欧米諸国は大陸にある。従って日本に比べ、地震は少ない。当然、津波も少ない。
そして彼らの歴史には自然災害で大きな打撃を受けたというものがない。最も大きかったのは病気、ペストであったが、それもペニシリンの発明によって克服した、と彼らは考えている。
基本的に西洋史の最大の脅威は人災。いつも東から来る侵略者、フン族、モンゴル族といった騎馬民族たちであった。
逆に日本は、海に囲まれているため、歴史上侵略を受けたのは、600年代の白村江の戦いの後と1200年台の元寇の二回だけである。だが、日本は地震と津波、そして富士山などの噴火という自然災害に長く苦しめられてきた。
従って、次の思考がこの両者の環境による違いから導ける。欧米人にとって、最も忌むべきは人災であり、自然災害は克服できるもの、あるいは未知のものである。逆に日本人にとって、自然災害とは克服し得ないもので、人災こそ未知のものである。
その結果、他にも幾つかの要因が重なってだが、欧米人は“人災”を防ぐための発明を数多くする。法律、戦略、契約、国際条約、そして兵器。兵器は人を殺すことはできても、地震を防ぐものではない。
もちろん、彼らは物理学、生物学、などあらゆる自然科学も発達させるが、その根底にあるのは自然は征服できる、というものではないだろうか。
これは少しこじつけの感が否めない論調かもしれないが、日本人は人災に関して免疫が弱い。徳川幕府は300年間問題こそあったにせよ、政権を維持し続けた。日本人の精神や内面のどこかには、権威、あるいは他者に対する信頼感、“性善説”がある。
それが見事に破られたのが、太平洋戦争時代の軍部の暴走ではないだろうか。
あるいは、昨今の政治不審について考えてみよう。
現れては消える政治家たちに不満を抱きつつも、自分たちの政治家を監視するシステムが健全ではないかもしれない、と疑うことはない。それは権力、あるいは人災に対して未知であり、不満はあるが、ある面どうしたら良いかわからない、という日本人の精神が見え隠れしなくもない。
法治国家という概念は決して日本からは生まれえなかったであろう。逆に欧米人は最後には自然を克服できるつもりでいる。
それは地球をロボット化し、天候や地形をコントロールする発明である。彼らは究極的には必ずそこに辿り着く。しかし、それが一時的にできたとしても、僅かなミスで全てを制御仕切れなかったとき、訪れるのは大きな破滅である。
ところで、先日映画で観た「インターステラー」というのが、私には話題となっている映像よりも、テーマの方が衝撃であった。
それはいつ終わるかもしれない世界で生きる人々の物語であった。
我々は普段そんなことを考えもしない。だが、実際はいつこの今ある世界が一瞬のうちに失われてもなんの不思議もない。
我々日本人は、そうした超起的な出来事、それは人災であれ自然災害であれ、いつか訪れる終焉に際し、欧米人とは違った思いを抱き、解決策を探るだろう。
その映画では、人々は新しい惑星を求めて宇宙に飛び立つ選択をしていた。人類は宇宙にも行ける、という欧米人らしい発想と言えば発想である。(監督のノーランはイギリス人とアメリカ人の子供である)
日本人ならどう考えるのだろうか。もちろん、日本人は座してあるがまま滅びを受け入れる民族、という対比をしたいのではない。
作中のDyran Thomasの詩にあるように
“Old age should barn and rave at close of day.”
人は終わりを前にしても、生に対してあがくだろう。そしてその生き様はあまりにも欧米人とは違う。だから彼らは理解できない日本人に対して驚異し、感嘆するのである。
日本人の精神を持って、ノーランのテーマで映画を作ったら、果たして結末はどうなるのだろうか。