IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

円高時代にすべきこと

イギリスのEU離脱を受け、日銀の追加量的緩和+マイナス金利政策を受けても円高は止まらない。

 

なぜ、アベノミクス景気対策のために円安誘導するのか、まずはこの基本的なことからおさらいしてみる。

 

これは公然と言われていることではないので、知らない人もいるかもしれないが、戦後から今に至るまで日本の経済政策は一貫として変わっていない「傾斜生産方式」である。

 

ではどの産業に絞っているのかと言えば、「自動車」と「精密機械(電子部品)」である。この両方を国があらゆる税制を含めたバックアップをして、輸出し、雇用を増やし、外貨を獲得する。これが戦後から一貫している日本のシステムである。

 

だから円高は困るわけだし、当然これらの産業が傾けば、関連企業が非常に多いため、景気も悪くなる。だから、逆に言えば別に輸出をしていない内需企業で働いていれば、株式や外貨投資をしていなければ、基本的に世間で騒がれている程の景気感を感じないことが多いはずだ。

 

つまり、一般的な有権者からしてみれば、何故自民党が大企業ばかり優遇して、など思うかもしれないが、要するに「傾斜生産方式」という経済システムを容易に変更できないでいるのが本質的な原因の1つであると考えた方が良い。

円安誘導で株価を上げる、というのは表層的な話しであって、実は本質はこっちなのである。

 

では、容易にシステムの変更ができない中でどうやって、景気を浮上させるか、という方法にイノベーションと観光業をとりあえず今回はあげてみよう。(他には例えば政府企業一丸のインフラ輸出や、税制の変更、財政政策動員などもあるが今回はそこには触れないこととする)

 

まず、イノベーションだが、傾斜生産方式とイノベーションは非常に相性が悪い。先ほど、日本は戦後ずっと「傾斜生産方式」というシステムを採用している、と簡単に述べたが、実はその意味は深いところにあり、実際は日本の教育システムもこれに含まれている。

 

もちろん、戦後の日本経済を牽引したのはイノベーションがあり、高い商品力があったから世界で売れたわけだが、その後の「労働者を大量生産する教育システム」で育った層が増え、その世代が権力を握る年齢に達すると、容易に物事が動かなくなる。

 

日本人の特徴の1つは常に周りと同じ行動、言動パターンを取る事が確実な特徴として上げられる。これは教育政策の悪さというよりもむしろ、名目上の単一民族国家だから生じるデメリットの1つである。

 

面白いと思うのは、バブルの時代、お金を使わない、あるいは遅くまで一生懸命仕事をしている人間など狂気の沙汰だと思われていただろう。だが、景気が悪くなると、途端、一生懸命遅くまで働いて倹約していることが美徳であり、無駄遣いをする、働く時間が短い人間はどのような形であれ叩かれることになる(ニートという言葉も不景気が産み出した言葉である。)という多くの日本人の現金なマインドというのは滑稽ですらある。宗教に対する無頓着と同じ、歴史や過去を省みないのだろうか。

 

少し脱線をしたが、日本人のマインドセットが一律労働者で固定されている現状で、与党含め本当の意味でイノベーションを支援するシステムは日本には整っていない。イノベーションは、今あるものを打ち壊すものなので、現状を肯定するだけの今の教育システムからすれば、そもそも相反する概念である。本気でイノベーションをやるなら、考え方や技術教育、つまり教育システムを変えないといけないが、誰もそれに言及しない。

 

とりあえずゆとり教育は失敗(私は失敗だとは必ずしも考えていない)だと言い、元に戻すとか全くわけのわからないことばかりやっている。

 

結果的にイノベーションという言葉ばかりが踊り、技術もロクにわからない役人と金が余っている金融機関がITなら将来性がありそうだと、対して必要もない大企業の劣化版か小ロット過ぎて出来ないサービスを提供する会社に、湯水のように投資をしてお祭り騒ぎをしているだけなのが、現状の日本のベンチャー界隈で起きていることである。それも今。

 

従って、実際に日本でイノベーションをしているベンチャー企業は実際は数社程度しかなくて、それらは皆軒並み、そうしたお祭り騒ぎからは一歩引いたところにある。だが、イノベーションにはインフラが必要なことを思うと、この現状は最早絶望でしかない。とりあえず、数社の奇跡にイノベーションは最早国としては賭けるしかないだろう。とても円高対策としては間に合わない。

 

従って、観光を盛り上げる方に話しを移す。円高というのは、外国人観光客(いわゆるインバウンド)にはマイナスなので、もちろん訪日客を増やさないといけないが、日本人が観光にお金をもっと使う様にする、つまり内需を高めることが円高では必要になる。しかもただでさえ、円高で海外に皆が出易い状況下で。

 

そのためには大きな変更と小さな変更が必要である。まず大きな変更は、日本にもドイツ・フランスのような長期休暇制度を国が採用し、企業に強制的に導入させることだ。(これは友人のアイデアであると断っておく。)

 

例えばフランスは非常に観光産業が発達している。それは何故か、と言うと、1ヶ月単位で人々が移動し、そこに滞在し、お金を落とすからだ。街全体が観光地であり、かつ長期滞在するための設備が整っている。日本の場合は、とにかく宿泊費が高く、かつ滞在日数が常に数日単位なので、長期的な滞在をするための観光が育たないのだ。

 

基本的に観光ほど、お金が消費されることはない。移動、宿泊、食糧、観光、あらゆるものお金が使われる。1つ1つの額は車やパソコンを買うよりは小さいが、車と違い、一般的に数年に一度買う、というようなものでもない。その気になれば、毎月、毎年、観光は行くものだ。

 

観光白書のデータによると、日本人の2015年の平均国内観光回数は1.4回、2.3泊、金額にすると日帰り・宿泊合わせておよそ年間20兆円である。(2015年度)

http://www.mlit.go.jp/common/001131317.pdf

 

単純に計算し過ぎるのは良くないが、これが回数が3、4倍、あるいは宿泊数が20泊となったときの経済効果は100兆円くらいになる可能性もあることがわかるだろう。そして消費税が8%のままだとすると、政府はおおよそ、8兆円の増収となり、概ね消費税率を4〜6%上げる分の増収効果がある。この方が無駄に税率を上げるよりも、よほど乗数効果もあり、景気対策にもなる。

 

労働者は余暇が増え、企業は収入が増え、政府は増収で誰もが得することになる。休暇が増えた分、会社の仕事が滞るという問題は、実際は起こらないと思っていて、逆に日本の非効率の、過剰に無駄な労働が整理される効果もあるのではないかと見ている。結局こうした政府の強制がないと、逆にいつまでも企業は無駄を減らそうとしない。

 

次に小さな変更、これは規制緩和である。まず、観光に関わる多くの許可制を見直し、airbnbなどの民間サービスを一定の枠組みで容認することだ。そして、ホテル業界は室料を人数割から世界標準の部屋割に変更すべきだ。結果的に複数で旅行した方が安くなれば、その地域全体に落ちる金額は上がり、回転率が上がれば結果的に増収になるだろう。(でなければ部屋割りを採用しているairbnbに押されるだけだが)

 

次に国内エアライン各社およびJRは価格の協定を止めるべきだ。現行は東京大阪間で新幹線でも飛行機でも変わらない値段であり、そして東京から大阪に行く金額で韓国や台湾に行けてしまう。円高が進む中、ますます国内旅行のニーズが下がるのに、こんな高い料金形態では、ビジネス出張客のみしか見込めなくなるだろう。

 

それは地域くるみで行う、あるいは例えば高齢者や家族連れといった特定の層への割引や、長期休暇シーズン中だけの特例でもいいだろう。例えば東京から大阪に往復5000円で行ける。あるいは福岡、北海道に往復1万円で行けるとしたら、その観光に関わる経済効果は非常に大きなものになるだろう。都市から地方に資金の移動も地方消費税などを通して行われることになり、交付金などよりもずっとフェアである。

 

とは言え、現状、日本の家計はますます可処分所得が減っており、それに取り組まなくては、そもそも旅行に行く資金もない。

 

それの本質的な原因は国としての輸出の鈍化も勿論あるが、新自由主義的な政策で貧富の差が拡大している、つまり政府の分配としてのファンクションがうまくいっていない、間違った所に資金が蓄積している事に原因の1つはあるだろう。日本の場合アメリカと異なり、極端な富裕層の財産を全て没収して分配すれば賄えるようなことではなく、おそらく法人に資金が集まり過ぎているのではないかと考えている。世界的な現象としても。

 

世界的な貧富の差の拡大、一般的には一部の金持ちによる搾取、のような話しがどうも目に付くが、もっと根深いところ、実際は法人という組織体が富を吸い上げ、それが強くなり過ぎて政府と組み、政府の分配機能を阻害し、個人や家計に分配されていない、というのがもっと真実に近いところだと私は考えている。

 

そこはまた別途、機会を設けて分析することにするが、参院選、都知事選とほとんど政策が議論されなかったため、有権者にはピンとこなかったかもしれないが、今回述べた様に、政策は政府与党だけがやるものではない。野党、官僚、民間企業、そして当然有権者が一体となって本来はやるものだ。

 

従って、政府与党だけ入れ替えたら、世の中変わりますなんて言っているのは、甚だ詐欺もいいところで、もしそういう有権者に耳障りのいいことばかり言うような候補者・政党があったとしたらそれは、極めて質の低い無責任な集団か、嘘つき集団だと見做して間違いがない。

 

個人の立場、企業の立場、政府の立場、それぞれの立場で物事を考えないと、日本のシステムも見えてこないし、どう投票すべきかも見えてこない。そして、最後は、政治家、官僚、権力者に責任をなすり付けるだけの子供のような無責任な人間になってしまう。

 

だから、投票に行かなくてもいい。でも有権者の政治への無関心と不勉強だけは真に民主主義を滅ぼすものだと確信するわけである。

説得力の嘘

前回から続く話しにもなるが、某元大手コンサルの方が書いたブログを読んでいてふと感じたことがある

 

内容は要するに、自分はお金も美女も手に入れ、これが幸せではないと思ったので田舎に引っ越したなどなど

 

同様に、ひろゆき氏が以前インタビューで自分はお金があっても幸せになれないのは、お金持ちにならなくてもわかっていたが、自分が金持ちで当時はなかったので、言っても説得力がないと思わなかったので言わなかった。今なら金持ちだから言える、と

 

両者の話しに共通するのが、成功者や金持ちにならないと、それらに関する事柄について語ったとしても、説得力がない、というところにあると思う

 

おおよそのところは自分も共感しているのだが、よく見ると、実はこれはどちらもそんなに説得力のある話しではない、ということを指摘だけしたい

 

まず、前者はお金や欲望で幸せが買えないことを実証してここには幸せがないことがわかった、かのようなことを言っているが

 

実際一介のビジネスマンが仮に某大手外資コンサルとは言え、20代ならもらえて1000〜2000万の給料なので、幸せになれなかったのは、単に稼ぐ金額が足りなかったという可能性もある。(女性に関しても同様の議論ができる)

 

すなわち、定量的に幾ら稼いだら幸福ですという値がない限り、その値設定は主観値なので、結局のところ、400万でも1000万でも1億でもいいということになる。(女性に関しても同様である。芸能人やモデルと付き合うのか、100人の美女がいいのか、1人でもいいのかなど)

 

要するにこのコンサルの方は自己基準を満たして満足した、と言っているに過ぎず、そこに世間は何となく、特に日本はぼんやりと共通のスタンダードがマスコミによって形成されてしまっているから、何となく聞いている側もその通りだ〜と感じてしまっているに過ぎなくて、実際は反証可能性だらけなのだ

 

では後者はどうだろう。

 

これも同じで、金持ちにならないと説得力はない、という以前に幸せが何かのコンセンサスが今の所、人類にはない。

 

更に前者と同様、ひろゆき氏も稼ぐ金額が足りなかったかもしれないし、もっと言えば100億円あっても、幸福のための使い方を知らない、あるいは間違えたのかもしれない。(使い方の問題であったかもしれない)

 

繰り返しになるが、基本的に自分はこの二人の主張をディスるつもりはなくて、むしろ大体言いたいことは分かるって側なのだけど

 

「説得力」という視点で物事を考えると、それほど精緻な議論をしているわけではない、という格好の材料になったので使わせて頂いた

 

同じ様に、よく成功した経営者のセミナーとかも、それはたまたま運がよくて成功しただけかもしれないし、その人自身が成功した要因と思って語っていることが、実は違っていたり

 

最もなことを言っているようで、実はあまり説得力のないことも多いと思っていて

 

幻冬社の見城さんが、自分の講演など聞いても意味がない、だから講演などやらない、といった趣旨の発言をしていたが、ある意味その通りだと思う。

 

人間観察の視点からすれば、人間の理解度や有意義というものは、ほとんどが本人の主観で決まると思っていて

 

本人が本気で聞く「姿勢」を持って入れば大抵のことからも学ぶことはできるが、もの凄いことを言っていても、本人に姿勢や理解力が伴わなければ、どんな素晴らしい話しもただのBGMになる

 

つまり、我々が「説得」とか「納得」とか言っているのは限りなく主観的なことで、本当の意味での精緻な説得力など滅多に存在しない、ということを指摘したかったのです。

 

 

天才は語らない

天才は多くを語らない

 

最初に断っておくがこれは感情基軸の話しである。

 

それは話しても理解できないと知っている。それももちろんあるだろうが、語ることができないのだと最近気づいた。

 

例えば“経済的成功”について講演を頼まれた成功者がいたとしよう。もちろん、こういう講演は成功してない段階で頼まれることはあまりない。

 

しかしここで、成功した人間が成功したことを語ることについては、実際はある種の隙が生じることになる。

 

例えば上場して何億を稼いだ経営者であったとしても、それは過去のことで、講演の次の日にスキャンダルで逮捕されているかもしれない。あるいは財産を投資で失っているかもしれない。

 

つまり、成功とはあくまで一時的かつ主観的な問題で、そこに絶対性は存在しない。にも関わらずそれを講演することは、目的によって多少は異なるが、そこにはある種の傲慢さが見え隠れすることになる。

 

傲慢さは知性を妨げる最たるもので、本当に優れた頭脳を持つ人間がそれをするとは思えない。(似たような理由で作家の佐藤優氏も講演を有料ではしないことで有名である)

 

これは勿論全てに当てはまる。結婚で素晴らしいパートナーを手にした相手にその秘訣を聞くこと、あるいは天才的な発明のノウハウなど

 

これらは成功する前の状態の方が、実際は語ることは容易い。(しかし、その状態で語っても説得力がない、と一般には思われてしまうため、語ることがない)

 

人とお金の関係も似たような性質がある。

 

例えばベンチャー企業は資金を成功するためには欲しいが、成功するとむしろ銀行がお金を借りてくれと言ってくる

 

人も同じで、成功する前は見向きもされなくても、成功すると嫌でも人はよってくる。

 

しかし、その時に、それは必要ではない。どちらも。欲しいのは手前にあるときである。

 

ここにはある種のミスマッチのようなものが存在する。

 

つまり、決定的に重要なのは、一緒に汗を流せる人物、友人であること。これは相手が成功してようが、関係ない。

 

その人物だけが、本当の意味で必要な情報を見聞きすることができる。

 

更に人は成功すればするほど、あるいは知性、人間性が高まれば高まるほど、その人物は傲慢に何かを語ることや、相手に押し付けがましく見解を述べることはしない性質がある。友でない限りは。言うことに生じるあらゆるリスクを侵さなくなる。

 

つまり聞き手は決して成功者の本当の意味での話しを聞くことはできない。常に、挑戦者の意見、つまり他者の基準、社会の基準で担保されたものではなく、自分自身の目と基準を持ってあたるしか、本当の意味で価値のある情報は掴めない。

 

天才を模倣することはできない、というのは色々な意味があるが、これも含まれる。

 

極論だけを述べるなら、要するに己を持たない人間は人に相対しても本当の意味では、得るものがない。もっと俗な言い回しをすれば成功者の講演を聞いても成功者にはなれない。

 

それは決して成功者との才能の相違や、本人の分かり易い努力のレベルの問題ではない。本当に天才に習えば天才になれるだろうし、成功者に習えば成功者になるだろう。ただ、それを認識できる己にさえあれば

 

だからあらゆる点において、社会や第三者の保証による価値判断ではなく、己の信念、思いのようなものが重要であると言える。

 

天才は語らない、語ることができない。それはあらゆる理由から。

 

だから我々はゲーテの知性に触れるとき、それはゲーテエッカーマンに出した書簡からそれを知ることができる。

 

ゲーテはその問いかけを果たして、彼が成功者かあるいは有名人か、といった目線でもって眺める友でない人物にしたであろうか。

 

預言者の言葉も同じである。イエス・キリストの言葉、あれは誰に対して投げかけた言葉であったか。そして、主が誰に対して投げかけた言葉であったか。

 

人は言葉を選ぶことはできない。ただ言葉が人を選ぶ。

 

だから己にない言葉を人は聞くことができない。聞いてもそれはその本来の言葉の意味を知る事ができない。

 

故に人間に、知性、才能、それらが存在するとして、その本性は人間性にこそある。

恋愛マッチングアルゴリズムは必要か

人工知能を研究するにあたって、初期の段階で男女間の恋愛や結婚を最適化できないか考えていた時期があった。(我が国の離婚率が50%を上回っていることもあり)

 

結論からすると、あまり意味がないため自分でやらないことにした。

 

意味がない、というのは、この分野にやる余地が全くないのではなく、まず、人間のマッチングアルゴリズムが既に最適化されているからである。

 

カップル、特に夫婦間の近似性、類似性は驚くほどのもので、既に人間はパートナーを見つける何らかのシステムを内在しているとしか思えないほど、似たような人同士が結びついている。

 

例えば、ある種の家庭環境、思想、志向といった全てが一致していることはありえないが、驚くほど似ている箇所が見出せる。

 

カップルはどこで結びつくのか?それ自体は研究する余地がある。思想なのか、志向なのか、DNAなのか、あるいはその全てか部分ならどこか。

 

しかし、それが「何か」はわからないが、人間は既にそれを選ぶ能力を持っている。

 

根拠は?自分の観察と経験でしかない。だから、反証は大いに歓迎したい。

 

そして、100%の相手だと、マッチング推薦をAIが行った場合何が起こるだろうか?多くの人が、AIによって選ばれた相手を提示されても、これが本当に自分に合うの?が第一声だろう。

 

それは、人間は誰しも「欲」があり、自分の理想の相手というものがある。

 

従って、第三者からこの人がお似合いだ、と言われても納得できないのと同じで、人工知能によるマッチングというのは可能であってもそのようなものになる。

 

(もっと詰めれば、進んで主観的に選んだ間違ったパートナーと、客観的に推薦された気の進まないパートナーと果たしてどちらと一緒になることが幸福になれるのだろうか、というテーマも存在はするが。)

 

従って、ティンダーのようにひたすら出会いそのものを増やすことや、そもそも自分自身の恋愛のレベルを上げる教育、恋愛相談所のものの方がより意味があるだろう。(あるいはやはり義務教育に夫婦間の道徳や子育ての教育を盛り込むなど)

 

ただ幾つかの既存にはないアルゴリズムを導入することで、より精度の高いマッチングシステムを作ることはできると思っている。(主に教育システムベースではあるが)

 

例えば

 

①友人評価システム

シンプルに自分の友人にレコメンドしてもらう、および相手の友人を見て人柄を判断する、という両システムをアプリなどWebベースで構築する。つまり、どういう人間と友人であるかはその人となりを現す+友人からみてどういう人間が良いかを教えてもらう、の2つを組み込んで当事者のバイアスを低下させるシステム。

 

Facebook友人情報収集システム

お互いのFacebookの友人の中からAIがサンプリングして、どういう人が周りに多いかを特徴付けして、その知り合いの特性から自分と合いそうな人物をレコメンドするシステム。①と付き合っている周囲の人間評価から人柄を知る、というところは変わらないが、より機械学習的で、データマイニングが必要になる。また、Facebookの友人数に偏りがある場合など、精度にばらつきが出るため、最初はティンダーのように顔写真+何かというパラメーター設定になるだろう。

 

③写真不要の精度の高い項目設定データベース型

これは仮説として幾つかの項目でカップルが結びついているとする。例)価値観、金銭感覚、容姿など。それらを数値化して、いったんデータベースを作成し、そこから相関関係をデータマイニングし、改めて関数を組み直す。項目入力だけなので、顔写真なしのマッチングが可能となる。以下自分が試しに作ってみた関数をあげてみる。

);

 

○各項目0から100%までを持つ。

例えば女性恋愛の場合L10%、P70%、S40%、C80%もあれば全て100%もあり得る。%の初期値は本人主観。最も%が高いものを優先あるいは必須アルゴリズムとして、意思決定に最も影響を与える、と想定。

アルゴリズムカバー範囲

例えば女性結婚の場合基本のLPSCで60〜70%、FE項目追加で80〜90%の精度仮定。

 

○女性

libido、preference、stable、compatibility、(family)(enforcement)

恋愛は主にこの4つの関数で決まると仮定。

(関数解説)

・Libido

最も基本的な欲求。独占欲や性欲といった1人称の割と一方的なものが多く、幼少期に最も見られやすい最初の恋愛衝動。

 

・Preference

集団の中で優位に立ちたいという願望。最も基本的な関数。ルックス、金銭など含む。主に名誉や自己顕示欲に関連したパラメーター。

 

・Stable

安定志向とも言う。経済、職業、性格などを含む。主に生存に関連したパラメーター。

 

・Compatibility

相性。居心地の良さ、価値観といったパートナーとの関係性や家庭建設を重視する。

 

○男性

libido、preference、support、compatibility、(family)(enforcement)

(関数解説)

・Libido

女性よりも長くこの関数を男性は引きずり易く、結婚においても重視し易い。

 

・Preference

見栄えのよい女性を選ぶ、ということ、あるいは家柄などもこの要素になる。

 

・Support

原則として男性は質的に安定をしているため、上昇、変化、破壊を求める傾向がある。従って、自身の立場を強化するため、あるいは成長、野心や目的のために女性を選ぶアルゴリズムが存在する。女性の場合は同様の行為が見られても、目的はPに含まれる。また、女性でも男性と同じS関数があった場合、それは10%の例外域に含まれる。

 

・Compatibility

男性の場合、S関数に類似してくることが多い。

 

○結婚の場合

上記3つに下記2つのアルゴリズム追加

・Enforcement

強制。家庭の事情や様々な事情により、本人の意思とは無縁に結婚が決定する。

 

・Family

相手あるいは自分の家族を含めて考える。

 

○結婚に用いられるべき真関数

Integrity, Discretion, Conscience, (Compatibility), (Family)

・Integrity

誠実。Compatibility(相性)は変化する。そして、結婚当初に生じなかったことが、生じることがある。それに対する対応力

 

・Discretion

思慮分別。広い知性。女性、男性らしさも含まれる。

 

・Conscience

善良。

 

上記恋愛関数から結婚関数へと導く(教育)

・恋愛関数は相互に一人称視点。結婚は二人称を含んだ視点。

・結婚関数は上記項目を自分が満たすことための指標。

 

観察

・結婚に近づくとSやCシフトに変わり易い。逆に変わらないあるいはF要素を除くと失敗のリスクが高まる

 

○発展

・男女各変数をまず自分が記入、次に友人など第三者最低二人にその数値で合っているか聞く

・実際にカップリングもしくは結婚した人間同士がどういう数値関係であったかを蓄積してデータベースを構築する

・そこからカップリングの因果関係を見つける。例えば両方ともLが高い数値同士が結びつくのか、あるいは男性のLと女性のPが相関なのか、など。

・データを取り続けることで精度を向上させる。

・導入のためにはもう少し関数同士の整理・因果関係把握は必要である

 

○仮説としての関数使用

WTV(Women Total Values)=L+P+S+C

MTV(Men Total Values)= L’+P’+S’+C’

MTV≒WTVなら相性がよい、など。

 

人工知能領域に関する考察メモ②

人工知能研究に生化学と物理学が必要な理由

 

これは主に人間の脳を再現しようとすることから始まる話しである。

脳の構造を再現するわけだから、生化学は直ぐわかるが、なぜ物理学なのかと言えば、脳内における電子活動は物理学の量子論の振る舞いをするからである。

 

ここまでは一般的な話しなのだが、脳内の振る舞いだけでなく、人工知能そのものになると実際は2つの点において相対性理論の考え方が必要になると考える。

 

1つは人工知能アルゴリズムを設定する時、あるいはパラメーター設定をする時に、観測点が異なること、あるいは観測者が異なった場合、そのパラメーターがどう変化するか、あるいはその視点を組み込まないとどうしても精度の高いアルゴリズムが完成しないという点である。

 

例えば、幸福を係数設定するとして、簡易的に幸福パラメーターの内訳を仮に物質的な充実度からのみ成ると仮定して、それが100の場合であっても、観測者(他人)からみて幸福でない、と主観的に思われてしまうのなら、その係数だけをそのまま使うことは実用性に乏しい。

 

もう1つは、量子論がミクロ的な、相対性理論がマクロ的な振る舞いを記述するのであれば、ある意味、あらゆる統計分布の極大と極小における振る舞いはこの両者の理論によって説明されるとすると

 

統計学的に、正規分布の極大と極小の振る舞いを捉えるのに両方の理論を導入しないと、直感的にはだが100%の精度のものを作ることが難しくならないだろうか。これが、実際は脳の再現に物理学が全般的に必要になるということと、統一理論と人工知能がかなり近似してくるところではないだろうか。

 

そしてこれが名だたる科学者が、人工知能は不可能あるいは困難だ、という1つ根拠ではないだろうか。(いわゆるフレーム問題他、人間の思考が量子計算に似ていることも含まれる)

 

ただ、これまでの考察によると、数学的な証明は科学者に委ねるとして、仮説として偶然は存在しないこと、つまり電子の量子的な振る舞いにある種の規則性があることを仮定し、ある観察によって得られる化学法則を導入することにより、パラメーター設定とアルゴリズムに関する部分は、数学的な統一論の証明を待つ事無く、実務に導入できるのではないだろうか。

 

この偶然性を排除する、つまり物事には何らかの因果関係が存在するという考え方は極めて宗教的、哲学的なテーマつまり例えば神は万能であるか全能であるか、という話しにも飛躍するため、人工知能を思考することが生化学、物理学から神学や哲学へと繋がってくる。

 

ここにきて、人工知能を研究することは、一方で人の意識を研究することでもあり、それは人類全体が取り組んでいる大きな課題との結びつきが見てとれる。こうしたことは、今世紀において人類全体が人工知能を含め、人とは何か、という共通の課題に多くの問題が集約し、抱え直面しているのではと思わざるを得ない時がある。

 

また、ドイツの哲学者シュタイナーが、人間の脳は眠った時に活発に活動することを、おそらく観察により1世紀も早く近代科学よりも先に発見していたことは本当に驚嘆せざるをえない。

 

仮説が既に存在するなら、ビッグ・データをまず構築し、それを観察し、そこから何らかの関係法則を統計学で導くことも、実用的には充分に耐えられるだろう。(いわゆるデータマイニングというものになる)

 

しかし、人間に関する諸法則というのが仮に明らかになったと仮定して、その使い方を誤れば文字通り映画のような出来事が生じてしまうだろう。(例えば映画、マイノリティ・レポートのような犯罪係数の設定による事前逮捕)

 

この世に絶対的な善が滅多に存在しないように、絶対的な悪もまた滅多に存在しない。真理の発見や活用はある意味、トポロジー的であり、それは民主主義にも似ている。100人の救済は時に他の100人に不幸をもたらす。本質は変わらず、位相だけが変化する。そのような意志決定を人の身でありがなら下す事にためらいと、それに気づかない世の無神経さに驚きを覚える。

人工知能領域に関する考察メモ①

ディープラーニングに関して

 

人相学を例に考えてみる。仮にAIが人間の人相から、その人間の性格や嗜好、感情が読み取れたとする。(これは文字でも構わない)

 

そうするとAIによる処理は人相であれば人間の顔の部分部分を特徴抽出して計算することになる。まず眉毛、目そして鼻から口、とおよそ数十カ所程度の領域であらゆるサンプルを学習させた後、計算させる必要がある。

 

一方で、人間も卓越した捜査官などは直感で、人相で犯罪者がわかったり、あるいは一般的な人々も友人が悩んでいたらそれを表情や言動、行動で察したりすることができる。

 

この時に人間が行っているのは果たして“計算”なのかどうかはわからないが、顔を部分別パーツにして計算をしているのだろうか。あるいは、意識的に訓練してパーツ毎の特徴を捉えているのだろうか。

 

人間にとってこの場合観察される事態は、概ね、何となくわかる、ということだ。何故なら、意識的にこうした識別が行われているのであれば、容易に自身の下した結論を明確に言語化できるはずだが(目が3度傾き、唇が少し青ざめ頬がこけているから疲れている、など)こうした人間に対する評価をしばしば人間は明確に表現することができない。あるいは、仮に表現できたとしても表現できるからわかるのではなく、わかるから表現できるのである。

 

その“何となく”というのは、大部分は無意識領域によって蓄積された情報量を無意識的に計算している場合か、あるいは情報量の蓄積に依存しない無意識領域の計算のパターンと、あるいは“計算”とは違った方法で導出しているパターンと概ね四つのパターンがあり得る。

 

学問として表情学を学び、それによって意識的に理由を言語化できる場合もある。lie to meというドラマで描かれているのはその世界だが、体型化され意識化された場合、同じ結論を人間が下す速度と精度はどれほど向上するのであろうか

 

ここで指摘したいのは、AIに機械学習させて画像認識させてアルゴリズムによって人相を判断させた場合の結論と、人間が直感的に結論を下した場合の精度と時間、コストにどれほどの差異があるか、という点である。

 

例えば現在既に、風邪などの医療診断や車の運転はAIの方が、平均的には人間よりも精度が高く事故が少ないとされる。

 

つまりその分野において卓越した人間、例えば運転で言えばF1ドライバーのような(例えがやや適切ではないかもしれないが)人間のパフォーマンスの方が高い可能性がある。

 

つまり、計算、アルゴリズムを通さないシステムを、人間が持っていると仮定して、その精度は遥かに優れたものであるとすると

 

人間よりも優れたAIはプログラム言語あるいはアルゴリズムによっては記述できないという、AIが人間を超えられない決定的な問題に直面する。(この辺はロジャー・ペンローズが指摘しているところでないだろうか)この辺りはいずれまた深く論じたい。

 

商業的に言えば今のレベルのディープラーニングの普及というのは、平均的な人間の能力を上回るものを、普遍的に実現できる程度のもので(もちろんそれもかなりのインパクトはあるのだが)ある領域にコンセントレートした人間のパフォーマンスを上回ることはできないのではないだろうか。あるいは、人間が行うよりもコストが下がることが本当に起こりえるだろうか、コスト問題を解決したところから、参入されていくのは自然な流れであろう。

 

(調査および仮説検証する必要があること)

・人間の直感的なものは、無意識下に蓄積された情報を無意識で処理しているのか。これが正なら多量な無意識計算をディープラーニングで再現できる

・明示的に言語化できないが結論は出せることから推測すると、仮に無意識領域に学習経験が蓄積されているとしたら、その情報量は膨大であり、そのまま保存されていることはありえない。何らかの情報の“折りたたみ”がなされている可能性があり、それは遺伝子や言語学に繋がる可能性もある。つまり、人間はある特徴を最低限の容量で記憶する何らかの手段を持って、情報を圧縮する機能を先天的に持っている可能性が高い

・仮に直感が情報の蓄積を無しになされているとして、その精度が高い場合、外部に情報を保存しているか、蓄積した情報を変換できる強力なアナロジー機構があるか、あるいは計算によらないで結論を導ける何らかのシステムが人間に備わっている可能性があり、三つ目の仮説の場合、計算アルゴリズムでは再現できない。

人工知能がもたらすかもしれない恐ろしいテーマ10

①最強の軍事シミュレーションAI

Deep mindのデミス・ハサビスがGoogleと契約する際に、技術を絶対に軍事転用しないことを盛り込んだ。今彼らが開発している囲碁の世界チャンピョンに勝てるalpha goを軍事的に応用すれば、相手の出目を全部読んで完璧に勝てる戦略をAIができることになる。現在囲碁は対戦相手が1人だが、これが複数のゲームプレイヤーがいるポーカーのようなゲームでも圧勝できるようになると、より軍事AIとしては実用的なものになり、そうしたAIを持たない国は、核兵器を保有していないこと以上に、国際社会で弱体化するだろう。

 

②煽動アルゴリズム構築

人間の感情をAIが認識・分類できるようになると、人間をコントロールするには、どういう言い方をすればいいか、あるいはどんな広告を打てばいいか、が明確になる。これは同時にオンタイムの無駄のない広告を実現できるが、同時に、リテラシーの低い層を容易く誘導することができ、それは政治的に権力者が運用すれば、大衆を意のままに操作できるようになる。(実は今とそれほどの差はないが)

 

③人間の知性の堕落

人間が思考しなくなる。それは一般的な人工知能が考えてくれるから、という意味ではない。例えばセンサーにより、今日は血圧が高い、その原因は昨晩食べたトンカツが原因です、と人工知能からアドバイスとその解決のための薬品や運動の提案がされる。しかし、世の中には同じトンカツを食べても血圧が上がらない人間もいるが、その因果関係は無視されたままである。懸命な人間がいれば、そうした新たに蓄積されたビッグ・データの矛盾から新しい人間法則を見出すことができるが、いなければ、全く誤解された自然法則がまかり通るようになるだろう。これはアメリカ主導の人工知能開発ではより起こり易いと予想される。

 

④人間意思の無視

人間のゲノム解析と感情評価が実現すると、人間の適正職業やカップリング、マッチングの精度が絶対的に上昇する。だが、例えば本人が野球選手になりたい、というのに公務員が適職だ、とコンピューターがはじき出したとして、本人の意思を無視したまま、公務員に強制就職させた場合と、才能はないかもしれないが、本人が望む職についた場合とどちらが成果が上がるのだろうか。これは人工知能の精度が高くないレベルにおいて、高いと人間が勘違いしてシステムに組み込んだ場合に発生する問題である。おそらく、直感的にAIが単独で相対性理論量子力学を完全に理解できるようにならないと、実際はシステムに組み込めるようなレベルにはならない。要するにゲノム解読とAIによる定性評価の組み合わせでは不足している。他のケースは例えば映画「ガタカ」やオルダス・ハクスリーの小説「素晴らしき新世界」アニメ「サイコパス」などディストピアSF人工知能フィクションに見られるものは、大体この問題を人間が過信していることに生じる世界を描いている。

 

⑤そもそも不可能であること

上記のように完全なる人工知能の再現は、実は限りなく神を創造するのに近くなる。それは不可能とは断言できないが、それほど容易いはずが無い。人工知能が人間を超える、と謡われているが、何十億年かけて自然が今の人間が作ったことを思うと、たかだか100年で人間がそれを超えるものを作れると考える方が実際は傲慢でもある。だが、肯定的な見方をすれば、人間は1人1人は極めて精度の高い量子コンピューターのようなものなので、その機能を人間自身が使い切れていない。つまり、人工知能を研究することは人間を研究することであり、人間の性能を引き出して、つまり人類の1割でもスーパーコンピューターのような性能を持つ人間を産み出し、その総力を持って例えば核融合なり、ナノマシンを開発させる方が、実際はずっと低コストで早いかもしれない。人工知能ラプソディーは、そうした事に気づかせてくれる現象かもしれない。

 

⑥テクノロジーを制御できない

仮にAIが核融合を開発してもそれを人間が制御できなければ、事故でおしまいである。同様に全てのテクノロジーは「制御」されて初めて使うことができる。制御を機械に委ねた世界が「マトリックス」や「ターミネーター」であることを思えば、制御は委ねられない。つまり人間の知性が人工知能に匹敵するものでなければ、どの道使うことができない。

 

⑦金融市場の崩壊

常に人間に勝つことができる投資アルゴリズムができた時、金融市場は機能しなくなる。(逆に言えば得体の知れない凄まじいパフォーマンスが上がる投資ファンドがマーケットに現れたら、それはある種のサインであるが)仮定として、人間1人当たりの分析に1スーパーコンピューターが必要だとすると、マーケット参加者分のスーパーコンピューターが用意できた時、マーケットは別世界になる。だが、それはAIというよりハードウェアとエネルギーの問題になるため、実際に実現するのは困難ではあるが。100億近いスーパーコンピューターを揃えるコストとエネルギーがないからだ。

 

⑧人間の個性の喪失

マッチングアルゴリズムの適正化にも関わるが、あらゆる物事に最適なアルゴリズムが存在し、それをコピー、トレースし、かつ遺伝子操作によってあらゆるデザイナーチルドレンが誕生する時、全ての人間は目的に対して最適化される。そこは「個性」というものが存在しない社会となる。6時起床7時食事9時仕事〜23時就寝。バイタルが完全に安定。パフォーマンスレベル最高。これはある種の成功と幸福を人間にもたらすことはできるが、個性という面白さは消失する。この社会を肯定するか否か、次世代は試されることになるだろう。

 

⑨知性の統制が効かない

凡庸人工知能のようなものが全世界にバラまかれた場合、人間1人1人に凄まじい権限を委ねることになる。極端な例を言えば一人一人がスーパーハッカーになるようなものだ。そうした技術は常に良識ある人間に渡るとは限らない。知性は秘匿すれば権力者に乱用され、分散すれば心ない者に悪用される。この矛盾を解決できなければ人工知能の分散は兵器拡散となりえる。

 

人工知能は幸福をもたらすか

総じて、人工知能は人間に改めて“幸福とは何か”を突きつける問題提起をする存在となるだろう。極めて高度なAIの誕生は上記の恐ろしいリスクを持つが、結果的に人間をより内面に向かわせる可能性も秘めている。その意味において、人工知能の開発は“Yes”と言えるだろう。“核開発”が人間に幸福をもたらしたか、あるいは他の技術は。全ては人間の扱いにかかっている。“人工知能”というソフトウェア開発だけを進めても意味がない。“人間”というユーザー、人間のハードウェア、ソフトウェアの更なる更新と発展が、人工知能が産まれた社会の課題となるだろう。