人の仕事量が同じになるようにするか調節する、そういうことができる人材が今の企業にはいないのではないか、というのが実際にこの法則が企業で起こっていることから推察できる事柄である。

 

そして面白いことに当然ながら、こうした現象は大抵大企業で起こり、全員がフル稼働のスタートアップ業界では見られない。

 

つまり私が言いたいのは、2;8の法則は人間の愚かな絶望的な側面を示し、ただの悲観的なゴシップを提供しているのではない。このインフォメーションの本質は、人間と動物を分けるものの理解が浅く、社会全体がマネジメントというものに理解が弱い、そして日本の中間管理職が自分の役割をあまりよく理解してない側面を露呈しているのではないか、ということだ。

 

もしこれに採用の話しを絡ませるなら、常に2割駄目な社員を連れてくるような人材部門なら今直ぐ全員解雇すべきだろう。しかし、そうではないはずだ。

 

この話しを少し社会的問題に拡張すると、社会の所得格差についても全く同じ説明がつく。富める者はますます富めるようになるし、貧しいものはますます貧しくなる。その比率は驚く程一定で変わらない。何百年歴史が経っても、どの国でも同じである。

 

という事は、この問題を社会問題に置き換えて考えると、貧困層に手を差し伸べるべきは、富裕層ではなく、中間層ということになるのではないか。富裕層の労働力は、貧困層とは差があり過ぎて再現できないが、中間層なら労働を指導することができる。まずは労働に当てはめて考えた場合だが。

 

同様にミドルマネジメント間で差がついている企業があるのなら、それはトップの責任ということになる。ならば、これを社会問題に置き換えると、富裕層は本来中流階級に分配、支援すべきだ、ということになる。

 

だが、実際の社会においては、富裕層が貧困層を支援し、中流階級は自分たちが富裕層でないことを理由に、極めて利己的に振る舞う傾向がある。そして決まってその説明を学者は人の社会動物性などと言うのだろうか。

 

そうではない。企業がマネジメントで問題解決を図れるように、個人、社会も「意志」を持ったマネジメントによってそれは解決ができるはずだ。

 

そしてこの「意志」こそが人とアリ、動物を分け隔てるものであり、逆に言えば意志のない恣意に身を委ねた行動をし続ける限り、その人間は人間とは呼ぶに値しない。

 

では何故それができないか?それは「意志」を持って取り組むだけの根拠に明確性がないからだ。

 

人間の社会動物性を考慮すると、恣意的にすると常に貧富の差が産まれる。だから、それを「意志」によってマネジメントし、富裕層は中間層を、中間層は貧困層に支援・分配というマネジメントを個人で行い、集合体としての社会も同様にマネジメントされた状態にする。

 

え?である。それで社会は本当に良くなるのですか?という感じである。具体的にどうするの?と。

 

従って原則は実践あるのみだが、問題はこういった質問がでることや、そもそも2;8の法則をただの法則のように扱ってしまう、現代人の「人間に対するリテラシー」の低さにある。

 

非常に高学歴で、博士号を幾つも持っているような人物であっても、例えば自分の腰椎の骨の数とそれぞれの効果を知らなかったり(5つである)、そもそもニュートリノを検出できても、現代医学では未だに盲腸の役割すら分かっていなかったりする。人間は何故怒るのか?という問いにも厳密には答えられないだろう。

 

人間社会はスマホやPCなど、これ以上利便性に関しては進歩のしようがない程進歩していても、未だに夫婦喧嘩は耐えなかったり、嫉妬やいじめで苦しんだりする人間は後をたたない。

 

確かに人間に関する研究、それは肉体的にも精神的にもリテラシーの高さなど短期的には資金にならない。だから資本主義ではあまり発達せず、未だにソクラテス孟子の時代の域を出ないが、そうした人間存在に関するリテラシーを高めることが、新しい時代、よりよい社会を構築する上での土台となることを私は堅く信じている。

 

 

2;8の法則からマネジメントの話し、そして人間リテラシーへと話しが飛躍してしまって、いつもと同じような話しになってしまったが、要するに本質はいつも同じ。人間とは何か?それを理解せず、それに着せる服を作っても着た時にフィットした美しいラインのものはできない、それは社会設計も同じということなのだ。レオナルドダヴィンチが人体を理解した上で描いたデッサンが美しく、工学的に優れた物が作れたように、人間をマネジメントし、社会を設計するには、人間を理解する必要がある。

 

マネジメントと社会制度が今の特に日本社会の大きな課題の二つであるのは、そもそも社会全体で人間リテラシーが低い、これに起因するのではないだろうか。

 

それが2;8の法則にも垣間見えたため、今回はここまでの話しとなりました。