IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

経営の視点から読み解く銀河英雄伝説・アルスラーン戦記解説。経営学のナンバー2論

田中芳樹作品は基本的にナンバー2論である。

 

英伝ではラインハルトに対するキルヒアイス

アルスラーンではアルスラーンに対するダリューンである。

 

両者とも極めて主君に忠節で有能であり、ラインハルトが覇道を、アルスラーンが王道を為したのは、彼らナンバー2の存在あってのことである。

 

ここでラインハルトが覇道に進み、途中でナンバー2がいなくなったことと、アルスラーンが王道を歩み、最後までダリューンが共にいたのは偶然ではない。

 

覇道には絶対的な覇者がいればよく、ナンバー2は不要である。そしてラインハルトは自身が有能過ぎるために、ナンバー2がいなくても良い人材であった、という点も見過ごせない。

 

これは企業で言えばワンマン社長に当たる。優秀であるがゆえに、なんでも自分でできてしまうため、必要なのは、自身の命令を忠実に実行できる部下だけである。

 

この点、途中からミッターマイヤーは名実ともにナンバー2にならず、ラインハルトの最も忠実かつ優秀な部下であったのも頷ける。

 

また、ラインハルトがこれまで王道を歩んでいたのに、オーベルシュタインが授けた非道な策を受け入れ、覇道に舵を切ったという点も注目すべき点である。

ラインハルトが覇道に舵を切った時点で、覇道を為すための汚れ役としてのオーベルシュタインは必要になったが、王道を守るナンバー2のキルヒアイスは不要になったのだ。

 

これに比べて、アルスラーンはある種の凡庸さから覇道を歩もうとしてもできなかったことは、王道を守る要因にもなった。

 

自身が脆弱であることを認め、ある意味ダリューン無しでは、生きてこれなかった状況、また権力を握った後でも自身の弱さを認め、他者を必要としたことがアルスラーンが最後まで王道を貫けた一因だろう。

 

会社組織も大きくなると如何に社長が優秀であっても、限界がある。アルスラーンダリューンというナンバー2を信じ、また同様に家臣たちをうまく使うことで、王国を納めていくことになる。

 

これに対して、覇道を走るラインハルトは、結局最後まで敵を求め続け、最終的には腹心中の腹心のロイエンタールの反乱、という事態を迎える。

 

これは最も強い者が王にあれば良い、というラインハルトの概念にロイエンタールが部下として忠実に応えたものではあったとも言えるが、それは君主の論理であって民の論理ではない。(社長の都合であって、従業員や関わる企業に必ずしも益のあるものではない)

 

これは経営に置き換えるのなら、必ずしも極めて優秀な人間が組織のトップに立つことが、その組織にとって最高益でないことを暗示している。

 

同時に、王道を歩む者にとって、ある種のナンバー2という者が必ず存在することも示唆している。

 

話をラインハルトが王道から覇道に至った地点に戻ろう。ラインハルトはオーベルシュタインの戦争が長引けばその百倍以上の犠牲が出るため、少ない犠牲で戦争を終わらせるために、必要な犠牲だとして民を見殺しにする策を提案する。

 

これはFate-zeroで衛宮切継が聖杯から問いかけられた話と同じである。すなわち、100人乗った船と200人乗った船のどちらかしか助けられないとしたら、どちらを助けるのか、と。

 

これは最小の犠牲で最大の効力を産むことを考えるマキャベリズムの基本だが、その考え方そのものに、覇道が根底にある。

 

王道を行くアルスラーンであれば、ベスターラントは容認しなかったであろう。そして、甘いと罵られたであろう。

 

では王道であれば100と200どちらを救うのか?という問いにどう答えるのだろうか。その答えは、そもそも数の比較で考えない、ということである。

 

Fate-zeroに再び言及すれば、衛宮は自分の師のナターシャを撃ち落とす、という選択肢をする時に、王道か覇道かを選ばせる試練に逢っている。

 

自分にとって大事な人であるのだから、数の計算ではなく救う、という選択肢をしたときに、そのあとにそれでも他の人も救える可能性も導き出せた可能性もある。

 

その意味において、覇道は二元論的である。未来を所与のものとし、選択肢が二つしか存在しないかのように思わせる。

 

逆に王道は愛があり、可能性がある。

 

だが、もしベスターラントでオーベルシュタインの言うようになっていたら、ラインハルトは後悔したかもしれないし、彼が玉座につくのは遅れたかもしれない。

 

だが、少なくともラインハルトはキルヒアイスの提案を聞くべきであっただろう。またもっと言えばベスターラントの前、民の犠牲を強いる策を採用したアムリッツァ戦から、ラインハルトは覇道に歩み出してしまっていた。

 

また数の上でも、彼が覇道を歩んだために戦死した数も相当数いることを考慮すると、果たしてオーベルシュタインの策が長い目で見たときに、本当に犠牲者が少なくなるものだったかも疑問がある。

 

覇道の恐ろしいところは、一見すると「1万人の犠牲者と100万人の犠牲者どちらをとりますか?」という問題にすり替えて見せるところである。

 

現実には、このような選択肢は同時に二択で与えられる得ることはなく、見積もりや幾つかのファクターの中から、有力説として時間経過後に生じることが多い。

 

そして、あの時「1万人か100万人か提示したはずですよ」と万が一事が起きたら正論で非難をすることにある。

 

劇中で多くの将校がオーベルシュタインを嫌うのは、こういうところに彼らが気づいているからだろう。

 

そして、最終的にベスターラントで犠牲者を減らしたつもりになっても、結果的にラインハルトが覇道を選んだことにより死んだ将兵の数は多いのではないだろうか。その意味では「1万か100万か二択」というのは極めて稚拙な問いかけと言えよう。

 

オーベルシュタインもオーベルシュタインで、彼自身が覇道に導いたにもかかわらず、結果的にラインハルトを止める者(ナンバー2)がいなくなってその後のヤンとの無為な戦争を結局止めらなかった、というのはやや稚拙であったように見える。

 

ちなみに、もう一つの田中芳樹の有名作タイタニアは、後継者争い、経営で言うところの事業承継論である。

 

日常会話、ビジネス、ネイティブという3段階ではない本当の英語力

日本では英語のレベルを概ね、日常会話、ビジネス、ネイティブという3段階に分ける。

 

だが、実際は非常に曖昧で、ビジネスレベル、ネイティブレベルの中にもかなりの英語力の差がある。外資にいても話せないとか、TOEIC何点でも話せないとか(TOEICは試験自体が最近まで、会話試験がないから当たり前だが)よく聞く話である。

 

もっと言えば、実はネイティブレベルは第二言語を英語にしている人にはほとんど不可能である。言い換えると、ネイティブレベルの日本人などほとんど日本に存在しない。

 

また、よく「Times」や「Economist」が読める、という日本人がいるが、これも実際はちゃんと読めるレベルの人は少ない。もちろん、大体何を言っているかわかるレベルにはいくのは難関大学生レベルの英語力で足りるが、ちゃんと理解しようと思うと、圧倒的に語彙が違う。

 

英語はイギリスから発祥している言語なだけあって、実はすごく階級がハッキリする言語である。日本人が「話せる」と思い込んでいる英語はあくまで、国際的に標準化された「中産階級の英語」であって、「上流」と「下流」の英語はほとんどわかっていないのが実態である。

 

そして、「Times」や「Economist」は実はその「上流」の英語で書かれている。だから、例えばこの記事が不景気について話してる記事だな、というくらいの理解はできても、この表現は慣用句でどこから引用されてて、どういうニュアンスか、といったところまで理解しようとすると、一気にレベルが上がる。

 

TOEICが満点近くあっても、辞書が必ず必要になるくらい、1p辺りの語彙数がそもそも、中産階級の英語と違う。

 

英語の特徴は階級が上がれば上がるほど、語彙数が上がる。

ちなみに、下に行けばいくほど、語彙数は減るが、今度は日本人はスラングが慣れないのと、概念が違うため会話が難しくなる。

 

繰り返すが、基本的に日本人が習っている、あるいはこれが「英語」だと思い込んでいるのは、「中産階級の英語」である。TOEICなどのスコア基準もそれに合わせて作られている。

 

そういった事情からも、本当の意味で日本人が欧米のエリートコミュニティに入り込んでいけないのである。

 

例えば上流階級の英語は引用で日本でも有名なところでいえば、聖書とシェイクスピアである。だが実際には、それら以外にも、アメリカであれば、エマーソン、デューイ、ディケンズなど日本人が誰もが知ってるわけでもない、著名な人物の教養もある。語彙を含めた教養は、英語が話せるとか、海外経験があるからとかでは補えないところにある。文化や歴史的背景が必要になる。

 

また、翻訳や通訳にも実際は著しく幅がある。同時通訳レベルと観光ガイドの通訳はもちろんレベルが違う。

 

そして、重要なのは、英語は確かに世界語だが、「ネイティブ」と「ノンネイティブ」の差は遥かに大きい、というところである。それはどの言語にも言えるが、英語が世界語なため、肌感でそれがわかりづらい。

 

どういうことかと言えば、第二言語を英語としている人、例えば中国やインド人が話す英語は、アクセントを除けば、遥かにアメリカ人やイギリス人の英語よりもわかりやすい。それはヨーロッパで第一言語が英語でない、ドイツやフランスなども同じである。

 

なぜなら、彼らも同じように「中産階級の英語」を習っているから、語彙がほぼ同じなのである。またスピードもそれほど早くない。

 

だから、ヨーロッパ人や東南アジアの人々と英語で話をすると、自分もつい英語が喋れる気になるのだが、第二言語で英語の人とコミュニケーションが取れるのと、第一言語が英語の人々と遠慮なしに喋るのではわけが違う。

 

日本のTOEIC試験は満点を取っても全く「ネイティブレベル」に達しない。TOEFLでも然りである。

 

そうした諸々も含めた10段階評価を試しに作ってみた。

 

レベル1(挨拶レベル)

Hi, Nice too me to youが言えるレベル。1人では海外に出れない。

 

レベル2(旅行、買い物レベル)

ハワイなど海外に行って、ホテルやレストランで最低限のコミュニケーションができる。

 

レベル3(日常会話、旅行トラブル対応レベル)

外人と一緒にご飯、飲み会に行ける。ご近所付き合いできる。このレベルから相手が優しいとギリギリ友達もできる。日本で言われる三段階の日常英会話レベル。旅行でトラブルが起きてもある程度までは対応できる。日本人の大半がこのレベルに所属している。

 

レベル4(ビジネス会話、プレゼンレベル)

ビジネスの話が英語で多少はできる。電話、プレゼンなどテンプレートのあるものは対応できる。TOEICだと650点くらい。日本で言われる三段階のビジネス英語レベル。日系企業で海外に行く人の足切りレベル。

 

レベル5(専門、ノンネイティブ、即応会話レベル)

自身の専門領域の英語なら会話ができる。ビジネスプレゼンで質問された時など、咄嗟の対応ができる。また、ノンネイティブ、英語が第二言語の人々と同じレベルでそれ程苦なく話せる。TOEICだと800点以上。いわゆる帰国子女でもブランクがあると、大体このくらいのレベルが多い。

 

レベル6(簡単通訳、国際結婚、ディスカッションレベル)

簡単な通訳と、英語で議論ができる。アメリカの大学院などに留学するには、最低このレベル。TOEICだと900点以上。一般的な帰国子女、外資に英語力で採用されるレベルもこの辺りからである。国際結婚して身につく英語力の最低ライン。ヨーロッパなど、日本以外の第二言語が英語の国の平均的な英語力も大体この辺り。

第二言語で現地採用も含めると、ネイティブレベルの英語力は必要ない。外資系企業の役員レベルもこのレベルで充分なれるため、ビジネスパーソンとしての英語力はこのレベルで充分。

 

レベル7(翻訳通訳、ビジネスパートナーレベル)

大体の翻訳通訳はできる。また、語学力の信頼も含めビジネスパートナーになれる。

日本人で自信を持って英語が話せる、というのは大体この辺のレベルまでである。ちなみに、ここからTOEICでは計測不能。日常的に英語を使う仕事にないと、このレベルの英語力の維持はなかなか難しい。

 

レベル8(ネイティブレベル)

第一言語が英語の人たち。つまり、英米人と同じレベルで会話、アクセントが取れる人たち。帰国子女でも少ない。ここまで来ると、企業ならむしろアメリカ人として採用される、というレベル。日本人でも海外で生まれ育って日本語が第二言語の人がこのカテゴリーになるが、そもそも日本人カウントする方がおかしい。

 

レベル9(英米外務省同時通訳レベル)

英語ネイティブレベル+教養+日本語力。

英語力単体なら、ネイティブレベルで対応可能だが、二つの言語をハイレベルな領域にまで仕上げないといけないため、ネイティブの中でも更にごく一部の上の人々、というカテゴリーになる。とは言え、各国首脳が外交の席で話す内容は限られてもいるし、非ネイティブと話すため最高レベルではない。

 

レベル10(上流階級英語レベル)

英語ネイティブレベル+教養+語彙力。

「Times」や「Economist」を辞書を全く使うことなく読みこなし、英語でユーモアが言え、英米人のエリートコミュニティに肌の色以外では完全に認められる教養があるレベル。エリアで言えば、ニューヨーク、ワシントンDCなどアメリカ東海岸か、イギリスでもロンドンに限定される。ちなみに、アクセントが少しダメでも、教養と人徳でコミュニティに食い込める場合もある。

アメリカ人でもハーバードロースクールを出て、トップファームに入るレベル。いわゆる、エリート層にあたるため、そもそも英米人でもこの層は少ない。

コンピューターと人間の洋服の選び方の違い

もしAIに今日着て行く洋服を、リコメンドしてもらうとこのようになるだろう。

 

やり方①

まず無限に存在する洋服の中から、サイズ、性別を選択する。次に気温や用途、値段を選択する。

 

こうして、分布の中から対象となるプロットエリアから絞り込んでいくことになる。

 

性別、サイズ、気温、用途、値段。これらだけでもかなり絞りこめただろう。

 

やり方②

自分で自分が好きな服をひたすらAIに教え込んでいく

 

例えばモード系の服を毎日着てAIにそれを教えると、モード系のブランドで似たような服をレコメンドしてくれる。

 

ちなみにやり方①を教師あり学習、やり方②を教師なし学習という。

 

しかし、どちらのやり方も「私」がAIに情報を与えている。

 

なので、その洋服が似合うかどうかまではわからない。

 

というよりAIがこれが似合いますよ、と提案してもそれを気にいるか、AIを信じるかはそれぞれのユーザーに委ねられる。

 

例えば流行りの服や、異性ウケのいい服をレコメンドの絞りこみに加えることもできる。だが、それもやはり本人が気にいるかどうかはわからない。

 

この最後の執行、意思決定にまでAIが関与できないのが、保険商品などがなかなかオンラインだけでは売れない理由の一つであろう。

 

AIは「レコメンド」の装置であって「ソリューション」の装置ではないのである。

 

また、AIで最適化とよく言われてはいるが、最適な解を見つけ、意思決定するというのは実は難しい。

 

最適化とは、洋服選びで言えば「その時点にもっとも相応しい洋服を選ぶこと」だが、その「時点」は目まぐるしく変化する。(もっと言えば本人がどこを最適化と思うかでも変わる)

 

例えばパーティーにドレスを着て行くとしよう。この時に、最適化をするためには、自分の感情や場の人間の数や質、更にそれらの人の気持ちにも左右される。(これらのパラメーターは人によっては意識すらしない)

 

もっと言えば恋愛は更に難しい。今の自分の気分と相手とデートしてからの気分がどう変わるかは、デートして見ないとわからないことが多いからだ。それを事前にAIに計算させることはできない。

 

つまりは最適な点とは常に変化する生き物のようなもので、誰もが大体の絞りこみをしてある範囲の中で決めているに過ぎない。

 

洋服で言えば、値段、見た目、用途といった、重要なファクターで絞り込んでいるだけで、最適化をしてることはほぼない。恋愛でも、見た目、年齢、趣味など、特定のフィルタリングをして、「足切り」をする役割をしているに過ぎない。

 

それはグルメや、他のショッピングなどあらゆるレコメンドにも共通する。

 

基本的に意思決定はレコメンドの範囲の中で行う。このレコメンドはAIもできるというだけなのだ。

 

ほとんどの人間の意思決定も最適化ではない。ある特定の範囲の中でベターベースをチョイスにしてることが多い。この意味では確かにAIは人間の意思決定に取って代わることができる。

 

だが人の直感にはそれを上回る事態が時に産まれる。

 

例えば今日は訳もわからず牛丼を食べに行きたいとしよう。そしてそこで隣の席に座った相手と運命的な恋に落ちて結婚する。

 

このようなドラマやストーリーはいささか大げさかもしれないが、AIは牛丼屋の営業時間とオススメはレコメンドしても、それが出会いに発展することは指し示さない。

仮に今日牛丼屋に自分の好みの女性が来ることを、AIがレコメンドできたとしてもその時、そのタイミングに行けるだろうか。

AIにリコメンドされたドレスを着てパーティーに行ったら、自分の嫌いな女性が同じドレスを着て不愉快になるかもしれない可能性まで、果たしてデータ入力できるだろうか。

 

直感と経験

 

人間は驚くべき意思決定をする。しかも極めて早く。

 

この意思決定は実は点に近い。AIにはそれができない。

 

なぜなら、点の意思決定には動的な要素が実は矛盾するようだが、含まれているからだ。

 

これは天気予報をコンピューターが正解には予測できないことと同じ原理である。

 

目まぐるしく変化する場や状況を、人間はどういうわけか、直感やインスピレーションで捉えることができる。

 

我々は今AIという言葉に踊らされているが、実は以下のようなことをやっているのである。

 

今朝来て行く服を選ぶ。悩むことがあるにせよ、これとこれとこれ、直ぐ決まる。

 

だが、これをAIにさせようとすると、目的を入力し、天候を入力し、気分を入力し、、

我々は脳の中で意思決定を下す時に、目的はこれ、天気はこれ、と一つ一つ自問自答して絞り込んだりはしない。

 

洋服を眺めて、うーん、これだ、という意思決定をすることが多いはずだ。

 

つまり、人間の意思決定はそのようなプロセスを無意識で行っている、あるいはそれを越えて点の意思決定をしている。

 

人間が一瞬で意思決定できる問題をあれこれAIに悩ませる。

 

我々がAIに取り組む時はこのようなことに注意する必要がある。

通貨と仮想通貨の違い

通貨(法定)と仮想通貨の違いは二つある。

 

一つは「信用を担保する相手」である。通貨は国が信用を担保しているが、

通貨の単位及び貨幣の発行等に関する法律,(略)通貨法,通貨単位貨幣発行法

仮想通貨の信用を担保するのは、仮想通貨を取引する人々である。

 

もう一つは「信用の裏付け先の存在」である。円やドルといった通貨は、一対一の交換レートではないものの、「金」にある程度裏打ちされている。その信用を担保するために、国家はゴールドを備蓄している。つまり、実際に起こるかは別として、金という実物と交換できる紙幣ですよ、ということで貨幣に信用を与えている。

 

これに対して仮想通貨は、裏付けとなる資産は存在しない。仮想通貨でも金は買えるが、それは多くの人々が仮想通貨に価値があると思い込んでいるから、金と交換してくれる人がいるだけで、仮想通貨に関わる人々が、通貨に価値はない、と思い込むと信用崩壊を起こす。

 

つまり大きくは「信用」に関わるところが通貨と仮想通貨の違いであるが、その他の点に関して、通貨と仮想通貨の違いはそうない。

 

まず、よく言われる仮想通貨の実態のなさだが、実は既存の通貨にもそれほど実態があるわけではない。

 

なぜなら、例えば円紙幣は食べられるわけでもないし、それ自体が金でできているわけではない。あくまで国がこれは価値がありますよ、と言って信用を保証しているから価値があるにすぎない。一万円札を作る原価が一万円ではない、という例えの方がわかりやすいのだろうか。

 

そして大半の通貨が今や電子マネーとして銀行に眠っている。当然、銀行の店舗は全ての預金者の預金を実物の紙幣で持っているわけではない。その意味では、通貨も実態がそれほどあるわけでもないし、仮想通貨がなんらかの形で紙幣かコイン化したら、その境目はますます曖昧になる。

 

もっと言えば、あり得ない話だと前提して、G7やIMFが例えばビットコインは世界共通の通貨です。これからはビットコインを使いましょう、と宣言すれば、ビットコインはその時点で仮想通貨でも法定通貨となる。

 

もちろん、仮想通貨がインフレを起こさないために、何らかの裏付けが必要にはなるが、実際いまの世の中の通貨がインフレを起こさないのは、金の裏付けの存在よりも、FRBや日銀のような発行銀行の政策に依るところが大きいため、世界仮想通貨銀行がG7などが主導で作られることになるのだろうが。

 

話を戻すと、よく言われる仮想通貨が中央集権ではないこと、そしてそれを裏付けるブロックチェーンテクノロジーは言うなれば、国家の代わりに仮想通貨に関わる人々が、信用を与え、安全性を担保している、ということになる。

ブロックチェーンとは何か、については各所に文献があるためここでは触れない)

 

Criptocurrency(仮想通貨)においてblock chain技術がコアで、一体のものである、と言われるのは、国家という中央集権、保証機関を除いても通貨が機能するためにブロックチェーンというテクノロジーが補っているとも言えるからである。

 

だが、現実は一部の仮想通貨を大量に取得している人間やマイナー、あるいは極めて優れたエンジニアリング技術を持った企業に権力は集中している。ビットコインのような既に価格が上がったものはともかく、新規の仮想通貨は法規制も乏しく、投資の世界で言う仕手戦で、価格をコントロールできるような無法地帯となっている。

 

そして、度重なる仮想通貨流出事故にあるように、やはり人間が扱う世界であるから絶対はない。法定通貨が銀行から盗まれたら、銀行は保証するし、国や警察当局も動くが、仮想通貨は国が保証する通貨ではないため、国側に動く義務はない。その意味で、「信用保証」という点に絡み、盗まれた時の回復可能性、安全性がやや異なる。ただ、どちらもリスクが存在することには変わりはない。ネムの流出で金融庁が動いたように、社会問題になるような規模の事件では動くこともありえる。

 

ただ、それも仮想通貨、というよりブロックチェーン技術の理念に基づけば、国ではなく、人々のコミュニティの中で仮想通貨の安全性が担保され、盗まれたときに取り返す役を担うプレイヤーの出現が期待されているわけなのだが。

 

仮想通貨は参加者が価値があると思い込めば成り立つものなので、決済の手段として全世界で使えるようになれば、それなりに通貨としては価値を持つようになる。決済先が一斉に取引停止などをしなければ、いきなり無価値になるようなこともない。

 

全世界で使えるようになれば、既存の通貨に比べて利便性も高まる。しかし、その一方で全世界共通の仮想通貨で、それが各国の通貨と兌換できるようになると、各国の通貨が仮想通貨の価値を担保するかのような、奇妙な状態になる。

 

つまり、通貨というワンクッションがあってから、間接的に仮想通貨が金で裏打ちされていることになる。

 

これは仮想通貨コミュニティが目指す状態の一つかもしれないが、前提としてアメリカ、中国、ユーロ、日本、UKなどの主要な通貨を発行している全ての国家の同意が必要となる。だがそれは極めて難しい。コンセンサスが得られないだろう。

 

また、国家は防衛本能を持つため、自国の通貨価値を下げるような存在を容認しない。特に、小国ではそのインパクトが強過ぎるため、規制するのは当然である。(逆に仮想通貨を利用した為替ダンピングなどは論点になりえるかもしれないが、本稿ではそれには触れない)

 

その意味では、非中央集権というブロックチェーンテクノロジーの根本思想に立ち返るなら、仮想通貨は通貨との兌換をするのではなく、コミュニティの中でサービスや実物のみと兌換をしていれば、そのコミュニティが国境を越えていれば良かっただけで、既存の通貨との交換できる必要性はなかったのかもしれない。

宗教と権威

人間社会はどの分野にいても、「イケてる」「クール」「あの人はすごい」といったヒーロー、ヒロイン的な人が存在する。

 

野球やサッカーのようなスポーツ、音楽や演劇のような芸術、そしてビジネスや政治の世界にもそれは存在する。エンジニア、IT 企業家であれば、天才的なハッカーや経済的に成功した社長はリスペクトされる。

 

そしてそれは人生のどのライフステージにおいてもヒエラルキーとして現れる。例えば、大学生、日本であれば「東大」というのは一つの頂点と考えられている。

大人になってからの日本社会で言えば、「お金」が一つの尺度となり、女社会の中では「美」や「ライフスタイル」に尺度があり、階級が産まれる。

 

「東大だからすごい」

プロ野球選手だからすごい」

後者には「お金持ちだからすごい」という付加的な意味もあるが、同じように「すごい」と評されるのは、ある特定の分野で優れている、からである。

 

そのある特定の分野を探求している人々にとってその存在は憧れであり、権威となる。美を重んじる者には美が、スキルを重んじる者はスキルが、お金を重んじる者にはお金が権威となる。

 

権威とは影響力である。例えば自分が憧れるトップエンジニアから、開発の指導を受けたら、そのアドバイスはまさしく、神から賜った言葉のように有難く受け取るだろう。

 

逆に権威とは、その人物が重きを置かない分野では影響力を発揮しない。例えば芸術の世界で生きる人間にとって、金融の世界で稼いでいる人間、というのは、異業種としての尊敬や、ある一定のラインを超えた一流にはどの分野にもあるような才能への敬意が起こることはあっても、芸術家としての尊敬、権威は持ち得ない。

 

しかし、同じ芸術に生きるもの、特に自分が崇拝する芸術家を前にすると、それは途端に権威に変わる。すなわち、権威とは

「自らが重きを置くところに発生する。」

 

そして権威はやがてしばしば、本人も気づかないうちに宗教に変わる。

自分が崇拝して止まない人物が言ったことを全て正しい、と考える。あるいは盲目的に崇拝してしまうことは宗教の始まりである。

 

権威が宗教に変わる境目はどこか?

例えばそれを大学生のヒエラルキーで考えてみると、

○「東大生はよく勉強ができる」

△「東大生は頭がいい」

×「東大生は偉い」

 

東大に受かるには5教科7科目という膨大な量の勉強が必要である。その点、同世代と比較して、「よく勉強ができる」というのは最も話である。

 

しかし、「頭がいい」は実は宗教の始まりである。

勉強ができること=頭がいい、は確かなことではない。

例えば、お金を稼ぐ能力=頭がいい、と定義すれば、東大どころか大学に行かなくても頭がいい人間もいることになるし、東大に行っても、お金を稼ぐことができなければ、頭がいい、とは言い切れない。

そもそも「頭がいいとは何か」が抜け落ちてしまっているため、宗教化してしまっている。

 

「東大生は偉い」これは一見わかりやすそうに見えるが、多くの人間が混乱し、宗教化してしまっているところである。この「東大生」というところを他の言葉に置き換えてみると

「政治家は偉い」「金持ちは偉い」「弁護士は偉い」「医者は偉い」「国を守っている官僚は偉い」「日本の伝統を守っているから相撲協会は偉い」

こうして並べてみると、可笑しな話なのは誰でもわかるが、いざ当事者となると、無意識でそう思っていることが多い。

 

もちろんここで宗教化しているのは「偉いとは何か」ということが曖昧になっているからである。

 

例えば、ここはゴールドステイツである。この国の唯一絶対の人間の評価基準はお金である。したがって、金持ちこそが権威である。と定義した国があるとして、その国民誰もがその基準を受け入れたら、その国の中では「金持ちは偉い」ということになる。

これは芸術の世界の中で有名な芸術家が権威をもつことなどと、考え方は同じである。アートオブステイツならアート、スキルオブステイツならスキルである。

 

しかし、「なぜ、偉いか?」という小学生でも思いつく問いには答えることができない。この国ではお金が評価基準だ、だから金持ちは偉い。That’s all

 

つまり、「東大生は偉い」というところに話を戻すと、こういう意味になる。この国において、学歴が高い者が偉い。東大は最高学歴だ。だから東大生は偉い。という三段論法に落ち着くことになる。だが、学歴が高い者がなぜ偉いのだ?という質問に対しては、この国は学歴が評価基準だから、という説明以外ないだろう。

 

さてここで、「宗教」とは何かというところの説明にようやく入れる下地が整ったように思う。

 

「東大生は頭がいい」

これは「頭がいいとは何か」を「考える」ことが抜けてしまっている

「東大生は偉い」

これは「なぜ偉い」のかを「考える」ことが抜けてしまっている。

 

つまり、宗教とは「考える」ことを「放棄」することで生まれる。

そして「宗教」は「権威」の元で生じる。

 

しばしば、自分が思いもしない奇跡をやってのける人物を「教祖」とするのも、自分ができないと思っていることを、できる人間に権威を感じるメカニズムの一部である。

 

それは自分が重要だと思うこと、それが「できる」のは「すごい」という尺度を持っているから産まれる。つまり、「権威」と「評価基準」は一体のものである。

 

では宗教的にならないアプローチとは何か。

例えば、ある有名なスポーツ選手がいたとする。そのスポーツの世界では超一流であっても、その人がプライベートでしていることに問題であれば、「スポーツ人としての評価はしても、人としては尊敬できない」と切り分けて考えることができることである。

 

別の例を挙げると、原発の専門家がいて、原発は絶対に安全だ、と言っていたとする。そこでその人物の肩書きはどうあれ、震災があったのだから、本当にそうだろうか、と考えてみることである。

 

前者は「区分する」後者は「疑う」というどちらも「思考」をしている。

逆にあのスーパースターは、スターだから正しい。あの人は専門家だから間違いない。とするところには「思考」が存在していない。

 

また、そもそも「評価基準」を持たない場合はどうだろうか。

「人は神の元において全て平等である。そして全ての才能は天から与えられたものであり、それぞれがその才能を活かして社会が成り立っている。」

 

このように考える人物に対して、「神」(あるいは親、祖先も)以外のものが権威を持つことは難しい。

 

続けて言えば、「考える」ことと、「評価基準」を持たないこと(あるいは人ではなく、天に権威がある、あるいは能力や行動に評価を持たないこと)を人々が持ち始めた時、世の中はどう変化するであろうか。

 

また多くの誤解がある。宗教とはユダヤ、キリスト、イスラム、仏教などを思い浮かべがちだが、常に「神」から生まれるわけではない。

それがなんであれ、盲目的に信じたらそれは宗教となる。マルクスを盲目的に信じればマルクス教、お金を盲目的に信じれば拝金教、電通という会社を盲目的に信じたら電通教だ。そういう意味では恋愛と宗教も紙一重である。

 

つまり、「宗教」は多くの人々が思っている以上に、日常生活の中に浸透している。更に厄介なことに、当事者の大半は無自覚となっている。

 

このような問題提起に、幼稚な統治者はこう反論するだろう。

“国民が思考し、正しい評価基準を持ってしまったら、その国を統治できない”

 

そうではなく、権威とは今を生きる全ての人達に恩恵を与える者に存在する。つまり、親であり、祖先であり、始祖である。そして権威に対する我々の態度は盲従ではなく、敬意と自ら考える姿勢である。とすることもできるのである。

実は、日本の皇統というものは、世界でも稀有なこうした権威の形を具現化した、超近代国家となり得る可能性を秘めている。(超近代国家とは人々が思考し、権威への態度が変わった国家のこと。勝手な造語である。)

なぜならば、日本は「権威」と「権力」を分離した国家であるのだから。

日米選挙、トランプと小池百合子を、エスタブリッシュメントとポピュリストという軸から読み解く

佐藤優 副島隆彦インスパイア

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この本を読んで改めて気づいたのは、アメリカで起きている現象は富裕層VS貧困層であり、それはエスタブリッシュメント層(上流階級)とポピュリストが対象とする層(大衆、以下ポピュリスト層)の対立に置き換えることができ、その基軸は日本で小池百合子が勝利し、敗北した現象を読み解くのにも寄与しないだろうか。

 

まずトランプは、実際はクリントンよりも資産家という面ではエスタブリッシュメント層に近い。そこを、巧みにアメリカの現在の対立構造を読み解き、自分をイメージコントロールし、ポピュリスト層を取り込み選挙に勝利した。

 

一方、小池百合子自身はエスタブリッシュメント層という面を全面に出しかつ、失態の多い安倍政権に失望するポピュリスト層を政策で取り込み、両方の層から支持を得て、都知事選には勝利した。

 

しかし、民進党合流の際に踏み絵をしたせいで、ポピュリスト層からは支持を失い、また都知事なのに国政という欲を出したため、エスタブリッシュメント層からも見放され、選挙に敗れたというのが今回の小池百合子敗北の見立てである。

 

ここでエスタブリッシュメント層とポピュリスト層のそれぞれのペルソナを考えてみる。

 

エスタブリッシュメント層とは、いわばアメリカであればアイビーリーグ卒、日本でもそれなりに良い大学を出て、教養があり、洗練されたものを好み、週末にはどちらかと言えば品の良いレストランでワインを飲むことを好むような層である。更に言えばゴルフやテニスに勤しみ日本なら日経新聞を読むような層で、アメリカでは主に北部とカリフォルニア州に多い。

(真のエスタブリッシュメント層はまた違う定義になるが)

 

かたやポピュリスト層は、学歴はそれほどでもなく、荒っぽく、洒落たレストランなどよりもパブや居酒屋に行き、スポーツ観戦を好む層で、アメリカで言えば南部に多く、日本で言えばテレビを観て大衆紙を購読するような層である。

 

エスタブリッシュメント層からすれば、ポピュリスト層は堕落し、教養もないのに自分の権利を主張するから許し難い存在であり、

ポピュリスト層からしたら、エスタブリッシュメント層は差別主義でお高くとまって、忌々しい存在で、お互いの対立というものは、根が深いものがある。

 

花形の職業も異なる。エスタブリッシュメント層であれば、一流企業、官僚、弁護士、医師、会計士などであり、アメリカであればクリントンを支持していた層でもある。

彼らからしたら、トランプのような下品な人間を大統領にするなど正気の沙汰ではないという感覚だろう。

 

方やポピュリスト層の花形の職業は軍人、警察官、自衛隊などであり、基本的にグローバル化の恩恵を受けることがない層である。アメリカで言えば彼らが見ている世界、望んでいる世界は、世界最強のアメリカだけであり、外の国は興味を持たず、もっと言えば観光で行くこともない。

それがトランプを支持した層で、日本人がメディアや日本で出会うことない、ある意味典型的な本来のカウボーイ、アメリカ人である。

だから、日本人はトランプが勝つという現象を理解できる人が少ない。何故ならトランプを支持する人たちと接触したことがまずないからである。

 

日本人がよくアメリカ人、として議論しているのはニューヨークかDC、カリフォルニアにいるエスタブリッシュメント層を指すことが多い。

 

無論、トランプはアメリカの産業界の代表であり、娘夫婦はど真ん中のエスタブリッシュメント層であり、富裕層の支持を得ていない訳ではない。ポピュリスト層をとるために、色々な失言や失態も合わせて抜群に見せ方がうまかったともいえる。

 

今回のテーマから外れるが、オバマもまさにエスタブリッシュメント層の代表であり、今回の選挙結果はオバマによる改革への失望、エスタブリッシュメント層、エリート層への失望からのトランプという流れも見える。

 

代々アメリカでは、民主党が北部エスタブリッシュ層、共和党が南部ポピュリスト層のカルチャー寄りの大統領を排出している。これはおそらく南北戦争からの傾向だろうか。アメリカは未だに南北戦争の文脈は根付いていると思われることがメディアを見ていても随所に感じられる。その構造も日本人には馴染みがないところであろう。

 

一方で日本はそこまで国内に明確かつ、深刻な階級対立は表層化していない。ただ、地域格差という意味ではそれが特に沖縄では顕著に起きており、だから沖縄は最も地域政党という議論が根強く、与党は選挙に勝てない。

 

とは言え、資本主義である以上、今後も富裕層、大衆、両方を取り込むことが選挙で勝つ秘訣である。日本の場合、特に自民党は出自がエスタブリッシュメント層が多いのもあり、必ず政策でポピュリスト層寄りにせざるを得ないだろう。逆に野党は差別化のため、庶民的なイメージを出してくる、と言えば既に各政党が行なっている選挙のイメージに合致するはずだと気づくはずだ。なぜなら自民党がポピュリスト寄りの政策を打ち出してしまっている以上、野党は政策で勝負も差別化もできないからである。

 

なので、小池百合子が今回の選挙で掲げたように、しがらみのない保守というよく分からない言葉が出てきてしまうのだ。そもそもしがらみ、特定の権力と結びつかない政治家など存在し得ないのに。

 

小池百合子個人がエスタブリッシュメント感を出し、政策もポピュリスト層寄りでは自民党と違うところなど、何も存在し得ないからそう言わざるを得ないのだろう。しかし、そのような発言は、勘のいい有権者からは自民党の劣化版だと思われて票を失うのが関の山である。欺瞞も透けて見えてしまうからだ。

 

あくまで新党に期待されるのは、“質の高い自民党”としての役割である。その期待値を裏切ってしまうと選挙には勝てない。今回の場合、その期待値を裏切ったターニングポイントが、踏み絵と都知事選直後に国政に出てしまう判断、そして周辺人材の質の低さの三つであったと言えよう。

 

したがって、今の有権者の温度感からすると、自民党の中から最も優秀な議員をエッセンスとして抽出し、それが野党の中でもスター級の議員や民間のセレブリティと合流するような構図が、次の選挙で自民以外が勝つパターンとしては考えやすい。

 

例えば小泉進次郎石破茂河野太郎が若手を引き連れ離党し、小泉は年長者を立てて今回は総裁にはならない、という構図は面白い。そこに民間から池上彰などが合流するイメージである。

 

今回の国政選挙も小池百合子も最初は、そのパターンとして入ったが、結果的に自民党を上回る人材を揃える、という求心力が足りなかったという一面もある。だが、先ほどのメンバーに都知事として小池百合子が応援する、というパターンは今後もまだ充分活きると思われる。

 

あまりにも堕落した自民党を、志のある若い自民党議員が離反して新党を立ち上げ、そこに支援者が現れる、というストーリーが最も有権者からしたら望ましく、安心感がある。その意味でも石破茂小泉進次郎のような議員の今後の動静は注目すべきであろう。

 

むしろアメリカの今後の方が深刻で、トランプの後にオバマのようなエスタブリッシュメントの権化のようなタイプに戻るとも思えないし、一体いつまで二大政党制を続けるのだろうと、アメリカの近未来を自分は悲観的に見ている。

 

トランプが過激過ぎたから、一見大人しそうな民主党の大統領か、共和党の中でも穏健なタイプが次の大統領にでもなりそうだが、そういうときのアメリカの方がカーターやクリントンのように怖い動きをするかもしれない。

 

最後に本の中で両氏が述べているように、中間選挙にトランプが勝つために何らかの行動に出るのは、自分もagree である。それは違う角度から以前ブログには書いたが、思えば中間選挙というファクターを自分が見落としていただけだったと思われる。http://itseiji.hatenablog.com/entry/2017/04/05/182508

 

世界の未来予測、国家というアソシエーションの衰退

まずこれから述べることは斬新でもないが、よく耳にすることでもないだろう

 

現代人の持つ一つの大きな錯覚に、国家とは不可避かつ絶対の帰属先であるという誤解がある。

 

例えば日本で言えば、個人が帰属する組織、共同体には国家と家族がまずあり、次に学校、企業というレイヤーがある。その全てに帰属していない人はほとんどいないし、大多数の日本人はこの全てに帰属している。

 

まず、初めに一つの誤解を解こう。国家とは、企業、学校、家族と同じ一つの共同体のあり方に過ぎず、国家が絶対的な存在であるというのは誤解であり、これら四つは並列的な存在である。

 

それは、近代国家という概念が18世紀に生まれ、日本では戸籍制度が19世紀に産まれたに過ぎず、それ以前の歴史において、国家とは最大の個人の帰属先ではなかった(例えば日本の戦国時代であれば、領民のその最大の帰属先は大名である)

 

なぜ、人が国家に帰属することになったかと言えば、それは一つは防衛、もう一つはサービスのためである。

 

特に19世紀後半、アメリカの南北戦争が起き、初めて総力戦が行われると、戦争は兵力や物量で決まり、国家が国民に対してそれを強制するという概念が生まれた。

 

国民総徴兵などとした、太平洋戦争の思考を色濃く残す現代の日本人にとって、特にそれは当たり前のように感じるであろうが、元々、戦争とは例え国同士の間で自分が当事者であっても、必ずしも参加しなくていいものであった。(それも戦国時代に必ずしも農民が戦争に参加しなかったことのイメージと重なる)

 

つまり、防衛という意味での強制が、国家が国民に対して帰属を促した、というのが一つ。

 

もう一つは、インフラや保険といった、極めて大規模なサービスを利用する場合、その規模の資金調達を公平にした場合、租税というシステムが最も合理的であったことにある。

 

最も大規模なサービスを行うために、最も大規模な資金調達が必要で、最も人口が大きい集団が国民国家であった。この視点に関しては、サービスの受益者側も、国家に所属することによって、特に所得の低い層は大きな恩恵を被ることができるから、強制だけでなく、双方のメリットにより自発的な国家への参加が促されたと言えよう。

 

だが裏を返せば、軍事と租税、それだけが国家が持つ特徴であり、特権であるとも言える。

 

ここでもう一つ誤解を解こう。国家、企業、学校、家族、そのどれも人と人とが集まってできた、共同体、アソシエーションという視点においては同義である。

 

そしてそれに追加をすれば、労働組合、共済、宗教団体、サークル、そうしたものも全て同じ、人と人とが集まってできた集合体に過ぎない。

 

近年、国家権力が弱まってきている。これは企業という共同体の方が国家よりも人気があるアソシエーションだからと見ることもできる。

 

例えば、国家官僚と企業に就職する、というのを同列に共同体に入る選択肢であったとすると、現代では優秀な人材からすると、後者の方が所得も高く、リスクも低い(特にキャリアにおける)ため、選択することになる。そうするとまず、国家を維持する機構よりも、企業の方に人材が集まることになる。

 

また、特に先進国で顕著なのが、インフラが既に出来上がってしまい、既に民営化され、あるいは民間企業が代替のサービスを提供するため、必ずしも国家に帰属することが、高いサービスを受けられることではなくなってきている。

 

防衛に関してもしかりで、民間企業でも一国家に匹敵するような軍事力を保有する研究所やPMCもあれば、核兵器や細菌兵器のようにそもそも人員を必要としない軍事テクノロジーが発展してしまった。

 

言い換えれば、軍事とサービス、国家の二大特権は既に失われつつある。

 

つまり、今挙げただけでも三重に国家というアソシエーションに所属するメリットは失われているのだから、弱体化するのは必然であり、その上部構造である国連が機能不全なのも当然なのだ。国連は世界に無数と存在するアソシエーションの一レイヤーの上澄みをすくっているに過ぎないのだから。

 

今後起こり得るのが、特にサービス面の国家からの分離である。既に日本でもいくつかの共済では、あらゆる生活に関するサービスを提供し、グーグルのような大企業は優秀な人材を確保するために、従業員に対して衣食住、生活に関わるあらゆるサービスを提供しつつある。

 

その行為がイリーガルかどうかの議論はさておき、特に今後、宗教団体や共済は、そのアソシエーションに所属する人間に対し、国家や大企業とは別に、特に所得が低い層に対して、保険、金融などあらゆるサービスを提供する可能性がある。既にそれは行われているが、それがもっと表面化するだろう。

 

それは企業においても同じである。ゆりかごから墓場まで、教育、子育て、あらゆる面をカバーする企業グループが必ず誕生する。(既にしているのがこれも表面化する)

 

国家は最初それを激しく弾圧しようとするだろう。これまでのところ、それらの団体は国家と共存できているのは、それが国家の存亡を脅かすほどには表面化していないのと、国家間の協定と同じで宗教団体と国家、企業間においてある種の協定が存在しているからである。

 

しかし、今後は全世界的に貧富の差が拡大し、先進国においても、国家に所属しているだけの人間はそのサービスだけでは生活できなくなるだろう。そして、個人の貧富の差、というものがどのレイヤーに所属しているかで決まることになる。

 

それは既存の家族、学校、企業、国家という基本の四つでこれまでも決まっているが、特に三番目の企業と、この基本の四つにないレイヤーを如何に活用できるか、という時代になり、そして家族という単位が最も重要になるだろう。(これも正しく言えば既になっている)

 

これから全世界的に起こる現象は、グローバルからローカルではない、巨大な一つの国家というアソシエーションの弱体に伴い、無数の様々な思想やサービスを持つアソシエーションが浮上化する、言わば群雄割拠の戦国時代のようなものである。

 

起業というのも、ある意味戦国時代に置き換えれば、新たな戦国大名が自分の領土を主張するようなもので、企業という器が最も現代社会において、資金と人員を集めやすいため、最も巨大で最も人々が選択する器となっているに過ぎない。

 

そしてこうした企業群はいずれ、独自の通貨を発行すると、ますます持って、国家にとってその存在は脅威なものとなってくる。それは企業において、例えば社員割引という別レートの価格を設定することで既に行われている。

 

それがブロックチェーンやそれに類似する技術によって加速化されるだろう。国家はもはや通貨の発行権も失いつつあるのだ。

 

司法権や警察権も一見侵し難いように見えるが、それも学校において教師やガキ大将が担っているように、国家にだけ可能な権利でもない。

 

ここで、国家の存続の意味を逆に擁護する。

とは言え、アメリカのような超大国がすぐに聚落し、中国のような国家を上回るような企業が誕生するとも思えない。

 

アメリカの権力の基盤である海軍力を凌駕するアソシエーションなど存在し得ないし、中国ほどに人口、資源、陸地、野心を有するアソシエーションも出現しない。

 

その意味で、ここで強調したいのは、あくまで国家が無数にあるものの中の一アソシエーションに成り下がる、という現象と、おそらく国家とは最低限のイフンフラを提供し、他のアソシエーションに対する牽制や統制の一過渡期のメディア(媒介)としての役割が強調されるのではないか、という可能性である。

 

もっと要して言えば、世界は中国やアメリカの存在は無視できないが、どちらも世界を支配することではきないし、国家の役割は変化し、次第に弱体化するということである。

 

以上のことは途中何度も言及しているが、目新しい現象ではなく、マスメディアの都合により、一般的に国民がマスメディアを通しては知ることはない、今の人々の真の“生活の実態”である。

 

さておそらく向こう100年で課題となるのが下記である

①ますます肥大化する企業というアソシエーションをどう抑留するか

②自らの生活を守るために、如何にして、どのような基準を持って自らが所属するアソシエーションを選択するか

③国家の弱体化が一層表面化した時に世界的にどのような事態が引き起こされるか

など

 

ますます持ってこのテーマの議論は尽きない。ただ、最も重要な点は、おそらく人類が始まって以来、最も強力なアソシエーションというものの思想やルールは変化していない、ということである。それは様々な国の様々な言語で様々に表現されているが、一つの呼び名は王道という。

 

したがって、一時的な一部の企業が全世界の市民の権利を侵害し、独裁しているような現象が起こり得たとしても、それは揺り戻しがくるであろう。

 

そして、普遍なものがある中で日本、日本人が担うべきところは、その普遍さ、王道と呼ばれるものが、テクノロジーによって、全世界、全市民に普及することが可能となったその担い手としての特徴を持つのである。

 

王道を全市民に対して普及する、という概念は日本の文化からしか生じ得ない。一部の欧米の知識人は獲得し、試みてはいても、国としてはまず日本からになるだろう。

 

それは、極めて悲観的な未来予測の中にある、一筋の光でもある。全世界の市民が王道を知り、歩むことができれば、それは全世界の人間が歴史上再び形を変えて幸福になれることを意味する。

 

そしてその時までくれば、アソシエーションというものは生活のためではなく、もっと人の本質のために存在する器となるだろう。