IT人の政治リテラシー向上を目指して

元政治家秘書、現IT起業家が主にIT起業家、エンジニア、デザイナーなどIT業界人の政治リテラシー向上を目指して、日々のニュースや政治トピックについて言及。たまに起業ネタや映画、アニメネタなども。ちょっぴり認識力が上がるブログ。

ヒトとAIの境界にあるもの、リテラシー問題について

人工知能の急速な進化によって奪われる仕事や、新たにできる話しでしばしば世間は盛り上がってはいるが

 

実際、進化しているのは人工知能だけではないのではないか

 

インターネットによって、大抵の情報は、現在は入手可能になっている。例えば、アインシュタインの発見した相対性理論だが、当時はその理論を理解できた人間は10人に満たなかったとされる。

 

だが、現在、相対性理論に関する質の高い情報は書籍、ネット問わず簡単に入手することができ、習得することも可能である。もちろん全ての人間が理解できるような代物ではないが、発見された当初よりも理解できている人間の数は明らかに多いであろう。

 

レイ・カーツワイルが言うような、ムーアの法則によるコンピューターの急速な進化、という話しは実際にはコンピューターだけではなく、人間にも起こりえているのではないだろうか。

 

どちらかと言えば人間に起きている深刻な問題は「リテラシー問題」である。

 

今や、科学、コンピューターは勿論だが、一般社会人は自分が口に何を入れているかすら、容易に知ることはできない。

 

学習する意識と時間、環境がある人間のみが、例えば英語を学び、プログラミングを習得し、「ビットコイン」というものが実は何であるか、を知ることができる。

 

各分野、テクノロジーにおける進化のスピードは早く、最先端にいる人間と、素人との間では深刻なギャップが生じ、それは賃金という実生活の面に反映されることもある。

 

政治に起きている現象も正に同じで、素人と政治のスペシャリストとの間の知識量の差は膨大で、この間のコンセンサスを選挙で取ることはますます容易ではなくなっている。

 

リテラシー・デバイドというのが現代社会に起きている様々な問題の大きな原因であると私は分析する。

 

では、人工知能というのはこのリテラシーを埋めるだろうか?

 

それは原則、使い手に委ねられるだろうが、リテラシー・デバイドを加速させる方向に圧力が働くであろうことは容易に推測がたつ。

 

例えばデータを分析し、人工知能が発見したデータの相関、それがどういうことなのかわからないが、とりあえず有効なデータ相関だ、というようなことがこの先起こりえるだろう。

 

だが、例えばディープラーニングやデータマイニングというものは、人間の無意識領域に近い話しであり、人間がそうした作業を完全に代替できないものというわけでもないのだが。

 

もう1つ例をあげると、人間の言語を理解できるコンピューターができたとして、そもそも人間同士がお互いの言語を現時点で理解しているとは到底思えない。

 

例えば「幸福」「信頼」「友人」「愛」こうした単語から連想されるものは、概ね人間同士で共通はしている。(友人という単語から普通はケーキを想像したりしないように)

 

しかし、本当のところでお互いの認識する言葉の意味は違っている。例えば、家族が幸福であることが自分の幸福である、という人間もいれば、自己実現が自分の幸福だいう者もいるように。

 

こうした「枠組み」は似ていても「細部」は違うような事柄を、どう人工知能に認識させるのだろうか?この辺が人工知能に言語理解させることが、ハードルが高いと言われる理由の1つである。

 

まず考えられるのは、人間の方で概念を細部まで統一することである。(俗にいう機械学習における教師あり学習である。)

 

もう1つは、むしろ人工知能によって、言葉を定義させることになる。(教師なし学習)

 

後者は特に、ヒトとAIのインタラクティブ・コミュニケーションを発生させ、むしろ人工知能により、ヒトが進化する構図を秘めている。

 

先ほどのリテラシー・デバイドに絡めて話しをするなら、あまりにも人工知能が素人にとってわからないものになるとき

 

人工知能はある種の神のように、権威としての存在となる。つまり、今で言う、政府が言うから、専門家が言うから、新聞がメディアが、というように、人工知能が判断するから正しい、という風潮が形成されるようになる。

 

その神格化の度合いはこれから産まれる人工知能の精度にもよるが、それは神や宗教に似ていて、一部の特別な人間、あるいは誰もその実態はわからないが、それはたいてい、ヒトよりも正しい結論を下し、人々の幸福に寄与する。その時、ヒトはある種、自発的にマトリックスに身を委ねることになるだろう。

 

逆にリテラシーの差を埋めるために、人工知能は人類に寄与することはできないか?

 

この答えはイエスでもありノーでもある。

 

人工知能によって、人々が今より働かなくて良い社会になり、その時間を人々がリテラシーの獲得に使えるなら、あるいはリテラシーを容易に学習できる仕組みが作られればイエスであり

 

全てを人工知能に任せて、ヒトは何も考えることなく暮らすならそれはノーとなる。

 

あるいは、人工知能そのものを先ほどの言語定義のように、人間が人間を、世界を知るために活用し、その循環がシステムとして成り立った時、人間社会は新たな飛躍を得ることは間違いないだろう。それは、非常に緩かではあるが、望ましいシンギュラリティの形の1つである。

ドナルド・トランプに見る、今アメリカで何が起きているか

久しく政治に触れてなかったのは、特に敢えて自分が解説するような問題がなかったからである。(日本の政治については論じるようなことすらない)

 

アメリカ選挙、ドナルド旋風についても基本的なことは特に解説しない。

 

ただ、簡単に触りだけ説明すると、アメリカは元々そろそろ白人がマイノリティーに転落し、白人が支持母体である共和党は選挙に最早勝てないと言われていた。そこに現れたのが、ドナルド・トランプだ、ということだけ最低限の前提として必要な知識である。

 

つまり、現状のトランプ旋風は、元来の共和党にはできなかった、非白人、ヒスパニックなどの民主党支持層を喰っているということになる。

 

これは、かつての「自民党をぶっ壊す」と言って、非保守層から支持を集めた小泉純一郎に非常に似ている、と言えば日本人には分かり易いだろう。

 

さて、では問題は何故、ヒスパニック層を始めとする非白人層がトランプを支持しているか、注目すべきところは、民主党内における指名争いの激化である。

 

明らかにヒラリー・クリントンに対するアレルギーが特に若年層を中心に広がっている。

 

クリントンに対するアレルギーとは何か。それは、有権者クリントンオバマと同じ、あるいはそれ以上に失望させる人物だと見ていることだ。

 

理由は単純である。オバマになってもアメリカは何も変わらなかった(少なくとも、アメリカ国民が期待するような”change”は起きなかった)

 

これは極めてシンプルな理由で、アメリカは元々大国過ぎて行動を逆に制限されている(例えば嫌でも中東に介入せざるを得ない)のと、オバマの最大の資金源、後ろ盾はウォールストリートにあるからだ。そこに逆らうような政策はことごとくできない。

 

クリントンオバマと全く同じ資金源を持つ。従って、その事実を知るアメリカの知識階級、本質的な改革を望む層は当然支持しないだろう。

 

若者が抱える問題はとてつもなく開いた経済格差だ。だが、クリントンになれば、その体制はまず変わる事はない。むしろ、中東でもっと面倒事を起こすだろう。そう見ている若者層は決してクリントンには投票しないだろう。

 

おそらく、クリントン、トランプに両代表が決まった場合、無党派層がこれまでにないほど、拡大もするだろう。

 

そして、どちらになってもそれがアメリカの最後の大統領になると私は見ている。

 

それは、文字通りアメリカが崩壊する可能性、それも決して0ではないが、要するに今我々が見ているアメリカではなくなるということだ。(アメリカ崩壊は、南北に分裂することではない。アメリカ内部における権力構造が変化する、ということだ。外観のアメリカ合衆国という看板を残したまま)

 

理由は2つある。1つは国内で貧富の差によるトラブルを抑えきれなくなる。これは、単純に現状国民の不満というコップの水が一杯のところに、両候補者の態度が強硬であることが、そこに水を注ぐ行為となるからである。従ってどちらの候補者でも結末は変わらない。

 

もう1つは、既にアメリカが世界をコントロールできていない。ウクライナ、シリア、が最たるもので、南沙諸島もそれに入る。

もしトランプになれば、中東から軍を引き、それで中東は混乱し、違う勢力が入り込み、その後ろ盾となる国(ロシアや中国)の国力が増大する。イスラエルの地位も脅かされるかもしれない。

もしクリントンになれば、シリアへの介入を強め多正面作戦となり、アメリカは相当な消耗を強いられ、国内、海外共にかなりの反発を受け、最後はテロによる甚大な損害を被ることになるだろう。

 

つまりどちらにせよ、既にオバマ、あるいはもっと以前にアメリカの土台がぐらつく前提は用意されていて、誰が大統領になってもどうすることもできないのだ。

 

アメリカはこの現状に陥らないようにする最も大きな機会は、ここ数年では2度存在した。ブッシュ大統領イラクに地上部隊を送りフセイン政権を倒したこと、そしてもう1つはシリアの内戦をコントロールできなかったことである。

 

結局のところ、どちらも中東における失敗が大きな原因と言えよう。

 

だが、これは大国のジレンマというものであり、どの国が覇権国となってもそれを回避できるという代物ではない。(中東に介入しなければいい、という理屈は通じないということ)また北極海航路開拓のような致命的な事が起きなければ、内部の仕組みが変化してもアメリカが世界最大の覇権国であることに揺らぎはない。

 

私はトランプ、クリントン、どちらもアメリカという国に“引導”を渡す大統領に見えてならない。片方は今の体制を壊すことで、もう一方は今の体制を守ろうとすることで。(これは仮に万が一他の候補者が出て来ても変わらない構図であることも、容易に想像ができるだろう)

 

タイトルに戻るが、結論を言えば、トランプという人物が支持を集めている、ということ自体に、要するにアメリカの終焉を見なければいけない、ということだ。(勿論これを読み解くにはアメリカの選挙システムや政策など幅広い理解が必要となる)

 

勉強を必要としない理解、もっと単純化して説明するなら、現状の体制に不満のない国民であれば、トランプのような過激な改革を叫ぶ人間は、土俵にすら上がることはできないはずだ、ということ。(国民が改革を望み、優秀なエリート候補者は皆、改革ができない、と国民に思われていなければ、彼のような過激な改革を叫ぶ人材は出れない)

 

これはクラウゼヴィッツ的に言えば、アメリカは民主主義制度における行動の限界点を突破している、ということだ。極端な事例を出せば、ヒトラーが誕生したドイツに近い状態にある(もちろんかつてのドイツと現在のアメリカには地位も国力も大きな隔たりが存在するが)

 

そして、もう1つ、今世界を大きく揺るがそうとしているのが、クルド人の問題ではないかと私は見ている。これはもちろん、アメリカの問題と無関係ではない。もう少し世の中に解説が出揃ったら、この問題は足りなければ補足しようと思う。

人工知能的サイコパス解説(シーズン2)

※以下サイコパスの重大なネタバレを含みます※

 

 

 

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シーズン2の解説

 

シーズン2の主題は「シビュラシステムの欠点は何か?」である。

 

シーズン1でシビュラシステムの仕組みが明らかになったことで、シーズン2はそのシステムの正当性を問うような犯罪者が登場する。

 

それが鹿矛囲桐斗である。彼は1人の人間ではなく、何10人という死体からつぎはぎされたゾンビのようなものであり、集団のサイコパス(犯罪係数)を測定する機能がないシビュラには認識できない(シーズン1の槙島とは異なる理由で)のである。

 

もう1つ、シビュラが抱える問題は自己を測定できるのか、ということである。つまり、他人が犯罪者かは測定できても、自分が犯罪者かはわからない。自分が犯罪者で、自身の目的のために他人を葬ることがあれば、それは私利私欲にまみれた人間の権力者と変わらない、それを鹿矛囲に問われる、それがシーズン2のテーマである。

 

結果的にシビュラシステムは集団を測定する能力と自己を測定する能力を獲得する。それは、人間個人としては善人であっても、集団としては例えばデモのような行為であれば悪とみなし、大量虐殺をしてしまう可能性を残しつつ、自浄作用(幾つかの脳を消す)によって、システムとしてはしぶとく生き残る選択を示した。だが、それによってよりシビュラは近代的なシステムにも関わらず、人間に近づいたものになる結果を得る。

 

そして、自己を認識するためには、鹿矛囲(あるいは主人公の常守)という他者を、システムはあるいは人は必要とする。そしてその観測者は自己よく知るがかけ離れたもの(あるいは敵と呼ばれる存在)である、ということを、物語を通じて示唆している。

 

個人と集団あるいは人工知能と人間の垣根、自己認識、ここまでが作者の明示したテーマであろうが、実は、作者は無意識の内に更に大きなテーマを投げかけているではないか思う。

 

すなわち、個人とはいったい何か?ということである。シビュラシステムは個人のサイコパスは測定できるが集団はできない、という設定になっているが、私は個人も既に集団の性質を持っていると知っている。

 

何故なら、我々のDNAには祖先の情報が刻み込まれている。100年間に3世代の先祖がいると仮定しても2000年でも現代人は260という膨大な数の祖先のDNAデータを個人は内包していることになる。(この話しを無視しているため、このテーマは作者には盛り込まれていないと判断している)

この時、実際はそのDNAがどのような動きをしているか、実のところはよくわかっていない。例えば父親がとても計算能力が高く、子供も生まれもって計算能力が高ければその子は遺伝子的に計算能力が得意なDNAを持っていると判定するのか、あるいは両親とは全く異なる才能が発芽した場合、その才能は何世代前の先祖の質が発現したのか、あるいは環境によることが原因なのかよくわかっていない。(要するに今の行為や言動が自身のものなのか、誰か祖先のものなのか)

 

つまり、我々が個人、自分だと思っているものには、何か?何の根拠もないのである。これはずっと人類が歴史的に哲学のテーマとして論じられていることで、個人とは、自我とは何か、デカルトの言うように「我思う、ゆえに我あり」でいいのか、ということである。

 

自我(意識)がどうやって生まれるのか、それが分からなければ、人工知能を作れたとしても、それは科学的にはよくわからないが、できてしまった、という極めて危ういものになるだろう。

 

1つの答えとして、「意識とは無限情報を統合できるシステム」、という結論を昨年出したイタリアの科学者がいる。彼の説は広く支持されているが、実はアニメ攻殻機動隊タチコマが情報を並列化した結果、自我を持つというエピソードがあり、日本のアニメの方が人工知能に関して早く同じ結論に辿り着いていたという点が興味深い。

 

だが、実際はどちらも統合をする「基準」は何かという点を見落としているため、人工知能という点に関しては不完全だと思われる。例えば、人間は食欲があるから、食事という点にフォーカスして情報を統合するが、その食欲は脳からだけはなく、胃腸からも発生する。そうすると、脳が単独で意識を持ち得るか、という仮定に反証可能性を存在させてしまう。従って、少なくともタチコマが自我を獲得した理由は並列化だけではない、ということになる。

 

この辺りもまた、真に人工知能を作ろうとするとホムンクルス的になってしまうことや、ジェフ・ホーキンスがneocortex(大脳新皮質)の機能再現だけで、人工知能は充分だ、と言う理由の1つであろう。それ位、科学的なアプローチ下では、タチコマのような人工知能を作ることは極めて困難である、ということである。逆に言えば、無限の情報を統合するだけでいいなら、既にGoogleのような企業は意識を持った人工知能を持っている、ということである。

人工知能的サイコパス解説(シーズン1)

※以下サイコパスの重大なネタバレを含みます※

 

 

 

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シーズン1の解説

 

シーズン1の主題は「シビュラシステムとは何か?」である。

 

シビュラシステムという絶対に間違わない人工知能潜在的な犯罪者を特定でき、万能である事をうたっているシステムが存在しているにも関わらず、そのシステムをくぐり抜けて殺人を繰り返す犯罪者が登場する。

 

システムで裁けない存在が登場するなら、そのシステムは一体なんなのだろうか?本当に100%の精度を誇るものなのか?ということが大きなテーマである。

 

結論から言うと、シビュラシステムの正体は機械の頭脳ではなく、人間の脳の集合体であった。つまり、人間を判定するのは、機械よりも人の方が優れている

(以前本ブログにも書いた、人工知能の究極の1つは人間の生成に一致するhttp://itseiji.hatenablog.com/entry/2015/09/12/175910)と同じ仮定を持った話しであった。人間の脳の集合体によって、運営されるディストピア人工知能社会の1つ、それがサイコパスで描かれた世界であった。

 

だが、これは実は新しい未来システムではなく、既存の社会システムと大差ない。現状の社会システムも、例えば日本なら、一部の権力者が、エリートとそうでない人間とを区別する仕組みを作成し(文科省を中心とした大学受験制度)一定の尺度を持って選別した優れた頭脳を持った人間たちの、合議制によって意思決定される(官僚制、普通選挙、資本主義制度)

 

システムに不備はない、と詠ってしまうことも既存の社会システムと大差はない。(専門家という間違ったことを言うはずがない、という思い込みを利用した社会システムの構築。専門家は正しい、素人は間違っているという固定観念のエンクリプション)

そして、それらシステムの維持の仕組みだけでなく、システムのアップデートの仕組みも基本的には何も変わらない。シビュラシステムは、槙島聖護という、社会のアノマリーを取り込んで、進化しようとする。

 

同じ様にこれまで人類社会は、常にその社会における最大のアノマリーを吸収することで発展してきた。

例えば、大学を中退し、既存の製品やサービスと対立や埋没をもたらす製品を開発したビル・ゲイツスティーブ・ジョブズは、権力や既存の社会構造からすれば、異端であり、反社会的であるとさえ言えた。だが、経済的に成功するや否や、それを排斥するのではなく、権力に取り込むことで、社会は新しいインフラを手に入れた。これはもっと古典的な技術である例えば紙や、鐙といったテクノロジーの導入だけでなく、あるいは、征服者が被征服民族の人材を登用するような社会制度の導入も全く同じ仕組みだと言える。(そして組み込んだはずの仕組みに逆に取り込まれてしまう。例えば、元は奴隷であったイエニチェリによって作られたオスマントルコのように)

 

更に、シビュラシステムの仕組みを秘匿(ペルソナ化)することによって、ある種の神話を産み出し、権威によって大衆を統治する仕組みは一神教や、日本で言えば皇統(天皇制度)と何ら変わることはない。

 

そして、シビュラシステムも既存の社会と同じように誤りをおかす。その意味で、サイコパスで描かれた社会は、既存の社会構造の劇的なパラダイム変更がある社会ではなく、既存の社会構造と大差ない社会の物語であり、人工知能が社会を支配しようが、今の人間社会と本質は大差ない。それが、作者が描こうとしたテーマの1つではなかっただろうか。

 

もう1つのシーズン1の大きなテーマはシビュラシステムに感知されない犯罪者、槙島聖護の物語である。彼は自らがシステムに犯罪者として感知されない理由を、自尊心が少ないからだ、と説明する。

 

これは、人間の核心の1つをついているように思える。私も特に人の知性や感情と呼ばれるものは、自尊心によって大いに妨げられると考えている。例えば、他人から間違いを指摘されると、自分がそれに自負があればある領域である程、人はそれを受け入れることを拒絶する。例えば、科学者が自分の領域で素人に誤りを指摘されても、ほとんど科学者は自分が正しいと思い込むだろう。だが、本当に過ちであれば、自己がアップデートする格好の機会であるはずだ。人はしばしば、自尊心のために自らの知性を高める道を自ら閉ざしてしまう。

(実はこの話しは無意識論と関連づけて、ディープラーニングの話しとも関係してくるのだが、それはまた別の機会にする。また、槙島的とは言わないまでも、自尊心が極めて薄い人間でなければ、ある一定の知性は獲得もできないし、すなわち人工知能のようなものを作れる知性を持ち得えない、という乱暴ながら知性に関しては、自尊心の定性評価により一定の線引きができないこともないように思える。)

 

シビュラシステムは自尊心と犯罪率を、定性評価やオントロジー統計学で結びつけて係数設定をしているが、これは科学的根拠のない作者によるフィクションであるが、統計学の嘘や欠点がストーリーでわかる好事例と言えよう。すなわち、統計はまず前提を誤っていた場合、データの全てが無意味である。(この場合、自尊心と犯罪率の相関が誤りであれば、それによって測られた犯罪係数は全て嘘であるということ。)もう1つは99.9%の観測よりも、0.01%の方が真実である可能性がある事である。(シビュラは人を殺したことのない、システムにさして害のない人間を犯罪者として認識し抹消するが、大量殺人者の槙島は認識できない。そしてその槙島は既存の社会を最も破壊できる力を持っている。)これは、現代の刑事捜査の状況証拠や自白問題、DNA鑑定の精度の問題でも全く同じテーマと言えよう。統計の嘘、欠点というのも本作の作者のテーマの1つであると思われる。(人間の自尊心、知性に関しては、作者の無意識レベルのテーマだと思われる。)

 

最近のテーマに関連づけて話せば、これが、ビッグ・データの実用化が難しい、と言われる理由の1つである。そもそも、何かを観測する目的で作られたわけでも、その情報の信憑性が担保されたわけでもないデータの集合体からデータを抽出しても意味がない、ということである。なので、幾つかの企業では、データそのものを再構築しようとしているが、その試みは正しいと思われる。(ちなみにGoogleは最初から人工知能を作るために、検索エンジンを作っている)

 

人工知能へのイーロン・マスクの本当の懸念は何か?

イーロン・マスクとスティーブ・ホーキング博士Googleが特に押し進めている人工知能の計画に関して、汽笛を鳴らしている。

 

その警告の意味は、映画『ターミネーター』のようないわゆる「スカイネット」的なものを、ラリー・ペイジセルゲイ・ブリンは作ってしまうのではないか、ということを懸念している、と報道を見る限りそう感じてしまうのだが、それは細部を大幅に省略している。

 

特にイーロン・マスクが警告している問題点は「認識」や「観測」に関する事柄ではないだろうか。

 

すなわち、機械に人間を認識させるべきではない、ということだ。

 

(これは裏を返せば、現時点での世界最先端の人工知能、機械はまだそれ単体だけでは、人間を認識することができないということを意味している。)

 

機械に人間とは何か、というものを人間がまだ教えなくてはならないのだが、そもそも人間というものを人間自身が認識できていない。

 

しかし、一度入力してしまったデータを元に人工知能が動きだし、誤ったデータを元に学習し、何らかの実行をしてしまえばそれは深刻な事態を巻き起こす恐れがある。

 

それは人間の可能性や、未来を摘み取る恐れがある。導かれる全ての結論は今の人間の人間に対する認識に基づいたものであるが、その情報は既に不十分であり、更に未来の人間についての情報がまるでない。

 

それこそが、彼らが懸念する問題の本質であり、おそらく現時点における人工知能が抱える最先端の問題であると私は推察する。

 

人間が人間をまず認識できないのは、確かデカルトであったか、自己は自己を観察できない、という原則がまずあるからだろう。

 

であれば、むしろ、本当に自立した機械が存在するのならば、人は機械に観測する手段だけを与え、機械が認識する人間を人間として受け入れた時に、自己

 

を認識できることになる。我々が妄想する人工知能など、使い勝手はむしろそんな程度であろう。

 

人々は時に未来を想像する。それは当たる時もあれば外れる時もある。SF『マトリックス』のような機械による人間の支配、ジョージ・オーウェルの『1984』のような管理されたディストピア、あるいは『ガンダム』のような宇宙で暮らす人間の世界。

 

それらは全て、人間が人間を認識、あるいは観察して導かれたフィクションに過ぎない。だが、現実の未来は、機械は人よりも賢いが故に、人を支配しないかもしれない、人はそこまで愚かでないため、管理が行き過ぎた社会は壊されるかもしれない、人は宇宙で生存できるだけのエネルギー資源を、確保できないかもしれない。

 

映画や小説の影響もあるが、人間は同じ性質持つが故に、全世界の人間が同じような未来社会を、これが人間の未来社会の一つだと、思い込んでしまう習性がある。

 

だが、そう人間が基本的に当然だと思っている前提が真実ではないとしたら、その全ては覆り、全く違った社会が我々の未来には待っているだろう。

 

そして、自己は自己を計測できないという事が本当に真であるならば、そもそも人間が人間で構成される人間社会の未来など、人間のしたその予測の全ては外れることになる。

 

つまり、逆説的に言うのであれば、人工知能を生成することの最大の意味は、人間を観測すること、つまり機械を作ることはより人間を知ることに他ならない。

 

これは以前述べたように、人間のような不確実な事柄を処理できるコンピューターを作ろうとしたら、バイオの領域、すなわち人間を複製するホムンクルスでしかあり得ないことにも繋がる。

 

 

もう一つ、人工知能が人の知性を凌駕し、人が発明をするのではなく、あらゆるものを機械が代わりに創造するという、映画『トランセンデス』にも描かれた「シンギュラリティ」に関しても思う所がある。

 

仮にシンギュラリティが起きた場合、機械が創造しうる最高の発明はおそらく「人間」になるだろう。つまり人間が人間以上の機械を発明したとして、その機械が人間を産み出すというパラレルに陥ることになる。

 

だが、この繰り返しは矛盾しない。有機的な生命である人間が無機的な存在である機械を創造することに躍起になり、自らを全知全能とでも思い込むかもしれないが、元々人間を創造したのは機械とは言わないまでも、無機的な存在、つまりは宇宙そのものである可能性があるからだ。

 

人がする最後の発明が人工知能になるかもしれない。その説は間違ってはいないかもしれないが、それは振り出しに戻るに過ぎないのだ。

 

問題点があるとしたら、それを機械に委ねることで、人が真理から孤立し隔離されてしまう可能性だろう。機械が全てを代行する社会、それでしばしば問題とされるのは、人の堕落、機械による支配、そうしたものにフォーカスがいきがちだが、それは枝葉に過ぎない。

 

本質的に恐れるべきは、人が人を創造しうることができない段階で機械が人の理解できないものを理解し、人を創造してしまい、その理由の考察を人が諦めた時であろう。

 

その瞬間に、ディストピアSF小説のような未来、つまり人間が人間を認識しないまま、描き出してしまった未来が本当に訪れてしまうだろう。

 

この問題、理論ではなく、直感で捉えるなら、こちらこそが本質的な問題、すなわち人工知能に関する最大の問題なのだが、それに気づいている人間は果たしているのだろうか。

「文化」に関する考察と研究

現代社会において「文化」は支配的な影響力を持っている。資本主義社会において、「貨幣」に「価値」を付加しているのは文化である。

 

個人間においても、「尊敬」「愛情」「信頼」といったものの由来は全て文化から由来する。

 

そう言えるのは、文明や文化圏が変われば、「評価」の基準が変わるからだ。アフリカのある部族では男性は如何に高く飛べるかで男として評価されるが、ニューヨークにおいては、ハンサムの金髪、金持ちで高学歴、頭も肉体もマッチョかつユーモアのある男が評価される。そして評価は脳内で愛情へと変換される。

 

貨幣も我々の文明がこれは貨幣だと認識するから価値があるものであって、宇宙人に100ドル札を渡しても何の取り決めのなくては、ただの紙以下の価値しかおそらくないだろう。

 

すなわち、ものの「価値」や「評価基準」というものは、時代や場所によって変化するものであり、それはそれを使用する文化によって決定される。

 

個人間における文化と説得というものも面白い。とある日本の若者グループでは、金髪でピアスをした派手な服装をしていなければ、仲間に入れず、あるグループでは運動神経が高くないと、あるいは美しくないと、そのグループには所属できず、信頼もされない。そのグループの中では、話される話題も重要とされる問題も全く異なっている。

 

あるグループでは、どこどこの誰が強い、あるグループでは新作の化粧品について、あるグループでは昨日のプロ野球の試合結果が話題になる。

 

あるグループにはとって、他のグループの話題など興味もない、たわいもないものに感じるが、当事者たちにとってこれほど重要な問題はないと思って話されることもある。

 

日本の社会においては、男性は黒髪短髪の方がまともにみられ、女性は化粧をしなければならないが、国際社会においては様々な髪の色の人間が存在しており、それは人類の普遍的なものではなく、日本の社会が持つ一つの文化に過ぎない。

 

愛情の話しになるが、美しい人間は美しさを評価基準とする人間に対し、文化的な影響力を。お金持ちの人間はお金を評価基準とする人間に対し、文化的な影響力を持つ。すなわち、より多くの条件を備えたものの方がより多くの人間に対して説得力を有することになる。

 

しかし、全ての条件を備えた人間は存在せず、また個人が条件をどれほど揃えても、それ自体が原因で、例えば嫉妬のような感情により、文化的な支配力・説得力が存在しない事もあり得る。

 

従って、社会統治という観点からすると、支配のために能力や容姿とは異なる基準が必要となり、権威が生まれ、血統主義という御輿が誕生することになる。

 

宗教間における対立、戦争、または民族間における対立、紛争もその根底には文化の違いがある。

 

さて、幾つかの例を挙げてきたが、如何に我々が「文化」という概念の内にあり、それにより社会が成り立ち、問題も生じているかがお分かり頂けたであろうか。

 

これ程重大な論点にも関わらず、「文化」というものが「意識的に」人々の間で議論される事は少ない。大抵の場合、無意識的なものに終わっている。

 

なぜ私は美容よりもスポーツの話題を好むのか?経済よりも法律を好むのか?テニスよりもゴルフを優先するのか?AさんではなくBさんを愛するのか

 

同様に、何故嫌いなものが存在し、自分にとって嫌いなものもある人物は好きという場合が存在するのだろうか

 

それは生まれ育った環境やDNAだろうとの推測はできていても、個別の因果に関しては未知のままである。

村上春樹“職業としての小説家”を読んで with〜文章についておもうこと

初めに、私は村上春樹の小説を読んだことが一度もない。でも彼のファンである。

 

ファンになったきっかけはイスラエルで、氏がスピーチをした内容がきっかけであった。

 

自分が小説を書き続けるのは、人間がシステムのような無機的なものに囚われて人間らしさを損ねること、それと戦うために小説を書くのだ、と。

 

そのメッセージそのものと、それをイスラエルという場所で話した彼のセンスに痺れた。

 

だが、どういうわけか、小説の方は全く気が向かず、本書が自分にとって初の村上春樹著作の本と相成った。

 

読んでみて、なぜ村上春樹の本は日本で、世界でこんなに受けるのだろう?と浅い階層の部分は読み解けた気がした。

 

まず、文章自体が恐ろしくプレーンで短く、簡潔であること。

 

これは本人がそう意識して書いているようで、ハンガリーの作家アゴタ・クリストフという作家が同じような手法を用いて成功していて、その書き方を習ったものらしい。

 

簡単で、簡潔で平易な文章で書かれているものは当然読み易く分かり易い。幅広い層に読まれる本に当然になるわけだ。

 

だがそれだけでなく、自分が読んでいて感じたのは村上春樹の文章は日本のビジネスメールに“デザイン”が似ている。

 

自分にとって相手に気を使い、読み易くレイアウトする日本のビジネスメールはデザインという概念があるのだが、

 

それと同様の読み手への気遣いと、文章そのものへのデザイン性を感じた。

 

これも日本のビジネスパーソンと親和性が深いのではないだろうか。

 

もう一つは、一度英語で書いた文章を日本語に直して書いている、という点だろう。

 

当然氏の英語力は日本のどの作家よりも高いだろう。自分の伝えたいものを英語で書くこともできるし、より重要なのは、日本的なものを直接、自分の言葉で海外に伝えることができる。

 

例えば先にあげた簡潔かつ簡易的な文章には、読み手への思いやりが感じられる。

 

こういう文章の書き方はある意味日本独特であるのかもしれない。

そして、スピーチの内容でもそうだったが、村上春樹のメッセージは強い。そして明確だ。だが、それを感じさせない謙虚さがある。

 

こんな文章は日本人にしか書けない、とても日本的なそしてポップな作家だ。それが売れている理由なのでは、と分析家としての視点はそれであった。

 

ちなみに私も小説(その他諸々)を書く。むしろ文章家に成りたくて(政治を思う存分やりたくて)、とりあえず起業しようと思っているくらいだ。

 

なので、文章の書き方というには色々思うところがある。

 

ちなみに自分が好きなスタイルは、日本で言えば歴史小説家の童門冬二さん、宮城谷昌光さん、海外だとフランスの文豪バルザックの文章(翻訳だけど)である。

 

どちらもダイナミックで、迫力のある文章を書く。そして凄くダイレクトに愛や感情を感じる。(この辺が村上春樹小説に自分が惹かれない理由かもしれない。)たぶん凄く偏見に満ちているのだけど、そんなのどうでもいいよね、みたいな凄く男らしい書き方に感じる。

 

他にも面白いなと、思ったのはレオナルド・ダ・ヴィンチゲーテそしてドストエフスキーである。

 

ダ・ヴィンチは小説ではないし、手記を翻訳たものなので、文章というより手記から垣間見る彼のセンスなんだけど

 

ダ・ヴィンチの面白いところは、文章で“人間”をスケッチのように描いてしまっているところが天才性を感じられる。

 

普通は文章は人柄やメッセージを表していて、伝えたいものは感情だったり、事柄であったりするのだけど

 

ダ・ヴィンチは一つの文章に昔の錬金術的な地水風火

つまり、人間の肉体、精神、感情、自我という構成要素を

全て表現する文章を描いているように見えること。

 

彼にとっては文章も絵を書くことも、彫刻を彫るのも何も変わらないのだって、感じさせること。そして文章で伝えることが感情でも事柄でもなく、人間を描くって、ことをしている人って他に見た事なくて斬新さに心打たれた。

 

ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟が東大生が勧める本ベストワン的なふれこみで、読まないといけないのかー的な発想で

 

買ってはみたものは正直、何で東大生がそんな熱くなるのかの理由は理解できず。ただ、推理小説であり、恋愛小説であり、あらゆる小説のジャンルが含まれているコンセプトは面白いと思った。有名なゾシマの独白の迫力も確かに凄い。でも一番面白いのはドストエフスキーゲーテ、特にファウストの影響をもろに受けていて

 

むしろ未だに解読されていない、ファウストの解読書的な位置づけとして、この本はあるのではないかと思った。

 

ゲーテファウストをあえて“完結させないこと”で明快なメッセージを発信したと言われているし、表現者としての表現の選択にやはり感銘を受ける。

 

(ちなみに村上春樹ドストエフスキーに印象を受けているが、ドストエフスキーに比べるとなんて自分は作家として才能がないのだ、と感じているらしい。それは事実だと思う。才能を感じさせる文章は圧倒的にドストエフスキーだ。この辺が才能という言葉に酔い易い東大生との親和性なのだろうか)

 

最近は自分は色々書き方で悩むことがあり

試行錯誤の繰り返しで

自分の書きたいように書くと分かり辛くなってしまう

だけど、分かりやすく書こうとすると自分の言葉を失ってしまうというジレンマがあり

 

改めて文章について考えるいい機会を与えてもらった。

 

言の葉も同様で

 

昔から自分は周りの汚い言葉使いに無理して合わせて不快な思いをしたり、自分の表現したい言葉がなかなか見つかなくて苦労したり、使いたい言葉がとても古い言葉で日常会話でなかなか使えなかったり

 

とにかく自分の言葉で喋ろうとするのだが、そこにある自分の持つ文化と、日本社会が持つ文化との間での親和性というものに最近どう折り合いをつけようかと日々悶々としております。

 

着地点を見つけるには暫し時がいるようですが、

 

やはり自分の言葉と文章を大事にし、

書き続けていきたいと思う次第でありました。