天才は多くを語らない
最初に断っておくがこれは感情基軸の話しである。
それは話しても理解できないと知っている。それももちろんあるだろうが、語ることができないのだと最近気づいた。
例えば“経済的成功”について講演を頼まれた成功者がいたとしよう。もちろん、こういう講演は成功してない段階で頼まれることはあまりない。
しかしここで、成功した人間が成功したことを語ることについては、実際はある種の隙が生じることになる。
例えば上場して何億を稼いだ経営者であったとしても、それは過去のことで、講演の次の日にスキャンダルで逮捕されているかもしれない。あるいは財産を投資で失っているかもしれない。
つまり、成功とはあくまで一時的かつ主観的な問題で、そこに絶対性は存在しない。にも関わらずそれを講演することは、目的によって多少は異なるが、そこにはある種の傲慢さが見え隠れすることになる。
傲慢さは知性を妨げる最たるもので、本当に優れた頭脳を持つ人間がそれをするとは思えない。(似たような理由で作家の佐藤優氏も講演を有料ではしないことで有名である)
これは勿論全てに当てはまる。結婚で素晴らしいパートナーを手にした相手にその秘訣を聞くこと、あるいは天才的な発明のノウハウなど
これらは成功する前の状態の方が、実際は語ることは容易い。(しかし、その状態で語っても説得力がない、と一般には思われてしまうため、語ることがない)
人とお金の関係も似たような性質がある。
例えばベンチャー企業は資金を成功するためには欲しいが、成功するとむしろ銀行がお金を借りてくれと言ってくる
人も同じで、成功する前は見向きもされなくても、成功すると嫌でも人はよってくる。
しかし、その時に、それは必要ではない。どちらも。欲しいのは手前にあるときである。
ここにはある種のミスマッチのようなものが存在する。
つまり、決定的に重要なのは、一緒に汗を流せる人物、友人であること。これは相手が成功してようが、関係ない。
その人物だけが、本当の意味で必要な情報を見聞きすることができる。
更に人は成功すればするほど、あるいは知性、人間性が高まれば高まるほど、その人物は傲慢に何かを語ることや、相手に押し付けがましく見解を述べることはしない性質がある。友でない限りは。言うことに生じるあらゆるリスクを侵さなくなる。
つまり聞き手は決して成功者の本当の意味での話しを聞くことはできない。常に、挑戦者の意見、つまり他者の基準、社会の基準で担保されたものではなく、自分自身の目と基準を持ってあたるしか、本当の意味で価値のある情報は掴めない。
天才を模倣することはできない、というのは色々な意味があるが、これも含まれる。
極論だけを述べるなら、要するに己を持たない人間は人に相対しても本当の意味では、得るものがない。もっと俗な言い回しをすれば成功者の講演を聞いても成功者にはなれない。
それは決して成功者との才能の相違や、本人の分かり易い努力のレベルの問題ではない。本当に天才に習えば天才になれるだろうし、成功者に習えば成功者になるだろう。ただ、それを認識できる己にさえあれば
だからあらゆる点において、社会や第三者の保証による価値判断ではなく、己の信念、思いのようなものが重要であると言える。
天才は語らない、語ることができない。それはあらゆる理由から。
だから我々はゲーテの知性に触れるとき、それはゲーテがエッカーマンに出した書簡からそれを知ることができる。
ゲーテはその問いかけを果たして、彼が成功者かあるいは有名人か、といった目線でもって眺める友でない人物にしたであろうか。
預言者の言葉も同じである。イエス・キリストの言葉、あれは誰に対して投げかけた言葉であったか。そして、主が誰に対して投げかけた言葉であったか。
人は言葉を選ぶことはできない。ただ言葉が人を選ぶ。
だから己にない言葉を人は聞くことができない。聞いてもそれはその本来の言葉の意味を知る事ができない。
故に人間に、知性、才能、それらが存在するとして、その本性は人間性にこそある。